2014年8月9日土曜日

ホテイアオイ(2/2) 欧州・英国の植物図譜,米国,見本市で日本使節が配布?,カバにホテイアオイを食わして肉を得よう

Eichhornia crassipes
2014年8月 茨城県南部
 
ホテイアオイが欧州に渡来したのは 1820 年代と思われる.カーチスのボタニカル・マガジン vol. 56 [ser. 2, vol. 3]: t. 2932 (1829) Pontederia azurea (現学名Eichhornia azurea)が手彩色銅版画として収載された(左図左側).しかし,描かれている植物の特徴から,これは E. azurea ではなく,E. crassipesではないかと思われる.じつは,t. 2932 “Specific Character and Synonyms.” の項には,Pontederia azurea の他に,Pontederia crassipes? と書かれており,また,Description でもその筆者も可能性は否定できなかったようだ.これが,E. crassipes であるなら,「エイトン氏*1 がブラジルから導入したこの植物は,数年前から,Kew 植物園の加温温室で育てられていたが,1829 年に花が咲いた」とあるので,1820年代前半には,英国で栽培されていたこととなる.*1 William Townsend Aiton (1766–1849)
同じマガジンの71 年後の vol. 106 [ser. 3, vol. 36]: t. 6487 (1880) (左図右側)には,新学名の Eichhornia azurea (Sw.) Kunth で,明らかに E. azurea の特徴を示す植物の図が収載されている.従って,t. 2932 E. crassipes である可能性が高い.

温室で育てなければならなかったにもかかわらず,美しい花のために,愛玩されたようで,いくつかの植物図譜に描かれている.英国の Edward Step Favourite flowers of garden and greenhouse”  vol. 4 (1896-1897) t. 287には多色石版で図が載り(右図,右側),p 616 には,” EICHHORNIAS
Natural Order Poxtederiaceae. Genus Eichkornia
EICHHORNIA (named in honour of J. A. F. Eichhorn, a Prussian botanist). A small genus of stove aquatics, with creeping rhizomes, roundish rhomboidal stalked leaves, and blue or violet flowers in a raceme. The flowers are funnel-shaped, the six unequal segments uniting at their base to form a tube. The stamens also are unequal, three being longer than the others. The ovary is three-celled. They are natives of South America and Tropical Africa. They are sometimes called Water Hyacinths,
Principal Species EICHHORNIA AZUREA (blue). (中略)
E. CRASSIPES (thick-footed). Rhizome thick. Leaves roundish, fleshy; stalk much swollen near the base. Flowers violet, 1(1/2) inch long, in a many-flowered raceme, with a spathe below; July. Native of Brazil. Also known as Pontederia crassipes. Plate 287.
Cultivation       Eichhornia should be grown in a stove tank, as they require to be in water that has a temperature of from 60° to 80°. They may be planted in large pots, and these sunk in the tank;- but this is not necessary, as the stems float and root. Where potted, the soil should be of a rich character. They readily increase by means of stoloniferous growths.
Description of Plate 287. Eichhornia crassipes, reduced about one -third less Plate 287. than the natural size, showing stems, roots, leaves, spathe, and flowers.” と,属名・種小名の由来,特長,栽培法などが記載されているが,残念ながら英国への導入時期については触れられていない.

また,ベルギーのゲントで刊行された植物図譜  L'ILLUSTRATION HORTICOLE, REVUE MENSUELLE, DES SERRES ET DES JARDINS (Ambroise Verschaffelt, Charles Lemaire & Jean Jules Linden) vol. 34 (1887) t. 20 には,モノクロながら美しい石版画が載っている(右上図左側).テキストからは欧州本土への移入時期は読み取れなかった.

一方米国の南部では日本以上にこの植物によるハザードが問題になっている.
米国へのホテイアオイの侵入は1884-5(明治17-18)年にニューオリオンズで開催されたWorld’s Industrial and Cotton Centennial Expositionで,日本の使節団がお土産として配ったからだ,との説がある*2
確かにこの見本市に日本政府はブースを持ち,香蘭社製等の薩摩焼などの陶磁器や,屏風などの美術工芸品,高い技術を誇った金属製品を展示即売していた(Guidebook trough The World's Fair and Cotton Exposition New Orleans 1885).しかし,日本は勿論ホテイアオイの原産地ではないし,またブラジルなどの原産地から購入して輸送するほどの余裕があったとは考えにくく,日本の関与は何らかの誤りではないかと思われる.*2 http://blogs.scientificamerican.com/food-matters/2014/03/27/the-hunger-game-meat-how-hippos-nearly-invaded-american-cuisine/ , Wikipedia “Eichhornia crassipes”

この見本市から持ち帰ったフロリダの住民が,川や水路にリリースしたのが繁茂して,二十世紀初頭には温暖で水の豊かなフロリダではホテイアオイが経済的・環境的に大きな問題となっていた.当時社会問題となっていた食肉不足とこのホテイアオイ問題を一挙に解決しようという案がだされた.
発案したのは,アフリカに詳しい探検家のFritz Duquesne と,南アメリカの軍人Frederick Russell Burnham で,ルイジアナ州選出議員のRobert Broussard と組んで,アフリカからカバを移入して大規模牧場をつくり,彼らにホテイアオイを食べさせ,その肉を食肉として市場に出そうという計画で,1910 年には米国議会の公聴会まで開かれた.しかし結局この案は受け入れられず,沼沢地を干拓し牧草地化して肉牛を飼育することで,食肉不足を解消することとなった.この興味深い歴史の経緯は人間模様も絡めて Jon Mooallem “American Hippopotamus” に詳しいとのこと*2

カバがホテイアオイを本当に好んで食べるのか,日本でも丸山動物園ではカバの屋外プールにホテイアオイを浮かべているが,投稿動画(https://www.youtube.com/watch?v=pXu7O4-1Ces)を見る限り,カバのザンはホテイアオイを全く無視している.茨城県日立市のかねみ動物園では飼育員川添久美子さんが「花言葉は揺れる心」の題で「野生の彼らのエサは草原の草ですが、水草も好物との事。現地ではホテイアオイをむしゃむしゃ食べるカバやアフリカゾウがよく見られるそうです。カバプールをホテイアオイで覆い尽くしたい、というのが私のもくろみ。浮き草の間から顔を出したり浮いたり沈んだりしているカバの姿を皆さんにお届けしたいのです。」とホテイアオイの繁殖を試みている.結果は彼女のブログには,まだ現れてはいない.

