江戸時代には,ツグミが籠で愛玩用として飼われていて,その飼育方を記した書物も刊行されている.三大養禽書の『喚子鳥』,『諸禽万益集』,『飼籠鳥』にも,それぞれに項目としてある.
特に加賀藩では鳴き声によっては,高価で売買されているとあるが,鳴き声が美しいからではないく,霞網猟の囮としての有用性と考えられる.
特に加賀藩では鳴き声によっては,高価で売買されているとあるが,鳴き声が美しいからではないく,霞網猟の囮としての有用性と考えられる.
また,鶇に特化した書『鵜方議論』には,漢名の由来から,餌や病気の場合の対処法など,細かく書かれている.
明治に書かれた『諸鳥飼養法秘伝』では,主にどうしたらよい囮を育てることができるか,が興味の対象で,特に仲間を呼び込むための鳴き声の教え方は,金澤地方の秘伝とある.
文献画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用.
文献画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用.
「巻之下
つむぎ ゑがい 生ゑ四分あをみ入
つぐみなるべし 粉 壱匁
大きさひよどりに小ぶり惣身(そうみ)あを黒く腹(はら)志ろし
さへづりよろしからず冬出る」
とあり,適した餌の配合の指示があるが,よい鳴き声ではないとある.
★左馬介(源止龍)『諸禽万益集』(1717)
江戸時代3大養禽書の一つだが、著者の実名は不明。巻1は飼育法、巻2は各論で、和鳥125品について解説する。外国産は17品の名を挙げるだけで、形状や飼い方は解説しない。いそひよ(現和名、イソヒヨドリ)・かなあり(カナリア)・こげら・こるり・十姉妹(ジュウシマツ)・だんどく・はくせきれい等の名は本書が初出と思われる。巻3は捕獲法で、20数種類の方法を図示するが、猟法をこれだけ詳しく記した書物はそれまで無かった。自序に「予童稚の頃より数万の鳥をかひ一月に死する鳥いく百千といふことをしらす遂に其死すべからさるをしる」、自跋末に「予鳥草に泥みて文武にうとく故に人にうとまれそしられて人道にくらくして無益のことにあさはかなり是をみんひと心得へし」とある。
NDL 所蔵本は旧瀧澤馬琴蔵書(写1834)で,書誌情報として「水戸藩士★佐藤成裕(号は中陵・温故斎,1762-1848)著『飼籠鳥』(文政4年(1821)序)は20巻からなる江戸時代3大養禽書の一つ.巻1は序などと「異鳥部」(天狗など、想像上の鳥)、巻2・3は「飼法部」で、飼い方・治療法・21種の猟法を記す。巻4以下が各論で、416品(うち102品は外来種)を鶏部・雉部・鳩部・鸚鵡部‥‥鷹部・隼周鳥部と、形状に基いて17部に分けて叙述し、『本草綱目』の分類とは異なる。当時の野鳥の分布など、参考になる記載が少なくない。(磯野直秀)」とある.
「鶇(つくみ) 一名豆久見 漢語抄 鳥馬(てうま) 本朝食鑑 こつこめ 豆州方言 つぐ
古へより鶇の字を用ひ来る事日久く故に今改メ〓〓く
字書に鶇音東鳥名となれハ此〓にも當〓〓し本朝
食鑑又馬鳥を誤て称〓ハ鳥馬の訛なりと云う漢語抄に豆
久見と訓して又馬鳥とも〓〓未だ出書をしらず諸州共
秋深して夜渡來る夏月には深山に入りて巣を作る春三
月の終より深山に歸る奥州甲子山の中にて往々其声を
〓其大さ鶉の如く首より尾に至るまて黄褐色腹下白く
本朝食鑑に云く伯労より大に頭脊胸臆紫灰色腹黄白
紫黄斑あり羽尾黒く觜脛蒼く毎に山林に棲て能く
囀る性好て螻蛄(けら)を食ふと云此説のをく二月の頃より山林
の中にて囀る頗る黒鶇(くろつく)に〓似たり賀州にて此囀を〓て
人各争て求め養ふ其囀に種々あり其價も甚しく
高價に及ぶ薩州の人は野地子(のじこ)を〓〓て高價を費して
〓〓似たり」と,加賀では高価で取引されているとある.姿や声の美醜ではなく,江戸時代,加賀藩で盛んになったツグミの網猟の囮としての有用性で価格が決まったのであろう.
