2016年5月2日月曜日

ツリフネソウ-3 坐拏草,押不蘆.本草綱目,頭註国訳本草綱目,本草圖經,三才圖會,本草綱目啓蒙,志雅堂雜鈔,癸辛雜志,押不蘆=マンダラゲ?

Impatiens textorii
2004年10月 渡良瀬遊水地
前記事にあるように,江戸末期から明治の著名な本草家,岩崎灌園や小野職愨(小野蘭山の玄孫),白井光太郎は「ツリフネソウ」=「坐拏草(ザドソウ)」と考え,牧野富太郎も一時この考定を採用した.この「坐拏草」は,『本草綱目卷十七 草之六 毒草類」には現れる.しかし,貝原益軒や稲生若水の和刻では,対応する和名が記されておらず(下左図),小野蘭山の「本草綱目啓蒙」でも「坐拏草 詳ナラズ。〔附録〕押不蘆 詳ナラズ」と和名は記されていない.後年牧野はこの考定を取り消し,現在では誤りとされている.本草綱目で「鳳仙」の次の項に記され,紫色の花をつけるという事から,ツリフネソウに誤考定されたのかもしれない.
この『本草綱目』にある「坐拏草」及びその項の附録である「押不蘆」はどのような薬草であったのだろうか.

稲生若水校本 (1714) NDL
本草綱目 卷十七 草之六 毒草類四十七種』には,「坐拏草 (宋《圖經》)
【集解】頌曰生江西及滁州。六月開紫花結實。采其苗入藥,甚易得。後因人用有效,今頗貴重。
時珍曰按《一統志》云出吉安永豐縣。
【氣味】辛,熱,有毒。
【主治】風痺,壯筋骨,兼治打撲傷損(蘇頌)。
【發明】頌曰《神醫普救方》治風藥中已有用者。
時珍曰危氏《得效方》麻藥煮酒方中用之。《聖濟錄》治膈上虛熱,咽喉噎塞,小便赤澀,神困多睡,有坐拿丸。用坐拿草、大黃、赤芍藥、木香、升麻、麥門冬、黄耆、木通、酸棗仁、薏苡仁、枳殼等分,為末,蜜丸梧子大。每服二十丸,麥門冬湯下。
【附錄】押不蘆
時珍曰按周密《癸辛雜志》云 漠北回回地方有草名押不蘆。土人以少許磨酒飲,即通身麻痺而死,加以刀斧亦不知。至三日,則以少藥投之即活。 御藥院中亦儲之。貪官吏罪甚者,則服百日丹,皆用此也。昔華陀能刳腸滌胃,豈不有此等藥耶」
とある.

この項を★『頭註国訳本草綱目』白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)(1929)春陽堂では,
「坐拏草*1 (宋圖經) 和名 なし,學名 未詳, 科名 未詳
集解 頌曰く、江西、及び滁州に生ずる。六月紫色の花を開いて實を結ぶ。その苗を採つて藥に入れる。甚だ得易いものだつたが、後世では一般にこれが有效なので、今では頗る貴重視される。時珍曰く、按ずるに一統志に『吉安、永豐縣に産す』とある。
【氣味】辛し、熱にして毒あり
【主治】風痺。筋骨を壯にし、兼ねて打撲傷損を治す。(蘇頌)
【發明】頌曰く、神醫普救方の治風藥中に已に使用された事實がある。
時珍曰く、危氏得效方の麻藥煮酒の方中にこれを用ゐてある。聖濟錄には治膈上の虛熱、咽喉噎塞、小便赤澀、精神困憊の多睡を治する藥に坐拏丸(ざぬぐわん)といふのがあつて、それは坐拏草、大黃、赤芍藥、木香、升麻、麥門冬、黄耆 、木通、酸棗仁、薏苡仁、枳殼等分を末にして蜜で梧子大の丸にし、二十丸づつを麥門冬湯で服するのである。
【附錄】押不蘆*2 時珍曰按ずるに周密の癸辛雜志に「漠北、囘囘地方*3 に押不蘆(あふふろ)といふ草があつて、その地では、その草少量を酒に磨つて飲ませる。すると直ちに全身が麻痺して死亡し、凶器で斬られても知覺がなくなる。しかし三日經過してから別に少量の藥を投ずると、また直ちに活きるといふ」とある。 御藥院中にもやはりこれを貯蔵してあつて、貪官吏にして罪の甚しい者に服ませる百日丹に皆これを用ゐてある。昔、華陀は能く腸を刳(えぐ)り、胃を滌(あら)つたといふが、これ等の藥を用ゐたものではあるまいか。」と訳している.
*1 牧野云フ,坐拏草ハ不明ノ植物デアル.之レヲほうせんくわ科(鳳仙科)ノつりふねさう(Impatiens textorii)ニ充ツルハ謂ワレガナイ.
*2 牧野云フ,押不蘆ハ不明ノ品デアル.
*3 囘囘ハ石部青琅玕ノ註ヲ見ヨ.(本叢書の該当部には「囘囘ハ古代ノ國名.唐書ノ所謂貨勒自彌(クワラツム)國ニシテ宋ノ時突厥此ニ國ヲ建テ,元ノ太祖ニ滅サル.今ノ波斯ノ地ナリ」とある.)

