2019年5月26日日曜日

ホトトギス (20)  欧文献-14,ピエロー・コレクション,本州の採集地,採集者はC.H. de Villeneuve?

Tricyrtis hirta
ライデン大学のオランダ国立標本館 “Rijksherbarium” (Naturalis Biodibersity Center, 以下 標本館)に所蔵されているホトトギスの腊葉標本の内三品には,コレクターがピエロー (Pierot) であると記したミクェル (Miquel) のラベル (1st Label) が貼付されている.その内の一点の標本に貼付されている別のラベル (2nd Label) には,装飾的で流麗な筆記体で “in ripis lacus Oots iuxta Miako, Nippon” 「本州,京都近くの大津の川の堤防で採取」と記されている.ミクェルの『日本植物試論』では,この標本の採集者もノートもピエローとされている.
しかし,ピエローはブルーメとシーボルトの要請で出島に赴く途中,滞在したジャワで,日本植物の腊葉標本をビショプ (G. Bisschop) と共同購入した(1840-41)が,長崎への航海中に台風でマカオに寄港し,そこで病を得て 1841 年に没した.従って日本国内で植物を採取した事はなく,また流麗な手跡で記された日本国内の土地を訪れた事はあり得ない.
標本館には多くのピエローが日本で採集したとされる腊葉標本があり,これら「ピエロー・コレクション」は, 1844 年にビショップから標本館が購入したことが分かっている.そのほとんどに貼付されている 2nd Label の多くに,学名(ラテン名),日本国内の採集地名や採集地の状況,和名等が記載されている.
このコレクションの実際の採集者及び 2nd Label の筆者が誰かについて,諸説ある事は前々回の記事に記した.
ここではビュルガーと同時に,シーボルトが 1825 年に画家として呼び寄せ,1836 年まで出島の商館に勤務したフィルヌーヴが採集者,筆者である可能性について検証する.

標本館のデータベース(BioPotal)で,ピエローが collector とされている日本産の標本(「ピエロー・コレクション」)は  1,167 点に上り(Botany x Pierot x Japan = Specimens (1,167)),このコレクションの内,295 点は,採集地が本州 (Nippon) である.(Botany x Pierot x Nippon) = Specimens (295)
データベースに記されている採集地を見ると,前記事で報告した下関,室,大久保,大阪,大津,富田,岡崎,桑名,矢矧川,浜松,薩埵峠(さったとうげ),富士山麓,箱根,川崎,六郷川などの他,三原田島,姫路,尼崎,京都,鈴鹿峠,宮,吉原,小田原,江戸など,出島から江戸への道中の沿道の地名が多く,オランダ商館長の江戸参府に伴って,これらの標本が採集された可能性が高い(添付地図,赤マーク).

しかも,採集地の中には,1826 年のシーボルトの江戸参府では訪れなかった土地や,また,シーボルトの江戸参府紀行では,その滞在がほとんど言及されていない土地の標本が多数存在するなど,採集者は,1830年以降のオランダ商館長に同行して江戸に参府した館員である事は確実である.
特に注目すべきは中国街道の三原(みわら)や,その近くに田島(たしま)で採集された標本がある事で,シーボルトの江戸参府紀行によると,彼等は往復ともこの地には上陸していない.
また,京都周辺の梅島貴船山での標本があるが,シーボルトの紀行文を読むと,彼や同行したビュルガーが京都滞在中にこれらの土地を訪れている可能性は低い.更に,鈴鹿峠薩埵峠で採集された標本も数多いが,シーボルトの紀行ではこれらの土地への言及が殆どない.

これらのコレクションの採集地に加えて,前記事に述べた筆跡等の根拠から,ピエロー・コレクションの採集者及び 2nd Label (Original Label) の筆者は,シーボルトが 1825 年に画家として呼び寄せ,1836 年まで出島の商館に勤務し,1830 年,当時のオランダ館長,メイラン (Meijlan, Germain Felix, 17851831) に同行して江戸に参府したフィルヌーヴ (Villeneuve, Karel Hubert de (Charles Hubert de, Carel Hubert de, 1800 - 1874) であると推定される.

以下に示した採集地のラテン語の地名は,標本館のデータベース(BioPotal)に記載をそのまま記したが,2nd Label の筆跡は流麗で芸術的であり,標本館のデータベース作者はしばしば “T” “F” (Toge 峠を Foge),”M”  “N” (Miwara 三原を Niwaraと読み違えている場合も多い.また,日本の地名になじみがないためか,明らかな読み違いと思われる個所もある.

また,採集者の記した地名は江戸後期の呼び名を耳で聞いて記したので,必ずしも現代の地名とは同じではない.例えば,「三原」は “Mihara” ではなく “Miwara” と,「京都」は “Miako” と表記した.桑名を流れていた「町屋川」の現在の名は員弁川(いなべがわ)である.一方「梅島」(宇治川の中州)は,地形が変わり,今では消滅している.
市川」について,シーボルト『江戸参府紀行』三月九日の項に「姫路の町をいわばその両腕に抱いている市川の,川原石でおおわれた右側の浅い流れを越えて,やっと姫路城外の町に着いた.(中略)姫路の町は播磨領印南郡の市川のほとりにあり,市川は町の上手でふたつにわかれ,いわばひとつの島を形づくっている.」とある.
次記事の表では,採集地別にしたので “et” で複数の採集地が記録されている場合は,複数の列に記されている.“et” で示された地名の内,後半は全て前半より東に位置する.採集した行程が往路であり,復路ではない事が伺える.

