2022年7月11日月曜日

ウラシマソウ-9 江戸後期-1.虎掌=ウラシマソウ 初見,常野採藥記(遊毛記),本草綱目啓蒙,物品識名,武江産物志,日光山草木之図

 Arisaema urashima

 『頭註国訳本草綱目』白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)(1929)「虎掌」の項で,植物の考定を担当した牧野富太郎は,「小野蘭山は虎掌と天南星とを別とする蘇頌の説に従ひ,虎掌をうらしまさう(A. Thunbergii, B. L)と」考定したと記した*.江戸後期の本草学の泰斗,小野蘭山の筑波・日光方面の採藥旅行の記録『常野採藥記(遊毛記)』(1801)に虎掌の和名として,ウラシマサウを充てたのが,文字としての「虎掌=ウラシマソウ」の初見である.蘭山の『本草綱目』講義録の『本草綱目啓蒙』は多くの本草家,博物家に支持されたが,「虎掌」の項にも「虎掌=ウラシマソウ」の考定が記されている.それ以降,岡林清達・水谷豊文『物品識名』(1809 跋)には,「虎掌 ウラシマサウ」とある.岩崎灌園『武江産物志』は,武州と江戸の植物・動物の生育地の記録だが,「道灌山ノ産 虎掌(うらしまさう) 〈大クボヘンニモ〉」とある.同人の『日光山草木之図』(1824)にも美しいウラシマソウの圖に「浦島サウ」とある.
       文献画像は全てNDLの公開デジタル画像の部分引用

*但し牧野は『頭註国訳本草綱目』で,「虎掌=ウラシマソウ」に反対し,虎掌はマイヅルテンナンショウと考定した.

 小野蘭山(名は職博[もとひろ]、17291810)は,1729年に京都に生まれ,ほとんど独学で動植物のことを学び,25歳にして私塾衆芳軒を開く.日ならず名声 得て,遠近・老若を問わず,その門に入る者が続出した.やがて1799年,71歳のとき幕府に求められて江戸に移り,幕府の医学館で講義するとともに,関東各地はもとより,遠く紀伊・木曽の地まで採集の旅に出た.医学館での講義を纏めたとされる『本草綱目啓蒙』(全48巻,27冊)は江戸時代の博物誌を集大成した名著として知られる.

蘭山は幕府に招かれて江戸に出たのち,6回も長期間の採薬(現在の採集)旅行に出ている.
1.
享和元年(1801)4~5月,常陸・野州
2.
同年8~10月,甲斐・駿河・伊豆・相模
3.
同2年2~5月,紀伊
4.
同3年3~4月,房総・常陸
5.
文化元年(1804)8~10月,駿河・伊勢
6.
同2年5~6月,上野・武蔵.

どの採薬記にも,毎日の行程を細かく記し,採集あるいは実見した動植物の「漢名・和名・方言」を記す.形状や産地などの注記を添えることも少なくないが,図は無い.

このうち,★享和元年(1801)の採薬記『常野採藥記(遊毛記)』には,日光中禅寺湖畔・歌濱で記録した「虎掌」に和名として「ウラシマサウ」と記している.これが直接「虎掌=ウラシマソウ」とした初見である.
 享和元年(1801217日に蘭山は,医学館主を通じて,幕府に日光及び諸州採藥の願いを提出し,320日に若年寄堀田正敦より,医学館主を通じて採藥の命を受けた.

同年47日 門下の小原桃洞(紀伊藩士,17461825),井岡冽(津山藩医),宮地郁蔵(土佐出身医師),孫の職孝(?-1852)など,総勢45名で,江戸を出発.

行程の大略は,江戸→小金→原→北条→筑波山→男体山→筑波→真壁→足尾山→加波山→羽黒→西寶寺→宇都宮→今市→日光(423-28日)→清滝→足尾→黒髪山→中禅寺→赤沼→湯本→金精明神山→大野山→志津→日光(59日)→今市→栗野→佐野→行田→大宮→板橋→江戸帰着(518日).

1219日『常野採藥記』を医学館主に提出した.


この書の54日の記事には
「四日彼小舎ヲ出復シ哥濱ノ邉ヲ盤垣ス
羗活 獨活 鬼督郵 槲葉ハグマ ヱイザンハグマ モミチサウ
ホテイサウノ四種アリ 天南星 和名ヤマニンジン
虎掌 ウラシマサウ 藜蘆 シユロサウ 一名日光ラン
ト云葉初生棕櫚ノ如シ長サ尺許數葉叢生シ夏
月莖ヲ抜クコト高サ二三尺葉互生ス上ニエダヲハカチ六辧
ノ小花アリ大サ四分許白微?花ニ似タリ色亦紫黒後
莢ヲ結ブ根葱白ノ如シ蘆頭黒毛ニテ包メリ味辛ニシテ
薟本艸ニ葱白藜蘆及ビ葱菅藜蘆ト云モノ是也 (以下略)」とある.
蘭山はここに,虎掌の和名はウラシマソウと明言した.

