アセビを最も愛した近代作家は堀辰雄,1904年(明治37年)- 1953年(昭和28年).彼は昭和18年(1943年),『大和路・信濃路』と題した連作を『婦人公論』に掲載した.さらに,昭和21年3月には,その名もずばり『花あしび』を出版したが,それは,『大和路・信濃路』の中の「十月」・「古墳」・「浄瑠璃寺の春」・「死者の書」に,昭和19年発表の「樹下」を加えて一冊にしたものである.いかに彼がアセビを愛していたかが分かろう.
『大和路・信濃路』は,堀辰雄が室生犀星夫妻の媒酌で結婚した愛妻多恵(旧姓加藤)とともに,奈良・長野を旅した際の紀行であるが,そこには,万葉人の愛した馬酔木の花盛りを,万葉の地奈良で見た感激が叙情あふれる文で記されている.
一
十月 一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
くれがた奈良に著いた。
(中略)
(十月十一日)夕方、唐招提寺にて
いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いてゐる。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「或門のくづれてゐるに馬酔木かな」といふ秋櫻子の句などを口ずさんでゐるうちに、急に矢も楯もたまらなくなって、此虞に来てしまった。
(後略)
「辛夷の花」
「春の奈良へいって、馬酔木の花ざかりを見ようとおもつて、途中、木曾路をまはつてきたら、おもひがけず吹雪に遭ひました。……」
僕は木曾の宿屋で貰った繪はがきにそんなことを書きながら、汽車の窓から猛烈に雪のふつてゐる木曾の谷々へたえず目をやってゐた。
(後略)
「浄瑠璃寺の春」
この春、僕はまえから一種の憧れをもってゐた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいやうな旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸つとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたはらに、ちょうどいまをさかりと咲いてゐた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
(中略)
2008年3月 浄瑠璃寺 九体阿弥陀堂 |
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はひりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いてゐる。」と僕はその門のかたはらに、丁度その門と殆ど同じくらゐの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしてゐるのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意さうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見てゐたが、しまひには、なんといふこともなしに、そのふつさりと垂れた一と塊りを掌のうへに載せたりしてみてゐた。
どこか犯しがたい気品がある、それでゐて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいやうな、いぢらしい風情をした花だ。云はば、この花のそんなところが、花といふものが今よりかずつと意味ぶかかった萬葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもつと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられてゐたのだ。―そんなことを自分の傍でもつてさつきからいかにも無心さうに妻のしだしてゐる手まさぐりから僕はふいと、思ひ出してゐた。
(中略)
2008年3月東大寺 |
突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあつたのとは、すこしちがふんぢやない?ここのは、こんなに眞つ白だけれど、あそこのはもつと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びてゐたわ。……」「さうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くささうに、妻が手ぐりよせてゐるその一枝へ目をやってゐたが、「さういへば、すこうし……」
さう言ひかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしてゐる心のうちに、けふの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見てゐた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに蘇らせ出してゐた。
(了)
☆彼のアセビに寄せる感慨「何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに蘇らせ出してゐた。」が,万葉人が,馬酔木を人を偲ぶよすがとした花とよく似ている事に,アセビの魔力を感じる.
「死者の書」
古都における、初夏の夕ぐれの封話
(中略)
主 しかし、君はもう大抵大和路は歩きつくしたらうね。
客 割合に歩いたほうだらうが、ときどきこんなところでと、― 本當に思ひがけないやうな風景が急に目のまへにひらけ出すことがある。
この春も春日野の馬酔木の花ざかりをみて美しいものだとおもつたが、それから二三日後、室生川の崖のうへにそれと同じ花が眞つ白にさきみだれてゐるのをおやと思って見上げて、このほうがよつぽど美しい気がしだした。大来皇女の挽歌にある「石のうへに生ふる馬酔木を手折らめど……」の馬酔木はこれでなくてはとおもった。さういふ思ひがけない発見がときどきあるね。まあ、そんなものだけをあてにして、できるだけこれからも歩いてみるよ。― だが、まだなかなか信濃の高原などを歩いてゐて、道ばたに倒れかかつてゐる首のもぎとれた馬頭観音などをさりげなく見やって、心にもとめずに過ぎてゆく、といつたやうな気軽さにはいかない。
(後略)アセビ (1/5) 万葉集・源俊頼・藤原信実・伊藤左千夫・子規
アセビ(3/5)下学集,多識編,花壇地錦抄,大和本草,和漢三才図会,薬品手引草,物品識名,本草綱目啓蒙
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