ドイツ人博物学者エンゲルベルト・ケンペルが,イチョウを Ginkgoとして,初めて西欧に紹介した際,その葉がホウライシダ類(Adiantum, 英名:Maiden hair fern)に似ている事を述べた.また彼は将軍謁見のための江戸参府の道中(1691年)で,箱根山中で薬効があると聞いて採取し,ハコネクサ(Fákkona Ksa)とその名を記したハコネシダ(現在有効な学名:Adiantum monochlamys D.C.Eaton)を,ホウライシダ屬のホウライシダ(A.
capillus-veneris L.)と誤同定した.
ケンペル来日以前から,ハコネシダは,オランダ人がその婦人薬の薬効を認めたとして,「阿蘭陀草」の名が記録されている(前報).また,ホウライシダの古いラテン名で,その蘭語版が日本に伝えられたドドネウスの『Crŭÿde boeck(草木誌)』(初版 1554)にも記されている“Capillus-veneris”(ビーナスの髪)由来と思われる「カツテイラ」「ヘンネレス」「カツヘレサウ」「へねれんさう」が「蠻名」として記されている.
ホウライシダ(A. capillus-veneris )は,ギリシャでは紀元前から薬草としてテオプクトスの本草書に,紀元後にはギリシャのディオスコリデスの本草書やローマのプリニウスの博物書に「黒いアディアンツム」として記載されている.
1455年にグーテンベルクによる「グーテンベルク聖書」が出版されてから,およそ半世紀の間に,ヨーロッパ各地の都市(ドイツ,フランス,イギリス,イタリア,ネーデルラントからスウェーデン,スペイン,ポルトガル,コンスタンティノープルなどまで)に活版印刷術が伝わり,約4万版が刊行されたという.
木版印刷術の発展と共に,図入り印刷本草書が刊行されるようになった.それらの内,最初は西ドイツ中西部のマインツ周辺で印刷された四種の書籍がよく知られ,間もなく他の地でも翻訳あるいは再版され,新しい図を付されたものもあった.
ペーター・シェーファー(Peter
Schöffer, ca. 1425 – ca. 1502)によって 1484 年に刊行された『ラテン本草』(Latin Herbarius)は,ドイツ自生の植物と園芸植物をのせた小さな書で,簡単な薬草の本として一般の人たちの実用に供する意図でラテン語で書かれた.中の図は,力強いタッチで装飾的な魅力に富んでいると言えなくもないが,おおむね左右相称に描かれていて,時には幾何学的な図形ていどのものもある.アンバランスな図が多く,花は通常,誇張して大きく描かれている.根が描かれている場合も,まったく型にはまった表現となっている.(前報)
『ドイツ本草』(German Herbarius, Herbarius
zu Teutsch)は,『ラテン本草』の一年後 1485 年に初版がシェーファーによって出版された美しいフォリオ判一巻本である.よく言われてきたように,『ラテン本草』のドイツ語翻訳本ではなく,独自の著作であり,図も『ラテン本草』より自然に近いものが多い.しかし第三部の薬物の利用法に基づく索引は,『ラテン本草』の影響が認められる.
この書は植物学的に見て本当に価値のあるすぐれた唯一の初期印刷本(揺藍期本)であり,ほぼ半世紀の間,この書の植物図に匹敵する本は出なかった.全 435 章よりなり,379章には図があり,56章にはない.382の薬草,25の動物(ゾウ・ウサギ・ジャコウジカ等の哺乳類,ハンミョウ等の昆虫,トカゲ等の爬虫類,マキガイ・サンゴ等の海産物)及びその生産物,28の無機物が記載されている.
57. Blacte bizantia, Muschel also genant, 香りのある巻貝
127. Castoτium, Bybergeil, ビーバーの持つ香嚢から得られる香料 海狸香
128. Würmlin, Cantharide, スパニッシュフライ 催淫劑
130. Corallen , Corallus, サンゴ
248. Lacca, Lacca, ウサギ
272. Muscus, Bysum, 図はジャコウジカを表すと思われる.
292. Os de coτde cervi, Beyn daz man findet in dem hecczen des hyrsczen,鹿の心臓に見出される骨
371. Spodium gebrant helffenbayn, 象の骨・骨灰
383. Stincus, Wasser edechsz, トカゲ
426. Vulpis, Fuchsz, キツネ
最終部には,四体液説に基づく尿の色による診断法が記載され,ガラスのフラスコに採取した尿を検討する医師と患者らしい女性が描かれている.
