Ilex
latifolia
タラヨウ(1) に記したように,江戸時代「いのちさだめ」と恐れられた「麻疹-はしか」除けのまじないとして,タラヨウの葉の裏面に「麦殿は 生まれぬ先に麻疹して、かせたる後は わが身なりけり」と書いておくとよいとされた.
なぜ,タラヨウが用いられたのか,地元の図書館にリファランス調査をお願いしたが,適切な文献は見当たらなかったとのこと.
なぜ,タラヨウが用いられたのか,地元の図書館にリファランス調査をお願いしたが,適切な文献は見当たらなかったとのこと.
貝原益軒の『大和本草 大和本草巻之二十 諸品図中』』(1709) にあるように,葉を火であぶるとその面のみならず,その裏の面にも丸い文様が現れるという,熱と斑点が麻疹を思わせるためかと思われる.
江戸時代,麻疹は間歇的に町を襲い,その周期が24年に近かったことから,(左図:鈴木則子『江戸の流行り病 麻疹騒動はなぜ起こったのか』(2012) 吉川弘文館)天命的な病ともされた.
那賀山章元『麻疹要論』(1799) には,「サテ大テイニ二十三四五年メニ天下一マイニ流行(リウコウ)ス・・古(イニシヘ)ヨリ二十三四五年メニ流行(ハヤル)トイヘドモ云々」とある.また,式亭三馬 (1776-1822)『麻疹戯言』(1803) にも「夫麻疹は天行の疫邪(えきじゃ)によりて発(おこ)るとありて、十二支の二(ふた)めぐりのころにはやるよしを医書(ゐしょ)にもいへり。」とある.
このように,ある程度流行が予想されたことから,その時期になると麻疹対策の医書が出版され,一方実際の流行時には,罹患時の生活指導や,特に小児に対しての病除けや病状軽減を祈ったまじない絵が出版され,特に文久2年(1862)6月~閏8月の流行時には「麻疹絵」と稱される多色の一枚刷り物が数多く刊行された.
那賀山章元『麻疹要論』(1799) には,「サテ大テイニ二十三四五年メニ天下一マイニ流行(リウコウ)ス・・古(イニシヘ)ヨリ二十三四五年メニ流行(ハヤル)トイヘドモ云々」とある.また,式亭三馬 (1776-1822)『麻疹戯言』(1803) にも「夫麻疹は天行の疫邪(えきじゃ)によりて発(おこ)るとありて、十二支の二(ふた)めぐりのころにはやるよしを医書(ゐしょ)にもいへり。」とある.
このように,ある程度流行が予想されたことから,その時期になると麻疹対策の医書が出版され,一方実際の流行時には,罹患時の生活指導や,特に小児に対しての病除けや病状軽減を祈ったまじない絵が出版され,特に文久2年(1862)6月~閏8月の流行時には「麻疹絵」と稱される多色の一枚刷り物が数多く刊行された.
当時の諺「疱瘡(ほうそう,天然痘)は器量定め、麻疹は命定め」は,現在から考えると,「麻疹」が重大に考えられすぎと思われる.いつ頃からこの諺が一般に流布したのか,調べきれなかったが,以下のような文献がある.
★畑有紀「幕末の麻疹と食 ―食物本草本を中心に―」(『言葉と文化』12, 101~118 (2012))には,「講談「大久保彦左衛門*」の台詞が元となったとされる当時の諺に「疱瘡は器量定め、麻疹は命定め」(疱瘡の重い・軽いが子供の容貌を左右し、麻疹の重い・軽いが子供の健やかな成長の指標となった)とあるほど、麻疹は疱瘡(天然痘)と同様に恐れられたのである。」とあるが,この元となった講談の題名や語られた時期は不明.
(*大久保忠教:1560-1639,戦国時代から江戸時代前期の武将.江戸幕府旗本.徳川氏家臣)
★香月牛山 (1656-1740) 『牛山活套』(1699自序) に「麻疹 ○夫麻疹ハ痘瘡ニ比スレバ甚カロキ者ナレトモ,其症六府ヨリヲコリツテ陽症ニシテ暴急ノ症也 夫ニヨリテ和俗ノ諺(コトワザ)ニ痘瘡ハ美目(ミメ)定(サダ)メ麻疹(ハシカ)ハ命定(イノチサダ)メト云テ甚大切ノコトトスル也其子細(シサイ)ハ急病ナルヲ以テ療治ノ法少ク怠(オコタ)ル寸ハ其変掌(タナゴコロ)ヲ返(カエス)ガゴトクネレバナリ」とある.
痘瘡と比較すると麻疹は軽症ではあるが,初期対応を誤ると重症化することがあるので,このように言ったのだとする.(左図,右)
江戸後期の儒学者★太田全斎 (1759-1829)の『諺苑』 (1797) 全七巻は俗語・俗諺を集めてイロハ順に配列し、語釈・出典などを示した国語辞書であるが,その「は」の部には,
「疱-瘡(ハウ-サウ)ハミメ定(サタ)メ麻-疹(ハシカ)ハ命-定(イノチサタメ)」また「麻-疹(ハシカ)ハ命-定疱瘡ハミメ定」とある.
