2022年8月11日木曜日

ウラシマソウ-11 江戸後期-2,有毒草木図説,動植写真,本草図譜,農家心得草

Arisaema urashima

★清原重巨(しげたか)は,当時毒性のあるとされていた植物百二十二種の図譜並に解説書『有毒草木図説』(1827)を編集した.本書の第一巻には四種のテンナンショウ属の植物が記載され,その中に「うらしまさう」の和名が付された「虎掌」もあり,短い記述文もある.

★大窪昌章『動植写真』(1827)は,昌章が観察した動植物のスケッチ集で,特に記述は見当たらないが,その描画は見事である.この書にウラシマソウの美しい図が載る.

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜』は江戸時代屈指の植物図譜で,野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図を『本草綱目』の分類に従って配列している.この叢書の「毒草類」に「虎掌 うらしまさう」と記された大きな図があり,当時輸入されて,本草学者達に大きな影響を与えた,ヨハン・ウエインマン(1683-1741)の『薬用植物図譜』(1737-1745)による和蘭名が記載されている.

★大蔵永常『農家心得草』(1834)は農家の飢饉対策の書であるが,その中に飢餓の際,食してはいけない毒草を図(『有毒草木図説』から転載)入りで紹介しているが,その中に「虎掌 うらしまさう」が挙げられている.

 文献画像はNDL及びBHLの公開デジタル画像よりの部分引用

★清原重巨(しげたか,生没年不詳)『有毒草木図説』(1827)は,当時毒性のあるとされていた植物百二十二種の図譜並に解説書である.有毒植物に関するまとまった図説としては本邦初のものと言える.通常の著作本とは少々異なり,編者と図譜の画家は異なる.編者は舎人(とねり)重巨(じゅうきょ)(姓は清原,字名(あざな)は君規,又は武兵衛,)尾張藩世臣,藩主宗睦(むねむつ)の小姓から身を起こし,後四百石を禄した.当時尾張では,京都や江戸と並び称されるくらい,本草学が盛んで松平君山を筆頭として水谷豊文(ほうぶん),沼田正民,大窪昌幸らがおおいに活躍した.そうした多くの研究者,同好者三十九人に草木一品以上を受け持たせ,挿図並びに解説文の寄稿をもって成立した.

 本書の第一巻には四種のテンナンショウ属の植物 -「天南星(てんなんしやう)」「むさしあぶみ」「ユキモチサウ」「虎掌」- が収載され,「虎掌」には,「うらしまさう」の和名が付されている.図は次項,『動植写真』の著者,大窪昌章(18021841)で,繊細な線画で,植物の形態を正確に写している.

虎掌 こ志やう うら志まさう   本草綱目 
大毒あり深山陰地に春生じ天南星に似て其根圓塊葉まひ
づるてんなん志やうの如くして長く莖に白斑あり花中長蕋
を出し地に及ぶ誤りてこれを食すれば天南星に同じ懼べき
者なり」


 ★大窪昌章(18021841)は江戸時代後期の尾張藩士,通称舒三郎,号薜茘菴(二代),本草学者.名古屋の本草学研究会・嘗百社の一員で,1833年水谷豊文の没後同社を支えた.志村半兵衛吉昌の次男として生まれ, 1821年大窪光風(初代薜茘菴)の養嗣子となり,光風没後,1824年御目見して跡目を継ぎ,馬廻組,切米30俵となり,1838年大番組,切米50俵となった.印葉図の制作に優れ,多数の印葉図集が現存する.しばしば採薬に赴き,綿密な採薬記を残した.1841年死去し,1842年嫡子・大窪安治(三代薜茘菴)が跡目を継いだ.

 『動植写真』(1827)は,昌章が観察した動植物のスケッチ集で,特に記述は見当たらないが,その描画は見事である.伊藤圭介の孫で,所蔵者であった本草学者の篤太郎の注記が書末に挿入されており「尾張本草家大窪昌章自筆稿本 薜茘庵 動植〔物〕寫眞〔生圖譜〕ト假ニ命?ス 写本一冊」とあり,その図を「大窪氏ハ水谷助六翁ト同時代ノ人ニシテ殊ニ昆虫ヲ研究シソノ筆ニナレル草木実魚等ハ實ニ眞ニ迫ルノ妙アリ」と高く評価している.この書に「ウラシマ艸」と書かれた付箋が張られた図が収載されている.この付箋は,筆跡から所蔵した篤太郎によるものと思われる.

