2025年11月11日火曜日

ヤマグルマ-3,伊藤圭介『日本産物志前編』,白井光太郎『樹木和名考』,白沢保美『日本森林樹木図譜』

Trochodendron aralioides


伊藤圭介日本産物志前編 美濃部 中』文部省(1876)には,図や地方名と共にトリモチの製造法が詳しく載っている.また山地の人々にとって,重要な木として,濫りに伐採する事はタブーとされていた事も興味深い.

  (圖)ヤマクルマ
             
モチノキ
      TROCHODENDRON ARALIOIDE, SIEB ET ZUCC
  「ヤマグルマ
             
モチノキ                 トリモチノキ
             
オホモチノキ               オホム子モチ
             
オホトリモチノキ  ビランジユ  
             
イハグルマ
   「トロ?ヨデンドロン  アラリヨイデス」羅(林氏)第廿二綱第第十一目(自然科目)五味子科
小川等 藪原王瀧、勢 菰野 三、紀等諸州山中多クハ巖石ノ際ニ
生ス、常緑品ナリ、樹髙サ二三丈、葉互生シ、形橢圓濶大且
光滑ニシテ、細鋸齒アリ、又細長葉ノ者アリ、此葉梢頭ニ
多ク攅簇シ、頗車輪様ヲナス、故ニ「ヤマグルマ」ノ名アリ
ト云、夏月梢上ニ小白花ヲ着ク、雄本雌本アリ、其花無辨
ニシテ雄蕊三十條許アリ、雌花ハ五雌蕊トス、實ヲ結フ
コト豆ノ大サ許ナリ、山民此樹ヲ以テ黐膠ヲ製ス、故ニ
ニ之ヲ伐ルヲ禁スト云、其法五六月此枝ノ表皮ヲ削リ
去リ、清水ニ浸スコト三十日許、朽腐セシメ、後臼ニ入レ、餈(モチ)
ヲ搗クカ如クニシ、或ハ復水中ニテ屢引キテ、盡ク皮屑
ヲ去リ、純粹ノ品トナス、又紀ノ熊野山家ノ製法モ、亦粗
相同シ、其法梅雨ノ頃ヨリ土用マテ皮ヲ剥ク、梅雨中ニ
剥ケハ、黐ヲ得ルコト愈多ケレトモ、土用ニ至ラザレバ、腐敗
シ難シ、地ヲ掘リテ田ノ如クシ水ヲ引キ、其中ニ浸シ置
キ、或ハ田ノ泥中ニ埋メ置キ土用ニ至リテ、ソノ初入レ
シ者ヲ、逐次ニ取出シテ、臼ニテ搗キ、水中ニ揉ミ流セバ、
皮ノ滓ハ、分離シ流レ去ル、此黐ヲ浴桶ノ湯中ニ投ジ、振
蕩スレバ、黐ハ水面シ浮散ス、之ヲ取リ出シ、冷定スレバ、
ソノ黐卽凝固ス、但湯ノ熱度烈シキニ過グレバ、融化シ
テ其宜ニ適セズ、雌本ハ實ヲ結ヘトモ、黐ハ得難シト云、或
ハ此樹皮ニ白絲アリ、是眞ノ社仲ナリト、又「シーボルト」
日本本草ニ、此樹ノ雌雄花ノ圖頗詳ナリ
 とあり,シーボルトの『日本植物誌
Flora Japonica』にヤマクルマの記述があり,精密な図が掲載されている事を紹介している.
 また,同人著『日本産物志 前編 信濃部 上』には,
ヤマグルマ

   モチノキ
黐膠(トリモチ)ヲ製ス詳ニ美濃ノ部ニ注ス」とあり,日本各地でヤマグルマから黐が製されていたことが分かる.

高島得三,田中壌木蘇樹木略誌』(1880序)は.内務省地理局山林課(のち農商務省山林局)の事業として木曽地方の山林調査を行った報告書であるが,表の形で
濶葉 喬木 常緑 木蘭科 ヤマクルマ 〔方言〕モチノキ 〔漢名〕(空白) 〔俗用〕(空白) 〔洋名〕 Trochodendron Aralioides, S. et Z.

