Ilex
latifolia
ハシカ除けの咒としてタラヨウの葉に書く「麥殿の哥」の,麥殿とは「麥殿大明神」とも言われる麻疹除けの民間信仰の神であるが,その由来は麻疹の和名「ハシカ」と関係がある.即ち「はしか」とは,麦や稲の穂の芒(のぎ)が肌をチクチクと刺戟する様を,西国では「はしか(い)」という事から,麻疹に罹患すると喉や肌が痒くなる様を例えて,鎌倉時代以降に麻疹を「はしか」ともいうになった.
麻疹は,日本には中国経由で渡来したと考えられ,平安時代以後度々文献に登場する疫病の一つ「あかもがさ(赤斑瘡・赤瘡)」が,今日の「麻疹」に該当するという考えが通説である.
京都で長徳四年(998)に「あかもがさ」が大流行したという記事は,★『扶桑略記 一条天皇 長徳四年』のこの年の項に
「自レ夏至レ冬。疫瘡遍発。六七月間。京師男女死者甚多。下人不レ死。四位巳上人妻最(寂?)甚。外國不レ死。世謂二之赤斑瘡一。始レ自二天皇一。至二于庶人一。貴賎老少。緇素男女。無下一免二此瘡一者上。但前信濃守公行。獨不レ患レ之。
長保元 長徳五年正月十三日。改爲長保元年。依二去年赤斑瘡一也。」とあり,一条天皇までが罹患し,多数の人が亡くなったので,長保に改元までしたとある.
また,★『日本紀略 後篇十,長徳四年』には,
「七月、◎今月天下衆庶、煩二疱瘡一,世號二之稲目瘡一,又号二赤疱瘡一,天下無下免二此病一之者上,但前信濃守佐伯公行、不レ患二此病一。」とあり,また「◎今年天下自レ夏至レ冬。疫瘡遍發。六七月間。京帥男女死者甚多。下人不レ死。四位以下人妻最甚。謂二之赤斑瘡一。始レ自二主上一于庶人一。上下老少無レ免二此瘡一。只前信濃守[佐伯]公行不レ患。」とある.
★『百錬抄 第四 一條院』には,
「今年。自レ夏至レ冬、斑瘡流行、死亡者多、古老未レ見下如二今年一者上」とある.
さらに,藤原一族の興亡を描いた★『栄花物語 浦々の別の巻』には,
「今年、例の裳瘡にはあらず、いと赤き瘡のこまかなる出で来て、老いたる若き、上下分かずこれを病みののしりて、やがていたづらになるたぐひもあるべし。これを公、私今のもの嘆きにして、静心なし。されど、この召返しの宣旨下りぬれば、宮の御前世にうれしきことに思さるべし。夜を昼になして、公の御使をも知らず、まづ宮の御使ども参る。これにつけても、若宮の御徳と、世の人めでののしろ。京には、賀茂祭、何くれの事ども過ぎて、つごもりになりぬ。」
また,「二位*もこのごろ赤瘡にていと不覚にて、ほとほとしく聞ゆれば、あはれに思さる。今は、帥殿**(そちどの)見たてまつりて死なむとそ、願ひきこゆれど、いかがと見えたり。」ともある.
*二位:高階成忠(延長元年(923)- 長徳四年七月七日(998年8月1日))
**帥殿:叔父道長と権勢を争い,敗れて大宰権帥として筑紫に追われていた藤原伊周(974~1010)
まさに命定めの疫病であった.
その二十七年後の万寿二年(1025) にも,麻疹は大流行した.諸書から,後一条天皇、威子、嬉子が赤裳瘡に罷ったことが知られる。この年,後一条天皇は十八歳、中宮威子(藤原道長の娘)は二十六歳、東宮は十七歳、東宮妃嬉子は十九歳であった.東宮妃嬉子(きし/よしこ,藤原道長の娘)は8月3日、皇子親仁(後冷泉天皇)を出産するが,出産直前に罷った麻疹でわずか2日後に死去した.後冷泉天皇には世継ぎがなかったので,結果的には麻疹が藤原摂関政治に幕を下ろしたとも言えよう.