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜』は飯沼慾斎『草木図説』と並び称せられる江戸時代末に作られた二大植物図譜の一つで,江戸下谷生まれの幕臣岩崎灌園の著作.野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図で,余白に名称・生態などについて説明を付し,『本草綱目』の分類に従って配列している.巻510は文政131830)年江戸の須原屋茂兵衛,山城屋佐兵衛の刊行.以下巻1196は筆彩の写本で制作,三十数部が予約配本され,弘化元(1844)年に配本が完了した.
 この叢書の「第3冊 巻22 毒草類2」にはテンナンショウ属の「虎掌 うらしまさう」,「一種 白南星」,「天南星 やまにんじん」,「一種 蛇頭草」,「一種 ゆきもちさう」,「一種 へびのだいばち」,「一種 むさしあぶみ」の七種の植物が「虎掌 天南星」の仲間として記載されている.その内,虎掌がウラシマソウと考定されている.


虎掌(こしやう)天南星(てんなんせう)

 時珍は宋の開寶本草の天南星を合せて一物とす然れども本草原始に虎掌と天南星を
分別すまた本草彙言に南星即虎掌同類異物と云此説に從いて二種とすべし

虎掌(こしやう)             おほほそみ 和名鈔             てんぐのはね 加州
                                          
ダラコニチュム 荷蘭*1 物印忙(うへいんまん)*2

處々山中にあり春月宿根より生ず一莖特生し頂に九葉又十一葉も周りつく葉莖の中ごろ
に花を生じて一瓣蓮花の如く紫褐色花の中に長き鬚を垂る根は半夏に似て大なり黄色
周りに圓き子を附して虎の掌に似たり故に此名あり」とある.

*1:荷蘭=オランダ
*2
:ヨハン・ウエインマン (1683-1741) ”Phytanthoza iconographia”『花譜』or『薬用植物図譜』(1737-1745
ヨハン・ヴィルヘルム・ヴァインマン(Johann Wilhelm Weinmann,日本では物印満,烏延異莫漫莫,ワインマン,ウエインマンとも記される)は,ドイツ(神聖ローマ帝国)の薬剤師,植物学者である.10年間をかけて大著『薬用植物図譜』(Phytanthoza iconographia8巻を完成させた.江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に渡来し,本草学者達は蘭名を片仮名化したり,図を模写したり,考定したりした.幕府のお抱え医師であった栗本丹洲(17561834 年)がその著書『洋名入草木図』(1818,文政1)で八十六点も転写していることはよく知られている. 宇田川玄真訳述『遠西医方名物考』36巻(1822,文政5)は西洋薬物百科事典の嚆矢の精巧な図譜集であるが,植物(59)の大半がウエインマン『花譜』による.群芳園陳人『烏延異莫漫莫草木名』(1805,文化12)や,飯沼慾斎『物印満本草図譜訳名』(作成年不明)では,(全てではないが)図版の番号に対応するラテン語名称の読みを片仮名で記している.なお慾斎による 472 b “Dracunculus polyphyllus caule maculato” の読み仮名は「ダラニンコルス ポレーペーリヱス カヱレ マクヱラト」とある.ウラシマソウに対する慾斎の「ダラコニチュム」がどこから来たのかは見つけ出せなかったが,獨羅本文中に ” dracontium” の語がある.オランダ語訳の文中にあるのかも知れないが,調べられなかった.


★大蔵永常『農家心得草』(
1834)は農家の飢饉対策の書であるが,その中に飢餓の際,食してはいけない毒草を図(『有毒草木図説』から転載)入りで紹介しているが,その中に挙げられたテンナンショウ属の植物の図は,いずれも『有毒草木図説』から転載で,「虎掌(こしやう) うらしまさう」が「大毒あり」とあり,他に「天南星(てんなんしやう) やまこんにやく」「むさしあぶみ 天南星乃一種なり」「斑杖(はんぢやう) まむしさう」で,すべて「大毒あり」とされている.

