デ・フィルヌーヴによって描かれた若きシーボルトの肖像画(長崎歴史文化博物館蔵) |
シーボルトは,商館館長スチュルレル (1773-1855, 在任 1823 (1824) – 1826) に同行して1826 年に江戸参府することに決まると,江戸到着後,館長と別れて滞在を延長し,その間日本各地を旅行し,日本派遣の目的である各地の風物・地勢・産物等の調査をすることを計画,多くの弟子や病気の治療を通して知った有力者の後押しを期待して運動した.
この計画は東インド会社バタビア政庁に承認され,シーボルトの要請に従い,ビュルガーとフィルヌーヴの二人が 1825 年,出島に到着した.
ビュルガーは薬剤師で化学分析などを担い,フィルヌーヴは商館の職員(荷役役*)としてであったが,卓越した絵画の腕を買われての派遣であった.(https://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/04/14-8.html) *荷倉役: Packhuismeesther 倉庫係であるが,かなり重要な職で,次席館員Onderkoopman がこの役を兼ねることもある.
シーボルトは二人を江戸参府に同伴したかったが,館長と医師と書記の三人しか認められなかったので,ビュルガーのみを同道し,また江戸滞在の長期延長は,幕府によって認められなかった.
ビュルガーとフィルヌーヴはシーボルトの追放 (1829) 以降も出島に滞在し,バタヴィア経由で多くの博物資料をシーボルトに送った.ビュルガーは1832年に一旦ジャワに戻り,1834年に再び來日したが,翌1835年に日本での職を解かれ,ジャワでの事業に従事した.一方,フィルヌーヴは 1836年まで出島に勤務し,1830 年の商館長メイラン(1775 – 1831, 在任 1826-1830)の江戸参府には書記として同道した.Siebold “Nippon”, Vol.2, Abteilung VI. Landwirtschaft, Kunstfleifs und Handel. 3) Geschichte des Handels der Niederländer in Japan von 1609 bis auf die Jetztzeit (1842).
フィルヌーヴ(ウィルヌーヴ,フィレニューフェ,フィレネウフェ),Villeneuve, Karel Hubert de (Charles Hubert de, Carel Hubert de,
1800 - 1874. 09. 29) は,フランス系オランダ人で, Saint-Omer, Pas-de-Calais, Nord-Pas-de-Calais,
France,サントメール、パ=ド=カレー県,ノール=パ・ド・カレー地域圏,フランス(一説にはオランダのハーグ),で,Arnould de Villeneuve と Maria Sybilla van
Halmの息子として生まれ,蘭領東インド陸軍病院に勤務していた.文政8 (1825) 年シーボルトの招きで,薬剤師ビュルガーと共に来日した.
デ・フィレニューフェ夫妻図 (長崎歴史文化博物館蔵) |
左図は唐絵目利・御用絵師であった石崎融思が,一日,出島役人に従い実見した上で描写した.賛には彼女の「名はミミー(彌々)で1 9 歳,画工フィレニューフェの妻」とある..
その後マリアは,国外追放となったシーボルト(ハウプトマン号)と共に,1829年12月,ジャワ号でバタヴィアに送り返された.
フィルヌーヴは絵画に優れており,シーボルトの助手として動植物の生態,風俗,人物画などを描いた.また,川原慶賀に西洋画の技法を指導した.現在長崎に残されている彼の作品に『シーボルト肖像画
』,『石橋助左衛門像』がある.
彼の画は,シーボルトの著作『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などに散見されるが,写実的で正確な筆致の描写がうかがわれる.特に慶賀が苦手とした哺乳類の描画に優れ,シーボルトが追放された後も多くの絵を送った.
シーボルトの『日本 “Nippon”』の第一巻には,フィルヌーヴに関して以下のような記述がある.
Nippon, Archiv zur Beschreibung von Japan
und dessen Neben- und Schutzlandern : jezo mit den sudlichen Kurilen, Krafto,
Koorai und den Liukiu- Inseln, nach japanichen und europaischen Schriften und
eigenen Beobachtungen bearbeitet.
「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」
添付図は1897年版による.
I.2 REISE NACH DEM HOFE DES SJ¯OGUN IM
JAHRE 1826
P 49
willigte nicht nur ein und erteilte mir
Verhaltungsbefehle, worin die Gegenstän-
de meiner besonderen Forschungen näher
bezeichnet waren, sondern ermächtigte
selbst den Vorsteher der Faktorei und
Gesandten Joh. Willem de Sturler,
die Kosten meines etwaigen Aufenthaltes in
Jedo und meiner weiteren Reisen
aus der Indischen Kasse zu bestreiten. Auch
ersuchte sie den Gesandten, mich
in diesem Plane sowohl als in meinen
wissenschaftlichen Unternehmungen
überhaupt durch seinen Einfluß kräftig zu
unterstützen.