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(1803-1806)

小野蘭山『本草綱目啓蒙』48巻.1803 - 1806年刊.『本草綱目』に関する蘭山の講義を孫職孝が筆記整理したもの.『本草綱目』収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などが国文で記されている.

この書(『重修本草綱目啓蒙』)の「巻之十三 草部 草之六」には,


虎掌 天南星
 トラノオ ヤマニンジン
 テンナミサウ 加州天南星ノ音ノ転ジタルナリ 
〔一名〕半夏精 惙耕録1 蛇頭草根 藥性奇方2
豆也摩次作只 採取月令3 豆也麻造作只 村家方3
豆也末注作只 郷藥本草3
深山幽谷ニ生ズ.春,宿根ヨリ苗ヲ生ズ.一枚一莖,
根肥大ナルモノハ莖径一寸許,長サ六七尺,小根ノ
者ハ二三尺.形圓ニシテ直立ス.淡緑色ニシテ白斑ア
リテ光澤アリ.其莖ニ二葉互生ス.一ハ大ニシテ下
ニアリ,コレニハ長葉九ツ或ハ十三簇レリ.一ハ
小ニシテ上ニアリ,コレニハ長葉五ツ或ハ九ツ簇レ
リ.其蒂モ亦同色ナリ.四月莖ノ梢ニ花ヲ開ク.本
ハ巻テ筒ノゴトシ,末ハ開テ尖レリ.蓮花ノ一瓣ノ
如シ.漸ク半ヨリ前ニ折テ筒ノ上ヲ蓋テ鐙ヲク
ツガヘスガ如シ.其瓣緑色ト紫黑色トノ粗キ間(シマ)
(スジ)アリ.筒ノ中ニ長圓蘂一ツアリ,大サ小指ノ如
シ.上大下小ニシテ臥槌(ヨコツチ)ノ形ノゴトシ.黄白色.花衰テ
瓣黄色ニ変ジ,漸ク皺ミ垂テ落ツ.中ノ蘂漸ク長
大ニシテ上出ス.外ニ圓珠多ク綴リ緑色ナリ秋ニ
至レバ實ノ大サ南天燭子ノ如ク,色赤ク愛スベ
シ.冬ハ莖葉腐爛シ,實地ニ落,來春自生ス.根ハ冬
ヲ經テカレズ.形圓扁ニシテ蒟蒻(コンニヤクイモ)ノ如シ.一種斑杖,
形狀甚相似テ紛レ易シ.山谷ニ多シ.又竹林中
ニモ生ズ.莖淡緑色ニシテ紫黑斑アリ,葉花實根竝
ニ天南星ニ同ジ.唯莖紫斑,花緑,白間道ナルモノ多シ.
俗ニヘビノ大八ト云.一名マムシグサ ヤマゴ
ンニヤク クチナワノシャクシ ノドシバリ
雲州 ヘビノダイワウ 佐州 ダイハチ 南部 此ハ根ニ毒多
シ.下品トス.然レトモ南星ハ少ク斑杖ハ多シ.故ニ
賣モノハ多クハコノ根ナリ.肥前ノ五島ヨリ多ク出ス.斑杖
ノ名ハ蒟蒻ノ下ニ見エタリ.蘇頌ハ虎掌,天南星
ヲ分チ説.時珍ハ混ジテ一トス.宜ク蘇ノ説ニ從
テ二物トナスヘシ.天南星ハ根圓扁ニシテ黄独(カシウイモ)根
ノ如ク,大塊唯一顆ニシテ子ナシ.蘆頭ニ鬚アリ.虎
掌ハ根ノ周圍(メグリ)ニ小子多ク着リ.苗ノ形天南星ニ
似タレトモ莖ニ白斑ナクシテ細黑点アリ.一根一莖
一葉,葉狭長ニシテ數多シ.花中ニ長蘂ナク長線ヲ
イダシ垂.長サ一尺餘.俗ニ此ヲ浦島草(ウラシマサウ)トヨフ.浦
島太郎釣ヲタレシ形ニ象ル.加州ニテ天狗ノハ
ネト呼ブ.本草彙言曰,南星即虎掌,同類而異種ト云.
本草原始ニモ虎掌,南星ノ分別ノ説アリ.
集解〕頌曰牙子.コレハ根ノグルリニ子アルヲ云.
上ニ云フ圓牙,子牙,共ニ同ジ.江州一種草,詳ナラズ.
〕一種蝦夷産ノ天南星アリ.苗高サ七八寸,莖青
クシテ淡褐色ノ斑文アリ.葉ノ形ユキモチサウニ
似テ細ク粉緑色ナリ.葉中ニ黒斑アリ.夏月花ヲ
開ク青色ニシテ,淡紫色ノ斑點アリ.
附方〕角弓反張下灸印堂 コノ穴醫經小學ニ出
ツ類經奇兪類集云印堂在兩眉中間神農鍼經云,
治小兒急慢驚風可灸三壯艾炷如小麥玉龍賦云
善治驚搐灸穴法ノコト余ガ述作ノ隧穴啓蒙ニ
詳カナリ」とあり,また

1)輟耕録(てっこうろく):中国,元末の随筆.正しくは『南村輟耕録』.陶宗儀の著. 30巻.元の法制,風俗,元末の動乱,さらに経,史の考訂,書画骨董の品評など,思いつくままに記したもので,詩詞,小説,戯曲についての資料も含み,文学史を研究するうえで貴重な書.耕作の間に葉に書きつけたものを甕 (かめ) にためてできたと伝えられている.原文は探しきれなかった.