Caloosahatchee river-hyacinths-1939
以前からそして現在でもフロリダ半島のメキシコ湾側の河川ではホテイアオイの繁茂は大きな問題となっていて(Mission and History   LeeCounty Hyacinth Control DistrictLee County Hyacinth Control District.htm),機械的な除去のほか,ブラジルからこれに寄生する昆虫の導入などが試みられているが,有効な解決策は見出されてはいない.日本でも温暖化とともに特に止水(池や沼)では大きな環境的なハザードになると思われる.

2014年8月2日土曜日

ホテイアオイ(1/2) スリナム産昆虫変態図譜,前田次郎『草木栽培法』,谷上廣南筆『西洋草花図譜』,学名初出,方言,中国名

Eichhornia crassipes 
谷上廣南筆 『西洋草花図譜』 (1917) 多色木版
雨水貯めのウィスキー樽に飼っている金魚のためにホテイアオイを浮かべている.日陰と産卵場所を作るためと思っていたが,根や膨らんだ莖を食べているらしい.卵が付着したホテイアオイを別の水槽に移し,そこで生まれた仔金魚たちも,ホテイアオイの根をつっついている.

原産地は中南米で,ホテイアオイ属では,ほかに,南アメリカ原産のE. azureaE. diversifolia,マダガスカル島原産の E. natansなどが知られている.自立した女流自然科学者の魁として,虫愛ずる淑女として知られるマリア・ジビーラ・メーリアン (Anna Maria Silbylla Merian1647-1717)の大作『スリナム産昆虫変態図譜De metamorphosibus insectorum Surinamensium, of te verandering der Surinaamsche insecten』(1714)には,タガメの類とともに,E. azurea が描かれている(左図).

日本に観賞用水草としてホテイアオイ (E. crassipes) が移入されたのは明治中期とされている.前田曙山の筆名で知られる大衆作家の前田次郎1872-1941)には,趣味の園芸に関する著作も多いが,その『草木栽培法』(明治 36 年,1903,裳華房刊,右下図,NDL)の「四季花暦 六月」の節には,
「布袋草 ウオタア,ヒヤセンスといふ,洋種の水草なり,甚だ日本の水葵に似て葉莖(えふけい)は,菱に似て,菱より遥かに大なる膨張部あり.これ即ち浮嚢なり.花は薄紫にして,上辧に黄色(こうしょく)の斑點あり.莖頭に蔟々として群がり開く.
菱に比して,大いに俗なりと雖(いへど)も甃石(たたき)の泉水には,彼よりも是の相應せるを感ずべし.一時は甚だ高價なりしが,今は夏の縁日植木屋に,数多く出陳さるゝを見る.
其培養法は甚だ簡易(かんゐ)なり,水中に泛(う)かべたるままにして,更に泥土を要する事なく,時々灰叉は油粕の如きものを,少許づゝ拯(すく)ひ入れ,可成(なるべく)日光に触れしむれば可なるものにて,秋末(しうまつ)に至り,葉漸く衰らふに及べば,水を去りて根を泥土にて蔽(おほ)い,床下等に貯(たくは)ふれば足れりとす.」
とあり,明治後期には広く普及し,愛玩されていたことが分かる.

また,谷上廣南筆西洋草花図譜』(大正 6 年,1917,芸艸堂刊)には,「ウォーターヒアシンス」の名でホテイソウがインパーセンス(インパチエンス)とともに美しい多色木版画で描かれている(最上図,2008 5 月,e-Bay 33.50 ドルで落札,他のコレクションはこちらでご覧いただける). 
大正初期は,欧米の珍らしい花卉の輸入や外来園芸種の洋花が町や家庭の観賞花となり,日本人の洋花への関心が高まり,花の文化において和洋の区別がなくなりつつあった時代である.谷上廣南著『西洋草花図譜』は,こうした時代背景の中,大正六年五月に全五帖の木版画集として芸艸堂から刊行されている.全百二十五の図版に百六十余の洋花が描かれており,大型で色鮮やかな花卉が集合したユニークな画集であり,最近も米国・日本でグラビア印刷ながら復刊されている.

最初にホテイアオイに学名をつけたのはドイツ人の Carl (Karl) Friedrich Philipp von Martius (1794-1868) で,ブラジル産の本植物を,Pontederia crassipes と言う名前で 1824 年に “Nova genera et species plantarum : quas in itinere per Brasiliam MDCCCXVII-MDCCCXX jussu et auspiciis Maximiliani Josephi I., Bavariae regis augustissimi instituto /collegit et descripsit C.F.P. de Martius. ” i. 9. t. 4 に美しい図版とともに発表した(左図)

しかし, Hermann Maximilian Carl Ludwig Friedrich zu Solms-Laubach (1842-1915) が,”Monographiae Phanerogamarum Prodromi nunc Continuato, nunc Revisio Auctoribus Alphonso et Casimir de Candolle Aliisque Botanicis Ultra Memoratis. Paris” 4: 527 (1883) に,属を変更して,現在でも有効な学名 Eichhornia crassipes を記録した(右下図)
Martius の記録したホテイアオイはブラジルでの Type とされている.

近代になってから日本に移入帰化した植物にしては,多くの
地方名を持っていて,八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001には 35 個が収載されている.九州を中心とした西日本の名前が多く,一番東は埼玉(北葛飾)の「ぼてれんそ-」である.
特に佐賀県からは,「いもがら,うみほ-ずき,お-うきぐさ,がねんしぶたけ,がめのしぶたい,がめのしぶたけ,がめのしゅぶたけ,がめのしゅぷたけ,がめんしふた,がめんしぶた,がめんしぶたけ,たいわんなぎ,だいわんなぎ,たいわんもがら,だいわんもがら,たいわんもぐら,だいわんもぐら,ばとっしゅ-,ふ-らん,ひやしんす,みずひやしんす,みずらん,もがら」と 27 の地方名が収載されている.これは,この地方は筑後川からのクリーク(用水路)が発達していて(左図,By Google),そこでは暖かいため冬も枯死せずにホテイソウが繁茂し,人々の目に触れていたからと思われる.

