Hibiscus coccineus
北米南東部の湿地に自生する多年生草本.大きい緋色の花が目を引き,” It is certainly one of the loveliest of our native flowers.” と,米国でも評価されている.
日本に渡来したのは,文久三年(1863)であると,渡辺又日菴(伊藤小春転写・1914)『新渡花葉図譜』にある.しかし,その20年近く前に制作された馬場仲達の『舶上花譜』(1844)にその画が載っているので,実際は1800年代前半と思われる.
それまでの日本の観賞用花卉にはない大きく鮮やかな色の花が賞され,「花色極紅にして繪ける色より美紅なり」(1864-,渡辺又日菴),「花は濃紅色の美大花にして品位高く花壇に栽植し初夏より晩秋に至る観賞として最も適するものならん.」(1921 杉浦非水),「花は大にして葉腋に出でたる梗端に獨在し鮮紅色で頗る美麗である.」(1930,岡本東洋),「夏日、赤色ノ有梗大花ヲ腋生シ、側向シテ開キ、美ナリ」(1940,牧野富太郎)と高く評価された.非水はステンドグラスにもモミジアオイの意匠を取り入れている.光を透した朱紅色の花はさぞエキゾティックで美しかったであろう.
又日菴は,尾張藩の家老をつとめた渡辺規綱(のりつな)(1792 - 1871)で,この写本には著者の序文や跋文は無いが,坤巻の最終丁には篤太郎の識語がある.それには,『新渡花葉図譜』原本を又日菴の後裔である渡辺不仙氏から借り受け,母に転写を請うたこと,母の小春は大正11 年(1922)11 月に79 歳で没したことなどが記されている.
この写本の乾の巻に,亞米利加産芙蓉の名で,モミジアオイが記録されている.
「亞米利加産芙蓉 花色極紅にして繪ける色より美紅なり 文久三年舶来 花開六月末より七月なり」(文久三年=1863)とあり,正確ではあるが,やや萎れた色の薄い花と葉の画が描かれている.
★馬場仲達(1785 - 1868)『舶上花譜』(1844)は,前田利保を中心とした博物同好会,赭鞭会(しゃべんかい)の一員であった仲達により江戸後期に書かれた舶来植物の図譜(上・下二冊)であるが,其上巻に「紅蜀葵」の名で,モミジアオイが描かれている.
この『舶上花譜』の制作年が 弘化元(1844)年なら,渡来時期は又日菴の言う文久三年より,20年は早くなる.なお,制作年は “Union Catalogue Database of Japanese Texts” の記,”Work Source『国書総目録』所収,1” による.
★柏木吉三郎(1799 - 不明)『倭種洋名鑑』は,江戸末期に書かれた植物図譜(乾坤二冊)であるが,その乾の巻に「倭俗名 紅蜀葵ト云 又 朝日牡丹ト云」とあり,「草高サ七八尺ニ及 花七月咲 宿根寒ヲ畏 實生モ出来ル二歳ニ而花咲 一日丹一輪宛咲順々ニ咲ナリ」とあり,付箋には,「ヒヾスキュス スぺシース Hibiscus Species」とある.この付箋はいつ誰が付けたかは不明.「朝日牡丹」という名もその形状を現すのに適切な名と思われ,絵は,優雅さはないものの,力強いこの花の特徴をよく表している.
學名 Hibiscus coccineus Walt.
漢名 紅蜀葵
科名 錦葵科(Malvaceae)
北亞米利加に原産せる高さ六七尺の多年生木本狀草本にして,莖は質柔軟,コルク様をなし,皮部および髄部に粘液體を有す.毎年地下より新梢を發し,秋期降霜の候に至りて莖葉のみ枯凋す.葉は長き葉柄を有し其基部に托葉を具え互生す.形,深く掌狀に分裂し恰もモミヂの葉に似たり.花は濃紅色の美大花にして品位高く花壇に栽植し初夏より晩秋に至る観賞として最も適するものならん.
今是を植物學的に觀察せば其花は兩性にして放射相稱をなし,花辧は五個,互生し,幼時は螺旋狀に囘旋せるを見得べし.蕚は下位にして發育せざる間は?合状をなし深く花蕾を包む.雄蕊は多數,各々二輪列をなし,合着して更に一群束をなし,葯は一室なり.それより出づる花粉粒は頗る大きく,著しき刺を有す.子房は無柄にして,合着せる心皮より成り,花柱も亦各心皮と同數,且つ長く分岐し,頭狀柱頭をなせり.胚珠は各心皮にありて倒生し,胚は湾曲して褶曲せる葉狀の子葉を有する胚乳によりてまる.果実は蒴果にして乾燥し,胞背裂開をなして内に腎臓形をなせる種子を蔵す.
備考 一,學名なるは Coccineus は Scarlet を意味し花の紅きにより來りしものなり.
本圖 大正七年八月二十七日寫生(實大)
附図 (一)花蕾の側面,(二)花蕾の上面,(三)裂開せる蒴果,(四)印葉,(印葉は二分の一大他は實大,蒴果は十月十日寫生)
寫眞 大正八年東京に於て著者撮影.」とあり,植物学的な記述は何に拠っているのかは記されていないが,正確である.
