2017年12月15日金曜日

タラヨウ(11)はしかの名の由来(4)日本疾病史,倭訓栞,俚言集覧,麻疹必用

Ilex latifolia
2005年5月 塩竃神社
タラヨウの葉に,「むぎどのは生れたまゝに,はしかして,かせての後ハわが身なりけり」と尖刻して文字を浮き上がらせ,麻疹除けとして,川に流す或は門口に掲げるというまじないが,何時から始まって,なぜ,タラヨウの葉なのかは,はっきりしなかった.「麦殿」という麻疹除けの民間信仰神の由来は,「はしか」というこの病の名称に係っていたようだ.

「はしか」という病名の由来は,富士川游著,松田道雄解説『日本疾病史』東洋文庫133,平凡社 (1969) の「麻疹」の項に「ハシカとは稲麦の芒の喉にたちて、いらいらするの感あるによりて名づけたること、諸家の説あり。これを列挙すれば次の如し。『ハシカとは麻疹をいひ、麦の芒刺をいふ、ともにいらいらとして苛酷なる義なり、「下学集」に檜を読めるは、芒刺の意なり』(「倭訓栞」).」とある.

江戸後期から明治にかけて編まれた★谷川士清の国語辞書『倭訓栞』の増補改訂版『増補語林倭訓栞』皇典講究所 (1898) には「はしか 麻疹をいひ麦の芒刺をいふ ともにいら/\として苛酷なる義也 下學集*に檜をよめるハ芒刺の意也 麻疹を糠瘡ともいへり 羅浮子**云細粟如麻者呼爲麻也 國史には赤斑瘡とみゆ,」とある.
*東麓破衲編『下学集』(室町期1444)(確認できず)
**羅浮子:林羅山 (1583-1657) の号の一つ

日本疾病史』には,「ハシカとは瘡も喉も、いがらぎ心地するを云ふ、畿内及び西国には、物のいらいらするを、はしかいといふ、喉のいがらきをもしか云ひ、稲麦の芒をもはしかいと云ふ(「麻疹考」)。」(未確認)
「ハシカといへるは、身体咽喉いがらく、いらいらとはしかきものなれば、然云ふなるべし、豊足(中島)が郷里の俗、稲麦の芒塵に交るをはしかめにまめるといふ、又籾糠にまぶるゝをも然いへり、又尾張名古屋の俗、糠をはしかといへるも、共にこれに交る時ははしかきより云ふなるべし、又気をいらちて物する人をはしかき人と云ひ、又蕁麻をいらくさと云ふも、此草に触近づくときは、其芒頴にさゝれていらいらとはしかきものなれば、いらくさとは云ふなるべければ、比等を以て、ハシカといへる意も、証候をも察すべし(「疫瘡新論」)。」(未確認
「旧説にハシカといふは咽中はしかく覚ゆる故なりといぶことを、頃日見出だせり、されば関東にて、いがらっぽいといふは、即ちはしかくといふことなるべく、これは烏薟とも、戟喉ともいふ意なるベし、我郷人のいへる穀芒、秕の喉を刺戟するがごとしといへると同義なり、このハシカの名を漢名に訳さば戟喉瘡にして、此病に於ては的当せる名なり』(「麻疹啓迪」)。(未確認
と,ハシカの名の由来は「罹患すると喉が刺激されるのを,稲や麦の芒の塵を吸い込んだ様子に例えた」と記した多くの文献を引用している.

また,江戸後期の儒学者★太田全斎 (1759-1829)の『俚言集覧』(成立年未詳)には「麥殿ハ生れなからに麻疹して 麥の芒(ハケ)をハシカと云 波部のハシカイの條通考すべし」とあり,波部には「はしかい 麥の穎にていらヽくが如くなるを俗にハシカイともハシカボイとも云麻疹をハシカと云も名義ハ是に取れるなり[萬安石]疹はしか又麥芒をハシカと云尾張名護屋にて糠をはしかと云[疹科纂要]俗名糠瘡」とある.

★葛飾蘆庵の『麻疹必用』(1824)には,「はしかといふ名ハ左のずの如く稲(いね)の芒(のぎ)麥(むき)の芒(のぎ)をはしかという之
いねのゝき むきののぎ
稲穂(いなぼ)麥(むき)の穂(ほ)ともに(のぎ)をはしかといふ
芒(のぎ)とハ穂(ほ)の先の毛(け)をいふ之又尾州の名古屋(なごや)にて(ぬか)をはしか
といふ五畿内及西國にて物のいら/\することをはしかというゆへ
喉(のんど)のいたきをもはしかといふ麻疹(はしか)の初め喉(のんど)のいたき心地(こゝち)するを
以てはしかといふなるべし又鄙俗(いなかもの)の芒(のけつ)〓い.はしか〓い.〓〓〓〓いなるをいふおもひ合するべし」
と図入りで解説している.「〓」は判読不能文字

このような「麦の芒」と「はしか」の関係から,「麦殿の咒哥」が信じられたのであろう.

(文中の画像は,NDLの公開デジタル画像より部分引用)

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