Trochodendron aralioides
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| 2018年5月26日 筑波実験植物園 ヤマグルマの果実 |
ヤマグルマ(山車) は、ヤマグルマ科ヤマグルマ属の1属1種の植物であり、良い鳥もち(黐)が製造できるから「トリモチノ」の別名もあり,広葉樹なのに,仮道管で水を輸送する事で知られている.
東アジア特産(日本では,本州(山形県以南),四国,九州,琉球,伊豆諸島に,東アジアでは,台湾(「崑蘭樹」),朝鮮南部に分布する)の被子植物の常緑広葉樹である.ヤマグルマ科には,他にTetracentron スイセンジュ屬があり,ネパール・中国・ミャンマー北部に生育する T. sinensis スイセンジュが属している.
名前は枝先に着く葉が,短い間隔で四方八方に丸くつくので,車輪の様に見えるからと言われ,シーボルトのつけた屬名(Trochodendron, trocho = wheel, dendron = tree)も之に由来する.
故磯野直秀慶大教授による「ヤマグルマ」の初見は,小野蘭山(1729 - 1810)『紀州採薬記』(1802)だが,別名の「大黐樹(オホトリモチノキ)」が★嵯峨天皇『新修鷹經』(818)に現れ,この樹木はヤマグルマであるとする説もある(後記事).但し採ったトリモチを使うわけ訳ではなく,鷹に鈴を着ける際の,鈴板に此樹の葉を用いたようだ(屋代弘賢『古今要覧稿 第三 鷹装束』).鈴板とは,鷹が草むらなどに侵入した時に行方不明にならないよう,鷹の尾にある中央の羽(鈴付け羽)に鼠緒(鈴革)を縫い付け鈴を固定する時に,羽の間に入れて鈴の鳴りを良くし,羽毛を守るための板である.
鷹狩文化の起源は紀元前 1000 年頃の中央ユーラシアと推測される.『日本書紀』の仁徳天皇紀の記事によると,百済から伝来したと伝えられ,それ以降,日本に定着していったとされる.古墳時代の埴輪には鷹匠らしく腕に鷹を載せた人物像もあるので,それ以前から支配者層の狩猟行事であった可能性もある.
平安初期には,桓武天皇・嵯峨天皇・光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇らの天皇とその子孫が放鷹(鷹狩)を好み,特に第52代天皇の嵯峨天皇(786 – 842,在位:809 - 823)は放鷹の技術書として『新修鷹経』を編纂させるなど,日本における鷹術の伝承・発展に大きな役割を果たした.それまで中国の『鷹経』という鷹術書の経巻が日本にも伝来していたが,実際に鷹の飼養や放鷹が盛んになるうちに,鷹術にも錯誤や混乱が生じたために標準となる鷹書が求められ,嵯峨天皇は『鷹経』の見解の上に,実際に蔵人所や近衛府等で鷹術にあたる鷹飼人たちの体験を集約しながら,鷹の良否・調養・放養等の法を微細に説いた『新修鷹経』という書物を撰した.(溝渕利博『(研究ノート)讃岐の鷹狩文化に関する基礎的研究(上)』高松大学
研究紀要第 83 号)
★嵯峨天皇『新修鷹經 中,調養.着鈴繋法』(国立公文書館所蔵筆写本)には,
「 著鈴繫法
凡著鈴繫者。捉鷹令俯。擬著繫人。左手執尾。
右手把錐。披拂尾魁。著水於毳(ニコゲ)。修撫之。若修
撫不伏。則刈去之。挾葉於著鈴尾下。著鈴尾。謂尾中
央二箇也。乃傅鳥羽根。不至膚二分許。而傅之也。即以左手送
挾尾下。以錐穿鳥羽根。離本頭二分處。鷂苞
微平。則緩緩轉抽之。貫針於其孔。牽出尾外
以去針。自著鈴尾外。以錐本釣糸。自葉上出
之。偏結兩縷。逼延之。釣出一縷於尾内。左右
手各振絲。合手緩々牽約。若不会手。索引者。糸斷成害也。乃
重糺兩縷。結革上孔中間。又一糺約結。更後
偏結乘一許分。截去之。截革者欲一度斷。形
様令圭頭。差殺本頭兩角。長以自著鈴尾本。
至末第二班文末頭爲度。以彩色革柔軟。爲
之預先度長短。截取置之碪上。即以兩釘。釘
革本頭。又以兩釘釘著革末頭於碪外廉。仍
以五寸刀子先。截右革。側刀剪外偏。正刀剪
内偏。截左革。亦准之。即以一縷絲。貫其兩端於釘革
本。而上二分穿孔。鷂者分半。貫針釣係絲於革。總
括之。凡造鳥羽根者。鷹用第一二三羽根。根
長一寸四分。鷂用鴨等第一二三羽。根長一
寸。置中央巳下。削殺中央巳上。縦折内方。凡
剪葉者方二寸。鷂者一寸五分。用大黐樹葉。煮而陰乾。」とある.
『新修鷹經』の筆写本は国立国会図書館(NDL)や早稲田大学図書館(WUL)にも収蔵され,デジタル画像が公開されているが,全て「大黐樹」と書かれている.
一方,活字版で読みやすい★塙保己一 編『群書類従 第拾貳輯』経済雑誌社(明治27)「新修鷹經」の該当部には「大黐樹」が「犬黐樹」と記されている(左図,左).
