2017年3月24日金曜日

オシロイバナ-15 梅毒 日本での蔓延-4 江戸時代.ツンベルク-1 水銀水(スウィーテン水)『日本国民について』『ツンベルグ日本紀行』『日本誌』『江戸参府随行記』

ケンペルの来日から85年後の 1775 年,ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) もオランダ商館の医師として出島に赴任してきた.リンネの高弟の彼は,日本の自然史,特に植物研究が第一の目的ではあったが,当時の植物学者の習いとして医学も習得していたので,医師として,居留地長崎や江戸参府の途上,また滞在中の江戸に於いて,多くの日本人医師に面会し,患者を診察した.また,出島の通辞たちに医術を指導し,彼らの中には「紅毛医術」で一家をなした者もいた.
ツンベルク肖像 伊藤圭介訳述
『泰西本草名疏』(1829)
 口絵 NDL

ケンペルが指摘した「日本人の入浴好き」にも関わらず,当時,梅毒(黴瘡)は拡がり,多くの患者が苦しんでいた.すでに水銀系の内服薬として「軽粉」や「生々乳」が処方されていたが,その投与量が不適切だったためか,副作用が甚大で,ツンベルクの云う「血液浄化の煎じ薬」(土茯苓・山帰来あるいはサルサ根などの煎剤と思われる*)が治療薬としては主流であった.(*宗田一『図説 日本医療史』「紅毛秘事記」)

そこで彼は,当時欧州で治療実績のあった蒸留水,昇汞,適量の砂糖またはシロップからなる「水銀水スウィーテン水)」の調製法と投与法を長崎の吉雄耕牛ら通辞に教えた.この薬の劇的な治療効果により,長崎で多くの患者がその恩恵を受けたとされる.この薬品の處方は吉雄流医術の秘事とされ,弟子たちに受け継がれ,杉田玄白もこの薬品による治療を行った.ツンベルクはこの薬剤を日本に導入したことを,大きな誇りとした.

ツンベルクは,一年程しか日本には滞在しなかったが,帰欧途上の船上から,スウェーデン王室の侍医も務めた友人アブラハム・ベック(Abraham Bäck, 1713-1795)に充てた1776 12 20 日付の書状で「…現在日本では性病が非常に蔓延しております.今年,私は江戸やみやこ〔京都〕の医師ならびにオランダ商館の通詞たちに水銀を用いて治療することを一生懸命に教えました.通詞らは長崎で私の教えに従い,水銀水を使ってすでに大勢の患者を治療しました.水銀水の組成は蒸留水,昇汞,適量の砂糖またはシロップです.…」と記している(高橋文『18 世紀西洋の医学・薬学を日本へ導入したツンベルク』薬史学雑誌,48(2),99-1072013)).

