Tricyrtis
hirta
ライデン大学のオランダ国立標本館 “Rijksherbarium”
(以下,標本館)に所蔵されているホトトギスの腊葉標本の内三品には,コレクターがピエロー (Pierot) であると記したミクェル (Miquel) のラベル (1st label) が貼付されている.その内の一点の標本に貼付されている別のラベル (2nd label) には,装飾的で流麗な筆記体で “in
ripis lacus Oots iuxta Miako, Nippon” 「本州,京都近くの大津の川の堤防で採取した」と記されている.ミクェルの『日本植物試論』(以下『試論』)では,この標本の採集者もノートもピエローに依るものとされている.
しかし,ピエローはブルーメとシーボルトの要請で出島に赴く途中,滞在したジャワで,日本植物の腊葉標本をビショプ (G. Bisschop) と共同購入した(1840-41)が,長崎への航海中に台風でマカオに寄港し,そこで病を得て 1841 年に没した.従って日本国内で植物を採取した事はなく,また流麗な手跡で記された日本国内の土地を訪れた事はあり得ない.
標本館には多くのピエローが日本で採集したとされる腊葉標本があり,これら(ピエロー・コレクション)は, 1844 年にビショップから標本館が購入したことが分かっている.そのほとんどに貼付されている
2nd Label の多くに,学名(ラテン名),日本国内の採集地名や採集地の状況,和名等が記載されている.
ここではビュルガーと同時に,シーボルトが
1825 年に画家として呼び寄せ,1836 年まで出島の商館に勤務したフィルヌーヴが採集者,筆者である可能性について検証する.
標本館のデータベース(BioPotal)で,ピエローが collector とされている日本産の標本(ピエロー・コレクション)は 1,167 点に上り,このコレクションの内,164 点については,良好な解像度で,画像を見ることができる.この
164 点の内,流麗な筆跡のラベル( 2nd label )が貼付されているのは,少なくとも 109 点で,採集地は九州 (Kiu-siu) が 79 点,本州が 30 点である.その多くには,和名(俗名)も記されている.
歌川広重「由井」, 左上が薩埵峠 |
また,九州が採集地とされる標本のラベル(
2nd label )には,長崎近辺(例えば野茂岬)や北九州(例えば雲仙)が多いが,参府行程の諫早,彼杵,嬉野,牛津,飯塚,木屋瀬(こやのせ),小倉などの地名が確認できる(添付地図,青マーク).
従って採集者は,オランダ商館長に同行して江戸に参府した館員である事は確実である.
採集地
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学名*
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和名**
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標本番号
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ラベルの採集地表記
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下関
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Calystegia soldanella var. major Miq.
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ハマヒルガオ 標準
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L 0104874
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Semonoseky et N(M?)iwara
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Artemisia gilvescens Miq.
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ワタヨモギ 標準
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L 0001828
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Simonoseky
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室
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Boehmeria japonica var. tenera (Blume) Wilmot-Dear
& Friis
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コアカソ synonym
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L.1624738
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Nuro
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大久保
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Plectranthus longitubus Miq.
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アキチョウジ synonym
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L 0326152
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Ookfbu
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Senecio ligularia var. oliganthus Miq.
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L 0002285
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Ookfbu
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大阪
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Veronica longifolia var. subsessilis Miq.
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ヤマルリトラノオ?
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L 0170457
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Joso Gawa, Kanaki et Osacca
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大津
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Ottelia alismoides (L.) Pers.
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ミズオオバコ 標準
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L 0367392
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Oots
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Tricyrtis hirta Hook.
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ホトトギス 標準
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L 0422415
|
Oots
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Cyperus serotinus Rottb.
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ミズガヤツリ 標準
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L 0042463
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Miako et Oots
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鈴鹿峠
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Scrophularia buergeriana Miq.
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ゴマノハグサ 標準
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L 0326235
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Susokatogi
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Stachys japonica Miq.
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ケナシイヌゴマ synonym
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L 0327713
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Susokatogi
|
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Saussurea Nipponica Miq.
