Hypericum monogynum
ビヨウヤナギは生け花の花材として江戸末期から明治にかけて広く使われ,多くの華道書にその名前が挙がる.このビヨウヤナギの「切り花鮮度保持剤」としては,「土殷孽の粉」を水に混ぜると良いと記載されている(前々記事).
この土殷孽(どいんけつ)とは,本来土中から発見される乳白色の管状の鉱物で,古代からの中国の本草書にも記載がある薬物であり,鍾乳石の一部が土中に生じあるいは埋まった物とされている.一方日本では,完全に対応する鉱物が見出されず,管状ではあるが赤褐色の砕けやすい,通称「高師小僧」と呼ばれる鉱物を指すようになった.上記,ビヨウヤナの鮮度保持剤として用いられるはこの高師小僧と思われる.
中国本草書の「土殷孽(土陰孽)」は日本の本草書にも古くから記載されているが(前記事),初期には「孽」の字が草冠を持つゆえか,「ホシワラビ」にされる等,適切な和名の考定はなかった.林羅山が『多識編』(1612) において,「土殷孽 今案ニ豆(ツ)知伊乃志乃知」と記し,「ツチノイシノチ(土の石の乳)」が土殷孽の和名と記したが,これは,単に土中に発見される鍾乳石(イシノチ:石の乳)という意味で呼んだもので,和名として一般的なものではなかったと思われる.が,本草書ではこの呼称を用いたものもあった.「土殷孽(土陰孽)」を現在の「高師小僧」と結びつけるのは,もっと遅れる.
この書の「第二冊」には,
「殷孽 同四云 辛溫无毒.爛傷瘀血.泄痢寒熱 鍾乳根也
一名薑石 薫石 兼名苑*1」
「土陰孽 同五 味鹹无毒.主婦人陰蝕,大熱痂. 孔公孽之類之.色白如脂.土乳 此即〓又見上」
「孔公孽 證四 辛溫无毒 主傷食不化,邪結氣惡瘡. 殷孽根也
一名通石」と中国本草書の引用があるが,それぞれの和名は記載されていない.
*1『兼名苑』ケンメイエン:中国唐の釋遠年撰とされる字書体の語彙集.亡失して伝わらない.本草和名,和名抄,類聚名義抄に多く引用されている.
★『多識編』(1612) (再版 1630,1631) は,江戸時代初期の朱子学派儒学者,林羅山(1583 - 1657)が,明の林兆珂が『詩経』中の動植物を分類して注を施した『多識篇』に倣った書で,『本草綱目』から物の名を抜き出し,万葉仮名で和訓を施したもの.
この書の「巻之一石部第七」に
「石鍾乳 伊志乃知 異名 留公乳 別-録」
「孔公孽 今案伊志乃知乃比古波恵(ハエ)又タ云ク伊
志乃知乃宇豆於阿那(アナ)」
「殷孽 今案伊志乃知乃久幾(キ)又云ク波知可美(ミ)
伊志 石床今案伊志乃知乃登古
石花 伊志乃知乃波那 石骨 伊志乃知
乃保祢」
「土殷孽 今案ニ豆(ツ)知伊乃志乃知」とある.
即ち,「石鍾乳」には「イシノチ(石の乳)」,「孔公孽」には「イシノチノヒコハヘ(石の乳のひこばえ)」,「殷孽」には「イシノチノクキ(石の乳の茎)」,そして「土殷孽」には「ツチノイシノチ(土の石の乳)」の和訓を充てた.「石鍾乳」の和訓を「イシノチ(石の乳)」としたのは,丹波康頼(912 – 995)著『医心方』(984)で,「石鍾乳 和名伊之乃知」が先行するが,この時,それ以外には,和訓はなかった.羅山は「石鍾乳」を基に,それぞれの性状や産出状況を『本草綱目』から読み取って,和訓を当てはめたと考えられる.従って実際に,日本で「土殷孽」が産出され,「ツチノイシノチ(土の石の乳)」と呼ばれていたかは大いに疑問がある.
初期和刻の★『本草綱目』江西本①(1637)では羅山の和訓に倣ったのか,その八巻「金石部」で,
「石鍾乳 イシノチ
孔公孽 イシノチノヒコハヘ,イシノチノウツヲアナ
殷孽 イシノチノクキ ハシカミイシ
土殷孽 ツチノイシノチ」
と和訓が施されている.「イシノチノウツヲアナ」は鍾乳石の穴が開いた部分からの名であろうし,「ハシカミイシ」は本文の釋名「薑石」の読みであろう.注目すべきは,「土殷孽」の図が,土中に埋まった巻貝のような『本草綱目』金陵本の図の復刻である事である.