他の地方名としては「ういたかひょ-たん:三重,うきくさ:愛媛・鹿児島,うきぐさ:広島・鹿児島・沖縄,うきらん:静岡,たいわんなぎ:熊本,たまばす:岡山,ひやしんす:山口,ふくらすずめ:新潟,はていそ-:富山,ぼてれんそ-:埼玉,みずぐさ:奄美大島,みずたま:岡山」などが記載されており,膨れた葉柄で浮いている特徴からの名前が目に付く.また「ひやしんす:山口(厚狭)佐賀(三養基),みずひやしんす:佐賀(小城)」の英名の Water-hyacinth に通じる地方名が興味深い.

中国にも移入され野生化している.一般的な中国名は,花の最上部内花被の黄色い部分に基いてか「鳳眼蓮()」「鳳眼藍()」と風雅.また,浮いている特性から「浮水花,水葫芦,水浮蓮(水浮,布袋、豬蓮,洋水仙,浮水蓮,水蓮花,大水萍」などの名もある.一方薬効としては,風熱感冒,水腫,熱淋,尿路結石,風疹,濕瘡,癤腫に,15-30㌘の煎湯を服し,外用には,適量をつぶして貼るとある.

2014年7月26日土曜日

クガイソウ (3/3) 『 質問本草』 二つの威靈仙,センニンソウ(サキシマボタンヅル)とクガイソウ

Veronicastrum japonicum
2004年8月 八方尾根
琉球の薬用植物に関しての★呉継志『質問本草』 (しつもんほんぞう) は,寛政元年(乾隆五十四年、尚穆王三十八年、1789年)に完成した.

第一巻の序によると,「中山および掖玖(屋久のこと)諸島に産する草木、珍しくて名称もはっきりしないもの数百種を採集し正確に写生して、さらに草木そのものを傍に貼付した。註として草木の発芽、花季、結実などの消長を記した。別に根、実等数件をさらに裏付けした。年に7080種に限って一帖とし、これを福省、北京や諸処の先生方に質問した。格別に判じにくいものは鉢に植えて送った。或いは(納得いかない場合)別名を挙げて再質問し、さらに別の先生に同じ質問をした。間違いを防ぐため柴胡(さいこ,サイコ)、芎藭(きゅうきゅう,川芎(センキュウ))、女貞(トウネズミモチ)等の確実疑いなきものを附した。」との事.

教えを乞うたのは,中国各地の本草家35名,その他に漂着した中国人10名にも聞いており,総勢45名から教示を得たことになる.

第一巻の「例言」には,「質問」は,乾隆四十六年から同五十年(天明元年~同五年、尚穆王三十~三十四年、17811785年)まで行なわれたと書いてある.質問帖は年ごとに一帖としている.例えば本文中に丙午帖というのが出てくるが,これは丙午(ひのえうま)の年(乾隆五十一年)の質問帖である.乾隆五十年に採集・作成した質問帖を翌五十一年(丙午)の進貢船に載せたのであろうが,おそらくこれが最後の質問帖である。

時の八代薩摩藩主島津重豪は,これをおおいに喜んで出版するつもりであったが,果たさないうちに死去.これを48年後に曾孫の十一代藩主島津斎彬が世に出したものである.中山呉子善著,薩摩府學蔵版として,天保八年(道光十七年,尚育王三年,1837年)に江戸の須原屋,山城屋等で刊行されている.

この書には二件の威靈仙の記事が収載されていて,先行した記事(外篇巻之三)では,威靈仙をセンニンソウ(サキシマボタンヅル)に比定し,後の記事(内篇巻之四)では,先行記事に対する疑問を質問し,その比定を訂正する形で,クガイソウに比定している.しかし,センニンソウ(サキシマボタンヅル)への比定の記事を残しているところを見ると,性状の「蔓性,鬚根」からはセンニンソウに,「葉が輪生,花が穂状」からはクガイソウにと,どちらとも決定できなかったのであろう,「地道(地域差)」という言葉で,両者の何れが真の威靈仙とも言っていない.『開宝本草』と『圖經本草』での混同が中国でも解決されていなかったことを如実に表したとも言えよう.

質問本草外篇巻之三

「威靈仙 大蓼 タカタデ ハボロシ
荒野中ニ生ス.拖蔓シテ而樹木上ニ妥附ス七八月花ヲ開ク
威靈仙性猛ニシテ神速ナルヲ言イテ之ニ名ク根苗花寔ノ形綱目與相ヒ符ス故ニ釆蔵載セ不根ヲ用フ味ヒ苦甘温ニシテ毒無シ手足ノ太陽經ニ入ルノ諸ノ風痛ヲ藥療シ五臓宣通ス腹冷痃癖癥瘕膀胱ノ蓄血蓄膿停經跌打瘀血ニ功効アリ酒ニ和シテ服シテ良ナリ 壬寅 陸澍
威靈仙 初生蔓ヲ作シテ方莖ナリ七月内ニ花ヲ開ク六出浅紫或ハ碧白色根稠密鬚多シ長キ者二尺許リ初時ハ黄黒色乾ハ則深黒 壬寅 潘貞蔚
威靈仙 辛丑 陳得功 楊国棟
名ヲ威靈仙ト喚フ載テ綱目ニ在リ 庚申 載道光 戴昌蘭」


