2017年2月23日木曜日

オシロイバナ-13 梅毒 日本での蔓延-2 江戸時代.西遊記,形影夜話,養生法,骨から見た日本人,ケンペル,ツンベルク,シーボルト,高良斎

Mirabilis jalapa
梅毒スピロヘータは,カリブ海から地球を半周して日本に到達,1512年(永正9)には記録が残る.南蛮人の渡来より30年も早い.この梅毒を大陸から運んだのは日本人を主体とする倭寇(わこう)であり,時代は戦国乱世の動乱期で,梅毒はたちまち日本人を激しく冒していき,江戸時代に深く淫侵(いんしん)した. 
梅毒は室町後期 1512年には京都の多くの住民が罹患していると書かれている.これが梅毒の日本における最初の記録とされており,人の往来の多い大都会を中心に日本各地に拡がった. 
梅毒は江戸時代になると,参勤交代で江戸に上がった藩士たちが遊里で遊び,感染して帰国後地元で拡げたことから*,全国的な感染症となった.

京都の医師,橘南谿 (17531805) が,医学修業のため諸国を歴遊し,道中で見聞し考えたことをまとめた「東西遊記」の内,1795年に版行した『西遊記 下 巻之三』の「〇壽(じゆ)夭(えう)」(長命と短命)の章には,
西遊記 下 巻之三 〇壽(じゆ)夭(えう)WUL
「〇壽(じゆ)夭(えう)
余諸國をめぐり試(こころむ)るに,山中の人は長命なり.海邉の人は短命なり.京都の人は癰疔(ようちょう)の如き腫物類は甚稀(まれ)なり.長崎には甚多くして,京都の三雙倍(ざうばい)五雙倍ともいふべし.其由來を考ふるに,食物の事にあり.山中の人は魚肉なければ常(つね)に芋(いも)大根の類のみを食す.もし年始(ねんし)節句(せつく)其外祝ふ日といへども,富(とめ)る者も纔(わずか)に鹽肴(しほざかな)乾物(ひもの)には不過(すぎず).其上に高山深谷(しんこく)に登り下りて耕作(かうさく)に身を勞(らう)し,纔に麥飯(むぎめし)に饑(うゑ)をしのぐ.麁(そ)食にして身を動(うごか)す故に,長命にして無病なり.海邉の人は魚肉(ぎょにく)に飽滿(あきみち)て,飯のかはりにも魚を食し,船の出入り有りて諸國の運槽(うんさう)よろしければ,飯は其米自由(じいう)なるゆゑに,貧しき者もつひに麥飯などは食せず.其上に山坂の働(はたらき)の苦勞(くらう)は無く,船にて往來(わうらい)やすらかにして,魚鹽の利ゆたかなれば,自然と身も安くして美食にくらす故,病身(びやうしん)にして短命(たんめい)なり. 猶又山中は人の往來不自由にして,淋敷(さみしく)質朴(しつぼく)なれば,賣女(ばいぢよ)遊里(いうり)も無く,濕毒(しつどく)傳染(でんせん)の憂(うれひ)も無く,海邉は何方(いづかた)にても諸國(しょこく)の通路(つうろ)よければ,賑(にぎやか)に華麗にて遊女あらざる所もなく,人ごとに濕毒もうつり,且又鹽(しほ)風(かぜ)に濕氣(しつけ)を受(うけ)て,内外より病を作り養ひ,心氣(しんき)を勞(らう)し,腎(じん)をつからし,いかなる壯實(さうじつ)の生れ附といへども,短命(たんめい)病身(びやうしん)ならざう事あたはず.是山中と海邉の壽夭(じゆえう)の違(ちがひ)の根本(こんぽん)なり.長崎は天下第一に魚肉(ぎょにく)たくさんにて,野菜(やさい)の類より下直(げぢき)なる程なれば,人皆日々魚肉に逢ひて飽満(あきみち),且又唐人の飲食を見習へ,何の肉にても油(あぶら)あげになし,厚味(こうみ)にして食す.其上金銀の通利格別に宜敷,人皆歡樂(くわんらく)にしえ世を渡る.其故に日夜唯飲食のみを樂(たのしみ)として,身を働(はたら)き氣血(きけつ)をめぐらす事なし.是皆腫物(しゅもつ)の類(るい)の多(おほ)き根本(こんぽん)なり.京都は人皆家業(かげふ)を専一につとめ,身を働き,海(うみ)無(な)き國なれば,魚肉格別高料(かうれう)にして,貧賤のものは求(もと)めがたし.故に他國(たこく)に違(ちが)ひ,常(つね)に麁食也.癰疔の類すくなき所以(ゆゑん)なり.然れども,繁(はん)華(くわ)の地ゆゑ濕毒(しつどく)の憂(うれひ)は日々に多く,貴賤(きせん)おしなべて病(やま)ざる者無きに似たり.もし保養(ほうやう)をよくせば,京の地も長壽(ちやうじゆ)を得べき所なり.」
と,港町は人の往来が盛んで,賣女,遊里が多く濕毒にかかる可能性も高く,食生活も肉食に偏り味付けが濃いので,山里の人に比べれば短命である.京都も食は山里に近いが,賑やかなので「濕毒の憂は日々に多く,貴賤おしなべて病ざる者無きに似たり.」.しかし,保養に努めれば,山里の人と同様の長命を保てるだろうとしている.