Einer ähnlichen
großmütigen Entschließung der Niederländisch-Indischen
Regierung hatte ich die Bewilligung meines
Gesuches um einen Gehülfen und
einen Zeichner zu verdanken. Die Herren Heinrich Bürger und Karl
Hubert de
Villeneuve wurden nach Japan gesendet. Herrn Bürger,
früher Apotheker bei unsern
Hospitälern auf Java, übertrug ich nun die
Fächer der Physik, Chemie und
Mineralogie, die er mit besonderer Vorliebe
betrieb, während Herr de Villeneuve,
der zugleich als Beamter bei der Faktorei
angestellt war, sich mit Zeichnen beschäftigte.
Beide Herren haben sich im Verlaufe meiner
Forschungen rühmlichst
bewährt.
和訳は,ジーボルト著 斎藤 信訳『江戸参府紀行』東洋文庫87 (1967) による.
P 5
私からこの計画の知らせを受けた蘭印政庁は、これに同意し、私の特別な研究対象となるものを詳しく指示した命令を私によこしたばかりでなく、商館長でこの度の使節ヨハン・ウィレム・ドゥ・スチュルレルに、私の江戸における日程外の滞在費とその後の旅費を職印政庁の金庫から支払う権限をあたえ、さらにまたこの計画ならびに私の学問的企画一般に対し、公使の権限をもって強力に私を支援するよう、特に依頼してきた。
また、助手と画家各一名の必要をのべた私の申し出に対して同意が得られたのも、蘭印政庁の同じように寛大な決定のおかげであった。それでハインリヒ・ビュルガーとビューベルト・ドゥ・ウィルヌーヴの両氏が日本に派遣されて来たのである。ジャワのわれわれの病院で以前薬剤師をしていたビュルガー氏には物理学・化学および鉱物学の部門をまかせたが、彼は特別な情熱を傾けてその方面の仕事にはげんだ。一方、出島商館の職員に任命されたウィルヌーヴ氏は絵をかくことを受け持った。この両氏は私が研究を続けてゆく間、よく期待に応えてくれた。
P 50
unsererseits nur aus drei Mitgliedern
bestand, aus dem Vorsteher der Faktorei
als Gesandten, aus einem Sekretär und dem
Arzte. Es wäre sehr zu wünschen ge-
wesen, daß mich sowohl Herr Bürger als de Villeneuve
hätten begleiten dürfen ;
aber für diesmal war es unmöglich ; und nur
mit vielen Umständen brachte ich
es noch dahin, daß es Herrn Bürger gestattet wurde, die Reise unter dem Titel
eines
Sekretärs mitzumachen.
先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか三人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドゥ・ウィルヌーヴ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった.そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとビュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。
また,シーボルトは参府途上の下関で,関門海峡を「フアン・デル・カペレン海峡」と命名しようとし,当地の阿弥陀寺に,海峡を描いた絵画を奉納するべく,フィルヌーヴに指示する手紙を出島に出した.それには「羊皮紙に書かれ、カペレン男爵の紋をつけたもので、次のような銘がある.
ここはフアン・デル・カペレン海峡である.
この海峡は、われらにこの国を研究する崇高な委託を与えた者の名を冠むるべし
一八二六年二月二四日、阿弥陀寺にて
江戸参府の使節一行」と書き加えるようにした.」とある.
ヨハン・ウィレム・デ・スチュルレル(de Surler, Joan Willem, 1773 マーストリッヒ– 1855 パリ)
シーボルトとともに 1823 年に来日。当時陸軍大佐で前任者ブロムホフ(J. Cock Blomhoff)のあとをうけて出島のオランダ商館長となる。在任中ジーボルトとはげしく対立し、総督に対しジーボルトに不利な報告をした。貿易改善には力を注いだが、厳格に過ぎてその目的を達成することができなかった。1826(文政九)年の末にバタヴィアに帰る。のちシーボルト事件がおこりその処分が決定されると、彼に対しても日本への再渡禁止が伝えられた。
ヘルマン・フェリックス・メイラン(Meijlan,Germain Felix,1775 ライデン - 1831 バタビア(現ジャカルタ))
江戸時代後期のオランダの長崎出島商館長. 1806年東インド会社会計副検査官となり,のち検査官,地租監督官を経て,26年日本商館長に任命され,文政 9 (1827) 年長崎に着任した.在任中は,脇荷貿易(対日私貿易)の改善,1829年のシーボルト事件では円満解決につくす.バタビアに帰任してまもなく 46歳で死去.
日本事情を調査し,日本誌"Japan" (1830) および『日本貿易史』 Geschiedkundig Overzigt van den Hendel der Europezen op Japan
(1833) を著わした.
ファン・デル・カペレン男爵(Baron
van der Capellen, Godert Alexander Gerard Philip, 1778 – 1848).1815 年に,Cornelis Theodorus Elout と Arnold Adriaan Buyskes と共に, Commissioners-General
of the Dutch East Indies に任命され,1819年にオランダ領東インド総督 (Governor-General of the Dutch East Indies, Gouverneur-generaal van
Nederlands-Indië) として,ジャワに赴任.本国政府の政策を受け,日本との貿易を革新するためには,日本を総合的・科学的に調査・研究する必要を認識し,シーボルトを出島の医師として派遣した.この目的のために,シーボルトに財政的・精神的に多大の援助を与えた.
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