質問本草内篇巻之四

「威靈仙 クガイサウ 
敝邑別ニ威靈仙ト叫フ者有リ 今圖シテ以テ是非ヲ問フ 前年潘陸ノ諸氏薩摩方言仙人草ト呼フ者ヲ●(扌に上+日=指)威靈仙ト為故ニ再ヒ是ノ問ヒ有
威靈仙 於衆艸ノ之先ニ生ス 其ノ莖四方数葉相ヒ對ス 七月内花ヲ生ス、六出浅紫或ハ碧白色穂ヲ作ス 此ノ本圖内名テ威靈仙ト叫フ前ノ之問フ所ハ非也 葵卯 石家辰 潘貞蔚
此レ藥ニ入ル可シ 圖内之ヲ書ス 

其ノ姓名ヲ記サ不
細ニ其ノ葉根ヲ観ルニ本草與相符ス 其レ實ニ之國中之威靈仙ナリ 是レ各方土産ニ係ル 方書地道**ノ之性ニ比ス可ニ非ス 採用ノ時各自變通佐使コトヲ要ス 差錯ニ至ラ不ルニ*(庶の灬が从)ラン 葵卯 宋宐 観 林大明」

*  音読み:ショ,訓読み:もろもろ、こいねがう、ちかい
** 地道については,徐淮子靈の序に「葢に薬品地道有り 出産不同有り 砭針の窬を按し穴尋る便なる若きに非す」とある.地道というのは草木の薬効や成分の地域差とでもいう意味であろうか.

2014年7月25日金曜日

クガイソウ(2/3) 威靈仙 開宝本草,本草綱目,圖經本草,植物名實圖考,質問本草,頭註 国譯本草綱目

Veronicastrum japonicum
2004年8月 長野県 八方尾根
日本において,威靈仙=クガイソウと誤って比定され,江戸時代の本草家たちもその誤りは認識していたようだ.

秩風湿薬として,おもに神経痛やリウマチなどの治療に用いられる漢薬「威靈仙」は,宋の馬志『開宝本草』(974)に初めて収載された.

この薬草の由来について,李時珍著『本草綱目(1590) には,「頌曰唐貞元中(785 - 805年),嵩陽子周君《威靈仙傳》云先時,商州有人病手足不遂,不履地者數十年。良醫殫技莫能療。所親置之道旁,以求救者。遇一新羅僧見之,告曰此疾一藥可活,但不知此土有否因,為之入山求索,果得,乃威靈仙也。使服之,數日能履。其後山人鄧思齊知之,遂傳其事。」(宋の蘇頌の『圖經本草』(1061)には,「嵩陽子周君作った《威靈仙傳》に,中国唐代のころ商州(現在の陝西省南部)に,手足がきかず,数十年歩けない男がいた.良醫も種々の療法を試みたが,治療することができなかった.家人はこの病人を街道の道端に座らせ,救える人を求めた.たまたま新羅(朝鮮半島)からの僧侶がこの病人を見て「この病気は一種類の薬草で治すことができる.しかしその草がここにあるものかどうかは知らない」と告げた.そこで近い山に入って探してもらったところ,その薬草が見つかった.これが,威靈仙であった.これを患者に服用させたところ,数日後には自力で歩くことができるまでに回復した.その後,道士の鄧思齊がこのことを知り,伝えた)」とある.
従って,威靈仙は元来朝鮮半島で使用されていたが,当時の中国では,あまり知られていなかった薬物であったと思われる.

開宝本草』での植物の性状に関する記載には「出商州上洛山及華山并平澤,不聞水聲者良.生先于眾草,莖方,數葉相對.花淺紫,根生稠密,久益繁.(威靈仙は商州の上洛山と華山,並びに平澤*に出る.水聲を聞かない物がよい.多くの草に先駆けて生えるもので,莖は四角で数枚の葉が相対して着く.花は薄紫で,根は密生しており,年を経るとますます繁る)」とある.(*この「平澤」は地名と解すべきであろう)

一方,『圖經本草 草部 下品之下 卷第九』には, 「威靈仙 出商州上洛山及華山並平澤,今陝西州軍等及河東、河北、京東、江湖州郡或有之.初生比眾草最先,莖梗如釵股,四棱;葉似柳葉,作層,層六、七葉,如車輪,有六層至七層者;七月生花,淺紫或碧白色,作穗似莆台子,亦有似菊花頭者;實青;根稠密多須似谷,年亦朽敗.(威靈仙は商州の上洛山と華山,並びに平澤に出るが,今は陝西州軍等及河東、河北、京東、江湖の州郡にもある.多くの草に先駆けて生え,莖は釵股(さこ,簪)の如くで四角である.葉はヤナギの葉に似ていて六、七葉が車輪のようについて層をなし,六層から七層になる者がある.七月の淺紫または碧白色の花をつける.莆台子に似た穂になっていて,また,菊の花頭に似たものもある.根は密生していて鬚が多く,毎年朽敗する.)」とあり,産地別の四種の威靈仙の図がついている(左図:後世の本草図より復元されたもの)

このような威靈仙の性状の記述及び圖經本草の添付図が,日本における威靈仙の比定に混乱を招いたと思われる.
威靈仙の真起源はテッセン類の Clematis chinensis である事は,現在広く認められているが,日本では江戸時代までクガイソウが威靈仙とされていた.その大きな根拠は圖經本草の添付図にある.このような図が描かれた背景について,富山医科薬科大学・和漢薬研究所の難波恒雄らは,『開宝本草』が作成された段階では,テッセン類が用いられていたが,『圖經本草』が作成された地方ではテッセン類が分布せず,代わりにクガイソウが一時的にせよ代用に使われていた.そのため,威靈仙としてクガイソウの性状を開宝本草のそれに挿入したうえで,クガイソウの図を用いたと推定している(生薬学雑誌 37(4): 351-360, (1983)).
本草綱目金陵本. 第1冊
(序・総目録・附図巻之上)

本草綱目 草之七 蔓草類』には,著者の時珍の追加コメントとして「其根年旁引,年深轉茂。一根叢須數百條,長者二尺許。初時黑色,乾則深黑,俗稱鐵威靈仙以此。別有數種,根須一樣,但色或或白,皆不可用。(その根は毎年傍らに伸びて,年を経るとよく茂る.一株の根に数百本の鬚根が群がって長いものでは二尺ほどになる.初めは黑色だが,乾けば濃い黒色になる.俗に鐵威靈仙と稱するのは,このためである.別に数種あって鬚根は同様だが,ただ色の白いもの,黄色いものは用いるべきではない)」とある.
この書に添付された図は,圖經本草の添付図を,「蔓草で,莖に陵がある」風に書き換えたので,ますます現実離れした植物の図になってしまった(右図,NDL).