同人が後に『諺苑』に,俗語,漢語,仏語,方言などの類を増補し,改編して著わした『俚言集覧』(成立年未詳)は『雅言集覧*』『和訓栞**(わくんのしおり)』とともに,近世の三大国語辞書と目される江戸時代の国語辞書であり,明治33年(1900)に、井上頼圀・近藤瓶城が現行の五十音順に改編、増補して「増補俚言集覧」3冊として刊行したが,それにも,「疱瘡ハみめ定め麻疹の命定め」「麻疹ハ命定疱瘡ハみめ定め」とある.
*雅言集覧:江戸後期の石川雅望 (まさもち) (1754-1830) が編した古語索引ともいうべき辞書.平安時代の仮名文学を中心に,『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語集』などからも用例を蒐集.現在でも古代語の研究に利用される.
**和訓栞:江戸時代中期の国学者谷川士清 (ことすが) (1709-1776) が著わした国語辞典。93巻。前編,中編,後編として安永6 (1777) 年から 1877年にかけて刊行。古語 (上代語) ,雅語 (中古語) ,俗語 (口語,方言) を集め,第2音節までの五十音順に配列して,出典を示し,語釈を加え,用例をあげている。日本で最初の近代的な国語辞書として注目される.)
江戸後期の儒学者★太田全斎 (1759-1829)の『諺苑』 (1797) 全七巻は俗語・俗諺を集めてイロハ順に配列し、語釈・出典などを示した国語辞書であるが,その「は」の部には,
「疱-瘡(ハウ-サウ)ハミメ定(サタ)メ麻-疹(ハシカ)ハ命-定(イノチサタメ)」また「麻-疹(ハシカ)ハ命-定疱瘡ハミメ定」とある.
同人が後に『諺苑』に,俗語,漢語,仏語,方言などの類を増補し,改編して著わした『俚言集覧』(成立年未詳)は『雅言集覧*』『和訓栞**(わくんのしおり)』とともに,近世の三大国語辞書と目される江戸時代の国語辞書であり,明治33年(1900)に、井上頼圀・近藤瓶城が現行の五十音順に改編、増補して「増補俚言集覧」3冊として刊行したが,それにも,「疱瘡ハみめ定め麻疹の命定め」「麻疹ハ命定疱瘡ハみめ定め」とある.
*雅言集覧:江戸後期の石川雅望 (まさもち) (1754-1830) が編した古語索引ともいうべき辞書.平安時代の仮名文学を中心に,『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語集』などからも用例を蒐集.現在でも古代語の研究に利用される.
**和訓栞:江戸時代中期の国学者谷川士清 (ことすが) (1709-1776) が著わした国語辞典。93巻。前編,中編,後編として安永6 (1777) 年から 1877年にかけて刊行。古語 (上代語) ,雅語 (中古語) ,俗語 (口語,方言) を集め,第2音節までの五十音順に配列して,出典を示し,語釈を加え,用例をあげている。日本で最初の近代的な国語辞書として注目される.)
★那賀山章元『麻疹要論』(1799) には,「寶暦(ほをりやく)の麻疹は至(いたつ)て重(おも)く死亡(しぼう)のもの多(おお)く安永の麻疹は輕し俗(ぞく)の諺(ことわざ)に痘瘡は美面(みめ)定(さだ)め麻疹は命定(いのちさだ)めといふ」とある.(左図,左)
宝暦(宝暦3年(1753)4月~10月)の流行時には多くの死者が出たので,この諺ができたのだとする.とすると,1753年ころからか.
「其舊古(そのいにしへ)の紀記(きき)を
索(さぐ)るに、稲目瘡(いなめかさ)とあり。赤疱瘡(あかもかさ)とあるハ、
今いふ麻疹(はしか)の事(こと)なるよし、本居(もとをり)大人(うし)が説(せつ)にも見えたり。亦似た物ハ
痘瘡麻疹(ほうそうはしか)といへども、似ぬ物もまた
疱瘡痧疹(ほうそうはしか)なるべし。形容(かたち)同(おな)じう
して心乃異(こと)なるをたとへバ、水僊*(すいせん)と
冬葱(ねぎ)のごとく、浄**(かたきやく)と諢又浄***(はんどうがたき)の如し。され
ども世俗(せぞく)似(に)た物(もの)なれバ、是(これ)を菖蒲(あやめ)
と杜若(かきつばた)にたぐへて、彼(かれ)を媚定(みめさだめ)とし、
是(これ)を命定(いのちさだめ)とす。麻疹(はしか)は命定(いのちさだめ)に
あらず、痘瘡(ほうそう)命定(いのちさだめ)なるべし。」とある(上図).
二つの似た病を対比させて諺にしたのであって,実際には痘瘡(ほうそう)の方が重症で命さだめだとしている.
*水僊:水仙と同じ
**浄:「浄脚」は芝居の「かたきやく」のこと.「脚」は「脚色」「脚本」の「脚」で、「役」.「浄」はもともと「かたきやく」になるのは「参軍」(お代官さま)が多かったので,「参軍」を縮めて「浄」(じゃん)と言うたのだ,とも,「かたきやく」は白か黒の塗料を顔に塗る(これが「脚色」である)ので清浄ではないことから,それを逆転させて「浄」と呼ぶようになったのだともいふ.
***諢:たわむれ・おどけ,諢又浄:不明
記事中圖は NDL の公開デジタル画像より部分引用
記事中圖は NDL の公開デジタル画像より部分引用
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