Hypericum monogynum
******文献画像は NDL の公開デジタル画像よりの部分引用********
筆者不明の『新摸草木花』(江戸後期)には,「ビヤウ柳」としてビヨウヤナギの図がある(冒頭図①).
江戸時代の植物学書として有名な『本草図譜』の著者岩崎常正及びその弟子の阿部喜任(1805-70)の著になる植物栽培の啓蒙書『草木育種(そうもくそだてぐさ)』(1837)は,上下二巻からなり,上巻は総論で下巻は各論で,185品の草木について述べる.注目されるのは,下巻の目録で草木名をイロハ順に配列し,品ごとに何番目の丁にあるかを記して索引を兼ねている点である.索引という発想が無かった江戸時代には珍しい試みであった.その「後編」には,
「金絲桃(びやうやなぎ) 致富奇書 園中(えんちゅう)に栽(うえ)て根より生するを分け種べし群芳譜ニ曰
根下劈キ開キ分ケ種ユ易レ活シ梅雨(つゆ)の時枝(えだ)を挿(さ)してよし致富奇書ニ曰一
種似タルレ梅ニ者ヲ名ク二金絲梅ト一其花稍(ヤヽ)小比レハ二金絲桃ニ一更ニ勝レリ今是も培法同し」とある(冒頭図②)).
「HYPERICUM MONOGYNUM ビヤウヤナギ 金絲桃」とある.一方,「HYPERICUM PATULUM. TH. キンシバイ 金絲梅〇 「ビヤウヤナギ」」ともある.
これは凡例の言によれば,ツンベルクは,Hypericum patulum. TH. の和名をビヤウヤナギとしたが,シーボルトはこれをキンシバイの和名とした事に関与した.
ツンベルク 『日本植物誌』FJ の p.295 には,Hypericum
patulum の項に “Japonice:
Bijo Janagi” とあり,一方 p. 297 の H. monogynum の項には “Japonice:
Bioru, vulgo Bijo Janagi” とある.つまり,ツンベルクは,H. patulum の和名はビヨウヤナギ.H. monogynum の和名はビヨウ(美陽)で俗名は H. patulum と同じく「ビヨウヤナギ」であると記録したこととなる(冒頭図➂).
東京大学教授となった伊藤圭介は,豊後国国東郡高田(現在の大分県豊後高田市)出身の本草学者,賀来飛霞(1816 - 1894)を小石川植物園に招き,二人で編輯した『東京大学小石川植物園草木図説』を 1884年に出版した.その「巻2」に,美しいビヨウヤナギの図(賀来が描いたと思われる)とともに,
「金絲桃科 林氏第十二綱第五目
〔和 名〕 ビャウヤナギ ビヂヨヤナギ
サツマヤナギ (ツ子ノビャウヤナギ)
〔漢 名〕 金絲桃 廣東新語 三才圖會
〔羅甸名〕 HYPERICUM CHINENSE, L.
此品,蓋シ舶種ナルヘシ,我邦未ダ自生ヲミズ,人家ニ多ク栽テ花ヲ賞ス
灌木ニシテ,高サ三四尺許,一根叢生シ,枝葉對生ス,葉ハ柄無ク長楕圓全縁ニ
此品,蓋シ舶種ナルヘシ,我邦未ダ自生ヲミズ,人家ニ多ク栽テ花ヲ賞ス
灌木ニシテ,高サ三四尺許,一根叢生シ,枝葉對生ス,葉ハ柄無ク長楕圓全縁ニ
シテ二三寸,背ハ白ミヲ帯ビ,冬月尚残葉アリテ,紅赭色ニ變スレドモ,落盡ス
ニ至ラズ,夏月枝梢兩葉ノ間ヨリ花梗ヲ抽キ,枝ヲ分チ小梗ヲ出シ,數花ヲ開
ク,蕚ハ披針狀ニ五裂シ,辧ハ倒卵圓形ニシテ五片,深黄色滑澤ニシテ光アリ,
多雄蘂ソノ脚相連ルテ五?ヲナシ,蕚ヨリ生シ,無數ニ分レ花外ニ出デ,
細絲細葯皆黄色ナリ,故ニ金絲ノ名アリ,雌蘂亦黄色,柱頭五ニ分レ,實礎卵形
ニシテ五縦道アリ,内亦五隔アリテ,無數ノ種子ヲ含ム,〇和方ニ,婦人ノ悪阻(ツハリ)
ニハ金絲桃或ハ金絲梅ヲ煎服シ,験アリト云
一 雄蘂 二 辧ト雄蘂ヲ去リ,雌蘂及ビ蕚ヲ観ル 以上(廓)三 實礎横裁 四 實 五 種子(廓)」と記した
飛霞の描いた植物図は,色彩をはじめ,花弁や種子の構造,葉脈や幹・根の形態にいたるまで詳細に観察し図示されており,科学的に高い内容のものといわれている.