この書の監修者と画家については,名前が記載されていないが,マインツの貴族で市の参与で,この書の出版を支援したブライテンバッハ公(Bernhard von Breidenbach, 1440 - 1497)と,画家レウィック(Grafiker Erhard Reuwich, "Herr Bernharts meler und
snytzer", ca.1450 - ca.1505)で,出版の数年前から準備をしていたと思われる.
この書の序文は,人類に,諸々の病に対する自然薬療法を教え給うた造物主の慈悲心を費える格調高い感謝の歌で始まっている.さらに,続く文章によってこの書はさる裕福な愛好家(ブライテンバッハ公)によって監修・編集されたことがわかる.それぞれの薬物の効能については,フランクフルトの医師,ヨハン・フォン・クーペ博士(Johann Wonnecke von Kaub or Johann von Cube, 1430 -1503)をやとって記述を準備させた.その仕事を進めている間に,編者のブライテンバッハ公は,古代の著述者たちが採り挙げている薬草の多くはドイツでは育たないことに気づき,植物探求の目的も兼ねて,画家レウィックを伴い1483年に聖地パレスチナへ巡礼の旅に出た.序文は次のように続ける-「自分が着手したがいまだ成し遂げていない崇高な仕事を無に帰すべきでないし,また,この旅によって私の魂だけでなく全世界もまたその恵みにあずかるであろうと考えたので,私はよいセンスを持ち,熟練した賢明な画家を一人同伴した」.-イタリアとバルカン半島を通過して,二人はクレタ島,ロードス島,そしてキプロス島を経由して船旅を続け,パレスチナに到着した.エルサレムを訪れたのち,慣習に従ってモーゼが十戒を授かったシナイ山を訪れ,カイロからアレクサンドリアへ行き,そこから海路 1484年に帰国した.「これらの王国や諸地方をさすらいながら・…‥私はその地の薬草類を懸命に探し求め,形も色も違えることなく描いた」と語っている.
帰国後,クーペ博士の協力を得てこの書を完成したが,それには「本物どおりの形と色を伝える」350種以上の植物が図示されたのである.後にブライテンバッハ公は,この聖地巡礼の経験をもとに,史上最初の絵入り聖地巡礼ガイドブック
“Die Pilgerreise ins Heilige Land“(1486)を出版した.
この『ドイツ本草』の中の木版画のもっとも優れたところといえば,それらが生きている植物の写生図をもとに彫られた図が数多くある点であることは疑問の余地がない.そこにはデューラーの習作に見られる精妙さや木版工芸の粋はないが,なんとか花の構造や性質をありのままに表そうとする努力が認められる.
たとえば「キショウブ(Acorus)④」(Iris pseudacorus)や,「アフォディルス(Affodils)②」(Bearded Iris, German Iris の原種)の圖を見ると,彫版師が画家の意図を充分には理解しなかった徴候はあり,未熟なところはあるが,やはり生き生きしている.(①,③:ラテン本草,②,④:ドイツ本草)
また,「ホオズキ(Alkekengi)」の果実や「ネナシカズラ(Cuscuta)」の蔓と莢の図も同様である.しかし,こうした写実的な図があると同時に,『ラテン本草』の植物図にも劣るような図も多くある.そして,例の「マンドレイク(Mandragora)」は,分岐した根が人の肢体に似ていて,おきまりの擬人化した姿に描かれている.
また,エジプト,シリア,レヴァント(レバノン)の各地方からの植物動物の図は数も少なくがっかりさせられる.おそらくマメ科の低木「センナ(Sene)」(乾燥標本からか)と「ショウガ(Zingiber)」及び「ゾウ(Elephanten)」の図は,現地で実物を見て描いたと思われる.しかし,編者のいう「熟練と賢明さ」を裏づける圖が多くはないので,意欲的な画家が関与したということも疑わしくなるほどである.
クーペ博士の記述は,先人たち(Theophrastus, Dioscorides , Pliny the Elder, Serapion the younger, Bartholomeus
Anglicus ら)の知見の引用で,彼が発見した新たな薬効を付け加えることはなかった.
