Ilex
latifolia
タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせての後ハわが身なりけり」と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして川に流す,或は門口に掲げる,まじないが,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.「麦殿」と云う麻疹除けの民間信仰神の由来は,「はしか」というこの病の名称に係っていたようだ.
平安時代「アカモガサ,赤斑瘡」と言われていたこの病を「はしか」と呼ぶようになったのは,鎌倉時代とされている.富士川游(著),松田道雄(解説)『日本疾病史』平凡社 (1969) の「麻疹」の章には,「鎌倉時代の頃になって世人は麻疹をハシカと呼んだ.鎌倉時代の医師,梶原性全
(1266-1337) の「万安方 (1315~1327)」には,瘡疹の部門を立て,瘡をモカサと読み,疹をハシカと読み,また同人の著書「頓医抄 (1302~04)」には,麩瘡にハシカカサの読み仮名を附けた事からも明かである.」とあるが,これらの書を見ることは出来なかった.
(以下画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用)
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『多聞院日記(たもんいんにっき)』は奈良興福寺の塔頭多聞院において,室町期
文明10年(1478年)から江戸初期
元和4年(1618年)にかけて140年もの間,僧の英俊を始め,三代の筆者によって延々と書き継がれた日記.当時の近畿一円の記録が僧侶達の日記から分る一級資料である.その室町期,文明十六年(1484)六月三日の記事には
「臨時心經會成廻請畢.自今春疱瘡并瘀(ハシカ)以外増,七八十歳之物ニ至マテ病之,於小兒不及言者也,隨老若病氣大事也,他國ニハ多以令死去,於當国當所(大和国奈良)者,依瘀(ハシカ)死去之物少シ.叉三月末四月初比以來疫病以外増.殊南里ニ増云々.多以老若失命者也.於他國者言語道斷疫令増云々.隨而死去之事ハ,他國之事一里二里而開ル在所在之云々.仍爲自国他国祈禱,臨時心經會可有始行之由學侶評定,則寺務ハ被申之了,依學侶之儀廻請等如前々認之者也.五師・三綱出仕廻請・幡廻請等如恒例認之,叉疫病ハ於寺僧中一人而無之.」とあり,瘀にハシカの読み仮名が振られ,室町期にはハシカが病名として知られていたことが分かる.(出典:英俊ら著『多聞院日記』 第1巻,三教書院 (1935))
一方,中国明代の医学書の『古今医鑑』等に記された「麻疹」の病名は日本に伝わり,甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成. 七』(1932-35)に収められている★『妙法寺記』の永正十年(癸酉)(1515) の項に「此年麻疹世間に流行事大半に過ぎたり錢をゑる事無限賣買安し.(以下略)」とあるのが,「麻疹」の初出とされている.また,この書の大永三年(癸未)(1523) の項には「「此年少童痘(も)をやむ又イナスリをやむ大〓(墍の土を木,概?)ははつるヽ也」とあり,イナスリとも呼ばれていた.
『甲斐志料集成. 七』には,「妙法寺記は一に勝山記ともいふ.山梨縣南都留郡小立村妙法寺住僧の記されたるもの也.上下二巻よりなる.文正元年より永禄四年に至る九十六年間の甲駿越及び坂東諸国の主要なる出来事を録せるものにして信憑するに足る記録として古來より史家の間に有名なる史料の一也.」とある.それぞれの年には,甲州で「麻疹」が医師から伝えられ,一方和名としては「イナスリ」が僧職の間では一般的であったと思われる.
「麻疹」は医家の間で広くこの病の名として認識され,曲直瀬玄朔(1507-1594) が1576年(天正4)に著わした,28歳から58歳までの30年間にわたる診療の記録★『醫學天正記』(慶長12, 1607)には,「麻疹」の項があり,二人の患者の病状と処方した薬の記録が残る.「麻疹
一 二條又右衛門子息 五才 疹後ニ身熱シ便瀉シテ不食?? 咳痰ス
和肌湯 参蘇飲ニ去レル枳ヲ
一 河村清十郎 疹後ニ浴テ而發熱シ往來イ久ク不レス已マ 大便瀉シテ而帯血渇ツ甚シ
調中湯 参 朮 苓 甘 陳 芍 葉? 丹 王 門 葛」
これ以降の時代には,漢名としては「麻疹」が一般的となり,庶民の間では「ハシカ」が多く用いられた.
江戸時代後期の医師 橋本伯寿 (? - 1831) 『断毒論 天』(1809)の「痲源」の項には,この病の名称が文献名と共に記載されている.
痲亦今-昔無レ有焉.其初異-域之疹氣.合二湊於人-身一.以成二一-種之異病一.傳-染周-流.恰如三痘之巡-二行郡-國一.屢巡二-行萬國一.而残二害乎古-今之生-民一者也.按○
和漢多二名目一○ 所謂傷-寒-斑-瘡○ 天-行-發-斑.溫-毒-發-斑○ 唐以-上,諸-方-書,麻 景-岳-全-書(略) 麻疹○ 古-今-醫-鑑,痲疹 濟-世-全-書○
廣-韻云,痲本作レ麻 糠瘡○ 景-岳-全-書云,(中略)
麻-子-瘡○ 天-平-九-年官-符 赤-斑-瘡○ 扶-桑-畧-記 斑-瘡○ 百-錬-抄 赤-疹○ 和-漢-合-運 赤-疱-瘡○ 稲目瘡○ 日-本-記-畧,和訓意-納-墨-加-沙(イナメカサ),亜-加-謨-加-沙(アカモカサ)○
栄華物語 巴-斯-加(ハシカ)○
邦-俗,呼レ糠-穎,曰二巴-斯-加,取乙意身-體喉-口發レ疹,如甲レ觸二糠-穎一,與二證-治-準-縄*-云糠-瘡一同-意, 意-納-速-利(イナスリ)和,稲訓二意-納一,摩訓二速-利一,是亦觸二稲-穎一之意,等○皆濫名○ (以下略)」
*『証治準縄』:明代医家王肯堂編輯,万暦35年 (1608) 頃の成書.六科に分かれ、《六科証治準縄》《六科準縄》とも称す。
ハシカに罹って喉がいがらっぽい様子を,意-納-速-利(いなすり)は稲の穎に觸れて,巴-斯-加(はしか)は穀物(麦)のもみ殻の穎に觸れて,チクチク・イライラする様に例えたとしている.この「はしか」の名の由来が「麦殿」が信仰された要因と考えられる.
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