難波恒雄らによれば,日本へ威靈仙の知識がもたらされたのは,12世紀に入ってからで,当時輸入された『証類本草』には明らかにクガイソウと思われる図が載せられている(左図,NDL).しかし,17世紀に至るまでわが国でクガイソウを実際に医薬品として用いたような記録はなく,当時中国から輸入された威靈仙はクガイソウの地下部とはかなり形態の異ったものであったと考えられる.とのこと.

この事は「クガイソウ (1/2)」に記したように,古くから多くの本草家に認識されており,和産の威靈仙(クガイソウ由来)を偽品としたり,輸入品を用いることや,更に中国からの輸入品が品不足の時には,クガイソウではなくテッセンを用いることを勧めたりしている.従って早くから,「クガイソウ≠威靈仙≒テッセン」の認識は本草家の間では一般的であったと思われる.

一方,清末の官吏で植物学者の呉其濬(1789 - 1847)著の『植物名實圖考(1848 ) 三八巻と『同長編』二二巻は,薬草のみならず植物全般を対象とした中国初の本草書として名高い.『図考』には実物に接して描いた,かつて中国本草になかった写実的図もある.その「巻之二十 蔓草」には,それまでの中国本草の挿図とは全く異なる威靈仙が描かれていて,これは Clematis chinensis (和名,サキシマボタンヅル)であると考えられる.本文では,多くの薬草が威靈仙として乱用され,患者の命にまで関わることを憂いている(ようだ).このころには,中国では「威靈仙=Clematis chinensis」と広く認識されるようになっていたのであろう.

日本においては,
1789年に完成した呉継志『質問本草』において,琉球諸島に生育する「サキシマボタンヅル(Clematis chinensis)」を中国本草家に質問したところ,「威靈仙」とも同定されたとされているので,『植物名実図考』より50年近く早く両者の可能性が確認されていた(「クガイソウ (3/3))

Curtis Botanical Magazine
C florida(1805) テッセン
一方,『頭註 国譯本草綱目 第六冊』原著 明李時珍 監修・校注 白井光太郎 考定 牧野富太郎ら(春陽堂)(1941 の「威靈仙 せんにんさう Clematis sp うまのあしがた科(毛茛科))の頭註には、「牧野曰ク、学者ガ威靈仙ニ充ツル支那ノ植物ニ Clematis(センニンサウ属)ノ数種ガアツテ何レガ其正品デアルカ能ク分明セヌ。即チ其充テアル品種ハ C. Armandi, Franch.C. Chinensis, Retz.C. recta, L., Type 品ハ支那ニハナイヤウダカラ是レハ其変種カ或ハ別種ノモノカト思フ。蘭山ハ威靈仙ヲ草本ト藤本ニ分チ藤本ノモノヲモチてつせんトシテ居ルガ其レハ秘伝花鏡ニ鐵線蓮(莖本ガ鉄線ニ似タルユエニ名ク)ヲ威霊仙トシテアルノミナラズ、本書ニモ鐵脚威靈仙(根ガ乾ケバ深黒ニナルユエ名ク)トシテアルノデ旁ガタサウ極メタルモノト思フガ此レモ一説デアル。其草本ノモノヲゴマノハグサ科(玄参科)ノくがいさう(Veronica virginica, L. var. sibirica, Miq トシテ居ルガ是レハ贅事デ蘇頌ノ説ク植物ハ蘭山ノ云フガ如ク此くがいさうデハナクテ、全ク何カ別ノ植物デアルカラ蘭山ノ説ハ成立セヌ。
木村(康)曰ク、威靈仙ニ鐵脚威靈仙ト草本威靈仙ノ二種アリ。前者ニテツセン類ヲ後者ニくがいさうノ類ヲ充ツ。市場ニ出ヅルモノハテツセンノ形質ヲ有ス。藤田直市博士)」と,まだ数種のテッセン類を候補に挙げているが,Clematis chinensis もその中に入っている.

現代中国においては威靈仙は Clematis chinensisであるとされ,別稱 鐵威靈仙,鐵角威靈仙,鐵靈仙,鐵鐵線蓮,鐵耙頭,鐵掃帚,鐵威靈 ,鎮南威靈仙,南方威靈仙,中華威靈仙,華中威靈仙,華鐵線蓮,黑威靈仙,黑靈仙,黑鬚公,黑須公,黑老婆秧,黑木通,鐵靈仙,小木通,軟靈仙,杜靈仙,靈仙,青風藤 (秦),青風藤根,青岡藤,青龍鬚,青龍須,老虎鬚 ,老虎須,老君須,剪刀風,剪刀草,對子草,白錢草 (安徽),藥王草,移星草,馬蹄草,仙花草,老牛仙,牛間草,牛九穿,牛杆草,山姜辣,山辣子,辣椒藤,搜山虎,聞鼻丹,烏頭力剛,百根草,百條根,七寸風,九成介,九芩串,九里火,滿山香,一把鎖,避蛇生,穿山甲,能消 等と呼ばれ,能祛湿・利尿・通痛・治寒湿・偏疼など多くの強い薬効があるとされている.

一方,クガイソウの方は,日本名の影響を受けたと思われる草本威靈仙の名の他に,九蓋草,狼尾巴花,九節草,山鞭草,草玉梅,九輪草,斬龍劍,稈桿升麻,草龍膽,山紅花,二郎箭などの名を持ち,祛風除濕・清熱解毒.主感冒風熱・咽喉腫痛・腮腺炎・風濕痹痛・蟲蛇所傷などの薬効があるとされている.