『ドイツ本草』の木版画が,そしてたぶん十五世紀と十六世紀の他の本草書の大部分の木版画も,色づけされるべく意図されたことは,その序文に述べられていることから明白である.おそらく,画家が一部か二部を自分で彩色し,それから助手が,往々にして子供であったりしたが,残りの本を彩色したのであろう.さらに,ずっと安価で売られた非彩色本があったことはまちがいない.そのような本は購入者にその気と時間があれば自分で彩色するためであろう.
この書の第98章(Cap. lxxxviij)にはホウライシダ(Capillus
veneris, muerruse)について以下のような記述がある(公開画像より起したので,誤りがあるかも.単語が行変えで途切れた場合,
– や /, ⸗ で示す場合も,何の断りもなく行を変えてつづける場合もある.また,出版地(Low German)の方言で書かれているために,現代のドイツ語とは異なっているとの事).ラテン語,ギリシャ語,アラビア語での名称の後に,先人たち,特にディオスコリデスの文献による育毛・通経などの薬効が記されているようだ.
図は到底ホウライシダの特徴を現わしているとは言えない.何よりも名称の基になった黒々とした光沢のある茎が凡庸なシダ類のそれになっている.
Capillus veneris muerruse ¶ Cap. lxxxviij
Capillus. veneris vel coriandrũ putei vel Capillus porcinus
latine. grece adiation. arabice capillus agell vel capillus a/
gill vel berstegasten. ¶ Der meyster Serapio in dem bůch
aggregatoris in dem capitel berstegasten id est capillus veneris sprichet
das dises sy eyn krut das do bait bletter gleich dem coriander vnd bait
eyn Barren stengel vnd subtyle der ist in der lenge eyner spamen vñ
hait keýn blome noch fruchte noch samen. Die wurtzel dovon ist keyn
nurze. Dises krute weche set auch gar geren in de schaden vnd
in den dyessen groben genant speluncken die do seuchte synt.
¶ Idem Serapio mit bewerung Galieni die dogent vnd nature dises
krutes ist drucken machen. ¶ In dem bůche genant circa instans in
dem capitel Capillus veneris stat geschrieben das disses sy kalt vnd
drucken getemperieret. ¶ Eyn meister genant Stephanus in synem
büch in dem capitel capillus verneris sprichet das dises sy von den alten ge
heissen Adiantos oder politricum als dan vns beschzeiben Diascorides
vnd Alexander vmid sprechen alle gemeÿn das dise dry namen als ca
pillus veneris Adiantos politricum werden genenet fur eyn krut als
dann ist capillus veneris dar von wir hye schreiben. ¶ Johanes
mesue in synem bůche im dem capitel Capillus veneris sprichet das dises
krut aus dem menschen ziese die bosen coleram vnd auch do mit die gro
ben seushtigkeit. ¶ Item capillus veneris rey niget das gebluͤde vnd
machet dem menschen gütte facbe vnd eyn sanssten atern vnd reyniget
den magen den buch die lebber vnd das nulz darüber getruncken.
¶ Item über dises krute gedrunchen benympt den steyn in der blasen
und auch in den lenden. ¶ Wer sich weschet vss dem haubt mit was⸗-
ser oder lange dar inne gesotten ist maurrauten machet hare wachsen.
¶ Item esche gemacht von muerrunten und in die sestell gelassen
heylet sye. ¶ Auch reyniget das puluer den gebresten an der heym-
lichen stat der frauwen. ¶ Auch ist muterysesser widder fluß des
blütes dar von genurzet vnd ist auch gůt widder flüß der stulgeng
mit wegbrey de wasser vermenget vnd genüczt sprichet Pandecta.
Avicenna:Ibn Sina (Persian: ابن سینا; 980 – June 1037 CE), “The Canon of Medicine” の著者.
Galen:ガレノス(希: Γαληνός, 129年頃 - 200年頃)は,ローマ帝国時代のギリシャの医学者.臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした.彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった.
Platearius:Matthaeus Platearius was a physician from
the medical school at Salerno, and is thought to have produced a
twelfth-century Latin manuscript on medicinal herbs titled "Circa
Instans" (also known as "The Book of Simple Medicines") .
Pandectarius:Matthaeus Silvaticus or Mattheus
Sylvaticus (c. 1280 – c. 1342) の著 “Pandectarum Medicinae” or “Pandectae Medicinae”
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