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オオダイトウヒレン 標準
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L 0002262
|
Susokatogi
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桑名
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Tubocapsicum anomalum (Franch. & Sav.) Makino
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ハダカホオズキ 標準
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L 0424520
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Kuane
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富田
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Satureja umbrosa var. robustior
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L 0326108
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Tomida
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岡崎
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Clematis pierotii Miq.
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コバノボタンヅル 標準
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L 0038588
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Okasakki
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矢矧川
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Fimbristylis dichotoma (L.) Vahl
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テンツキ 広義
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L 0063294
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Jahaki Gawa
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Scirpus tabernaemontani C.C.Gmel.
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フトイ synonym
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L 0042753
|
Jahaki Gawa
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浜松
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Physalis alkekengi f. monstrosi
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ホオズキ?
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L 0170442
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Hama Matsi
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薩埵峠
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Amphicarpaea edgeworthii Benth.
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var. japonica
Oliv. ヤブマメ synonym
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L 0325750
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Sata Foge
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Tilia cordata var. japonica
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フユボダイジュ?
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L 0175352
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Sata Foge
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Acer carpinifolium Siebold & Zucc.
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チドリノキ 標準
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L 0017911
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Sata Foge
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Boehmeria japonica (L.f.) Miq.
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トガリバヤブマオ 標準
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L.1624801
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Sata Foge
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富士山
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Mentha japonica (Miq.) Makino
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ヒメハッカ 標準
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L 0326114
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Fuzi Jama
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Ardisia walkeri Y.P.Yang
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オオツルコウジ 標準
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L 0005553
|
Fuzi Jama
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Coptis quinquefolia Miq.
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バイカオウレン 標準
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L 0042883
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Fuzi Jama
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箱根
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Quercus grosseserrata Blume
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ミズナラ synonym
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L 0040837
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Hakone
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川崎
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Castanea crenata Siebold & Zucc.
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クリ 標準
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L 0103237
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Kawasaki
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Scutellaria baicalensis Georgi
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コガネバナ 標準
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L 0327720
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Kawasaki
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六郷川
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Ruta subtripinnata Miq.
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ヘンルーダ属 Ruta
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L 0421289
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Rokfgo Gawaulae
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上島?
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Cacalia Nipponica Miq.
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ツクシコウモリソウ synonym
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L 0328152
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Kamijama
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また, 2nd label
は,ミクェルが同定して添付したラベル(Miquel’s label)より先に腊葉標本の台紙に張られていたことが,Miquel’s label が 2nd label
の上に貼られている場合がある事(L 0040924, Salix pierotii Miq.),科名のみの2nd
labelにミクェルが種小名を書き加えているラベルがある事からも分かる.従って
2nd label がオリジナルのラベルである.
このピエロー・コレクションの実際の採集者,及び採集地などを記した流麗な筆跡の 2nd label の筆者については幾つかの説があることは,既に紹介した.その内,ピエローが採集者である可能性は彼が日本の土を踏んでいないことから否定される.また,ビュルガーは,1826年の江戸参府にシーボルトに同行した事が分かっているが,シーボルトが途上で得られた博物学的資料をビュルガーに私することを許したはずはない事,また,筆跡が全く異なることから,否定される.(前記事).
更に,加藤僖重博士の採集者ビュルガー,流麗な筆跡の 2nd label の筆者ビショップ説の
G. Bisschop について,詳しいことは分からないが,オランダの王立標本館のデータベースを検索すると,彼が収集した 1,846 枚の標本が収蔵されている.その内日本で採集されたとされるものは 1 枚 (Thalictrum L.) で,温帯アジアのものがこれを含めて 12 枚,欧州での標本がほとんど全てを占める.確かに彼が採集者とされる標本に添付されたラベルの筆跡は非常に装飾的で美しいが,細かく比較するとピエロー・コレクションの 2nd label のそれとは明らかに異なる.
ここで,浮上してきたのはビュルガーと同時に,シーボルトが 1825 年に画家として呼び寄せ,1836 年まで出島の商館に勤務したフィルヌーヴ (Villeneuve, Karel Hubert de (Charles Hubert de,
Carel Hubert de, 1800 - 1874) である.