〔地位〕 三千尺以上五千五百尺以下ノ地ニ在リ
〔土質〕 古期石層及ヒ花崗岩ノ地ニ適ス好テ嵓石上ニ生ス火山土ニ適セズ且ツ性陰濕ノ地ヲ好ム
〔位置〕 此樹本郡ノ西南部ニ多クシテ東北部ニ甚ダ希ナリ且ツ林ヲ成スノ多キヲミス
〔効用〕 多クハ木皮ヲ剥ギテヲ作ル材ハ盆椀ヲ鏃作スベシ
〔雑記〕 大約尺圍ノ材十五本ヲ以テ一樽ノ黐ヲ得ベシ一樽ハ六貫目トス
とあり,黐を採るほか,盆や椀を作る材として用いられていたとある.ヤマグルマは木目が美しく出るため,木工製品特に旋盤加工品として有用であった.
 田中壌1858 1903)は,但馬国(現在の兵庫県出石(いずし)町)に生まれる.1879年から85年まで,内務省地理局山林課(のち農商務省山林局)の事業として高島得三(北海)(18501931)とともに日本各地の森林植物帯調査を行い,85年に《大日本(本州・四国・九州)植物帯調査報告》をまとめた.当時の日本には林学の体系的な学術書がなく,学名を確かめることさえ困難な時期に行われた山林調査であった.調査全域の各植物帯を検討し,榕樹(ようじゆ)帯,黒松帯および間帯,山毛欅(ぶな)帯,白檜(しらべ)帯,偃松(はいまつ)帯(または極帯)の5帯の区分を行い,気温,雨量,潮流,定風,高度などとの関係を調べた.86年には,ドイツの森林植物学者でのち東京農林学校教授(1881-91)を務めたマイヤー Heinrich von Mayr1854 - 1911)を案内して伊豆,九州,中国,近畿,信濃,北海道などを巡回し,彼の教示を得て1887年に《校正大日本植物帯調査報告》を完成した.
 高島得三(北海)1850 1931)は,長門国萩(萩市)に,萩藩医の子として生まれる.明治5年(1872),工部省に勤め,生野銀山に赴任,フランス人技師コワニェから地質学とフランス語を学ぶ.明治7年(1974),日本初の地質図となる「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著す.明治17年(1984),万国森林博覧会参加要員として渡英,その後,ナンシー森林高等学校に留学し,植物学を学ぶ傍ら,植物への造詣の深さを生かした多くの日本画を制作する.エミール・ガレらナンシーの美術家たちと交流し,彼等の作品に大きな影響を与えた.明治21年(1888),帰国後,農商務省技師を務めたが,明治30年(1897)公職を辞し,本格的に画業に邁進する.明治39年(1906),第40回日本美術協会展で『秋澗暁霽』が二等賞銀杯受賞.翌40年,東京勧業博覧会で『水墨山水』が一等賞牌受賞.明治41年(1908),第2回文展から大正6年(1917)まで文展審査員を務めた.


白沢保美日本森林樹木図譜 上編』成美堂書店(1911)は,1900年に刊行された『日本森林樹木図譜. 第一帙』の増補改訂版であり,より内容が充実している.この書ではヤマグルマはフサザクラ,カツラと共に「雲葉科」に属すとされ,性状や生育地,利用法が記載され,「導管ヲ缺キ却テ「とらへいでん」ヲ有」し,材が美しく挽物に適しているとしている.広葉樹には珍しく「導管ヲ缺キ」との知見を記述した.「とらへいでん」は何かは分からなかったが,語感からするとドイツ語のように思われる.「雲葉科」とは中国語でのヤマグルマ科のこと.現在は,フサザクラ,カツラともに独立したそれぞれの科に属する.
★白沢保美日本森林樹木図譜
上編』成美堂書店(1911

