ツグミの肉は古くから味が良く,滋養に富むとして高く評価され,大きさはムクドリくらいで、肉量もまずまずだったので,猟の対象とされていた.
江戸初期までは弓矢による射撃*や,螻蛄を餌にするトリモチや罠,茨城の鹿島地方での蚯蚓を餌にした鉤釣を使った捕獲が主であったが,やがて,加賀藩から始まった「霞網」を用いた猟法により大量捕獲されるようになった.この,「霞網猟」は,戦後禁止されるまで,ツグミ捕獲の主流となった.
*室町時代には,武士のたしなみとして,射芸において鳥獣を射る際の身拵えが常に問題にされた.小笠原流京都家系の武家故実を述べた『家中竹馬記』に,馬上の礼法をかずかず挙げる中に,「一 馬上にて小鳥を射るには,鶉・雲雀・つぐみほどらひ乃物までは,はだぬがで,矢頭四目木鋒などにて可レ射.おん鳥めん烏以上をば雁侯にて射る也.此時は紐をおさめ,はだ脱ぎて射べし」(右図,NDL)とある.
ツグミは,十月ごろ,シベリア東南部,ウスリー,カムチャッカ,樺太などから,海を渡って,大群を作って日本へやって来る.
その渡りのコースは二つあって,シベリアから日本海を横断して能登半島付近に上陸するのが一つ,同じくシベリアから樺太,北海道,青森というふうに南下して来るのが一つである.主流は日本海横断コースの方で,もっとも渡来数が多い.夜のうちにシベリアをたって,日本海に出るのだが,毎時四十キロくらいの速さで飛び,六百四十キロの海上を,十六時間で横断するという.石川県には秋になると多くのツグミがやってきて,或は群れのままに更に京都府,岐阜県,長野県へと移動する.山林でしばらく群れで行動をしたのち、徐々に散らばり、それぞれ平地の里山や農耕地・草原・都市部などに移動し、冬を越す.
★遠藤公男さんの名著『ツグミたちの荒野』講談社 (1983) によると,石川県の愛鳥家の話として,
幕府から、加賀藩は外様大名としてうとまれていた。藩主の前田侯は、いらぬ疑いをうけないよぅに、自分も遊芸に身をやつしたがかすみ網猟は、こうした中で発達したのだという。
「加賀では、かすみ網のことを『烏構え』といっています。武士だけに許された、鍛練をかねた猟だったわけです。」
表向きは遊びであったが、じつは、ひそかに足腰をきたえさせようとしたのである。と,この猟法が武士の鍛錬から始まったとしている.
「ですから、武士が鳥構えのために山林の拝領を願い出ると、加賀・能登・越中の三国ならば、どこでも、八丁四方(約八百メートル四方)をあたえられました。しかし、万一のときはすぐにかけつけられるよう、けっして山に泊まってはいけないとのおきてもあったといいます。
太平の世の中だったんですね、鳥構えは物見遊山になっていったんです。加賀の人々は食べ物にもこるのですね。マツタケにツグミ、それに特産のすだれふを入れたじぶ煮は、加賀料理の逸品といわれるようになります。串にさして焼いたツグミも季節の味覚です。あれを食べないと、秋の気分が出ないというんですよ」とある.
初期には猟をする日や,売ってはいけない等の制限があったらしいが,やがてこの猟法は段々と洗練され,江戸末期には「おとり」を使って,ツグミの群れを霞網へと誘導し,手間を掛けずに多数のツグミを捕獲した.
この猟法は石川から富山へ。岐阜へ入ったものは愛知、長野、福井へと,中部六県のツグミの渡ってくる地方へと広がった.
特に廃藩置県後,禄を失った侍やその使用人たちは,この猟法で得られたツグミを売ることで生計を立て,一人で数千羽ものツグミを捕獲し,料理屋に供給したという.
明治時代の「鳥獣狩猟法」の書籍では,ツグミの猟法としては,霞網猟が主たる捕獲法として記載されている.