大蔵永常(1768 -1861?)は,江戸時代の農学者で,宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人とされる.豊後国日田郡隈町(大分県日田市)生まれ.初め父と同じ蝋晒(ろうさら)し工場で丁稚として働いたらしいが,天明の大飢饉に際して現金化できる作物の必要性に気づき,大阪や江戸を中心に全国を旅し,農村の実態を研究した.やがて,米麦等の穀類の増産や副業的な特用作物の栽培と製造・加工等の多角経営を行うことを主張する.永常は未刊のものも含め,生涯で約80冊もの農書を執筆した.
 永常の死後出版された,集大成的な意味を持つ『広益国産考』(1859年刊)の「一之巻 總論」で永常は,「夫国を富しむるの経済ハ、まづ下民を賑し、而て後に領主の益となるべき事をはかる成ベし。第一成ハ下にあり、教ふるハ上にありて、定まれる作物の外に余分に得ることを教えさとしめバ、一国潤ふべし」と述べた(現代語訳 国(一藩)を豊かにするための方法としては、まず下々の人民の生活を豊かにし、その結果として領主の利益となるように計画すべきである。その計画をまず第一に実行するのは下の人々であり、それを教えみちびくのは上の人々である。普通に栽培されている作物以外のものを余分に作るよう教えさとすならば、一国の経済は豊かになる).このような開明的な思想には,渡辺崋山や大塩平八郎らとの交友関係の影響があったのかとも思われる.
 彼は,(1834)年(天保五)に『農家心得草』を出版した.この書は1783年(天明三), 1786年(同六)の飢饉のときの教訓をもとに,飢饉に緊急対応する手段を著した書で,その内容は,大きく二つに分けられる.前半部分には飢饉時の食料となる麦の栽培とその備蓄に関して,後半部分「有毒草木の事」は飢饉時に有毒植物を食べて死亡したり,病気になる人が出るのを避けるために,有毒植物の圖を掲載した.「有毒草木の事」の部分では,まず有毒草木図を掲載した理由を説明した.同時に,有毒草木図は「尾陽の或先生」の著作からの引用であることを断わったうえで,総数一七図,四三種におよぶ有毒草木を紹介した.尾陽の或先生,即ち清原重巨著『有毒草木図説』から転載した草木図についても,相当の手がはいっている.選び出した植物を縮小し,原著にある説明を省き,実用に適するように配列し直した.
 「有毒草木の事」には,「過去の飢饉の時のように春になって毒のある草木の葉・根,木の芽を食べて死ぬ者がまた出るのではないかと心配になり,ある学者を訪ね,有毒の草木の名前を書き出してくれるように頼んだ.しかし,有毒植物の名前を書き出すのははばかられると断わられ,計画を断念せざるをえなかった.」しかし,
「其後友人にこの事を語りけれバ,近き頃尾陽の
或先生其事を撰びたる書ありとて,とり出して
予に示す.是を閲するに,全く餞民毒ある草
木の芽を食し,又ハ牧童抔の誤て食せんこと
を愁ひ記したるとあれバ,是を写たらんにハなどか
咎め給ふべきとて,其内毒の多きものばかりを
撰び,縮図し出しぬ.」と述べて,重巨著『有毒草木図説』からの図を転載した.さらに「小毒とか微毒とされた植物には,日常的に口にするものが多い.これらの植物は,大量に食べた場合,あるいは,食合せをした場合に中毒を起こす.小毒の類は,一般的には,塩漬け,塩もみにする,ゆでて水につける,生のまま水にさらすなどの処理をすれば,食べられるものが多い.そういったものまで図をあげたのは,あくまで有毒植物をまちがって食べることがないようにとの一念からである.」と記している.
 この書は,漢字にはほとんど全て振り仮名が振られ,また挿絵も豊富で,農民が手に取りやすく,分かりやすい実用書として書かれている.

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