2019年5月10日金曜日

ホトトギス (18)  欧文献-12,ピエロー・コレクション,採集者・2ndラベルの筆者

Tricyrtis hirta

ライデン大学のオランダ国立標本館 “Rijksherbarium” (以下,標本館)に所蔵されているホトトギスの標本の内,三点にはコレクターがピエロー (Pierot) であると記した,ミクェル (Miquel) のラベル (1st label) が貼付されている.この標本を基にしたミクェルの『日本植物試論』(以下『試論』)には,一点の標本に貼付されている別のラベル (2nd label) に,流麗な筆跡で記されている採集地などが記載されている.
一方,ミクェルが,“Rijksherbarium 収蔵の日本植物のすべての標本2,000種以上を調べて同定して記録した,『ライデン植物標本館標本目録1,日本植物』 Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1Flora Japonica (1870) (以下 『目録』) のホトトギス (Tricyrtis japonica, T. hirta synonym ) の項には,採集者のリストにピエローの名はなく,代わりにビュルガー (Burger) が採集者として記載されている.

実はピエローはブルーメとシーボルトの要請で出島に赴く途中,滞在したジャワで,日本植物の腊葉標本をビショプ (G. Bisschop) と共同購入した(1840-41)が,長崎への航海中に台風でマカオに寄港し,そこで病を得て 1841 年に没した.従って日本国内で植物を採取した事はなく,また流麗な手跡で記された日本国内の土地を訪れた事はあり得ない.この標本(Pierot collection)は, 1844 年にビショップから標本館が購入したことが分かっている.

標本館のデータベース(BioPotal)で公開されている,ピエローが collector とされている日本産植物の標本(Pierot collection)は  1,167 点に上り,このコレクションの内,164 点については,良好な解像度で,画像を見ることができる.この 164 点の内,流麗な筆跡のラベル( 2nd label )が貼付されているのは,少なくとも 109 点で,採集地は九州 (Kiu-siu) 79 点,本州が 30 点である.
2nd label Nippon, Hondo, Honsyu と記されている本州での採集地を見ると,出島から江戸への道中の沿道の地名が多く,オランダ商館長の江戸参府に伴って,これらの標本が採集されている.従って採集者は,オランダ商館長に同行して江戸に参府した館員である事は確実である.
また, 2nd label は,ミクェルが同定して添付したラベル(Miquel’s label)より先に腊葉標本の台紙に張られていたことが,Miquel’s label 2nd label の上に貼られている場合がある事,科名のみの2nd labelにミクェルが種小名を書き加えていることからも分かる.従って 2nd label がオリジナルのラベルである.

このピエロー・コレクションの実際の採集者,及び採集地などを記した流麗な筆跡の 2nd label の筆者については幾つかの説がある.

提唱者
Source
Collector
Writer of the 2nd label
1
Miquel, F. A. W.
『試論』1
Pierot

『目録』2
Bürger

2
M. J. van Steenis Kruseman
Flora Malesiana 3)
Bürger
Bürger
3
牧野標本館
シーボルト・コレクション ヒシ4
Pierot
Pierot
4
加藤僖重
『シーボルトコレクション中にあるピエロー作製の標本について』5
Bürger
Biss(c)hop
5
J. Lautenbach
Lautenbach - Vier eeuwen familiegeschiedenis 6
Villeneuve

6
Hanamoriyashiki
Following blog article
Villeneuve
Villeneuve
      
1) Plolusio Florae Japonicae, (1865 – 67)
       2) Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica, (1870)
       3) Flora Malesiana Ser. I, vol. 8 (1973)
       4) http://ameba.i.hosei.ac.jp/sbweb/Prep/004/MAKS0427.html
       5) https://www.dokkyo.ac.jp/shiencenter/pdf/25/02.pdf
       6) https://www.lautenbach.name/pierdetail.asp?Id=%20352

それぞれの説の内容,典拠,Hanamoriyashiki 説の根拠について,以下に詳説する.