前記事に述べたように,牧野は『増訂草木図説 草部』(1912) においては,「坐拏草=ツリフネソウ」との岩崎灌園の見解を踏襲していたが,この書(1929)では,「坐拏草ハ不明ノ植物デアル.之レヲほうせんくわ科ノつりふねさうニ充ツルハ謂ワレガナイ」とこの考定を否定した.

『本草綱目』で引用されている★『本草圖經』は,北宋の嘉祐年間 (1061) に蘇頌が編撰した,中國に現存する最も早く版刻された本草圖譜である.その「本經外草類卷第十九」には,「坐拿草
生江西及滁州。今頗貴重。神醫普救治風方中,已有用者。」とあり,これが『本草綱目』に引用されていると思われる.左図は後世の和書 貝原益軒『校訂本草項目図上』より(NDL).

また,★宋の太医院編『聖濟總錄 卷第一百二十七』(1117)には,切り傷治療の貼り薬として「如瘡口未合,用後膏藥。坐拿草半兩上一味,搗羅為細末,用粟米少許,將酒煮成稀粥,濾取濃汁,入前藥調勻為膏,塗於帛上貼之,不得動換瘡口,永瘥。」との処方がある.

★明王圻 (1592-1612) 纂集『三才圖會 全百六卷』萬暦371609)序刊の,『巻之草木五』には「坐孥草
坐孥草生江西及滁州六月開紫花結實采其苗爲藥
打撲所傷兼壯筋骨治風痺」
と図と共に記載されていて,これも『本草綱目』の引用元かもしれないが,その図は『本草圖經』のそれとは異なる(右図,NDL).

一方,日本の★小野蘭山口述『重訂本草綱目啓蒙(1803-1806) の「巻之十三 草之六 毒草類」には,
坐拏草  詳ナラズ。〔附録〕押不蘆 詳ナラズ。
続医説、引志雅堂雑抄云、回回国之西産一物、極毒、全似人形、如人参之状、其名謂之押不蘆、生於地中、深数尺、取之者、若傷其皮、則毒気着人必死、取之之法、先開大坑、令四傍可一レ人、然後軽手以皮条之、繋皮条於大犬之足、可既而用杖打犬、犬奔逸、則此物抜起、犬感其気即斃、然後別埋他土中、經歳取出曝乾、別用藥以製之云云。」とあり,「坐拏草」についてはあっさりと「詳ナラズ」と片付け,一方,附録の「押不蘆」については,はるか西方に産する猛毒の植物で,抜くには犬の犠牲が必要という宋末・元初の文人,周密 (123298) の『志雅堂雑抄』を引用してかなり詳しい.