ノジコ(野路子,野地子,Emberiza sulphurata)
スズメ目ホオジロ科の小鳥.全長約14センチメートル.背面は緑褐色,下面は黄色味を帯びる.本州中部で繁殖し,冬期は温暖地に移行する.鳴き声がよいので,古来飼い鳥とされる.
著者,成立年代不明★『鶇方義論』は,ツグミ全書ともいうべき書で,「鶇」の由来,餌には何が良いか,病気の種類,その対処法,飼うのに適した篭の構造など,詳細に書かれている.岩瀬文庫所蔵の写本を昭和十年に木村修郎氏が複写したものが,NDLに所蔵されている.
それには,
評曰、馬鳥トハ倭名也。●(完+鳥)トモ書亦
東鳥トモ書鶇ノ字東ノ鳥ニ双ブ。是阳
鳥ノ故也。倭名ニ馬鳥ト書クハ馬ハ獸
類ノ内ニテ阳陽物也。鶇ハ鳥類ノ中ニ
テ阳物也。故ニ馬鳥ト書。鶇ト云東鳥
ト書クハ東ヨリ諸鳥ニ先立チテ来ル是陽
ヲ司ル故東ノ鳥トモ書東ハ日ノ
頭也コレ陽ニ復無阳也倭朝ニ節分ニ
鶇ノ吸物ヲ食ハ、立春向陽ノ義也。此鳥
東ヨリ来テ鳴囀リ甚ダ阳ヲ告ルカ故
ニ、鶇ヲ以テ阳ヲ司ルノ義也飼方ニ
至テハ唯陰ト陽ヲ辨ヘル事此道ノ
一故也陰ニ至レハ不鳴阳ニ復レハ
鳴ト知ルヘシ陽鳥ノ二字可得會也」と「鶇」の漢字の由来をツグミは東から諸鳥に先立って渡ってくるからと説明し,其れ故「陽」であり,和名「馬鳥」は「馬」も陽だからとしている.更に節分にツグミの吸い物を食するのは,「立春向陽ノ義也」としている.
「一 鳴ト不レ鳴ハ作ニアリヤ氣ニアリヤ
評曰、大方ハ氣ニ有リ。陽物ノ中ニモ又鈍鋭ノ二ツ有リ。鈍キハ不レ鳴、鋭キハ鳴ク作ノ躰ハ銘目書アリイレヲモツトイレツカサルアリ鈍キハ陰也ナリ鋭キハ陽也」と,啼くか否かは「氣」の「陰陽」に影響されると,陰陽に拘っている.
明治時代にはツグミの霞網猟は石川県から本州中部に拡がり,此を専門にする猟師も多く,よい囮の需要も高まった.
「鶇(つぐみ)
餌飼
一 生餌 四分
一 粉 壹匁
一 あをみ 適宜
桃花鳥(つぐみ)は大きさ鵯(ひよどり)に少し小ぶりにして総身黒茶
色に黒の細かき斑あり腹白く聊(いささか)胡麻のふあり此
の鳥は囮(おとり)として秋季(あき)の土用に野鳥(のどり)を捕(とる)に用ゆるは
他に比るものなし然れども最初(はじめ)野鳥を飼つける
時雌雄をよく見分(みわけ)叉囮の内にもよく囀(さへず)るものと左(さ)
程(ほど)になきものとあるは尤甚しきものなる故なり地啼は「クイ/\」と囀るのみにて
聞に足ざるも其内にあま鳴と云ふ口ありて雌(めどり)の如く鳴故山野に持出して囮とするも
群る野鳥近きに來(きた)らず上口にて地鳴の外に囀りの小名「こう」「ちろし」「あげ」などを
群鳥(むれとり)の來方に應じて鳴如き實に妙不審(しん)と云ふも可なり併鳥毎には逆もなきものにて
名鳥のことなり叉鶇にかほど囀を撰(えら)みて飼つけることは關東地方にはなきことにて石
川縣金澤に限りて自由に鳴かせるの秘をしれり見ぬ人叉鳥の聲を聞かざるもの僞(いつはり)
とや思うべきほどなり故に野鳥を捕て翌年の秋迄籠(こめ)て囀らせぬことにて四季とも生餌
の増減鳥櫃(とりびつ)の置處逐一注意の點至らざる處なし生餌増減の豫(あらか)じめは記(しる)せし如くなる
べし餘は中々口傳にして筆紙(ひつし)に盡し難きものなり」
と,よい囮の育て方は,石川の秘伝であるとしている.
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