同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ
彼は母国スウェーデンに帰国後,1784 41歳で,ウプサラ大学医学・植物学教授となり,師リンネの後継者となった.同年,『日本植物誌 Flora Japonica』を刊行,王立科学アカデミーの会長になり,同年 11 3 日,王立科学アカデミーで「日本国民 TAL, om JAPANSKA NATIONEN)」と題する講演を行った.そのなかで日本の科学,医学の状況を報告し,更に彼が紹介した水銀水について述べている.
“TAL, OM JAPANSKA NATIONEN, HÅLLET FÖR KONGL. VETENSK. ACADEMIEN, VID PRÆSIDII NEDLÄGGANDE, DEN 3 Navemb. 1784,
AF. CARL PETER THUNBERG, MED. OCH ВOTAN. РROFESSOR.”
Medicinen hvarken har hunnit, eller lar någonsin hinna til nagon fårdeles hogd. Anatomien år aldeles okånd, och kunskapen om sjukdomarne bade ringa, invecklad och ofta fabelanktig. Botaniken och Medicamenternas kånnedom utgöra hela deras medicinskakunskap. De nyttja aldrig andra, ån enkla medel och det allmånnast uti Decocter, som drifvaurin elier svett. Componerade medicamenterveta de ej af. Deras Medici kånna vål altidpå pulsen, men ganska långe, hela fjerdedels timen, och det först på den ena och sedan, påden andra armen, liksom bloden ei skulle förastil bågge pulsarne itrån et och samma hjerta. Utom de sjukdomar, som åro gemenlamme medandra lånder, och dem japanska öаrnе åga enskildt, åro veneriska sjukdomar mycket allmânna, dem de hittils icke annorlunda, ån medblodrenande decocter vetat lindra, Salivationscuren, som deras Medici af Hollåndiske Chirurgi vål hört; omtalas, förekom dem åbde syar, atdirigera; och at genomgå; men de antogo både.med tacksamhet och glâdje den method, somjag hade det nöjet, at aldraförst undervisa demuti, nemligen, at med Aqv(u)a mercurialis cureradem. Atskillige Tolkar nyttjade denna methodredan år 1775 och 1776, samt botade dårmed fullkomligen, under min handledning, manga både uti och utom Nagasaki stad.  Och gor jag mig det ljufva hopp, at igenom denna låttare methoden hådanester flere tusende skola befrias ifrån både hals-fistlar och andra denna orena sjukans hiskeliga symptomer, som jag under resan in åt landet med gråmelle ofta fick beskåda.
「… 医師に解剖や生理についての知識はなく,また処方する薬剤についてもほとんど知らないので,その治療は確かではない.植物学と薬の知識が,彼らのもっている医学知識のすべてである.内科医は単味の薬以外は使わず,通常は利尿か発汗を促す煎じ薬を用いる.また散薬を用いることもある.薬を配合することは知らない.医師はときおり脈をはかるが,まるで血液が同じ一つの源から両方の脈管へ流れているのを知らないかのように,まず一方の腕をとりついでもう一方の腕をとって,たっぷり15分もの長い時間をかけて測る.他国と共通の病気の他に,日本で独特といえる病気は性病であり,非常に蔓延している.日本の医師はこれまで,血液を浄化する煎じ薬を用いてこの病気を抑えることしか知らなかった.流涎療法Salivationscuren)については,オランダ外科医から聞いて知っていたようだが,正しく使うことも患者に施すことも難しかった.しかし彼らは水銀水Aqua mercurialis)を用いて治療する方法を,感謝と喜びをもって受け入れた.私は幸いにもこの方法を最初に彼らに教えたのだ.すでに1775 年と 1776 年には,私の指導のもとに何人もの通詞がこの方法を用いて長崎の街内外の大勢の患者を完全に治療した.国内を旅したときに,しばしば非痛な想いで目撃せざるを得なかった何千人もの人々が,今後この簡単な方法によって,咽喉の瘻やこの不浄な疾患によるいまわしい症状から解放されるであろうという明るい希望を私は持っている.…(私訳+高橋文訳)」と,水銀水の治療法を実地に指導して効果を上げたことを誇りとしている.(画像:同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ library.doshisha.ac.jp/ir/digital/archive/tal/223/imgidx223.html より

また,ツンベルクのこの旅行記の集大成となった『一七七○〜一七七九年にわたるヨ-ロッパ、アフリカ、アジア紀行 “Resa uti Europa, Africa, Asia, förråttad åren 1770-1779 ...” J. Edman, 1791』の中でも, “Jedo 1776” の項で
The Library of the Naturforschende Gesellschaft Zürich
“Jag hade ifrån Holland medfört etpartie af mercurius subtimatus corrosivusoch under mit vistande hårstådes nogsamt sunnit, at detta medel ganska vålbehofdes, i ansende til den mångd affolk, som utaf veneriske Sjukor vorobesmittade. Icke desto mindre kundejag icke få försålja något deras til Landets Låkare, såsom aldeles okunnigeom detta fåkra, men tillika farliga medlets bruk och nytta. Om Salivation ågde de vål nåmgot begrep, men ansågoden alt for svår och farlig. De öfrigefåtten, at anvånda Mercuren, kåndede icke. Jag företog mig derfore, attil Practici, så val Doctorerne i landet,sorn Tolkarne, bortlkålika, tid ester anhan, simå partier af Sublimatet och underråttade dem tiliika, huru de skullebruka det samma upöst uti vatn, medtilsats as någon syrup; Denna solutionhytjades sedan for ganska månge uslingar, ester nodige förberedelser och medal forsigtighet under dagelige rapportertil mig och således under min handledning, til dess de på egen hand anteligen vågade hårmed bota fine antagnePatienter. De Curer, som de hårmedgjorda, ansågo de sjelfve i borjan forotrolige och snart sagt för underverk,samt ofver mig utgoto flere tacksajelseroch vålsignelser , an jag någonsin kunnat formoda for en undervisning, demjag sjelf ansåg ringa , men var for dembetydande och omsider kan blifva ethelt folkslag til ovårderlig nytta.” と記している.

