Ilex
latifolia
右大臣藤原実資 (さねすけ,957-1046)が小野宮右大臣 (右府)
と呼ばれたことから『小右記(しょうゆうき)(小野宮右大臣家記の略)』と記名される彼の日記は,藤原道長,頼通父子という藤原氏の最も栄えた時代を背景に,実資自身,博識で教養に富み几帳面であったため,宮廷の政務儀式を中心に,公私両面広範囲に渡り,平安時代の日記の白眉とされている.
この書の「後一条天皇 萬壽二年 秋 七月 八月」の記事には,「赤斑瘡」が,京都で大流行して,後一条天皇はじめ、中宮威子、皇太子妃嬉子,皇子親仁,藤原經任,藤原資高,資平の子女等,多くの宮中人やその子女が赤裳瘡に罷ったことが残されている.この年,後一条天皇は十八歳、中宮威子(藤原道長の娘)は二十六歳、東宮は十七歳、東宮妃嬉子(きし/よしこ,藤原道長の娘)は十九歳であった.後一条天皇,中宮威子は回復したが,東宮妃嬉子は8月3日、皇子親仁(後冷泉天皇)を出産するが,出産直前に罷った麻疹でわずか2日後に死去した.後冷泉天皇には世継ぎがなかったので,結果的には麻疹が藤原摂関政治に幕を下ろしたとも言えよう.
「萬壽二年 秋
七月
藤原經任赤斑瘡ヲ病ム
赤斑瘡事、廿七日、丁未、四位侍從經任煩赤斑瘡、已經兩三日、不聞其由、宰相示他事使便苦此承、仍乍驚間遣之、
赤斑瘡流行ス 諸國嬉子出産ヲ憚リテ旱魃ノ愁ヲ申サズ
雲上侍臣年少之輩多煩云々、件疾遍満京洛、誠是可謂凶年、國々司尚侍産事不上旱損之愁、(以下略)
嬉子赤斑瘡ヲ病ム
廿九日、己酉、(中略)藤宰相廣業來謝夜前不來之事、又云、
尚侍赤斑瘡ヲ病ム
從咋尚侍赤班瘡序病、今日瘡出、仍止修法加持、義光朝臣云、尚侍瘡出、即瘡出即熱氣散、仍今日修法彼加持者、陪從女房戲咲無極、今思慮、加持早之欤、
八月
三日、壬生壬子、(中略)
藤原威子赤斑瘡ヲ病ム
中宮御赤瘡事 使義光朝臣訪秦通、中宮(藤原威子)給惱給赤瘡云々。
藤原嬉子皇太弟敦良親王王子親仁ヲ生ム
四日、芖丑癸丑、(中略)
五日、甲寅、(中略)
関白權随身府生保重馳來云、
尚侍薨事
尚侍不覺、仍分手修諷誦、諸僧加持、亦観世衝兩三度、只今無音、非常坐欤者、宰相歸來云、從未時許
嬉子薨ズ
加人鬼籙、遂以入滅、諸僧分散云々、連月有事如何、
道長嬉子ヲ加持ス
尚侍煩赤班瘡之間有産氣、可有加持哉否事持疑云々、仍有被占、吉平云、不冝、守道云、吉也、禪閤存可加持心被勘當吉平、然而諸僧不能加持、依怖神氣云々、禪閤先加持、其後諸僧加持、調伏邪氣、禪閤放詞云々、加持不快事也
八日
藤原資高赤斑瘡ヲ病ム、症状
赤班瘡 資高赤班瘡今日當七个日、瘡気漸消云々、心神無減、飲食不受、痢病發動亦爲云々、諸人相同、此病自胸・鼻血及赤・白等痢相加云、先年如此、
藤原經任ノ痢病ヲ見舞フ
九日、戌午、四位侍從經任日來煩赤班瘡平愈、彼痢病重發云々(中略)
威子平癒ス 親仁病ム
中宮日來惱給赤班瘡已以平復給、又云、故尚侍降誕兒從今日身」熱有惱氣、叉乳母煩此瘡退出、禪
閣云、兒不過七个日受取此疾、極悲事云々、(以下略)