山脇東洋の門下であり,古方派の医師であるが,西洋医学にも理解を示した永富独嘯庵1732 - 1766)の『黴瘡口訣』1788 序)には,
「黴瘡口訣  独嘯菴
黴瘡口訣  独嘯菴 WUL
凡,此黴毒ノ一症ハ,中古以来ノ病ニテ,中華ニテモ,結定端的ノ方書無シ.陳九韶ガ,黴瘡秘録ト云ヘル一書アレドモ,下手醫者ノ著タル書ナレバ,治療ノ手本トナシ難シ.近年此病,諸国ニ流傳スルコト,大方ナラズ在在津々浦々,至ラヌ所ナク,跡先ナシノ,年少ノ徒ハ,治療ノ道ヲ,疎略ニ打遣リ,終身ノ患トナル者夥シ.
(中略)予,諸国ヲ經歴セシ内,肥前長崎,或ハ京大坂,江戸ナドノ如キ都會繁華ノ地ハ,十人ニ八九人ハ,此病ヲ病.医ヲ業トスル者,能々心得アルベキ事ナリ.此病ハ,昔ヨリ素人療治ニモスルコト,仕似セトナリテ,夫ニテ,輕粉*水銀ノ毒ニ中リテ,終身廃疾トナル者モ,亦多シ,此病ニハ輕粉水銀モ用ヒザレバナラヌコトアレドモ,至テ嶮峻ノ藥ナレバ,素人業ニハアブナキコトナリ.是又大ニ傷ムベキコトナリ.箇様ノ事,イヅレ生民ノ大患ナル故,目ニ見耳ニ聞手ニ仕覺エタル事ヲ,アラアラ書付侍ルナリ.」と,日本全国に「流傳」し,大都会では「十人ニ八九人ハ,此病ヲ病」み,しかも副作用の甚大な水銀剤「輕粉」以外有効な治療薬がないため,水銀中毒となり「終身廃疾トナル者モ,亦多シ」と,嘆いている.(輕粉*:水銀から昇華法で精製した粗製塩化第一水銀(甘汞) Calomelas (Hg2Cl2またはHgCl) の白色結晶性粉末)

杉田玄白 WUL
杉田玄白1733-1817)は晩年の著作『形影夜話 巻之下』(1810)では,「問う 病名の如何」の章に「兎角(そうこう)する内に年々虚名を得て病客は日々月々に多く毎歳千人余りも療治するうちに七八百は梅毒家なり 如斯(かくのごとき)事にして四五十年の月日を経れは 大凡此病を療せし事は数万を以て数ふへしと、」と毎年診療する千人余の患者のうち、七八百人は梅毒患者だったと振り返っている.(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0222/bunko08_c0222_0002/bunko08_c0222_0002_p0017.jpg