.ミクェルMiquel, F. A. W.)は『試論』においては,ピエロー・コレクションの採集者はピエローと認識していたと見えて,コレクションからのいくつかの新種の種小名に,ピエローに献名した ”Pierotti” を付けた.しかし『目録』においては,コレクションの採集者はビュルガーと考えを改めた.これはピエローが日本へは渡航しなかったことが分かったからだと思われる,

ミクェルがピエロー (Pierot) に献名した植物
  『試論』1での学名
『目録』2での採集者7)
和名8)
Clematis Pierotii Miq.
В 3. S 2.            
コバノボタンヅル 標準
Senecio Pierotii Miq.
T 1. В 7. S 3. M 1. Mx 1. О 1.
サワオグルマ synonym
Salix Pierotii Miq.
S 3. В 6.
オオタチヤナギ 標準
Fimbristylis Pierotii Miq.
В 3. S 2.            
ノハラテンツキ 標準
Carex Pierotii Miq.
В 5. S 2. О 1.
シオクグ 標準

1) Plolusio Florae Japonicae, (1865 – 67)
       2) Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica, (1870)
       7) Literae singulis speciebus adjectae collectorum nomina, numeri chartarum quibus specimina adglutinata sunt numeram indicant.
B = H. ВÜRGER, Med. Doctor.
Mx. = C. J. MAXIMOWICZ, Med. Doctor, botanicus Rossicus.
M. = О. G. J. МонNIKE, Med. Doctor, medicus militaris neerlandus.
O. = RICH. OLDHAM, botanicus anglicus.
S. = PH. F. DE SIEBOLD, Med. Doctor, medicus militaris.
T. = С J. TEXTOR, Neerlandus, a Societate promovendae horticulturae in Japoniam missus.
       8) 「植物和名―学名インデックス YList」に準拠

また,加藤僖重『シーボルトコレクション中にあるピエロー作製の標本について』5 によれば,加藤氏が調査したピエロー・コレクションの裸子植物・シダ植物の腊葉標本の Miquel’s label の中には,Pierot の名前が切り取られていたり,その後の空白に Burger と書かれているものもある(左図).何時,誰がこのような修正を行ったかは判明していなが,筆跡からミクェルが行った可能性が考えられる.

一方,オランダの植物学者で,ボゴール植物園の園長も務め,東南アジアの植物の分類学・植物地理学の多くの著書で知られる,コルネリス・ファン・ステーニス (Cornelis Gijsbert Gerrit Jan "Kees" van Steenis1901 - 1986)の奥様で,東南アジア諸島(Brunei, Indonesia, Malaysia, Papua New Guinea, Philippines, Singapore)の植物誌を研究したステーニス-クルーズマ夫人 (M.J. van Steenis-Kruseman, 1904-1999) はその成果を “Flora Malesiana” に発表した.
この地方で活躍したコレクターのデータを集めた第二巻のピエローの項には,「彼が日本に派遣された途上,ジャワでビッショプ (G. BISSCHOP (The Hague)) と共同で,日本植物の腊葉標本のコレクションを購入したのち,日本への途上 1841 年にマカオで客死した事,このコレクションは 1844 年の 1 月に,ビショップから標本館が購入したこと」を記した.
また,「このコレクションの標本には,ミクェルが学名を記したラベルには,ピエローがコレクターとされているが,もう一つ現地名(日本名)や採集地が記された 2nd label があり,Prof. Dr H.J. Venema はこのラベルが H. Bürger の筆跡であることを発見した.」とある.
M. J. van Steenis Kruseman “Flora Malesiana” Ser. I, vol. 8 (1973) (http://www.nationaalherbarium.nl/FMCollectors/)
Pierot, Jacques
Add: (died on the outward journey, and not on
the home-voyage). There are contradictory data on
his role in the foundation of the Dutch horiticul-
tural society
COLLECTIONS: It is evident from letters in the
 archives of the Leiden Herbarium that the
 Japanese plants ascribed to J. Pierot were bought
 in Java for joint account of him and G. BISSCHOP
 (The Hague). They were sold to the Rijksher-
barium in January 1844. This collection has labels
 written by MIQUEL on which PIEROT is mentioned
 as collector. All these specimens have a 2nd label
 with a number, and generally some dates on
 locality, and vernacular names. By comparison
 Prof. Dr H.J. VENEMA found that the latter labels
 were written by H. BÜRGER and that the collection
 must be a duplicate set of the same.2 In 1841
 BÜRGER was in Holland, and it is still a mystery
 who sold this set of BÜRGER plants.
LITERATURE: (2) Cf. Meded. Bot. Tuinen Belm. Arb. 3, 1959, p. 58.