仮に訳すと「〔附録〕押不蘆 不詳である。『続医説』に、『志雅堂雑抄』を引用して云うには、「回回国の西に一物が産する.極毒で,その形は人の形にそっくりで,(朝鮮)人参の様である.その名を「押不蘆」と云う.深さ数尺の地中に生育し,これを取る者が,若し其の皮傷をつけると,すぐ毒気が人に着き,必ず死ぬ.これ取る方法は、先ず四方に人が入れるほどの大きな坑を開きそののち,軽手(不詳)で,皮ひもをこれに絡め,このひもを大きな犬の足につなぐ.杖で犬を打ち,犬が逃げ走り出すと,此物がぬける.犬は其の気を感じてすぐさま斃れる.その後に別に他の土中に埋めて,一年ほど経てから取出して日に曝して乾し、薬物を製造するのに用いる.云云。」

蘭山が押不蘆の一次出典としている,周密* (123298)の『志雅堂雜鈔』の該当部を見たところ,より詳しい記述が見つかった(右図).即ち

囘囘國之西數干里地一物 極毒全似人形如人參之狀 其名押不蘆 生于地中探數丈或從 傷其皮則毒之氣著人必死 取之之法則 先開大坑令四旁可容人 然後輕手以皮條結絡之 其皮條之前則繫于大犬之足 既而用杖打犬 犬奔逸則此物拔起 犬感此氣即斃 然後別埋他土中 經後取出暴乾別用藥以製之 其性以少許磨酒飲人 即通身麻痺而死 雖刀斧加之不知 也然一日別以少藥投之即活蓋古者華陀能刳腸滌藏治疾者 蓋因此藥也 聞今時御藥院中亦有二枚 此神藥也 曰玉廷聞之盧松崖云」

時珍が引用している同人の『癸辛雜識 續集上』には「○押不蘆 囘囘國之西數千里地,一物極毒,全類人形,若人參之狀,其酋名之曰押不蘆.生土中深數丈,人或誤觸之,著其毒氣必死.取之法,先於四旁開大坎,可容人,然後以皮條絡之,皮條之系則系於犬之足.既而用杖擊逐犬,犬逸而根拔起,犬感毒氣隨斃.然後就埋土坎中,經,然後取出曝乾,別用他藥制之.每以少許磨酒飲人,則通身麻痺而死,雖加以刀斧亦不知也.至三日後,別以少藥投之即活,蓋古華陀能刳腸滌胃以治疾者,必用此藥也.今聞御藥院中亦儲之,白廷玉聞之盧松崖.或云 今之貪官吏贓過盈溢,被人所訟,則服百日丹者,莫非用此.」とほぼ同様の記事がある.(出典:いずれも中国哲学書計画)

*周密 (123298) 中国,宋末・元初の文人.字は公謹,号は草窓.浙江省呉興の出身,原籍は済南.宋末に任官したが,滅亡後は隠退して風雅の生涯を送った.歌辞文芸,詞の作家として有名.

この押不蘆の特徴をまとめると,「原産地はペルシャより西数千里で,非常に有毒.根の形は人にそっくりで,地中深くに産する.人が誤って触れると死に至る.採るには,犬の足に革紐で結びつけ,杖で犬を打って走らせて抜く.犬は毒に感じてすぐ死ぬ.
採取した根は一年以上土中に埋め後,日に曝して乾かして薬物とする.磨った粉を少しだけ酒に混ぜて飲ますと,その人は麻痺して死んだようになり,刃物で切り付けても感じない.三日後にまた少量を服用させると生き返る.」

これらの特徴は,微妙な違いはあるものの,中世の欧州のマンダラゲMandrake, Mandragora officinarum L.)の伝説と合致する所が多い.例えば,12世紀の英国の詩人 Philip de Thaun ” Bestiaire” には, この薬草の不思議な特性の記述があるので,欧州から西域経由でマンダラゲがその伝説と共に中国に伝来し,押不蘆として記録されたのであろう.いろいろ調べてみたが,押不蘆の記事はこれ以降の中国本草書・植物誌には見いだせなかった.

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