興味深いのは,学名(羅甸名)で,圭介は『泰西本草名疏』(1829)では,H. monogynum としたのに対し,この書では H. chinense としたことである.どちらもリンネの命名であるが記載されたのは
Hypericum monogynum は,彼の “Sp. Pl. ed. 2 : 1107 (1763)” であり,H. chinense は ”Syst. Nat. ed. 10, 2 : 1184 (1759)” である.後者が先に発表されているので,圭介はこの学名を採用したとおもわれる.が,現在の標準的な学名(正名
correct name)は,Hypericum monogynum であり,H. chinense は synonym 同物異名としている書が多い.
三越のポスターを制作した事でよく知られる,日本モダンデザインの先駆者,杉浦非水(1876 - 1965)は,1920年から22年にかけて,『非水百花譜』という花卉写生図集を出版した.これは杉浦の写生に基づいて描かれた花卉図を版画とし,5種類をひと包としてタトウ紙に入れ,全20組百枚をセットにしたものである.
各図は,花卉のシルエット(本図と同じではない)にひらがなの名称を入れたものと,花卉の実物写真,部分図,葉脈図,植物学的解説に,杉浦の写生日時,場所,さらに写真撮影日時,場所,撮影者のデータが記してあるシートに挟まれている.それによると,杉浦は東京でほとんどの植物を写生しているが,ほかに安房郡太海村(現,千葉県鴨川市),新潟県赤倉温泉,石川県片山津温泉などが含まれている.撮影者もほとんどが非水本人であるが,ほかに千葉凱夫,高瀬写真館などの名がみえる.植物学的解説は,大正版では第14輯までを松尾亀夫,以降を川村正が担当したとある(亀井の病気による交代のようである). 何故,植物図鑑以上に詳しい解説を全ての作品に添えたのか,不思議ではある.その「第7輯」に
「 びやうやなぎ(未央柳)
學名 Hypericum chinense, L.
漢名 金絲桃 未央柳
英名 St. John’s Wort
科名 金絲桃科
性頗る強壯にしてよく數多の枝條を叢生し,高さ四尺許に生育する小灌木なり.學名なる Hypericum も荒
沼地に適する植物を意味し Yperiekon に語源を有す.(Yper = , ereike = heath)
全形概ねキンシバイに類似すれども葉は全縁にして葉柄なく,長楕圓形にして互生せり.
夏期枝條の先端に濃黄色の花を開く.花は放射相稱にして両性,花辧は五箇にして各片共に一隅缺如せるを普通
とす.雄蕋は多數にして花絲の基脚を以て五個づつに合着し,所謂群束をなす.
雌蕋一個,子房は一室又は下完全なる二三室をなし側膜胎座なり.胚珠は倒生し
果実は胞間裂開をなす所の蒴果にして多数の種子を藏し,種子には胚乳を有せず.
之に代りて幼軸は異常の發達を遂げ却つて子葉は小となれるの現象を呈せり.
叉本種の花は開花の當初,昆蟲によりて他花受粉を遂ぐれども後に至れば花絲は
漸く萎凋し漸時内方に曲がりて自花受粉をなす.
花の美しきにより觀賞植物として栽培せらるゝもの多し
備 考
一,學名に Hypericum salicifolium S. et. Z. を當つるものあり
本圖 大正八年七月一日東京に於て寫生(自然大)
附圖 (一)花の正面,(二)花の側面,(三)花蕾,(四)印葉,(五)花辧の形狀
(六)蒴果,(七)雄蕋及雄蕋の群束,(全部自然大)
寫眞 大正八年七月上旬東京に於て著者撮影」とあり,松尾の植物学的記述は詳しく,部分図は美しい.非水の大図(左ページ)は勿論多色刷り版画で,見事な物であろうと想像できるが,今のところ未見.早く NDL で,カラー版の公開を望む.
「びやうやなぎ
Hypericum
chinense L.
支那ノ原産ノ半落葉小灌木ニシテ,人家
ニ栽植セラレ,高サ1m内外アリ,多ク分
枝シ,褐色ナリ.葉ハ無柄,對生シ,長楕
圓狀披針形ヲナシテ鈍頭ヲ有シ,全邉ニシ
テ質薄ク,葉中ニ細微ナル透光的油點密
布ス.夏日,梢頭ニ聚繖花ヲ成シテ大ナ
ル有梗ノ黄花ヲ開ク.緑蕚五片.花辧五
片,倒卵形.雄蕋多數ニシテ基部五束ト
成リ,黄色ニシテ花絲ハ絲狀ナリ.子房
ニ長キ一花柱アリテ頂五岐ス.蒴ハ宿存
蕚ヲ伴フ.和名ハ未央柳ノ意乎或ハ美容
柳ノ意乎未詳ナレドモ共ニ其美花賞賛ニ
基ヅク.漢名 金線海棠(慣用)」とある.和名の「未央柳」が,「美花賞賛ニ基ヅク」名で,長恨歌の楊貴妃をしのぶ場面に基づくものとは言っていないことは,気に留めておくべきであろう.(下線:筆者)また学名としては H. chinense を採用している.
0 件のコメント:
コメントを投稿