残念ながら,Prof. Dr H.J. Venema の文献は見つけることができなかった.しかし H. Bürger がシーボルトに出した手紙や,提供した川原慶賀の博物画に残された筆跡(右図,野藤妙ら『1831 ビュルガーがシーボルトに出した書簡』九州大学総合研究博物館研究報告 11, pp.19-51, (2013))は,この2nd label の流麗な筆跡とは全く異なっており,この意見には疑問が残る. (http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/publications/bulletin/011/11-19.pdf)

.牧野標本館           シーボルト・コレクション
東京都立大学牧野標本館は,故牧野富太郎博士(1862 - 1957)の標本を中心に、約50万点(平成15年現在)の標本を所蔵している,また,レニングラード市(現サンクト・ペテルブルグ市)のコマロフ植物研究所から,交換標本として送られてきた所謂“シーボルトコレクション”がある.その中には,採集者を Pierot としているヒシの腊葉標本がある.
これにも,流麗な筆跡で採集地を記した 2nd Labelが貼付されていて,解説には「Pierotの筆跡で "In agris oryzariis submersis et agriis tngnantibus , sinc inde" (要スペル再検討)」 と記されていて,採取者・2nd Label の筆者ともに,Pierotと判断している.なお,牧野標本館の“シーボルトコレクション”で,採集者を Pierot としている標本はこの一点のみである.

獨協大学, 国際教養学部, 加藤僖重(カトウ・ノブシゲ)名誉教授は,東京都立大学牧野標本館所蔵のシーボルト収集植物標本を中心に,約10年間にわたって精査してきた.
加藤教授の『シーボルトコレクション中にあるピエロー作製の標本について』情報科学研究,第25号(2008/02/01)には,
「オランダ国立植物学標本館ライデン大学分館が所蔵している多数の標本からなるシーボルトコレクションを調べていくうちに、同じ筆跡のラベルが貼付されている多数の標本が見つかり、採集者がピエロー(Jacques Pierot 1812-1841)であることが分かった。ピエローはシーボルト(P. F. von Siebold 1796-1866)とオランダ国立博物館の主任研究者ブルーメ(Carl Ludwig Blume1796-1862)が共同して出島に派遣した有能な植物学者であった。
(中略)
1997年の報告の中で山口博士*は、ステーニス夫人(van Steenis Kruseman 1973年の著作を紹介している。それは「 ……国立植物標本館にある彼の手紙から、彼の標本とされているのはG. Bisshop(? - ?)(ママ, Bisschop が正しい)と一緒に購入したものである。それは1844年に国立植物標本館に売却された。これらの標本は調査したミケルによってピエローが収集したものとされている。……」であるが、標本に添付されているピエローのラベルの筆跡は美麗で、ビュルガーのものとは異なる。
標本にはシーボルトコレクションを精力的に研究したミケル(Friedrich Anton Wilhelm Miquel1811-1871)や他の研究者のラベルも貼付されているが、そのラベルにも採集者名はPierotと記されているのが普通である。しかし何枚かの標本では、Pierotと記されたラベルの一部が切り取られており、そこにBurgerと書き加えられている場合がある。素直に考えれば,それらの標本の採集者はビュルガーということになる。シーボルトの助手であったビュルガーは1829年シーボルトが日本を追放された後、シーボルトに代わって日本調査を行っている。その際に個人的に収集した標本をジャワで売却した可能性がある。
山口博士によるとピエローはビュルガーに会う機会はなかったにちがいないが、彼は知り合いとなったビショップ(Bisshop)と共同でビュルガーから標本を購入したそうである。そしてビショップが美麗な筆跡のラベルを添付したのであろう。しかし、オランダ国立植物標本館所蔵のビュルガー自身の標本には採集地名が記されたものは1枚もないので、ラベルに記されている地名をビショップはどのように知ったのであろうか? そもそも、ビショップとはどんな経歴の人物であろうか。筆者は未だ調べられないでいる。」
*山口隆男『シーボルトと日本の植物学 von Siebold and Japanese Botany CALANUS(熊本大学合津臨海実験所所報)特別号1284-286 (1997)
とあり,ピエロー・コレクションの実際の採集者はビュルガー,2nd Label の筆者はビショップであると,ステーニス夫人や山口博士の報告を基に推定している.