「雲葉科 三種
  かつら
  ふさゞくら
  やまぐるま」

やまぐるまYamagurumaイハモチ オホトリモチノキ モチノキ トリモチノキ 大黐樹
    Trochodendrno aralioides. S. et .Z.
暖溫雨帶ヲ通シテ各地ニス本州中央山脈ニ在テハ二千尺以上五千尺ノ間ニ生シ「もみ」「つが」「そ
 ろ」「そよご」等ノ樹種ト混生ス信濃、遠江地方ニ多ク此他四國、九州、臺灣ノ同帶ニモ生セリ直徑二
 尺高五十尺ニ達ス多クハ山腹ノ地ニ生シ岩石ノ露出セル處ト雖モ能ク生育セリ叉人家ノ周
 圍庭園等ニ栽植セラル伊豆七島及屋久島ニモ亦大樹アリ
葉ハ互生ナルモ節間短縮シテ殆ント年軸頂ニ輪生スルカ如キ觀アリ故ニ「やまぐるま」ノ名アリ
 倒卵狀菱形ニシテ長二寸乃至四寸幅一寸乃至二寸前方廣クシテ長ク尖リ脚ニ向ツテ狹搾シ
 上半ニハ鈍鋸齒ヲ有ス表面深綠色滑澤アリ裏面淡綠色ナリ葉脈ハ主脈ノミ著明ニシテ側脈
 ハ葉肉ニ隱レテ表面ニ凹沒ス葉柄二三寸平滑ニシテ葉痕半圓形ヲナセリ
花ハ六月下旬新枝頭ニ開ク花序總狀ニシテ一花ハ球狀ヲナシ細長ナル花梗ヲ有ス花蓋ヲ缺キ
 多雄蘂子房ノ周圍ニ並列ス花絲長ク葯ハ楕圓形、鈍頭、黄色ニシテ脚生ス雌蘂ハ五乃至八個環
 狀ニ並ヒ無柄ニシテ基部合著セリ柱頭ハ外反シテ顎狀ヲナス子房一室多數ノ胚珠倒生セリ
 種子十月熟ス果實ハ蓇葖樣ニシテ内縫線ニテ裂開ス種子ハ小形ニシテ多數アリ長一分幅一
 
厘ニ過キス光澤アル桃紅色ヲナセリ
材質稍堅硬緻密ニシテ心材邊材ノ別ナク帶黃白色ヲ呈シ春秋兩材ノ別明ニ髓線モ亦太シ導管
 ヲ缺キ却テ「とらへいでん」ヲ有ス本邦濶葉樹中他ニ比類ナシ樹皮ハ黃褐色.黑味ヲ帶ヒ且白
 斑ヲ生セリ淺ク狹ク縱裂ス剝キテ鳥黐ヲ製ス材ハ鏇作*トナル
  第四十二版 圖解
  1 花ヲ著生ノ枝                  2 雄蘂                  3 雄蘂ヲ去リテ雌蘂ヲ示ス
  4 成熟セル果實著生ノ枝          5 果實ノ變斷面    6 種子
  7 一年生枝
下欄ニハ材ノ板目柾目橫斷面樹皮(三十年生)及葉ノ仝形ヲ示ス」とある.1900年版に比べると記述は大幅に増補され,NDLでのデジタル化の精度(グレースケール)も上がっているので,圖解も美しい.

  ○カツラCercidiphyllum japonicum):カツラ科,カツラ属1属からなる.カツラとヒロハカツラの2種のみからなる.
  ○フサヾクラEuptelea polyandra):フサザクラ科,フサザクラ属1属からなる.日本の本州(主に秋田,宮城県以南)から九州に自生するフサザクラ(Euptelea polyandra)と,中国南部からアッサムに自生するEuptelea pleiosperma 2種(および両者の人工的雑種)からなる.
  *鏇作」は「旋削(せんさく)」のことであり,原材を回転させ,そこに刃物を当てて削る切削加工の一種であり,ろくろや「旋盤」を用いて,円筒状の部材を製作する際に使われる.
 白沢保美1868 - 1947)は,日本の樹木学者.東京市の初期,都市緑化事業の指導にあたる.1868年に,信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師の家に生まれ,1894年帝国大学農科大学林学科を卒業.大学院で研究のかたわら,農商務省山林局に勤務.1900年より欧州に2年間留学.1903年林学博士.1908年山林局林業試験場長に就任.1932年に退職するまで,20数年の長期にわたってその職についた.
 都市緑化について強い関心を持ち,1904年に優秀樹木としてプラタナスやユリノキの種子を大量に公園樹木として供給した.また1907年,東京市の委嘱により福羽逸人と協力し,街路樹は種苗より整然と育成すべきことを説いた東京市行道樹改良案を提出,東京の街路樹事業の大綱が樹立させた.東京市はこれによりプラタナスやイチョウ等の栽培を始めたほか,1910年から新規格による街路樹の植栽に着手し,以来年々これが育成に努力した結果戦前に10万余本の街路樹の整備を見た.白沢はドイツ留学の帰りにインドからヒマラヤスギを,アメリカからユリノキをそれぞれ持ち帰った.なお,白沢が持ち帰ったユリノキは5本あったといふが,うち1本が1909年に南安曇郡三郷村旧温明小学校の創立を記念して,校門脇に植えられ,移植されているが現在でも大きく育っている.他には,東京国立博物館(東京都台東区上野公園)に1本を残すのみで,残りは戦争や天災で失われてしまったという.

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