Ilex
latifolia
タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせての後ハわが身なりけり」(ヴァリエーションあり)と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして川に流す,或は門口に掲げる,という咒が,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.
「麦殿」の由来は,前ブログに記した,太田全斎 (1759-1829) の『俚言集覧』や葛飾蘆庵の『麻疹必用』(1824)にあるように,はしかの名の由来として,ムギ(や稲)の芒(禾,のぎ)が肌をチクチクと刺戟する様を,西国では「はしか」という事に由来する.此事から,神格化した麥(麥殿)は,一度罹患すると二度とはかからない麻疹に既に罹っているから,麻疹神に(この子のところに 或は この家に)来ても無駄だよと宣告したのであろう.
また,タラヨウの葉は,経文を書いて保存する「ありがたい」貝多羅葉と同一視されていたことや,火であぶると麻疹罹病時と同様の「斑点」が現れる事から,この咒をタラヨウの葉に書けば,その効力はいや増すと考えられたのかもしれない.
文中画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用
文中画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用
Blog-5 に記したように,享和3年(1803)3月下旬~6月のはしかの流行に振り回される,江戸の風俗を面白おかしく描写した★式亭三馬の『麻疹戯言(ましんきげん)』(1803)
には,中国の風俗に託した麻疹に便乗する江戸の生業の街角の風俗を挿絵にした.そこには,「多羅葉」を生薬屋の店頭で売る丁稚の姿が描かれている(右図).
また,文中に「二十八年(にじゅうはちねん)のむかし/\に廃(すた)れども,かせての後(のち)は我(わ)が身(み)に請合(うけあ)ふ.麥殿(むぎどの)の歌(うた)」とあり,また「多羅葉(たらえふ)の,たらはぬがちなれば」とあることから,この書刊行の28年前の安永5年(1775)の流行時には,麦殿の歌とタラヨウの咒いが,既に流布していたと推察される.三馬は「廃(すた)れ」たと言ったが,タラヨウの葉の麦殿の哥の咒は,その後も広く信じられていた.
特効薬もなく,良い医師の診察代が高価だった江戸では,「ハシカ除け」の呪いが庶民の拠り所だった.流行初期の咒には,タラヨウの葉の麦殿の哥の他に,梅毒除けのお守りを転用する,馬(特に神馬)の飼い葉桶を被る,ヒイラギの葉や御柳(ギョリュウ)の葉を煎じて飲む等があり,武家の間でも行われた(甲子夜話,54巻).
文政七年 (1824) の流行時に出版された★葛飾蘆庵『麻疹必用』には
「麻疹来んとする時預(あらかじ)め用心の妙法」の一つとして
「○又方多羅葉(たらえふ)といふ木(き)の葉(は)を採(とり)左の通りの古哥を書本人の年と姓名を書付惣身をなでて河へ流すべし
「○又方多羅葉(たらえふ)といふ木(き)の葉(は)を採(とり)左の通りの古哥を書本人の年と姓名を書付惣身をなでて河へ流すべし
〈むぎどのは生れたまゝに
はしかしてかせての後ハ
わが身なりけり〉
此葉を書てからた中をなでさすりて流せハ必ず
★乍昔堂花守の『麻疹癚語』(1824) には,
「御江戸の繁華の地方(とち)四里四方の其間、爰乃門(ここのかど)にもはしかの妙薬、かしこの裏にも麻疹の奇方と、筆太に見しらせたる間に、合(あい)招牌のおびたゞしさ。仁の術やら術ないやら、はしか銭をしてやらふと、人たらし*の多羅葉に、麦どのゝ歌をそへて売あるく奴あれば、食物の能毒を施印にして配るもあり。」とあり,麥殿の咒が広く信じられていた様子が記されている.
*人たらし:「人をだます人または物」という意味. たらすは漢字で「誑す」と書き,言葉巧みにだましたり,甘い言葉で誘惑するようなことを指す.「是ぞ都の―ぞかし/浮世草子・一代男」
★山田佐助『麻疹串義教訓』(1824)にはタラヨウの葉に麦殿の歌を書いて川に流す,また,節分に門に挿したヒイラギの葉を33軒から一枚ずつ貰い集め,煎じて未患病の子に与えるとよいという咒いが,載っていて,日本古来の妙法で,「信すべし 尊むへし」と強調している.
「麻疹除咒法(はしかをかろくするまじない)
麻疹軽くする法 柊の葉(ひいらきのは) 多羅樹葉(たらじゆよう)
一 多羅樹葉(たらやうのは)一枚とり
麥殿(むきとの)は生(うま)れたまゝに麻疹(はしか)して
かせたるのちハ我身(わがみ)之けり
といふ哥を書(かき)はしかせぬ小児(こども)の名と年をかきて川へ流すへし
かならす輕く 餘病も出ず
右は我 日本神霊の傳法にして 必驗の妙方な里(り)
信(志ん)すべし 尊(たつとむ)むへし」とあり,その効力は絶大としている.
