Ilex
latifolia
式亭三馬『麻疹戯言』(1803) NDL |
タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせて*の後ハわが身なりけり」と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして川に流す,或は門口に掲げるという,まじないが,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.
*かせて:三馬は「治疹て」と充てる.はしかの発疹が枯れた事か.一度かかれば二度とは罹らないことから.
式亭三馬の『麻疹戯言』(1803) には,挿画にタラヨウの葉の売り子が描かれ,また,文中に「二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\に廃(すた)れども,かせての後(のち)は我(わ)が身(み)に請合(うけあ)ふ.麥殿(むぎどの)の歌(うた)」とあり,また「多羅葉(たらえふ)の,たらはぬがちなれば」とあることから,この書刊行の28年前の安永5年(1775)の流行時には,麦殿の歌とタラヨウの咒いが,既に流布していたと推察される.
享和3年(1803)3月下旬~6月のはしかの流行に振り回される,江戸の風俗を面白おかしく描写した★式亭三馬の『麻疹戯言(ましんきげん)』(1803)
には,中国の風俗に託した麻疹に便乗する江戸の生業の街角の風俗を挿絵にした(冒頭図).
そこには,従者を従えて闊歩する醫者と共に「麻疹咒術」と書いた箱の上で,はしかよけの「括り猿」と「おもちゃの杵」を売る商人と,「多羅葉」を藥材屋の店頭で売る小僧の姿が描かれている.
「括り猿」は,現在でも奈良市奈良町で疫病除けとして軒先につるしている,猿をかたどった縫いぐるみで,サルは去るに通ずるからかと思われる.
また,「杵」は南天(難転)の木で作ったもので,難を転じ,病を打ち砕くための咒いであり,この二つは病児を室内でおとなしく遊ばせておくための玩具として用いられたようだ.
「多羅葉」は麻疹除けの歌を書くためであろう,三馬によれば売れに売れて払底していたらしい.
「藥材客(きぐすりや)の賑(にぎは)ふのみならず,苹浮
醫(やぶゐ)も効(こう)を顕(あらは)さんと,麻疹精要*1(ましんせいよう)卒然(にわか)
に闇請(そらん)じ,葛根湯(くはつこんたう)に休(やす)む間(ひま)なく,時を
得顔(えがほ)に誇(ほこ)るといヘども,ことしは勝(すぐれ)て
よなみのよければ,稚(いとけな)きものは鈴(すゞ)付たる
猴(さる)に杵(きね)めきたるものをもてあそびつ*1,
おとなしきものも,させるくるしみもなけ
れば,まめやかなる命定(いのちさだめ)ともいふなるべし.
夫(それ)麻疹(はしか)は天行(てんぎょう)の疫邪(えきじゃ)によりて発(おこ)る
とありて,十二支(じゅうにし)の二(ふた)めぐり乃ころに
はやるよしを醫書(ゐしょ)にもいへり.」とある.
招状(はりふだ)は,爺(ぢゞい)と姥(ばゞあ)の講説(はなし)に残(のこ)りて,
二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\*2に廃(すた)れ
ども,かせての後(のち)は我(わ)が身(み)に
請合(うけあ)ふ.麥殿(むぎどの)の歌(うた)の徳(とく)は
今茲(ことし)も麻疹(はしか)の流行(りうかう)に
後(おく)れず.されば麻疹(はしか)は
養生(ようぜう)にあり.初発(ぞやみ)の熱(ねつ)の
疸言(うはごと)は,醒(さめ)ての後(のち)の御了簡(ごりょうけん)
と,寺罡(岡)(てらおか)もうけ合(あ)ふべけれど,
治疹(かせ)ての后(のち)の不了簡(りょうけん)は,
了竹(るやうちく)がしる処にあらず.
予
頃日(このごろ)麻疹(はしか)に罷(かゝ)りて,営生(えいせい)を
休(やむ)るの間,箇(こ)の劇文(げきぶん)を著(あらは)し
て,題(だい)するに,来舶(らいはく)の書名(めい)を
借り,花陣綺言(くハぢんきげん)*4の響(ひゞ)きを
採(と)つて,麻疹戯言(ましんきげん)と題号(だいごう)
しこれを弘(ひろむ)るに,彼(かの)杵(きね)と鈴(すず)の
如くなさんとす*1.しかはあれど咒
術(まじなひ)の猴(さる)*1の人真似(ひとまね)にして,多羅
葉(たらえふ)の,たらはぬがちなれば*5,
世間(よなみ)の善(よき)痧には引(ひき)かへて,
悪評をするものあるべし.さらば噴嚔(くさめ)をするのみ
にて,人(ひと)の噂(うはさ)も禁物(どくだて)も,
七十五日のすへを待(ま)つと
云爾.
たらり楼において
三馬題」とある.
*1麻疹精要:橘尚賢『麻疹精要方』尊心堂,明和八年(1771)刊
*2鈴付たる猴に杵めきたるもの:本書の図の右端にもある,小児の麻疹除けの呪いの玩具,鈴を付けた猿の縫ぐるみ(サルは去るに通ずる)と南天の木で作った杵(難転,病を打ち砕く)の縁起物,1864年の流行時では,猴は這子人形になったらしい.
*3二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\:安永5年(1776)3月末~初秋の流行
此れからすると,タラヨウの葉に書く「麦殿は -――」の呪い歌は安永5年には用いられていた.が,タラヨウの葉に書いていたかは不明.
*4花陣綺言:(明)楚江仙叟石公纂輯の漢詩集,全十二卷
*5たらはぬがちなれば:不足気味なので
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