採集地のリストは次記事

これ等の採集地を精査し,歴代オランダ商館長の江戸参府日記の記述と比較することにより,ピエロー・コレクションの実際の採集者が絞られる.
1826年のシーボルト以降で,ピエローがバタヴィアでこのコレクションを購入した1840年以前の江戸参府は,1830年のヘルマン・フェリックス・メイラン(在任:182684日-183085日),1834年のヤン・ウィレム・フレデリック・ファン・シッテルス(在任:1830111日-18341130日),1838年のヨハネス・エルデウィン・ニーマン(在任:1834121日-18381117日)の三人の商館長の江戸参府しかない.なかでも,メイランの参府日記の出版が待たれる.

メイランの江戸参府日記については,実質的には最後の参府となった 1850年,当時の出島オランダ商館館長JH・レフィスゾーン (Joseph Henry Levijssohn)の江戸参府の日記に,次のような記事と解説があり,メイランの記録の重要性が分かる.
JH・レフィスゾーン著,片桐一男訳『レフィスゾーン江戸参府日記』(新異国叢書 第III輯 6)雄松堂出版 (2003)
「四月一〇日 水曜日            第五〇日日 五里
上検使が、われわれが江戸に到着した後に、江戸と長崎と、勤務する両長崎奉行のところに行かねばならず、それらの高官が将軍の城を訪ねる以前に行っていなければならないから、今日、江戸に早めに入るために、今朝三時に眼が醒めたとき、私は大変びっくりしながら、寝室の障子戸が開いていて、私の洗面器をたおし、それを床の反対側の下に投げ出し、いくつかの私の衣服をばら撒き、蝋燭は私の行灯から、部屋の外の畳の上でたおされているのを発見した。そして、もっと詳細に検査してから、その夜中に、われわれの旅館に夜盗が現われたことが、閉まった後の扉の蝶番がはずれており、家の囲りの障子も開いていたのでわかった。
あれこれ、私とドクター・モーニッケは、私のところで番をしていた下検使と検査してから、遺憾ながら、寝室においておいた、私の大切な書類と品物が入っている書類箱が盗まれていたことを見つけた。
(中略)
私のもとに、川崎の宿のうしろで私の書類箱が開かれたまま発見された、という嬉しい知らせがもたらされた。そして、それは江戸で私に渡されるだろう。しかし、その品は私のために、すでに、江戸から二里半離れている品川〔Sinagawa〕の茶屋にもたらされており、その所で、首都への、ほとんど終りに近い旅を機会にして、酒宴を催した。
大変厳重に錠のかかっていた例の箱は、荒々しく壊されて、全てのものがひっくりかえっていたから、全部のものが調査されたみたいだった。大変遺憾に思いながら、私はその内客を調査し、私の銀のカシェツト〔zilveren cachet〕、ハサミ〔schaar〕、ナイフ〔mes〕、顕微鏡〔microscope〕、拡大鏡〔ver-groot glas〕などだけでなく、特に、案内としてもってきた一八三〇年に故メイラン〔Meijlan〕商館長が江戸参府した日記も盗まれていたことを知った。私は通詞を通じて上検使に、それに就いてしかるべき探索をさせるために、なくなった物の一覧表を渡した。
(以下略)

また訳者の[解説]には,メイランの参府日記の重要性について以下の記述がある.
「 8 川崎宿での盗難
四月一〇日早朝、三時に眼醒めたレフィスゾーンは、夜中に夜盗の難に遭っていたことに気付いた。
大切な書類と品物を入れていた書類箱が盗まれていた。その品々について、「銀のカシェツト、ハサミ, ナイフ、顕微鏡、拡大鏡など」と記しているが、特に残念そうに記していることは、「特に、案内としてもってきた一八三〇年に故メイラン商館長が江戸参府した日記も盗まれていたことを知った。」
と明記していることである。
レフィスゾーンが、前回の一八四四年PA・ビク参府日記でなく、四回も以前の一八三〇年メイラン参府日記を「案内」として持って旅行していたのはなぜか。それはシーボルト事件後における、はじめての江戸参府日記であったからである。事件後、初の江戸参府旅行を許可するに際し、警備上の徹底をはかって種々の変更が加えられたのである。以後、毎回、カピタンはメイラン参府時の例を参考にして旅に臨んだことがこれでわかる。参府のカピタンにとって、頼りにすべき「マニュアル・ブック」であったわけである。それが盗まれた。レフィスゾーンがいう「大切な書類」とはこのことであり、だから特筆したことなのである。
もっとも、カピタンが毎日記し置いた 『長崎オランダ商館日記』 は復本が作成され、バタヴィアとアムステルダムの本社に報告されており、そのなかに歴代のカピタン参府日記も含まれている。メイランの江戸参府旅行日記の元本もハーグの国立中央文書館(Algemeen Rijksarchief)に在る。しかし長崎出島のオランダ商館に遺されていた分は、前記のように、レフィスゾーン参府の川崎宿で盗難に遭い、失なわれてしまった。
メイランの『日本』 Japan(一八三〇年刊)において、出版者トピアス(J. H. Tobias)が「まえがき」で、第二集として、著者が前に行なった江戸参府旅行の記述、およびそれに対する所見を提供できると信じている、といっている(庄司三男訳『メイラン 日本』解説二四四ページ、新異国叢書第Ⅲ輯、第一巻)が、結局、第二集は出版の運びにいたらなかった。準備はすすめられてはいたであろうが、結局は実現しなかった。それには、あるいはレフィスゾーンの参府時に川崎宿で出島保存本が失なわれたことが関係しているのか、と思われてならない。
出島保存本が、単なる商館日記の写というのではなく、新参府旅行の必携書(マニュアル・ブック) として、特に手を加え、まとめておかれたものであったか、とも察せられるからである。レフィスゾーンならずとも、なんとも惜しい盗難事件だったといわざるをえない。」

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