2014年7月17日木曜日

クガイソウ(1/3) 威靈仙, 本艸綱目品目,和語本草綱目,大和本草,広益地錦抄,和漢三才図会,用薬須知,草木弄葩抄,絵本野山草,質問本草,剪花翁伝,薬品手引草,物品識名,本草綱目啓蒙,草木図説

Veronicastrum japonicum
2009年7月 尾瀬ヶ原駐車場 植栽
日本では高地の比較的乾燥した地に自生する,観賞価値は高いものの,園芸用としても,薬用としてもあまりポピュラーではない植物だが,江戸時代には多くの本草書に収載された.その理由は,リューマチや通風の特効薬として中国本草に収載されていた「威靈仙」と誤って比定されていたからである.

「威靈仙」の真起源はキンポウゲ科のテッセン類の根で,その名は「性猛なるを以って威と日ひ、功神なるを以って靈仙と日ふ」由来とされている.なぜ,薬としての効果のないクガイソウが,「威靈仙」と考えられたのかは,次の記事に述べるが,中国本草での記述の混乱と,それに伴う図のあいまいさにある.
しかし,輸入した正品と和品(クガイソウ)との性状・薬効の違いがはっきりとしてきて,江戸後期には,正品を藤性威靈仙と,クガイソウを草性威靈仙として区別した.

磯野の初見は, ★貝原篤信(益軒)『本艸綱目品目 蔓艸類 七十三種 巻之十八』(1762以前,執筆は1680頃か)で,これには,「威靈仙 クガイサウ」とあり,これ以降「威靈仙=クガイサウ」が定着したと思われる(左図,NDL).

★岡本一抱(1654 - 1716)撰『広益本草大成 通称 和語本草綱目』(1698刊)には「和人ハ徐長卿(フナバラ)及仙人艸ヲ以テ威靈仙トス.尤トモ非也.今ノ九蓋(ガイ)艸ト云フ者.是レ威靈仙ナリ,然レドモ惟タ唐ヲ用テ宜トス」とあり,17世紀末には,クガイソウを正品としながらも実際にはクガイソウは威靈仙としては用いられておらず,中国からの輸入品もクガイソウ基源のものではなく,また徐長卿(フナバラソウ)でも仙人草(センニンソウ)でもないことを認識していた本草家がいたことが分かる.

★貝原益軒『大和本草 巻之六 薬草類』 (1709) には,
「威靈仙 九蓋(カイ)草ノ和俗名ツク 葉ハ莖ニ付テ段々ニアリ 一段有五葉開花ヲ 花虎ノ尾ト云草花ニ似タリ 碧色也如穂長シ 八九寸アリ 七重草ノ類ニハアラス フナハラヲ威靈仙トスルハ非ナリ」と,「威靈仙=クガイサウ」と,当時フナバラソウが威靈仙として用いられていたことを示す(右図,NDL).

  伊藤伊兵衛『広益地錦抄 巻之五薬草五十七種』(1719)
「威靈仙(いれいせん)葉は五葉づゝならび車のごとく付て段〃にのぼる故に草花に草三七共九蓋(かい)草ともいふ 花はうすむらさき色粟穂(アワノホ)のかたちにて五月ひらくながめ有り 穂しだれてきぢの尾といふ草花に似たり 本草に作(ル)穂(ニ)碧白色といふハよく似たれとも初蔓を生ス叉菊花頭のことくと云は心得ず 時珍が別に数種有といふ是ハ和の威靈仙なるにや いにしへより是をよび来れり」と,クガイサウの花の美しさを讃える一方,古くから「威靈仙=クガイサウ」とされているが,『本草綱目』の威靈仙の記述には合致しない事もコメントしている.

★寺島良安『和漢三才図会 巻之第九十六 蔓草類』(1713頃)には,「威靈仙 いれいせん  九蓋(カイ)草 今俗云  宇豆保久佐 布那波良 右二ノ和名ハ古ノ名ヲ而非也
本綱、威靈仙は其の生ずること衆草に先んず。方なる茎は銀股の如く、数葉相対す。初生は蔓を作し、七月に花を生ず、六出浅紫或は碧白色。穂を作して莆台子に似たり。亦た菊花の頭に似る者有り。実は青色、根は稠密にして鬚多く、穀に似て毎年朽ち敗れ、毎年蒡引す。年深くして転(うたた)茂る。一根草鬚数百条、長き者二尺許り、初時は黄黒色、乾けば則ち深黒し。別に数種有り。根鬚は一様にして但し色或は黄或は白し。皆用うべからず。
根(微辛、賊、温) 痛風を拍するの要薬なり。(中略) 但し性大抵疎利なり。久しく服すれば恐らくは英気を損ず。気弱き者は之れを服すべからず)性猛なるを以って威と日ひ、功神なるを以って靈仙と日ふ。
△按ずるに、威靈仙(俗に云ふ九蓋草)は芸州・予州・丹波及び金剛山より多く之れを出す。初生は蔓に似て後に茎を立つ。高さ二三尺、茎は細円にして莞の如く、葉は虎尾草に似て六七葉対生す。頗る車輪の如し。最も長ずる者九段許り。(故に九重と名づく) 六月に花を開き、人家に栽うる者は四月に花を開く。形も亦た虎尾草及び荘草の花に似て穂を作し碧色、実を結びて鶏冠の実の如し。其の根髭多く芹の根の如し。乾けば則ち黒色、是れ能く上の説に合す。椎だ所謂る茎と図する所の花穂とは少し異なるのみ。
或は薬を採る人、徐長卿の根を用ゐて威靈仙に充つ。弁ずべし。(徐長卿*は根白色、細辛の如く、詳しくは山草に見ゆ)」
* ガガイモ科スズサイコ>
と『本草綱目』の「威靈仙」の記事を紹介・引用した後(中略部は後の記事で詳しく書く予定),その記述とクガイソウの性状は合致していることを強調しているが,莖の形状と花穂の形が異なるとは指摘している.