彼は 1830 年,当時のオランダ館長,メイラン
(Meijlan, Germain Felix, 1785–1831) に同行して江戸に参府した1).
また,1829 年に結婚した妻の
Maria Johanna Josephine van Wingerden (マリア・ヨハンナ・ヨセフィナ・ファン・ウィンヘルデン)がバタヴィアに住んでいたので 1836 年離日後,バタヴィアに戻り,後年シーボルトが再渡日の途上,1859 年バタヴィアで再会した.
従って,1640-41年,ビショップと共にバタヴィアに滞在し,日本植物を研究するために出島への渡航を計画していたピエローが,フィルヌーヴに面会し,日本の情報を得るとともに,腊葉標本を購入した可能性が高い.
また,フィルヌーヴの筆跡はライデン博物館に所蔵されているヤマイヌ (Jama-inu) の絵(右図)に記入されている手跡を見る限り,大変流麗である.シーボルトは, 1826 年3月14日に江戸への途上大坂でオオカミ,ヤマイヌを購入し,出島へ送ったと記しているので,それを出島で描いたのかも知れない.
更に,2nd Labelのいくつかは,腊葉の上にかかった部分から下の腊葉が透けてみえるほど非常に薄く,和紙の可能性もある.
一方,フィルヌーヴの植物学的知識が,学名を記すほど深かったかについては,疑問が残るが,出島で腊葉を示してビュルガーに教えてもらって,書き入れた事も考えられる.
以上の点より,ピエロー・コレクションの採集者,2nd Label の筆者として,フィルヌーヴの可能性を提示したが,フィルヌーヴの手跡との比較や 2nd Label の紙質分析など,また,メイランの江戸参府日記2) の解析などで,より確かな情報が得られるであろう.
1) Siebold “Nippon”, Vol.2, Abteilung VI. Landwirtschaft, Kunstfleifs und Handel. 3)
Geschichte des Handels der Niederländer in Japan von 1609 bis auf die Jetztzeit
(1842) に,
“Wahr ist es,
dafs auf der Reise, welche 1830 Meylan als Gesandter und G. H.
de Villeneuve als Sekretär nach
dem Hofe zu Jedo unternahmen, sich diese Herren
sehr eingeschränkt und strenge bewacht
fanden. Aber die Beweggründe zu dieser
Mafsregel werden genügende Aufklärung
rinden, wenn man sich an die mehrerwähnte
Verantwortlichkeit erinnert, welche die
Statthalter von Nagasaki sowohl als die
japanischen Beamten und Offiziere, als
Begleiter der Gesandtschaft, auf sich haben.
Sie halten die Vorfälle mit mir noch in zu
frischem Andenken, um nicht, mit der
gröfstcn Vorsicht zu Werke gehend, jede
Gelegenheit zu ähnlichen Unannehmlich-
keiten zu verhüten.”
呉秀三(譯註)『異国叢書〔第8〕シーボルト日本交通貿易史』(1929) の「第七章 千六百九年より現時(一八四二)までの日本に於ける和蘭の貿易の歷史 には
「千八百三十年(○我天保元年)マイランが使節とし,ウィルーンネーヴェ G. H. Wille-neuve が書記として江戸幕府になしたる旅行中に,此諸君が甚き制限を受け,嚴しく監視されたるは事實なり.然し此所置の同機は屢々述べたる通り,長崎奉行並びに使節の同行者日本の役人及び士官の責任を考ふるとき,これを充分明かにするを得べし.彼等は余の事件をなほ新らしく追想したれば前々より注意して其事に當りて,余の時に於ける如き不快事を豫防せんと勉めたるなり.」と訳されている.