山田珠樹 訳註『ツンベルグ日本紀行』奥川書房(1941)の「第八章:和蘭商館より江戸なる日本の行政皇帝(Empreur Civil)【将軍のこと】の許に派遣されたる使節の紀行.千七百七十六年三月四日より六月二十五日に至る.」の項に
「花柳病藥 : 私は和蘭から花柳病に用ふる水銀劑を持つて來た。効果は疑ないが然し同時に危險もあるこの治療法を日本の醫者は充分に使ひこなせないので、どうしても私からこの藥を授からうとしない。この藥が唾液を催させることについては、彼等もその効を認めてゐたが、然しこれは有害なことと考へてゐるので、私はその考を飜がさせるのに務めた。私はこの國の醫者及び通譯にこの藥の昇華したものを少量與へ、これを水に溶いて砂糖液と交ぜて處方すべきことを教へてやつた。彼等は非常な警戒をしながら、この溶液を數人の患者に投藥してみて、毎日その結果を私に正確に報告して呉れた。間もなく彼らは私が教へてやる必要もない位覺へてしまつた。治癒が迅速なので、彼らは驚きもしたし、叉私に厚く感謝した。彼等はこの効果をやヽもすればなにか超自然な力に歸してゐるやうに見えた。私はこの人等の信じ易い心を濫用することを慎んだ。そして地球上の他の國民と同じにこの國の人が惨害をうけてゐる、この禍の根源を除きうる方法をこの國の人に教へ得たことを、心秘そかに欣んだ。」とあり

CP・ツュンベリー『江戸参府随行記』高橋文訳 東洋文庫 5831994)の「第三章 江戸滞在 江戸(1776年)」では
「私はオランダからなにがしかの昇汞(しょうこう)mercurius sublimatus corosivus〔塩化第二水銀〕を持ってきた。そして大勢の人が性病を患っていることから、私の当地滞在中に、この薬には大変な需要があるであろうことが十分に読みとれた。にもかかわらず、私はこの国の医師にわずかたりとも売ることはできなかった。有効ではあるがまた同時に危険でもあるこの薬の使用法やその効果について、医師たちはまったく知らなかった。流涎(salivation)〔水銀の中毒症状。ヨーロッパでは性病治療の一つとして、一八 - 九世紀半ばまで流涎をもたらすまで水銀剤を投与するという方法が用いられていた。毒が流涎により排出されるという考えによる〕については何らかの理解をしていたようであるが、たいへん難しくかつ危険であると考えていた。水銀剤を使用する他の方法については知らなかった。そこで私は、この国の医師や通詞に実践させることにした。時おり少量の昇汞を彼らに与え、それを水に溶解しシロップを添加してどのように使用するかについても教えた。ついでこの溶液は必要な準備のあと、細心の注意をはらって大勢の乞食同様の人々に使われ、毎日私に報告された。そして私の指導のもとに、ついには自分の患者に、自らこの溶液を用いてみるまでの勇気を持つようになった.彼ら自身当初は、この溶液による治癒効果は信じがたいほどであり、ほとんど奇跡であると思ったようだ。そしてこの教えについて、予想していた以上に多くの感謝と喜びの言葉を私にあびせた。私にとっては些細なことが、彼らにとっては重要であり、やがては全国民に計り知れないほどの効果をもたらすようになるかも知れないのである。」とある.

このツンベルクが紹介して投与法を指導した水銀液は,その頃欧州で驅梅薬としては最も高い効力があると信頼されていた,Gerhard van Swieten (1700–1772) が開発したスウィーテン水」であり,長崎でこの薬剤の調製法と投与法を教授された通辞は吉村耕牛らである.吉村耕牛は,その後「紅毛医術」の一派を立て,家伝の『紅毛秘事記』の一項目としてこの薬剤の製法・処方を弟子たちに伝えた.その中には杉田玄白もいた.(後記事)

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