松岡恕庵(1668-1746) 用薬須知 巻之二 六』(1712脱稿 には,「威靈仙 和漢共ニアリ漢ヲ上トス 所謂鉄脚威靈仙是レナリ 和ノ九蓋草(クガイソウ)是ナリ 貨(ウル)所ノモノ間(ママ)仙人草根ヲ用ユ 甚タ毒有用可不 王藎臣ガ群芳譜ヲ按スルニ和ノ鐵線蓮ト云蔓草ノ根亦威靈仙ノ一種ナリ 若シ漢種乏キ時代用」とあり,クガイソウに比定はしているが,センニンソウの根は有毒で代用できない,しかしテッセンの根は中国からの輸入品が手に入らないときには代用できるだろうとしている.クガイソウの根には薬効がないことと,テッセン類が真の威靈仙で,中国ではこの根を用いていることを推察していたのであろう.

当時もっとも著名だった本草家稲生若水が校正し,和刻本草綱目のなかで一番優れているといわれている★稲生若水校『本草綱目(新校正本〉』(1714)  でも,「威靈仙 朱開寳 クカイソウ」とあり,本草学では「威靈仙=クガイサウ」が一般認識であったことを示す.

★菊池成胤?『草木弄葩抄(ソウモク ロウハショウ)』(1735) には,「くかい草 漢名 威灵仙(イレヒセン) <注 灵=「靈」と同音>
花のかたち虎の尾のことく色うす紫なり 葉くるま葉につきだん/\に葉いつる.」とある.(右図,左 NDL)
NDL の書誌情報によれば,この書は「知名度は低いが、先行する『花壇綱目』や『花壇地錦抄』より記載がはるかに詳しい園芸書で、草類だけを載せる。著者名は明記されていないが、序文の筆者菊池成胤(浪華の人)と思われる。現存本は上巻であり、これには図が一つも無い。
凡例によれば図集を下巻として出版するとあるが、刊行された形跡は認められない。上巻もこの国立国会図書館本以外に知られていないようである。見出し数は209だが、同一項に類品を挙げる場合が少なくないので、総品数はこれよりかなり多い。(中略)『絵本野山草』(宝暦5年=1755刊、特1-2166)は全163項目だが、うち半数の82項が本書の記文の全部あるいは一部の転写である。」(磯野直秀))

★橘保国『絵本野山草 巻之一』(1755
「くかい草 花のかたち,虎の尾のごとく,色うす紫なり.葉,くるまばにつき,だん/\に葉出る.五月,はなさく.」と,記述文は『草木弄葩抄』の剽窃に近い.図の花穂は花の付き方がまばらで直立し,テンニンソウを思わせるが,葉の形や付き方は実物に近い(右図,右 NDL).

琉球の植物の本草名を記載した★呉継志『質問本草 巻之三』 (1789) には,「威靈仙(大蓼 タカタデ ハボロシ*)(以下略)」とあり,また,巻之四には,クガイソウと比定されている.巻之三に添付されている図はサキシマボタンヅル(Clematis chinensis) と思われる(左図 上,WUL)現在の中国ではこれが威灵仙と言われている*葉疿子 センニンソウの別称.「クガイソウ (3/3))
一方,テッセンは欄路虎と言う名で記載されているが,威靈仙との関連には言及されていない(左図 下,WUL

寛政元年(乾隆五十四年、尚穆王三十八年、1789年)に完成した本書は,沖縄の中山および掖玖諸島の草木160種に関し,薬効を福建等の中国医師45名に質し作成したと始めに記す.草木の線描と簡単な効用を紹介.作者の呉継志,また,成立についての詳細は不明.時の八代薩摩藩主島津重豪はこれをおおいに喜んで出版するつもりであったが,果たさないうちに死去.これを48年後に曾孫の十一代藩主島津斎彬が世に出したものである.中山呉子善著,薩摩府學蔵版として,天保八年(道光十七年,尚育王三年,1837年)に江戸の須原屋,山城屋等で刊行されている.

毛利梅園1798 1851)『梅園草木花譜 夏之部 一』(1825 序,図 1820 – 1849)には,紫色の花と黄色い雄蕊が美しい,正確な写生畫と共に,「救荒本草曰 威靈仙(クガイサウ) 一名 能消, 地錦抄曰 和俗名 九蓋草(キウカイソウ)車三七, 大和本草曰 威靈僊, 増補多識編蔓草類曰 威靈仙(イレイセン)和俗ニ布那波羅(フナハラ)ト云 誤(アヤマリナリ),本草綱目曰以性●曰功神曰威以功神曰靈仙」とあり, 「壬午蕤賓日写」とあるが,梅園生存中の壬午は1822年,蕤賓= 陰暦5月の異称なので,この年の陰暦五月に写生したとわかる(右図,NDL).なお,『救荒本草』の威靈仙はクガイソウでもテッセン類でもなくて,現在では不明のキク科の植物.

「いけばな」愛好者のための実践的な花井栽培ハンドブック、切り花取り扱い技法ハンドブックとでもいうべき内容と性格とをそなえている特異な園芸書★中山雄平著,松川半山画『剪花翁伝 前編 五月』
(1847著,1851) には,「○ふかい艸 花、青く紫色を含めり。貌(かたち)、虎の尾と同じ。開花、五月より、二番切・三番切するゆゑに、九月まであり。方・地・土・肥・株、並に切時、升水(ミづあげ)の方、虎の尾艸におなじ。(○くがいそう 花は紫色を含んだ青である。花形は、おかとらのおと同じである。開花は五月からであるが、二番切り・三番切りと花を切っていくので、九月まで花がある。方位・土地・土壌・肥料や、株分け・花切りの時節や、水揚げ法などは、おかとらのおと同じである。)左図,WUL」とあり,栽培法や採花法,水揚げ法と実際に即した手法が記載されている.

★加地井高茂
[]薬品手引草(1843) には,「威靈仙 (イレイセン) 能消(ノフセウ)くがい屮 唐 和ハ偽物多シ」とあり,和の偽物が多いことが記されるが,クガイソウの根由来かも知れない.(右図,NDL)

★岡林清達・水谷豊文『物品識名 坤』(1809 には,「クカイサウ 草本威靈仙」とあり,威靈仙の中の草本がクガイソウだとしている.一方小野蘭山が,藤本威靈仙としているテッセンは,鉄線蓮の一種としているだけで,威靈仙との関連は記されていない.