この年の流行について,★『栄花物語 巻第二十五 みねの月』には,
「かくいふ程に,今年はあかもがさといふもの出できて、上中下わかず病みのヽしるに、初めのたび病まぬ人のこのたび病むなりけり。内(うち)、東宮も中宮も、督(かむ)の殿*など、皆病ませたまふべき御年どもにておはしませば、いと恐ろしういかにいかにと思しめさる。
よろづよりも、督の殿、この赤裳瘡出でさせたまひて、いと苦しう思しめしたりとて、殿にはののしりたちて、いみじく思しあわてさせたまふ。
督の殿の御瘡かれさせたまひつれど、御物の怪の気色のいと恐ろしくて、まだ御湯もなし。」
*督(かむ)の殿:尚侍殿,嬉子
さらに,★『栄花物語 巻第二十六 楚王のゆめ』には,
「日ごろ赤瘡(あかがさ)よりしてうちつづき御物の怪のゆゆしかりつれば、いみじう弱らせたまへるに、物もつゆきこしめさず。御物の怪その後音なく、皆人たゆみたり。かつは恐ろしと思(おぼ)しめしながら、いとかばかりの御宿世(すくせ)なれば、誰もたけう心やすく思されたり。日ごろ御湯殿もなかりつれば、明日ぞ御湯殿あるべければ、「明日にとくなれかし。湯浴みてさはやかにならん」とのたまはす。」とあり,一旦は回復の兆しを見せた嬉子ではあるが,八月五日には亡くなった.
注目すべきは,罹患中や恢復直後の入浴が禁じられていたとみられることで,この禁忌は江戸時代にもあって,麻疹の流行時には湯屋の営業が大打撃をうけたとある.
★『扶桑略記 後篇 十三 御一条 萬壽二年乙丑』には,
「○八月 ○三日壬子,東宮妃尚侍藤原嬉子産二男子一(略)
○五日甲寅,尚侍従三位藤原嬉子薨.年十九.
○九月 ◎自レ夏及レ秋患皰瘡」.とあるが,嬉子の死因については記載がない.
★『左經記』には,「七月廿二日 晴,始自今日,以五口僧,於承香殿,五十箇日、被轉讀大般若經,余爲行此事參入.事了退出,近來天下道俗男女、不論老少,悩赤裳瘡之由、云々、仍所被行也.」とある.
★『小右記』には,「八月十三日,主上,自レ昨悩二御赤斑瘡一,瘡所々出御,御悩体不レ重者,云去.十四日,左頭中将公成近曾煩二赤斑瘡一,云云,大虛言歟,近日重煩二赤瘡一,云々.二十九日,中納言室家,重煩二赤斑瘡一,僅平癒,不レ経二幾日一,未レ及二其期一(七月)産臥,赤瘡疾之以来,水漿不レ道,日夜為二初気一被二取入一,云云.」とある.
正に麻疹は,命定めの病であったが,この時代の人々のあいだで,この病が重態化した原因の一つは,それまで麻疹罹患の経験がなく,十分な免疫が獲得できていなかったためであろうし,遺伝的に麻疹のウイルスに弱い人たちが淘汰されていなかったためであろう.そのうえ,大人の麻疹は一般に小児よりも重症化する傾向がある.
近代においても,ハワイ王国のカメハメハ二世(カメハメハ大王の子,Kamehameha
II, 1797 - 1824)とカママルKamamalu王妃(1802–1824) がイギリスとの同盟関係の交渉を行うため1823年ロンドンへ向かったが,英国で王妃とともに麻疹にかかりジョージ4世(1762–1830)との会見を果たす前に,1824年二人とも英国で亡くなっている.
引用部出典:
肘後備急方:中國哲學書電子化計劃,http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=267669
扶桑略記:経済雑誌社編刊『国史大系. 第六巻 日本逸史』(1897-1901)
日本紀略:黒板勝美『新訂増補国史大系. 第十一巻』 (2004) 吉川弘文館
百錬抄:経済雑誌社編『国史大系. 第十四巻 百錬抄 愚管抄 元亨釈書』 (1897-1901),黒板勝美『新訂増補国史大系. 第十一巻』(2004) 吉川弘文館
栄花物語:山中祐ら,『栄花物語①』新編古典文学全集31 (1995) 小学館
左經記:日本史籍保存会編刊『史料通覧. 第四巻 左経記』(T4)
このように,中世日本においては,「はしか」は疱瘡との比較で,「赤斑瘡,赤疱瘡,斑瘡,アカモガザ,稲目瘡,麻子瘡,赤痘瘡,疹,膚疹,赤疹」等と呼ばれていたが,中国の医書の影響で「麻疹」と書かれるようになったのは,室町時代以降である.従って「はしか」の方が「麻疹」よりも古い.
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