2)藥性奇方:『花彙』始め多くの本草書に参照されているが,原文は探しきれなかった.

3)いずれも朝鮮の民間薬物書,松典子勅『千金方薬註』(1778)でも参照文献として挙げられていた.

由跋
即天南星嫩根ノ小ナル者ナリ.時珍ノ説ニ從フ
ベシ.本經逢原曰,新生芽曰由跋.先師ノ説ニハム
サシアブミトス.穏ナラズ.コノ草モ亦天南星ノ
類ニシテ別種ナリ.形狀大抵相似タリ.葉品字4ヲナ
シテ左右ノ二ツハ長大,中ノ一ツハ短小.肥根ノ
モノハ莖高サ二三尺,花瓣ハ天南星ヨリ濶クシテ紫
黑色,鐙ノ形アリ.又一種ユキモチサウアリ.亦三
葉ニシテ花筒ノ内白色,中ニ圓蘂アリ,亦白色ニシテ雪
ノゴトシ.和州多武峰ニ産ス.是亦天南星ノ種類ナ
リ.
〔正誤〕烏翣ハ射干ノ一名ヒアフギナリ.」とある.

4)品字:同じ漢字を上に1つ,下に2つの形で3つ重ねた漢字を「品字様(ひんじよう)」と呼ぶ.他には「轟」,「姦」など.ムサシアブミではよく似た葉(小葉)三枚が「品」の様に附くから,この様に言ったのであろう.

 ★岡林清達・水谷豊文『物品識名(1809 )


品名を和名のイロハ順とし,ついで水・火・金・土・石・草・木・虫・魚・介・禽・獣に分け,各項にその漢名・和の異名・形状などを記した辞典.
序によれば,『物品識名』は,初め水谷豊文(17791833)の友人岡林清達が着手したが眼病で中絶し,豊文が継続,完成させた.後編『物品識名拾遺』(1825跋)は豊文の単独執筆である.
 イロハ順といっても,江戸時代の場合は第2字目以下はイロハ順ではないが,本書は「キリシマ・キリ・キリンケツ」のように,第2字目も同じ名を連続する工夫をしているので,一般的なイロハ引より使いやすい.本書は和名中心の動植鉱物辞典の嚆矢だったので,大歓迎された.

この『物品識名』の「坤 宇部」に「ウラシマサウ   虎掌」とある.一方,天南星に関しては「坤 天部」に「テンナンシヤウ 通名  天南星 半夏精 耕録」,武蔵鐙に関しては「乾 無部」に「ムサシアブミ  天南星一種」と,由跋に関しては,後編『物品識名拾遺』の「坤 由部」に「ユハツ 由跋 天南星ノ嫩根ナリ」とある. 

★岩崎灌園『武江産物誌』(1824)には,江戸とその周辺の動植物誌.野菜并果・蕈(キノコ)・薬草・遊観(花の名所)・名木・虫・海魚・河魚・介・水鳥・山鳥・獣の各類に分け,それぞれの品に漢名を記し,和名を振仮名で付け,多くは主要産地を挙げる.合計で植物約 520品,動物約 230品.薬草類は採集地別で,道灌山(上野駅の北)の119品が群を抜いて多く,ついで堀之内・大箕谷(おおみや,現杉並区)と尾久(JR山手線田端駅の北)が各29品.鶴には本所・千住・品川,鸛(コウノトリ)には葛西,紅鶴(トキ)には千住の地名がそれぞれ記されている.当時の博物家がしばしば訪れた採集地の大半が,ほとんど挙げられている.

この書の「藥草 道灌山ノ産」の項に「虎掌(ウラシマサウ) 大クボヘンニモ」とある.

ウラシマソウが見られるとした道灌山は,当時は花見・月見・蟲聞きの名所で,また多種な薬草の生育地として知られていた.

岩崎灌園,名は常正.通称は源三(灌園は号).文化6年(180911月に24歳で徒見習となり,同112月,屋代弘賢の編集書籍手伝を命じられ,『古今要覧稿』の編集助手に.文政5年(18224月,父の後任として徒となり,同712月,「日光山草木之図」を献上して白銀3枚の褒美を下される.天保5年(18342月に表火之番に転じ,10月,病気のため小普請入り.同97月,53歳で隠居.同13年(1842)正月,没.57歳.

★岩崎灌園『日光山草木之図』(1824)「七巻目録一巻」には,彼が日光地方の藥草採取旅行で観察した多くの本草品の図が収載されていて,その「巻之五」には,瀧尾で見た三種のテンナンショウ属の植物が描かれている.その中に,「浦島サウ」の美しく正確な図もある.文化六年(1806)記の「日光山道之記」が残されているが,何時の日光行で写生したのかは不明.

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