2019年1月30日水曜日

ホトトギス (9) 歐文献-3,欧州への移入.シーボルト,フォーチュン,スタンディッシュ

Tricyrtis hirta
日本特産のこの植物を最初に欧州に紹介したのは,出島の三学者の一人,ツンベルクであった.彼は出島のオランダ商館の医師として滞在した一年有余の間に観察・採取した植物について著した “Flora Japonica” のなかで,ホトトギスを Uvularia hirta と記録した.このラテン名はシーボルトの校閲を経て,伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』にホトトギスと考定され,前々記事に述べた如く飯沼慾斎は之に従った.
シーボルトが滞日中 (1823 - 1829) 1826 年に★ナサニエル・ウォーリッチ(Nathaniel Wallich, 1786 - 1854)が,ネパールの植物誌 Tentamen Florae Napalensis Illustrataeを刊行し,そこにネパール産のホトトギス類の一種  Tricyrtis pilosa Wall.” Type species とする新たな属 Tricyrtis Wall.”(ホトトギス屬)を記載した.この記載には Uvalaria hirta, Thunb. japon . p. 136?” とあり,ウォーリッチはツンベルクの Uvalaria hirtaがこの種の別名である可能性を示唆し,多くの文献がこの見解を踏襲していた.

ホトトギスが Tricyrtis pilosa Wall. と異なることが確認されたのは,欧州で栽培され,観察されてからである.
日本から欧州にホトトギスをもたらしたのは,シーボルトと,英国の育苗家 John Standish から極東の観賞価値の高い植物を移入すべく派遣されたロバート・フォーチュンの二人で,奇しくも同じ 1862 年に,前者は欧州大陸に,後者は英国に生植物を到着させた.
フォーチュンが移入し,スタンディッシュの育苗園で栽培された個体が,Tricyrtis pilosaとは異なることを見いだしたのは王立キュー植物園の W. J. フッカー (Sir William Jackson Hooker) で,現在も有効な学名 Tricyrtis hirta 1863年に付けた(次記事).

シーボルトの最初の滞日は,1823 – 29 年で,出島のオランダ商館の医師として活動.当時の欧州の医学・科学の知識を伝え,また,日本の植物・動物の標本を多く収集し,また一部は種子や球根などを欧州に送った.
一度は国外追放の処分を受けたものの, 開国後の 1858 年に処分の取り消しを受けて,二度目の訪日を果たした (1859).そのおり,以前医学の塾を開いていた長崎の鳴滝に屋敷を構え,植物園を拓き,数多くの日本産植物を栽培した.

1863年の帰国に際し,彼は前もって,鳴滝の植物園から数々の植物を,1842年に設立したライデンのライデンの「気候馴化園 Jardin d'acclimatation」(左図)に送った.その際には出島の植物園から数多くの日本植物をオランダへ発送した経験を生かして,多くの植物を生かしたまま送ることに,成功した.
『一八六三年。ライデンにおけるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの気候馴化園で栽培された日本と中国の植物と種子。説明付目録と価格表 “1863. Catalogue raisonné et prix-courant des plantes et graines du Japon et de la Chine, cultivées dans le jardin d'acclimatation de Ph. F. von Siebold, à Leide”』(ライデン,1863年刊)には,「・ユリ科 サルトリイバラ・ハガクレギボウシ・トウキボウシ・ギボウシ・ノシラン・オモト・キチジョウソウ・ホトトギス・テッポウユリ・スカシユリ」とある(石山 禎一『シーボルト 日本の植物に賭けた生涯』(2000).このカタログのホトトギスの名称がどのようなものであったかは未確認だが,腊葉標本には Tricyrtis pilosaの名称が使われている.(右図,右下.牧野標本館,シーボルトコレクション,左はヤマホトトギス)

また,M. J. M. Christenhusz ”De botanische introducties van Philipp Franz von Siebold” Dendraflora nr 37 (2000) “De bekendste tuinplanten. Von Siebold heeft veel bekende tuinplanten ingevoerd. Hieronder volgt een lijst van de bekendste tuinplanten:” のリストにも,Vaste planten: 多年生植物 の一つとして “Tricyrtis hirta” が記載されている.

一方,1858年からアメリカ政府との契約により中国で茶の木の調査をおこなっていたフォーチュン (Fortune, Robert, 1812 –1880) は,日本が長崎,横浜,箱館(のち函館)三港の開港に踏み切ったとの情報を得て,日本訪問を計画する.彼はアメリカ政府だけでなく,英国の育苗家スタンディッシュからの園芸植物採集の依頼も同時に引き受けていたからである.1860(万延元)・1861(文久元)年に来日し,ちょうど再来日していたシーボルトを鳴滝塾に訪ねた.