平戸藩を経済的困窮から救った名君であり,また趣味人として知られる★松浦静山(1760-1841)の『甲子夜話』(1821-41)の「巻四十五」には,文政七年 (1824) の流行時に友人の御医中川常春院が出版した『救疹便覧』の内容を記すと共に,家中に対して行った予防法のお蔭か,比較的軽微に済んだとある.タラヨウの咒は記録されていない.一方では,これらの注意を無視しても,病状が回復した駕籠かきの例や,逆に禁忌の房事を行ったため,悪化して死亡した遊女の例も挙げていてる.
巻四十五
〔二三〕 今年春江都に麻疹流行せしは一般のことなりし。このこと蚤(は)や前年の秋初か、予が西辺の領邑に已にありと聞たれは、かねて知る観音柳〔一名御柳〕の庭前なるが、はや霜葉せんと見ゆるを、採てその療用に設けよとて、紙袋の大なるに三つ四つ貯置たりき。然るに其年の末には、都下も少しづゝ思る者ありと聞しが、春になれば盈々たり。此とき御医中川常春院、一小冊を刻して世に施す。予もその冊を得しが、今後年の為に滋に記す。
『救疹便覧』
凡麻疹は陽に(中略)
避疹法
蒼尤(さうじゆつ)川芎(せんきゆう) 細辛 乳香 降真香 右等分粗末にして火に薫じ、人々嗅候得ば、一生麻疹に不レ染と云。(中略)
麻疹流行時の薬
一、御柳〔一名観音柳。又西河柳〕
右一味、枝葉とも大人一服弐匁程、小児は壱匁程、常のごとく煎じ用ひてよし。但目方は目分量にてもよし。又懐妊の女には荷葉(はす)のまき葉を別にせんじ、前の御柳と同じく兼用て怪我なし。」
(中略)
予この時,の患にかゝる人々を避めんと志て、予め嗅薬の法を製して、藩中に普く嗅がせ、又手近き妾婢等には日々に咲かして、又芭蕉稗浴の方をも、邸内にはかねて浴屋あれば、その所に設て普く浴せしめ、妾婢には日浴させ、三豆湯は茶の代りとして朝夕に服せしめ、藩中にも施したりしが、是にても脱れざると覚しく、遂に皆この患に罹らざるはなし。去れども其効にや、藩中の老少総て危篤の者一人もなく、内に在りし妾婢の輩は、際だちてその患軽かりし也。又貯置し観音柳も、軽症ゆゑ用ゆるに及ばずして、たゞ一袋を発して止ぬ。又外々のことを聞くに、種々の不養生なる者、誠を守らざるも有りしか、疹息の難無して平復し、或は流毒の間に交り居て、その病に染まざりし者も有りとそ。人世のことはかゝるも多き者なり。
〔二六〕 上年西国より麻疹流行して、今春は東都に及べり。官醫中川常春院、治疹の書を著し、諸人に印施して、殊に禁忌のことを伸ぶ。然るに可笑しきは、坊主衆の利倉某話す。その僕年五十なるが、発熱して臥たり。一両日にして不レ起。某(それがし)見るに麻疹なり。因て、汝疹なり。我れ薬を与へん。能く保養すべしと云へば、答るに、左あらず。はや快(こころよし)と云故、其まゝにして置たるに、仲間に語りたるを聞けば、五十の歳になり麻疹と云も外聞あしゝと云たりしと。然るに其翌日は如レ常月代(さかやき)すり、髪結(ゆひ)て出たり。且(かつ)酒気もあるゆゑ、何にして早く快きと間へは、はや全快せしまゝ入湯の後、まぐろの指身(さしみ)にて一盌傾け出候と云たり。某もあきれはてゝ虞(すてておき)たるが、夫(それ)より某が外行には、日々駕寵(かご)を舁(かき)行き、今に別条なしとそ。又或人の話しは、吉原町か、或る名妓この病に染たるが、殊に軽症ゆゑ、しばし引籠りて加養せしが、頓(やが)て快復せり。因て倡主も、かゝる軽症なれば礙(さは)りなし迚(とて)、不日に客を迎(むかへ)たるに、その後朝(きぬぎぬ)より病再発して尋(つい)で死せりとぞ。是より倡主驚き、他妓のこの病に染たる者に其禁忌を守らせしとぞ。後聞くに、妓は鶴屋の大淀と云しなりしと。」
(松浦静山著,中村幸彦・中野三敏校定『甲子夜話3』東洋文庫 321 平凡社,1977)
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