親仁ノ病ハ赤斑瘡ナリ
十日、己未、宰相來、即退去、臨夜亦來云、東宮小宮
故尚侍誕兒從一昨煩赤班瘡、一昨不知案内沐浴、(以下略)
天皇赤班瘡ヲ病ム
主上御赤班瘡 十二日、辛酉、〇相兩度來、右兵衛督來、両人清談、臨夜漏、主上惱御赤班瘡云々、未及披露、御傍親卿相皆觸穢、「獨身馳参左右有憚、亦有展轉觸穢疑、思慮多端、新中」納言長家、右三位中將師房重煩此病云々、(以下略)
十三日、壬戌
主上御赤班瘡
左中弁經頼消息云、主上自昨惱御赤班瘡、々所々、出御:惱體不重者、世間觸穢交來、乙丙間未決定、大略乙欤、仍不能參内、可披露由示遣了、(以下略)
十四日、癸亥、早朝資頼從内退出云、去夕候宿、御赤班瘡多出給、御惱不軽、依觸穢不得参入、(中略)
左頭中將公成近曾煩赤班瘡云々、大虛言欤、近日重煩赤瘡云々、(以下略)
御惱平癒
十六日、乙丑、資頼云、主上御惱令平復給、赤班瘡只五个日許令労勞給者、宰相來云、資房熱氣未散、叉女子・小兒等三人煩、二人者瘡出者、(以下略)
十七日、丙寅 (中略)
上達部無故障悉向前借凶事、年不及三十上達部煩赤班瘡、不到彼處云々(以下略)
資平ノ子女悉ク赤斑瘡ヲ病ム
十八日、丁卯、宰相云、資房瘡頗宜、未全平愈也、女子・小兒合三人威惱、(以下略)
資房痢病重し
廿一日、庚午、宰相示遂云、資房從夜部重煩痢病、己無爲術、(中略)宰相來云、資房病腹無極、去夜痢廿餘度、臨昏宰相以兼成朝臣言送云、資房病腹不休、欲令服韮、
赤班瘡後服藥事
今日坎日、明日服藥不宜、爲之如何、答云、咋熱氣散、今日服韮若可率乎、間兩三陰陽師隨占可服、
多是時疫之所致也、暫愼過何如、
廿七日、丙子、(中略)云、新中納言妻大納言齋信女爲故左衛門督霊?連日被取入不覺、就中煩赤瘡、仍不能加持云(々)
廿八日、丁丑、早旦大外記頼隆云、(中略)叉云、去夜新中納言長家、妻大納言齋信女、平産、七月云々、而兒亡、」母不覺、爲邪氣被取入、産婦母忽爲
人々病事
尼、其後産婦僅蘇生、猶不可馮、父母悲泣者、侍從経任從大納言許來云、去夜丑時産、不幾見兒死、即産婦女已立種々、大納言誓云、一生間不食魚鳥、亦母爲尼、此間蘇生、日來煩赤班瘡、飲食不受、痢病發動、干今不休、産後無力尤甚、似可難存、醫侍忠明宿祢可、醫癒無術、可祈申仏神者、(以下略)
使者ヲ以テ齋信并に長家ヲ見舞フ
長家卿室病事
廿九日、戊寅、呼四位侍從經任、訪大納言齋信・新中納言長家、大納言報云、中納言室家重煩赤班瘡、僅平愈、不經幾日未及其期七月、産、臥赤瘡疾之以來、水漿不通、日夜爲邪氣被取入、不可敢存、悲嘆之間、今有此消息者、經任云、痢病不止、万死一生、(中略)
秉燭後人々云、新中納言室亡(云)々(以下略)」
住宅環境や栄養状態もよく,医師からの治療も受けられた貴族階級の人々も多く罹患し,特に出産時の女性が多く亡くなっていた.ましてや,「件疾遍満京洛」としか記録されていない庶民たちの苦難は如何ばかりかと思われる.
出典:東京大学史料編纂所/編纂『大日本古記録 小右記 7 自万寿元年至万寿四年』岩波書店 (1987)
0 件のコメント:
コメントを投稿