Aucuba japonica Curtis's Botanical Magazine
1809 & 1865
彼は滞日中,多くの植木屋,農家や寺の庭先をねらって訪れて,観賞用の園芸植物を収集した.もちろん当時外国人の行動は制限付きで,自由に山野に分け入ることができなかったから,限られた条件と期間内に珍しい植物を収集するには,この方法が一番効率的だった.経験を積んだプラントハンターならではの方法である.
こうして西洋人の好みにかなう,キク,ユリ,ツツジ,ヤマブキ,モモなど花の美しい園芸植物を各所で手に入れた.1861年の1月と帰国時の10月には,日本や中国で入手した価値の高い園芸花卉を,ウォードの箱 (Wardian case) を用いて英国のスタンディッシュへ送った.
訪日の大きな目的の一つは,当時英国にはドイツ人の植物学者 John Græffer (1746 –1802) 1783 年にもたらした雌株(左図,左)しかなかったアオキの雄株を入手し,本国へ送り赤い実を付けさせることであった.各所で雄株や斑入りのアオキを収集して英国に送り,受け取ったスタンディッシュは,人工授粉によって真っ赤な実をつけたアオキを生産し,これは 1864年のケンジントンでの展示会で大センセイションを巻き起こした(左図,右).おかげで,雄木は雌木の100倍以上の値がつき,また受粉用の雄木の鉢植えのレンタルまであったとの事である.(A. M. Coats "Garden shrubs and their Histories"  (1963))
直接の記録はないものの,学名の原記載文献 (Curtis's Bot. Mag. t. 5355 (1863))にフォーチュンが日本で収集し,スタンディッシュが栽培したホトトギスが学名のタイプであることが記されているので,この移入によってホトトギス(の根茎)が運ばれて行ったことは確実である.

フォーチュンに依頼して,日本や中国の園芸植物を蒐集させたスタンディッシュ (John Standish, 1814 - 1875) は,ヨークシャーに生まれ,父親がランズダウン侯爵の森林監督官であった関係で,侯爵のボーウッド館で庭の見習いを務め,後にAndrew Towardの下でBagshot Parkで主任を務めた.
まだ,20歳代の 1830年代に彼はサリー州バグショット (Bagshot) に自分の育苗園を設立し,カルセオラリア(Calceolaria, キンチャクソウ)のブリーダーとして知られるようになった.(左図,左.Paxton's Magazine of Botany, and Register of Flowering Plants, 9 p75, Calceolaria Standishii
そのほか,シャクナゲ,クレマチス,グラジオラス,フロックスの育種にも才能を発揮した.しかし,彼に最初に名声をもたらしたのは,フクシア ‘Globosa’ F. fulgens の交配種の作出であり(左図,右 ibid, 11 p33, Fuchsia Standishii),この品種を通して,彼は当時の一流の園芸植物学者,ジョン・リンドリー(Lindley, John 1799 - 1865)の知遇を得た.

1847年に,チャールズ・ノーブル (Noble, Charles, 1817 - 1898) と共同で園の経営を始めた.フォーチュンは翌年,インドへ茶畑を導入することを目的とし,中国の調査探検を始めたが,おそらくリンドリーの助言により,スタンディッシュはフォーチュンに観賞用草木の採集・送付を依頼した.
ノーブルとのパートナーシップはたった10年しか続かなかった - 2つの太陽が同じ地平線に輝くことはできません」と,スタンディッシュがこの分裂を説明したと言われている.解散は1856年の秋に起こり,その後間もなくノーブルはSunningdale駅の近くに,現在のSunningdale育苗園である,彼自身の育苗園を設立したと発表した.一方,スタンディッシュは1864年までバグショット育苗園を継続経営した.
Horticultural Gardens at South Kensington 1861 by William Leighton Leitch (1804-83)
the Royal Collection Trust
18616月,サウスケンジントンで開かれた王立園芸協会の展示会(the R.H.S. Show)に,彼は同年の1月,上海からフォーチュンによって送られて,数日前到着した日本の植物を展示した.これ等の植物は「生まれながらに Bagshot の純粋な空気に浸っていたかのように,新鮮で健康に見え,そして長い不快な航海を全く知らないようだった.」とある.その中には,コウヤマキや,斑入りでないアオキの雄木,雌木が含まれていた.
フォーチュンは1861年秋の帰国時にも,上海経由で多くの日本の植物をスタンディッシュに送った.直接の証拠はないものの,この二回目の輸送でホトトギスの根茎が英国に送られたのであろう.
スタンディッシュはその後,以前に取得していたアスコットの近くの80エーカーの不毛の土地に,まったく新しい施設 ”The Royal Nurseries of John Standish and Co.” を設立し,多くの観賞価値の高い園芸品種を作出し,高い評価を得た.

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