★小野蘭山『本草綱目啓蒙 巻之十四下 草之七 蔓草類』(1803-1806)
「威靈仙 〔一名〕能消(証類本草) 寿祖(絹耕録)
集解ニ説トコロ、草本(クサダチ)、藤本(ツルダチ)ノ二種アリ。

藤本ノモノハ時珍説トコロノ鉄脚威靈仙ナリ。
平賀源内監修 秘伝花鏡(WUL)
和名テッセン即漢名鉄線蓮ナリ。秘伝花鏡ニ、鉄線蓮一名番蓮、或云、即威靈仙トイヘリ。広東新語ニ西洋蓮、西洋菊ノ名アリ。花戸ニ多クウユ。人家ニモ栽テ花ヲ賞ス。和州ニハ自生アリ。春時芽ヲ旧藤ヨリ発ス。一根数条赤色、竹木上ニ纏延スルコト甚長シ。節ゴトニ葉鬚相対シ生ズ。葉ハ山蓼(ボタンヅル)ノ葉ニ似テ、小シ。夏ニイタリ花ヲ生ズ。一茎一花大サ二寸余、六出アルヒハ八出、形玉蘂(トケイサウ)花ノゴトク碧色、中心ニ細小紫弁簇生シテ菊花ノゴトシ。マタ白弁紫心ノモノアリ。皆外弁マヅオチ内弁ノチニ凋ム。ソノ根数十条一葉ヲナシ、長サ一尺余、浅黒黄赤色。マタ一種カザグルマト呼モノアリ。葉大ニシテ橢ナリ、三葉一朶ヲナシ、大蓼(センニンサウ)葉ニ似タリ。花ハ鉄線蓮ヨリ大ニシテ紫心ナシ。碧色、白色、千弁、単弁ノ数種アリ。マタ鉄線蓮ノ一種ナリ。多ク人家ニ栽テ花ヲ賞ス。

又一種草本(クサダチ)ノモノハ、蘇頌ノ説トコロノ威靈仙ナリ。
和名クガイサウ或ハクカイサウトモイフ。一名トラノヲ越前 ヤヤツヽミ佐州 クルマサンシチ花戸 コノ草人家ニ多クウユ。春旧根ヨリ叢生ス。茎円ニシテ高サ一二尺、葉ハ形長シテ細鋸歯アリ。鳳仙(ホウセンクハ)葉ニ似テ、アツク深緑色。五葉ゴトニ節ニ対生シ層ヲナス。肥タルモノハ十二三層、小ナルモノハ八九層、故ニ、クカイサウト名ク。夏月、茎梢ニ長穂ヲイダス。六七寸許、小花密ニ綴リ、淡紫碧色、後小尖莢ヲムスブ。根ハ短シテ黄褐徴黒。一種江州伊吹山ニ産スルモノハ、茎短ク葉モマタ短、六七葉アルヒハ二三葉対生シ、或ハ互生シ、斉カラズ。又一種奥州南部津軽ヨリ出ルモノハ、茎葉ニ毛茸アリ、花穂扁ク、アルヒハ穂ヲナサズ、花小ニシテ色浅シ。其根細長、一尺許、浅黄褐徴黒ヲオブ。
薬舗ニ唐ノカモジデト呼モノ、色黒クシテ長ク、数首条一窼ヲナス。コレ真ノ鉄脚威靈仙ナリ。鉄線蓮ノ根ハ形同シテ脆ク折ヤスシ。内ニ小白心アリテ、舶来ニオナジ。代用ベシ。和ノカモジデト呼モノハ、大蓼(センニンサウ)根ナリ。色黒シテ徴褐、折バ内ニ大白心アリテ味辛シ。下品ナリ。又クカイサウノ根ヲ真ノ威靈仙ト称シ売。コレハ蘇頌ノ説ニヨルナリ。クカイサウ三種ノ中、奥州ノ産ハ根長シテ味アリ。用ベシ。」

と,威靈仙を藤本(ツルダチ),草本(クサダチ)二種があり,前者が時珍のいう鉄脚威靈仙であり,後者(クガイソウ)が蘇頌のいう威靈仙であるとしている.生薬店で中国渡来の「カモジグサ」として売っているのは,鉄脚威靈仙であり,和産のテッセンでも代用できる.また,センニンソウの根を「和のカモジグサ」と称して売っているが,これは副作用が強い.一方和産のクガイソウの根を真の威靈仙として売っている.と記している.

  飯沼慾斎『草木図説前編(草部)巻之一』(成稿 1852(嘉永5)ごろ,出版 1856 - 62)には,
「クカイソウ 第一目 一雌蕊, 第二綱 二雄蕊 ヂアンドリア
クカイサウ 草木威靈仙
数種アリ.本草啓蒙詳明草状.萼五出披針状.花筒様微ニ四裂シ.淡紫碧色.實礎麦粒状ニシテ一柱頭微哆.雄蕋二莖葯茶褐色ニシテ黄粉ヲ吐ク.其攅簇ノ数ニ多アリ少アリ.又莖葉ニ毛ノ有無.又草ニ矮生ナル者.又梢上ニ多穂ヲ出ス者.等ノ種々アレドモ.生殖部ミナ同シ故ニ不一々」
第二種 ヘロニカ・ヒルギニカ.羅, ヒルギニセ・エーレンプリース 蘭, 卵葉圖可併證」と,美しい単色木版画と共に性状が収載されており,漢名として草木威靈仙が記されている(左上図,NDL).

以上のように,リューマチや神経痛に著効を示すと考えられた威靈仙として,日本では江戸時代まで,クガイソウ,フナバラソウ,センニンソウ,テッセンなど多くの植物が比定されていた.一応クガイソウを正品とする説が多いが,実際には中国から輸入された威靈仙を治療には用いていたようだ.この輸入品の起源は主としてテッセン類と考えられ,輸入品が品薄の場合は和産のテッセンを用いてもいいだろうとの説もある.


なぜクガイソウが日本では威靈仙として比定されたのかは,次記事に記す.