「鶇羅ハ駿遠地方ニ於イテ行ウ法ナリ❶羅(カスミアミ)數張ヲ擔ギ未明ニ山腹ニ至リ竹ヲ建テ羅ヲ張リ鶇ノ來ルヲ待ツコト數分時間鶇ハ黎明(ウスグラキ)ノ頃群ヲ爲シテ山巓ヨリ山ニ沿フテ降リ來ル悉ク❶羅ニ〓(カヽ)ルヲ捕獲ス之ヲ以テ生計ヲ営ムモノ尠カラズ
捕獲ノ數多キ時ハ擔ヒ歸ルニ手餘ルホドナリト云フ
又美濃ニテ鶇ヲ捕アル一法アリ毎歳十月中旬以後山上ニ藁叉ハ萱ヲ以テ高四五尺,方八九尺ノ小屋ヲ造リ屋上ハ松柏ノ緑葉ヲ以テ覆ヒ獵夫此ノ中ニ居テ數羽ノ❷(オトリ)ヲ使用シテ鶇ヲ捕獲スルナリ
其ノ法鳥ノ鼻孔(ハナノアナ)ニ絲ヲ貫キ屋外ニ放チ屋内ニ於テ時々絲ヲ索ケバ❷ハ地上ヲ飛行シテ遊戯ノ狀ヲ爲ス之ヲ索鳥(ヒキトリ)ト稱シ,二三羽ヲ要ス,叉別ニ❷ヲ籠(カゴ)ニ入レ樹間ニ懸ク是亦三四羽ヲ要ス鶇ノ群飛シテ山上ヲ啼キ過グルトキ其ノ聲ニ應シテ之ヲ呼バシム
方言之ヲ遠鳴鳥(トテナキトリ)ト偁ス小屋ノ週邉ニハ竹ヲ植テ横幅六七間,縦八尺ニシテ一寸目ニ結(スキ)タル❶羅ノ棚絲(タナイト)四五條(スジ)アルモノヲ,二張叉ハ三張ヲ設ケ鶇ノ山上ヲ群飛スル時鶇ハ之ヲ呼ビ,叉地上ニ遊戯スルヲ見テ,鶇ノ一群悉ク降リ來ルエ,❶羅ニ覊(カヽ)ルモノヲ捕獲スルナリ
鶇ノ一群ハ多キ時ハ百羽,少ナキモ三四十羽ニ上ラズ此ノ鶇ヲ麹漬ト爲シテ販賣スルモノ美濃三河ノ山中ニ多シ味ヒ極メテ美ナリ」 (段落,下線は適宜挿入した)
❶=罜の土を示に,「❶羅」=カスミアミ,❷=某+鳥,オトリ
と,霞網獵で囮の使い方や,それを使うと大量のツグミが捕獲出来て,これによって生計がたてられるほどである事.保存食として粕漬があり極めて美味であることが記されている.
第十二章 鶇
(イ)鶇の素性及び獵法(れうはふ)
鶫は其躰軀(たいく)鵯に似て十月頃より翌年三四月頃迄多し彼れば初め渡來(わたりきた)るや群棲して深山に在る其食餌の盡(つ)くるに從て村落に來る而(しか)して彼の食となすものは果實即ち楠實及薔薇の實等を好む若し彼れが好むべき果實多き場所を知らば群り來りて飽くを知らざるが如し其銃獵法は前記の鵯獵と大同なれは茲に畧す然し此鳥は其群をなす性に依て網獵法の便あり次に之を説明せん
其之れに用ふべき網は前に鴨に用ゐし物と畧ぼ仝じけれとも唯其異なる三四の點は前者は麻糸にて製せしに之れは絹糸にて作ること及び其長さの五六間ありて巾の三尺位あることなり今之れを張るには先づ彼の集まりたる山林を一直線に巾三尺位にて開通せる所なるべし即ち其網を張るべき所は悉皆樹木を切り拂ひ網を張るに妨害なからしむ而して其高さは大抵木の梢より二尺位下位にはり其長さは長き程可なり而して其網は兼て柿澁或は藍色に染めるを可とす今張り方は鴨網と同じければ茲に畧す
先づ其装置終われは静かにして彼の來るを待つべし若し二三羽宛(づヽ)群集して來りて随分多數となるときは両方より静かに逐(お)ひて彼をして自然に網の在る方に轉せしむ然るときは其網の張りたる所を知らず一方より一方に移らんとして其網に掛る而して該網は絹糸にて製せしものなれば一度彼の掛るや容易に去る能はず故に十分彼の掛るを待て徐ろに之れを解き獲(う)べし
此法に依る時は日に数千を獲る難(かた)からず然して該法は山城丹波の山間に流行せり」
と詳細に捕獲法を述べ,この猟法により一日数千のツグミが捕らえられので,京都府では広く用いられていると記されている.(段落,下線は適宜挿入した)
ツグミの群れを霞網を張った猟場へ誘い込むために用いる囮のツグミは,特別に飼育された個体で,高価で取引された.
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