また,フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著,中井晶夫・妹尾守雄・末木文美士・石山禎一訳
『Nippon 日本 第四巻』『日本 日本とその隣国、保護国−蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島−の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』雄松堂書店 (1978) の
「 第十編 日本の貿易と経済
原題 農業、工芸および貿易 - 日本の貿易について」
「第二章 当初から現在までの日本におけるオランダ人の貿易」には,
「一八三〇年メイランが使節として、C・H・ドゥ・フィレネーフェが書記として江戸参府の旅行の途上、この諸氏が非常な制限を受け、厳しく監視されたのは事実であった。しかしこの処置の動機は、しばしば述べたように、長崎奉行および使節の同行者、日本の役人および士官の責任を考えた時、これを十分明らかにすることである。彼らは私の事件をなお新しく想い起して、十分注意し、そのことに当って、私の時のように不愉快な事件を予防しようとつとめた。」と訳されている.
強く希望したにも関わらず,ビュルガーではなく,フィルヌーヴがメイランの江戸参府に同行したのは,前回の参府にビュルガーがシーボルトに同行して,シーボルト事件に係わっていたと思われために忌避されたのであろう.
また,フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著,中井晶夫・妹尾守雄・末木文美士・石山禎一訳
『Nippon 日本 第四巻』『日本 日本とその隣国、保護国−蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島−の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』雄松堂書店 (1978) の
「 第十編 日本の貿易と経済
原題 農業、工芸および貿易 - 日本の貿易について」
「第二章 当初から現在までの日本におけるオランダ人の貿易」には,
「一八三〇年メイランが使節として、C・H・ドゥ・フィレネーフェが書記として江戸参府の旅行の途上、この諸氏が非常な制限を受け、厳しく監視されたのは事実であった。しかしこの処置の動機は、しばしば述べたように、長崎奉行および使節の同行者、日本の役人および士官の責任を考えた時、これを十分明らかにすることである。彼らは私の事件をなお新しく想い起して、十分注意し、そのことに当って、私の時のように不愉快な事件を予防しようとつとめた。」と訳されている.
「メイランは一八三〇年のはじめのころ江戸参府を行なっている。ゆえに彼は第二集の準備を心掛けていたであろうが、結局それを出版の運びにいたらせなかったのは、彼が、一八三一年に日本を去り同年バタフィアにおいて死亡したためと考えられる。したがって彼の著書の中には江戸参府旅行の記録を見ることができない。もし第二集が出版されたとしたら、どのような内容のものとなったか知りたいところである。
(中略)
すべてにわたり細大もらさず書きとめなければ満足しないメイランの性質からして、江戸参府旅行の記録を含む第二集が刊行にいたらなかったことは、彼にとって誠に残念至極をことであっただろう。
ところでオランダのハーグにある国立古文書館(Algeneen Rijksarchief) には彪大な量の植民地文書が保管されているが、その中には言うまでもなくメイランの長崎オランダ商館日記も存在しており、それにはメイランの江戸参府旅行日記の元本が添付されている。」とある.
メイラン Meijlan, Germain Felix (1785 – 1831)
1785-1831 オランダ商館長.
江戸後期のオランダ商館長 (1826-1831).ライデン生まれ.1803年に東インドへ渡り,文政9(1826)年に出島商館長として来日.着任後,対日貿易の改善,商館内部の対立解消をめざして個人貿易協会を設立,短期間ながら一定の成果をあげた.またシーボルト事件
(1828~29) では日蘭の仲介役として円満な解決に努力.清廉潔白で温厚な人柄は長崎奉行,シーボルト,東インド政庁役人らの称賛するところであった.
バタビア帰任後数カ月で死去.『日本』 (1830年刊),『日欧貿易概観』(1833年刊) の著書があり,前著では日本の風俗習慣,長崎の行政などの記述に加え,日本人の性格を「疑い深く秘密主義で酒色に耽り,執念深く残忍な半面,正直で国に忠誠を尽くし,父母や子を愛し,友情に堅い」と評している.
バタビア帰任後数カ月で死去.『日本』 (1830年刊),『日欧貿易概観』(1833年刊) の著書があり,前著では日本の風俗習慣,長崎の行政などの記述に加え,日本人の性格を「疑い深く秘密主義で酒色に耽り,執念深く残忍な半面,正直で国に忠誠を尽くし,父母や子を愛し,友情に堅い」と評している.
参考文献;永積洋子「オランダ商館の脇荷貿易について―商館長メイランの設立した個人貿易協会(1826~30)」(『日本歴史』379号)
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