「額田文庫蔵」の★『本草綱目』武林銭衛蔵版②(1653)は全52巻の明の1640年(崇禎13年)に刊行された武林銭衛蔵版の日本における翻刻版. 著者の堀内適斎(堀内素堂, 1801 - 1854)は,米澤藩の医師.藩校で学んだ後,江戸や長崎で蘭学を学んだ.封面と本草図を武林銭衙版で復刻し,その他は上記の江西版を重印した.この書の巻九では
「石鍾乳 イシノチ
孔公孽 イシノチノヒコハヘ,イシノチノウツヲアナ
殷孽 イシノチノクキ ハシカミイシ
土殷孽 ツチノイシノチ」との和訓は江西本と同じである.「土殷孽」の図も,土中に埋まった巻貝のような『本草綱目』金陵本の図の復刻である.この図は以降の和刻本草綱目では見られない.
同一の版木を用いたと思われる和刻★『本草綱目』承應二年版➂(1653)でも,
「石鍾乳 イシノチ
孔公孽 イシノチノヒコハヘ,イシノチノウツヲアナ
殷孽 イシノチノクキ ハシカミイシ
土殷孽 ツチノイシノチ」の和訓は同じであるが,注目すべきは「土殷孽」の図が,突き出た崖の端から垂れた鍾乳石のような図になっている事で,これは中国で出版された『本草綱目』の後継版に由来すると思われる.
この書では「金石部」に限らず,一切和訓は施されていないようである.返り点を除いては,より当時の中国から来た最新の『本草綱目』を忠実に復刻した書と思われる.
一方,この版の「金石部」が筆写で充当された★『本草綱目』松下本⑤が残されているが,この書には
「石鍾乳 ツラヽイシ イシノチ イシノツラヽ
孔公孽 イシノチノヒコバエ,イシノチノウツヲアナ
殷孽 ハシカミイシ イシノチノクキ
土殷孽 ツチノイシノチ イシダイコ ツノヽクハセキ ナカイモイシ」
と和名が追加されている.この『本草綱目』の所有者が,「金石部」がないので,書き写すとともに当時の和名を書き加えたと考えられる.赤字で記したのはそれまでの『本草綱目』には記されていない和名で,特に「土殷孽」の和名「イシダイコ ツノヽクハセキ ナカイモイシ」は,「高師小僧」の地方名であり,筆写されたのは,出版年よりかなり遅れた時期と考えられる.
「石鍾乳 イシノチ
孔公孽 イシノチノヒコバエ,イシノチノウツヲアナ
殷孽 ハシカミイシ イシノチノクキ
土殷孽 ツチノイシノチ」
と,「江西本」の和名に追加や変更はなかった.
この書の「巻之十八 ○金石部」に「石鍾乳」が『本草綱目』の記事を基に「使藥」「毒」「畏惡」「修治」の項目に分けて詳述されている.和名は記されていない. また「○金石部附録」には,「孔公孽(ゲツ)」「殷孽(インケツ)」「土殷孽」の項があり,ごく簡単に『本草綱目』の【氣味】と【主治】の記事が要約されている.また,「土殷孽」の記事の最後には「以上ノ三孽ハ倶ニ石鍾乳ノ之類也」とあるが,何れにも和名考定はされていない.
「〔土殷孽〕鹹平,治二婦人ノ陰蝕(シヨク)大熱乾痂(カンカ)ヲ一 ○以上ノ三孽ハ倶ニ石鍾乳ノ之類也」
稲生若水(1655~1715)は江戸中期の本草学者で博物学の先駆者.江戸の人.名は宣義。福山徳潤に師事し,元禄6(1693)年金沢藩主前田綱紀に仕官し大冊『庶物類纂』の編纂に着手したが,未完に終わり,のちに門人の丹羽正伯らの手によって,延享4(1747)年に完成した.若水の本草学は薬物,食物にとどまらず動植物全般を研究する博物学へと進み,弟子の松岡恕庵や恕庵の弟子小野蘭山らに受け継がれた.
若水が校正した本書は和刻本草綱目のなかで一番優れているといわれている.この書の「石部第九巻 石之三」には,「石鍾乳」「孔公孽」「殷孽」「土殷孽」の項があるが,「石鍾乳」に「イシノツラヽ」(石の氷柱)の和名があるのみで,他の三点に和名はない.
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