★久田賢輝『最近和洋園芸十二ケ月』(1926)の「續園藝十二ケ月」「九月」の「この月の花のかずかず」の項には,
「◆紅蜀葵(もみぢあふひ) 残暑の炎天を衝き赤き心を燃やしてか,花に真紅の燄を擧げた」やうね面影を見せる風情は,誠に目覚ましく凛々しくて,吾等は野の百千草と共に碌々たる生涯を睥睨されるやうに思はれ,今更花に對して耻多きを自覺するのであります.此花の能く成長したのは丈にもなつて直立すること麻のやう,葉は大きくて五尖,恰度(ちやうど)楓のやうですからモミヂアフヒの和名があります.花は五瓣真紅で大きく徑四寸ぐらゐにもなりませう.そうして思ふ存分咲いて愁色を見せぬところ,日々新たなる爛漫華美の面影,などは唯だ唯だ嘆賞の外はありません.
◆この草花は宿根しますから秋風落莫の候,その狼藉たる莖葉を収めて藁や雑草の類を覆ひ春になつて堆肥馬糞の類又は下肥,油粕を天肥として敷込むと嫩芽は肥え,遂に立派な新芽は育つやうになります.勿論其節根分と同時に移植を行へばよろしい.」と,あり,「唯だ唯だ嘆賞の外はありません.」と高く評価している.
写真家★岡本東洋 撮著『花鳥写真図鑑』(1930)の写真集には,単色ながら,大きなモミジアオイの,開いた大きな花と雄蕊,その名の由来になった深裂した葉とが絵画的な構図で収められている.
記述文には「13-15 もみぢあふひ
Hibiscus
coccieus, Walt. (あふひ科)
北米の原産で沼澤地に野生して居る壯大な多年生草本であるが。我邦へは明治初年に渡つたものと思ふ。丈夫な品で毎年能く生育して美花が咲く。
全體に毛を帯びず、其莖は直立して高さ七八尺許に成長する。葉は葉柄を有して互生し掌狀に深裂して三乃至五の裂片を有し裂片は狭長で尖り疎に鋸齒を具へて其葉姿恰ももみぢ(かへで)の態があるからそれでもみぢあふいの名がある。花は大にして葉腋に出でたる梗端に獨在し鮮赤色で頗る美麗である。花下の小苞即ち副蕚は甚だ狭長で芒のやうである。蕚は下は聯合し其裂片は卵狀披針形をなし尖つて居る。花冠は五辧より成りて基部は相連合し倒卵形を呈して下部は狭窄し辧間に間隙がある。蕊柱は頗る長く果実は鋭頭を有して居る。」とある.
「海の見える杜美術館」青木隆幸氏に拠ると
「岡本東洋は1891年(明治24)、京都市に生まれました。本名貞太郎。子供のころから絵を描くのが好きで、17歳の時に洋画家鹿子木孟郎に弟子入りを志願したのですが断られ、家業のゆのし屋に勤めることになりました。
1916年(大正5)に父と兄を相次いで亡くして家業を継ぎ、そのころから写真の技術を独学で習得して京都の名所の撮影をするようになりました。そして1925年(大正14)頃、家業をたたみ、写真家として独立しました。
国際写真サロンなどで入賞を重ね、全関西写真連盟の委員ほか写真関係の役職を歴任する一方で、栖鳳や大観はじめ数多くの画家の要望を受けて絵画制作のための資料写真を提供するほか、『美術写真大成』など、画家や彫刻家に向けて作画の資料となる写真集を出版しました。これら東洋の活動は、荒木十畝、川端龍子をはじめ多くの画家から高く評価されました。また、京都の名所の写真集を数々出版し、京都の観光振興にも貢献しました。1968年(昭和43)京都にて没(※).
※没年の記録は文献によって1968年(昭和43)と1969年(昭和44)の2種類ありますが、ご遺族にご確認いただいた過去帳の記載、昭和43年10月22日没を採りました。」また,「『花鳥写真図鑑1』(平凡社1930)の序に「画材たらしむべく花鳥の生態を撮影(中略)幸い画伯諸先輩の垂教鞭撻によって、これまで撮影し得た花鳥写真を、今度、図鑑として広く公表する機運に遭遇しました」(適宜現代仮名遣いに改めた)と東洋は記しています。」とのこと.
★牧野富太郎『牧野日本植物図鑑』(1940)には,
「 もみじあふい
Hibiscus coccineus Walt.
北米原産ニシテ明治初年ニ渡来シ花草ト
シテ庭園ニ栽植セリ。多年生ノ木質草本
ニシテ毛ナク帯白緑色ヲ呈シ、高サ1-2m
許アリ。莖ハ數條叢生シテ直立ス。葉ハ
長柄ヲ有シテ互生シ、掌狀ニ三乃至五深
裂シ、裂片ハ狭長ニシテ尖リ疎齒ヲ有ス。
夏日、赤色ノ有梗大花ヲ腋生シ、側向シテ
開キ、美ナリ。花下ノ小苞ハ狭長、多數。
蕚ハ五深裂、裂片卵狀披針形ヲ成ス。五
花瓣平開シ辧間間隙アリ、各片倒卵形ヲ
呈シ下部狭窄シ下部ハ聯合ス。單體雄蕋
柱ハ頗ル長ク下ニ裸出ス。柱頭ハ五枝ニ
岐ル。蒴果ハ尖ル。和名ハ葉形ニ基ク。」とある.
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