2017年3月15日水曜日

オシロイバナ-14-2 ケンペル『日本誌』を閲覧した江戸時代の思想家,三浦梅園『帰山録』

De beschryving van Japan (1729)
 California Digital Library

豊後出身の思想家,三浦梅園 (17231789) は長崎で,通辞吉雄耕牛 (17241800) 宅でケンペルの『日本誌 De beschryving van Japan』(オランダ語版,1729年初版出版)を見て,蘭語は読めなかっただろうが,その挿絵や特に地図の精密さや正確さに驚嘆している.一方,「草木禽獸魚鼈の如きは訓蒙圖彙如き書によつて寫したりと見えて正しからず」と,動植物類の図の出典を『訓蒙圖彙』と正しく認識している.

書誌によれば,地図や風景,文物の挿図は一点(観音像)を除いて,ケンペル自身が描いた原稿中の図を元にスローンが銅版画にした.一方動植物類の図はケンペルの原稿には含まれていなかったが,ケンペルが日本滞在中に収集した資料を基に,スローンが銅版画として付け加えて出版した.現在大英博物館に残っているスローンが購入したケンペルのコレクションに『訓蒙圖彙』(中村惕斎編,山形屋版)が残っている(http://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_1.html).

ヨーゼフ・クライナー『ケンペルの見た日本』NHK Books (1996) の「第二章 ケンペルとヨーロッパの日本観」には,「ケンペルの『廻国奇観』や『日本誌』という著作は随分早い時代から、既に長崎だけでなく江戸でも知られていたことは確かである。
三浦梅園が『帰山録』上巻に報告しているところによると、安永七年(一七七八)九月二五日に長崎の通調吉雄幸作(幸左衛門)の自宅でケンペルの『日本誌』を見ている。後にそれを購入した平戸藩主松浦静山は、感激のあまりその時の嬉しい気特を初めの頁に書き記した。そして一九世紀初めに、ロシアの使節団レザノフあるいはイギリス戦艦フェートン号などが次々と長崎に入港すると、江戸の老中松平信明が平戸藩からそのケンペルの著作を文化四年(一八〇七)と五年の二度にわたって借りていることも興味深い。」と,ケンペル『日本誌』を豊後出身の思想家三浦梅園 (17231789) が閲覧したとある.

梅園は1778(安永7)年,56歳の時に,長崎旅行(813日より1013日 一行12人)を行い,その記録『帰山録』の安永七年(一七七八)九月二五日の項に次のように記している.(三浦梅園 著『梅園全集.上巻』弘道館 (大正1), NDL Digitl Library.適宜句読点を挿入)

吉雄子の宅にして西書を覧るに其書我尾とする處彼書の開巻にして其板は銅を持ちゆ精巧言ふべからず.表紙獸皮をなめし漆にてぬる.壯夫といへども十巻を擔ふ事能はず.大冊なる者は一巻の價金四五十片に至る.天象地理の書より物産の書には天竺本草阿蘭陀本草を見たり.これを見て和漢本草の類物産の窄狭なるを覺ゆ.
諸国の志亦多しケンフルと云書は暹邏*と日本との志なり.初に日本の總圖ある (Fig-. 1) .客館中明の新安の胡宋憲所著の籌海圖**を見る一套十巻あり.日本の事を記せる書なり.明人の國圖は布置位を失する者多し (Fig. 2) .西人の圖は漸く正し.
Fig. 1 Kaempfer 日本の總圖 vs. Fig.2 籌海図編
長崎上關大坂京師江戸の圖は言ふに及ばず,西海山陽畿内東海道等の山川歴歴として見るが如し.三十三間堂には射的あり (Fig. 3) .東都の殿中には將軍家簾を垂れて紅毛人の舞を覧給ふの圖あり (Fig. 4)
Fig. 3 三十三間堂には射的あり.  Fig. 4 東都の殿中にて將軍家簾を垂れて紅毛人の舞を覧給ふの圖
草木禽獸魚鼈の如きは訓蒙圖彙如き書によつて寫したりと見えて正しからず (Fig. 5)
Fig. 5 草木禽獸魚鼈の圖(例)
神には大黒恵比須壽老人元三大師叉位牌數珠寶貨は壹歩判小判大判豆板鋋銀錢大名の諸道具定紋いろは片假名もあり.代代の帝統治亂沿革もある由也.櫻蔭***此事の譯書どもある由,耕牛語りき.」

*暹邏:シャム,現タイ國
**胡宋憲所著の籌海圖:中国,明代の日本研究書『籌海図編』全13巻.鄭若曾撰.嘉靖 41 (1562) 年成立.倭寇侵入に関し総合的に考究したもの.その史料価値は高く,後世の日本研究に与えた影響は大きい.倭寇撃退で名高い浙直総督 胡宗憲 編とされることがあるが,誤り.
***櫻蔭:不明

Fig.2:「日本国図『籌海図編』巻二」http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/chukai.htm 2013.3.20 より
その他の図:” De beschryving van Japan” (1729), California Digital Library より

江戸時代後期晩期に為政者や思想家に及ぼした『日本誌』や,『廻国奇観』の鎖国論の影響は,J.クライナー『ケンペルの見た日本』に詳しい.


三浦梅園 (17231789) は江戸中期の思想家.豊後の人.天文・医学・哲学・歴史・宗教・政治・経済など多分野に通じ,独自の認識論と存在論によって宇宙・自然・人間を説明する条理の学を唱えた.著「玄語」「贅語」「敢語」.

吉雄耕牛 (17241800) は江戸中期の蘭学者・蘭方医.長崎の人.名は永章.通称,幸左衛門・幸作.耕牛は号.オランダ通詞のかたわら,ツンベルクなど,和蘭商館の医師から医学を学び,吉雄流の開祖となる.前野良沢・杉田玄白らを指導し「解体新書」の序文を書いたことでも知られる.梅毒患者に水銀水治療を施した.(後述)

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