上記のように筆写本では,「大黐樹」であること(左図,右),及び★持明院基規『鷹經辨疑論』(NDL所蔵筆写本,及び,塙保己一 編『続群書類従 第19輯ノ中』 蹴鞠部.鷹部.続群書類従完成会(大正14))にも「或問。鈴着ルコトハ如何樣ナルゾヤ」の項に「若不伏トキハ切去テ葉ヲ鈴繫ノ尾ノ上ニ挾ム.葉ト云ハ大黐樹ノ葉ヲ煮テ陰乾ニシテ鈴持ニ作ル。」とある(下記事)事から,塙保己一か,活字に起こした編者が「大」を「犬」に読み間違えた可能性が高い.
戦国時代の公卿★持明院基規(1492 - 1551)『鷹經辨疑論』(NDL所蔵筆写本)には,
或問。鈴着ルコトハ如何樣ナルソヤ。答云。經ニ曰。鷹ヲ捉
俯テ着ント擬スル人。左ノ手ヲ以テ右ノ手ニ錐ヲ持テ
尾魁ヲ救拂テ。水ヲ毳ニ着テ撫デフセヨ。若不伏則
切去テ葉ヲ鈴繫ノ尾ノ上ニ挾ム.葉ト云ハ大黐樹ノ葉ヲ
煮テ陰乾ニシテ鈴持ニ作ル。凡剪葉廣方二寸。鷂ハ
一寸五分。今按ニ。黐樹ノ葉得ガタキニヨリテ吾朝ニ用
ヒス.漢土ニ是アリ。方二寸ニキルト云ハ大ナリ。鷹ニ似
合テ少ツヽムベシ。
(以下略)」とあり,大黐樹の葉を基準としている.ただし,黐樹の葉は中国にはあるが,日本では手に入らないとある.
上記文献からでは,古代,鷹狩の鷹に鈴を着ける際に用いた「大黐樹」がヤマグルマか否かは判断しかねる.
文献画像は各所蔵館の公開デジタル画像からの部分引用.また引用文中の句読点は塙保己一
編『群書類従』の各部分を参考にした.
★屋代弘賢(1758 - 1841)『古今要覽稿』(1821 - 42成立)は,560巻.弘賢が1821年(文政4)に幕府の命によって全1000巻の予定で編纂を開始,1842年(天保13)までに560巻を調進したが,弘賢没後は編纂が中絶した.事項は神祇・姓氏・時令・地理など20部門別に意義分類して,その起源や沿革などに関してまず総説を述べ,古文献の記述や本題にちなむ詩歌を引用し,別名などを示す.器材・草木が全体の6割を占める.弘賢の個人事業が1810年(文化7)幕府の事業として認められ,1821年(文政4)から1842年(天保13)まで毎年1-3回上呈されたが,天保12年の著者の死により中断された.献上本は1844年(天保15)の本丸火災で焼失した.1905 - 1907年(明治38 - 40)にかけて稿本が刊行された.引用が豊富でしかも詳しい.日本初の本格的な類書といえよう.
弘賢は江戸後期の国学者,該博な学識で知られる.江戸・神田明神下の幕臣屋代佳房の子.塙保己一の『群書類従』,柴野栗山の『国鑑』の編集に協力したほか,幕命により『古今要覧稿』を著した他,『寛政重修諸家譜』などの編集にも従事した.ロシアへの幕府の返書を清書するなど,書家としても活躍した.
この叢書『古今要覧稿 苐三 卷第百八十五
器財部 鷹犬具七』国書刊行会刊行書(1906)には,『新修鷹經』にある「大黐葉(ヤマグルマの葉?)」は,陰干しをして「鈴板」として用いたとある.
「鷹裝束 鈴板 鼠緒
鷹裝束といふはふるくは鈴とほしのみをいへり 鷹經辨疑
論 さて後には鈴一具の粧ひをすべて裝束と云 武用辨略 新
修鷹經に鳥の羽を附る樣とあるは其事なるべけれど
正しく鷹裝束といふことはみえず治承の頃よりぞは
じめて其名目はみえける 東鑑 また持明院基春卿鷹書に
鷹裝束のすがたは大國にてかいてんといふ蟲の姿な
りとあるは其義詳ならねども鷹經辨疑論にみえたる
和戒傳裝束などいふことにや猶考べし其鈴一具とい
ふは鈴板鼠をなり鈴板はいにしへ葉とのみいひて大
黐葉を陰乾にして用ゆといふ 新修鷹經 または大黐の木の
葉は得得たきにより吾朝には用ひず西土にのみある
よしいへり 鷹經辨疑論 後に鈴つけともいひ 空穂物語鷹口傳書
鈴持と
もいひ 持明院基春卿鷹書 或ひは鈴札鈴敷などもいふ
武用辨略 其質は
鼈甲鮑の売鹿の角熊の骨などを專に用ゆといひ
清來
流鷹言?次第 又角牙魚鱗を以ても作る 曾我流鷹文字
或ひは又鹿角
の滑目にても作る 武用辨略 寸法形狀等家々流々の習あり
て一定ならず鼠緒は鈴板にすゞを繫ぐ緒なりみゝず
革とも 鷹口傳書 あるひは鈴さし鈴とほし虎の緒平先など
もいひまた一說には是をも鈴 といふ 鷹口傳書 すべて此
鈴板鼠緒の類製造色目の差別によつて裝束の名目數
多あり
(以下
『新修鷹經』の引用,略)」





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