 ビショップ (G. Bisschop) について,詳しい事は見出せなかったが,公開されているオランダ標本館のデータベース(BioPotal)で Collector = Bisschop で検索すると,1,961 点がヒットし,採集地 Locality は,Unknown (1,349), Europe (459), America (20), Asia (12), Africa (4), Japan (1) で全世界に渡る.画像を見る事の出来る殆どの標本には,流麗な筆跡で採集地等が記されていることが確認できた.
残念ながら,日本で採集されたとされる Thalictrum L. (L 0237307) の画像は UP されていなかったが,アジアAsia-Tropical; Indonesiaで採集されたとされる Ixora javanica (Blume) DC. (L.2917510) の高分解画像は(左図,左)見ることができ,それに添付されているビショップが記したラベルを示した.
一見,この筆致はピエロー・コレクションの 2nd Label のそれ(左図,右)と良く似ている.しかし,ヨーロッパで採集された標本に添付されているラベルも含めて精査・比較すると,ビショップのラベルとピエロー・コレクションの 2nd Label では筆者は明らかに違う事が分かり,ビッショプは 2nd Label の筆者ではない.(次記事)

5.ジャック・ラウテンバッハ (drs. Jacob Lautenbach) の『Lautenbach - Vier eeuwen familiegeschiedenis ラウテンバッハ家の四世紀の歴史』(2004) には,ジャック・ピエローに関する記述があり,その一部は既に述べた.この章にはピエロー・コレクションについて, 
“These so-called Pierot specimens all bear nicely written labels with collecting data, which are usually lacking on the specimens collected by Von Siebold, Bürger, Textor, and Mohnike. As many of the collecting localities are places along the route of the court journey, the collector of these specimens must have been a member of one of them. In case these specimens have been collected by Bürger, he must have done so during the court journey of 1826. It is however not likely that Von Siebold had permitted Bürger to collect and keep such a collection for himself. At that time he was still his assistant. When these plants have been collected during the later court journey of 1830, they can not be Bürger's. Although Bürger wanted to join the court journey of 1830 the Japanese officials (H. Beukers, pers. comm.) did not allow him to. Perhaps it was Von Siebold's other assistant, the skilful draftsman C.H. de Villeneuve, who collected these specimens during the court journey of 1830. "
 「いわゆるこれらの Pierot 標本はすべて,採取のデータが適切に書かれたラベルを貼付されている.このようなラベルは,通常,Von Siebold, Bürger, Textor および Mohnike によって収集された標本に欠けている. 採取地の多くは江戸参府のルートに沿った場所であるので,これらの標本の採取者は江戸参府のメンバーの一人であったに違いない.これらの標本がビュルガーによって採取されたとすると,彼は 1826年の江戸参府の間にそうしなければならなかった. その時,彼はまだシーボルトの助手だったので,シーボルトがそれらをビュルガーの所有物とすることを許したはずはない.
  これらの植物が後の 1830年の江戸参府の時に集められたとしたら,それはビュルガーに依るものではない.というのは,ビュルガーは 1830年の江戸参府に参加したかったが,日本の当局者は彼の参加を許可しなかった(H. Beukers. Pers. comm). おそらく1830年の江戸参府の間にこれらの標本を採取したのは,フォン・シーボルトのもう一人のアシスタント,才能豊かな画家 C.H de Villeneuve であったろう.(私訳)」
  とある.

Hanamoriyashiki (当ブログ筆者)による 採集者及びラベルの筆者とも Villeneuve 説については次記事

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