昨年近くのHCで喰裂紙等と同時に買った苗が無事に年を越して咲いた.越年率 80%.
花の大きさ比べ.左より大朝日・南京小桜・野生種・宇宙・蜃気楼.南京小桜の小ささと宇宙の大きさが分かる.
江戸時代に作出された銘花の一つ.花が極小で,ピコティー咲きが特徴.江戸中期に作出され,現在でも栽培されているのは他に 駅路の鈴,五大州,など計10種.ナンキンコザクラは葉緑体DNAタイプの分析から江戸に近い荒川流域の野生種から作り出されたと考えられている(http://miya.let.hokudai.ac.jp/modules/tinyd3/content/honjo.swf).
左図:『地錦抄附録』四世伊藤伊兵衛(1733) には,
「南京小桜 花形極て小りん花形少しそりかへりじんじやうに花の内白くまはり紫にこ白ともいふべしかはりたる物也 二月咲」とある.
江戸時代に作出された銘花の一つ.花が極小で,ピコティー咲きが特徴.江戸中期に作出され,現在でも栽培されているのは他に 駅路の鈴,五大州,など計10種.ナンキンコザクラは葉緑体DNAタイプの分析から江戸に近い荒川流域の野生種から作り出されたと考えられている(http://miya.let.hokudai.ac.jp/modules/tinyd3/content/honjo.swf).
左図:『地錦抄附録』四世伊藤伊兵衛(1733) には,
「南京小桜 花形極て小りん花形少しそりかへりじんじやうに花の内白くまはり紫にこ白ともいふべしかはりたる物也 二月咲」とある.
荒川流域の桜草自生地への行楽は,明治以降もつづき,永井荷風の「葛飾土産」や田山花袋の「東京の近郊一日の行楽」等に描かれた.また,夏目漱石も明治40年に発表した「虞美人草」の一節に書き,その一文は足立区新田にある都立新田高校内に碑として建てられている。(http://homepage2.nifty.com/yasinden-sakurasou/sub3.html#bugakuhi)
なお,この高校は桜草のもつ清楚、根強さ、ひたむきな心をこころとし、本校の発展を願って校章としていて,図案の三方にひろがる葉は、真・善・美への限りないあこがれと,実践を象徴し,中心の花は,清楚にしてひたむきな心をしるしとしてすえたとの事(右図).
なお,この高校は桜草のもつ清楚、根強さ、ひたむきな心をこころとし、本校の発展を願って校章としていて,図案の三方にひろがる葉は、真・善・美への限りないあこがれと,実践を象徴し,中心の花は,清楚にしてひたむきな心をしるしとしてすえたとの事(右図).
夏目漱石 『虞美人草』(1907年)宗近一と妹糸子との会話
「ハハハハ実は狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島(むこうじま)は駄目だが荒川(あらかわ)は今が盛(さかり)だよ。荒川から萱野(かやの)へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
田山花袋 『東京近郊一日の行楽』(1918年)
浮間 赤羽には、見るものがもう一つある。それは桜草である。浮間ケ原の桜草である。
永井荷風 『葛飾土産』(1950年)
コスモスの花が東京の都人に称美され初めたのはいつ頃よりの事か、わたくしはその年代を審(つまびらか)にしない。しかし概して西洋種の草花の一般によろこび植えられるようになったのは、大正改元前後のころからではなかろうか。
わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草(さくらそう)くらいに止(とどま)って、殆どその他のものを知らなかった。荒川堤(あらかわづつみ)の南岸浮間(うきま)ヶ原(はら)には野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋(わらじ)ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷(ろうこう)となり、桜草のことを言う人もない。
「ハハハハ実は狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島(むこうじま)は駄目だが荒川(あらかわ)は今が盛(さかり)だよ。荒川から萱野(かやの)へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
田山花袋 『東京近郊一日の行楽』(1918年)
浮間 赤羽には、見るものがもう一つある。それは桜草である。浮間ケ原の桜草である。
永井荷風 『葛飾土産』(1950年)
コスモスの花が東京の都人に称美され初めたのはいつ頃よりの事か、わたくしはその年代を審(つまびらか)にしない。しかし概して西洋種の草花の一般によろこび植えられるようになったのは、大正改元前後のころからではなかろうか。
わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草(さくらそう)くらいに止(とどま)って、殆どその他のものを知らなかった。荒川堤(あらかわづつみ)の南岸浮間(うきま)ヶ原(はら)には野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋(わらじ)ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷(ろうこう)となり、桜草のことを言う人もない。
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