1823年から29年にかけて長崎に滞在したオランダ商館医師シーボルトに,門弟の高良斎17991846)が提出した論文『日本疾病志 日本に現れる注目に價する數種の病の短い目録並びに記載』には,
「第三 花柳病
我が国でもこの疾病は全日本に日一日と段々擴がつて行く.それで百人中十人高々十五人がこの病気から免れてゐる位のものである.従つて日本の疾病は大部分花柳病で壓倒されてゐるわけである.
遺憾なことには我が国の醫家は,多くの無知からこのいやしむべき花柳病を明らかにするを得ず,他の疾病と誤り,そのために患者に多くの不幸を齎すことさへある.ご承知の如く,日本人は年と共に弱く小さくなつて行く.私はそれは恐らくこれ花柳病と關係があると思ふ.
もしあなたが歐州へ歸られて,この疾病を十分に取り扱つた本を我々に送つてくれられるならば,それは我々の大なる幸福なるのみならず,日本人全體の幸福であらう.私は先年これについた一書を書いた. Swediaur著(?)1817) 私はそれを日本の醫家のために譯すであらう.[意味不明.『書いた』は恐らく『入手した』の誤りであらう.]」(シーボルト文献研究室 編刊『施福多先生文献聚影』(1926),NDL)
と,梅毒の流行が西洋人に比して日本人が病弱で体格的に劣る理由としている.また,適切な診断法や治療法がない事にも,危機感を抱いている.

江戸時代末期,幕府医学所頭取の松本良順1832 – 1907)が書いた『養生法 下』(1864)の「〇房事」の項には,「下賎の人間100人のうち95人は梅毒にかかっている。その原因は花街・売色に規制がないからだ.西洋の国にはこの病気の蔓延を恐れて花街を破壊したが,かえって病気は拡がった」とあり,花街を存続させ,働く娼婦の規制・検診を推奨している.実際に1860年に長崎にロシア艦隊が来航した時には,幕府医官だった彼は艦長の求めに応じて,遊女の梅毒検査を実施した.

また,鈴木隆雄骨から見た日本人(1998) 講談社選書メチエ142 で,鈴木氏らが旧江戸市中で発掘した人骨調査の結果から,①江戸時代の成人のうち骨梅毒に罹患している者は,全人口の 3.9 – 6.9% で,平均 5.4% である.また,明治三六年(1903)の東京帝大皮膚科外来統計から②第三期の骨梅毒を有するものは全梅毒患者の 9.9% を占めている.という二つの値を用いて,江戸時代の梅毒患者の頻度を推計し,江戸市中の人の 54.5 % が罹患していたとしている.(「第六章 江戸を生きる-命長ければ病多し 1 江戸の徒花・梅毒」).

* 「また警視庁衛生部長・栗本庸勝**によると「徳川時代におきまする花柳病の伝播者は、主に諸国から参勤交代いたしまする武士でありまする。この頃の規則として参勤の武士は妻女を同伴して旅行することが出来なかったので、道中筋はいふに及ばず江戸へ着きましても、猖んに私娼を買ひ又は遊里に出入りしたのです。そして此の結果は道中で感染した病毒を江戸へ輸入し、或いは江戸で背負い込んだ病毒を国元へ伝播するという恐るべき害毒を流したものです」という.」(苅谷春郎『江戸の性病』(1993)三一書房,**警察医長 医学士 栗本庸勝(? -1933))

江戸時代に来日したオランダ商館の医師たちも,梅毒の患者が多い事に気が付き,その治療法を教授している.

ケンペル(1651 - 1716,滞日:1690-1692)は『廻国奇観』 (1712) の「シナおよび日本でよく行われている艾灸」という項目の中で,「日本人は水浴好きで とくに湯にはほとんど毎日入る。日本人が比較的梅毒に罷らないのはそのためで、湯浴好きでなかったら、梅毒は全国民の間に蔓延していると思う。」と記述し,彼も梅毒患者を多く認めていた.(宗田一『図説・日本医療文化史』思文閣出版 (1993))


1775年にオランダ東インド会社の外科医として長崎に赴任したスウェーデン生まれのツンベルクは,江戸参府の道中に多くの梅毒患者に遭遇し,治療に有効な水銀製剤「スウィーテン液」の調製法を通辞達に実地に伝授し,著効が見られ感謝されている,とその『旅行記』に記している.

出島のオランダ商館の医師として 1823-29 年赴任していたシーボルトは,江戸参府の途中や江戸で診察した患者の中に、痼疾となっている梅毒の非常に思わしくない症例をいくつも見つけた。「私は日本でこんなに深く根を下ろしたこの病気の種々の型や、水銀剤の適正な用法について短い説明をした。」それまで日本では主として軽粉等の形で内服され.それも瞑眩(メンゲン)するまで服むという考え方があって,水銀剤中毒が多かった.シーボルトは頑固難治の黴毒には水銀軟膏の塗擦療法をすすめた.

ケンペルの考察,ツンベルクとシーボルトの梅毒療法については後記事

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