2016年2月8日月曜日

サクラソウ (21) 異端紅 作出者:伊丹清氏,大乗院寺社雑事記,山科家礼記,宴遊日記,嬉遊笑覧

Primula sieboldie cv. “Itankou” 
2016年2月8日 異端紅
昨年の春,花見に行く途中の道の駅で購入した(¥300)サクラソウ,「異端紅」が早くも咲きだした.
年末の暖かさに誘われたか,芽が出ている幾つかの鉢を見出して,室内に入れ,午前中は東側の屋外で日光に当て,午後からは西側のガラス越しの陽を浴びさせている.

まず咲きだしたのが,異端紅.花茎の高さは三㌢ほどで,花も一輪しかついていないが,寒さがぶり返したこの冬に別れを告げる魁のように思われる.写真では表現できないがサクラソウの中で最も濃い紅と言われていて,特に日陰では黒紅色と云いたくなる花色である.

2015年4月 購入時 異端紅
「異端紅」 品種名仮名:いたんこう,表の花色:濃紅色・爪白,裏の花色:濃紅色・爪白,花弁の形:細,花弁先端の形:梅,花容:平咲き,花柱形:短柱花,花の大きさ:中,作出者:伊丹清

作出者の伊丹清氏は昭和13年生まれ.千葉大学園芸学部卒.埼玉県花植木センターで植木生産,利用の技術開発に携わり,現在は,農業を新規に始めようとする人を支援する仕事に従事している.サクラソウのコレクションは約250品種400鉢に及び,異端紅の他にも姉娘,初声,御目見得,貴妃の笑,君の微笑,小海蒔絵,心意気,零れ紅,初心,白梅(しらうめ),月天心,匂紫,はにかみ,春の海,娘心,娘盛,やすらぎ,雪見絵巻などの新品種を育生したとのこと.


サクラソウは,室町時代中期には京都で栽培されていた.
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興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた,尋尊・政覚・経尋が三代に渡って記した約190冊にもなる日記★『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』の文明十年三月(1478)の項の末尾には,尋尊(一条兼良の五男)による筆記で,
「庭前ノ木草花
正月梅 椿 沈丁花  二月同 花櫻 信乃櫻 岩柳 庭櫻 櫻草 全躰(マヽ)
三月 梨(木へんに利) 海道 ス桃 桃 櫻 藤 ツツシ 山吹 木カンヒ 仙人合花 宝●(月+榻のつくり)花(宝塔花=クリンソウ) 定春 馬連 スワウ 石楠 スミレ ヒホネ 一ハツ カキツハタ カシワ」とあり,(辻善之助 編『大乗院寺社雑事記. 6 尋尊大僧正記 72-87』三教書院(1933NDLこれがサクラソウを庭で育てている最古の現存文献とされている.

原本は1450年(宝徳2年)から1527年(大永7年)までが現存しており,国立公文書館が所蔵し,重要文化財に指定されている.尋尊の書いた部分は特に「尋尊大僧正記」「尋尊大僧正記補遺」などとも呼ばれ,応仁の乱前後の根本史料とされている.またほとんどの項に紙背文書があり,あわせて貴重な資料となっている.


地植え原種系サクラソウ 2015年5月
また,故磯野慶大教授によるリストでは,『山科家礼記』の1491年が初見とされている.本書は京都の羽林家の家格を有する公家,山科家の雑掌を代々務めた大沢家の日記で,記主は大沢重康・久守・重胤.1412 (応永19) から1492 (明応1) までが現存.内蔵寮を管轄した山科家の財政,所領経営に関する記事が多く,当該期の供御人や山科七郷の動向を知る上での基本史料として重要.

その延徳三年(1491)二月二十一日の記事には「武家(将軍足利義材 後の義稙)へ桜草ほうとうけ(注:宝幢花,クリンソウ)のたね御所望候間,進之也」と,また,同年三月十六日「禁裏花参,御学文所棚心桜草・ヲモト葉、下ニ花心,いとすヽき・桜草・シャクワ葉ハリ也,小御所押板カヘ、柱心ヤマフキ、下同葉共之」,更に延徳四年(1492)三月三十日の項には「今朝予 禁裏花ニ被召候也.参候,御學文所花棚上心キニ候水草,下サクラ草・シヤクワノ葉等也,下花心松・下ケマンケ・櫻草・キンセン花色ニ,御申次唐橋殿,御酒ヲ被下候,忝畏入存候也」とあり,種から育て,宮中でも鑑賞されていたことが分かる.

サクラソウ栽培はその後江戸にも広がり,特にアシの需要が増し,武蔵国荒川の中流域で,野焼による葦の再生が、定期的な裸地の出現をもたらし,これが桜草の自然群落の出現を助けた.流域の農民は自生のサクラソウを掘り取って,鉢に植え売り歩き,また,江戸市民の行楽の地にもなった.

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江戸時代中期の大名,柳沢信鴻(1727-1792)★『宴遊日記』(安永十七日,1781)には,「土堤の下は野新田に続きたる曠野、桜草所々に開き〜」「〜曠野にて桜草を掘」とある(後の記事にてこの日の記事詳述).

その後自生種から,また栽培種から多くの変種が発見され,有力者同士の音物になったりして,「はやりもの」として育種された.

★『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』は,江戸町年寄喜多村家の次男,国学者の喜多村信節(きたむら のぶよ,17831856)が江戸時代後期の風俗習慣,歌舞音曲などについて書いた随筆.天保元年 (1830) 刊. 各巻上下2章から成る全12巻と付録が1巻.各項目を和漢古今の文献を引用して解説し,体系的に整理した百科事典的な書物で,江戸風俗を知る有益な資料として知られる.
その下巻の,「草木 草木はやり物」の項に
「安永七八年さくら草形めづらしきがはやり權家の贈りものとす數百種に及ぶこれは下谷和泉橋通りに谷七左衛門といふ大番興力あり其人の老母花を植作る事を好み櫻草を多く植作れり其花を入れたるものを見しに小介を集め入る箱のやうにこまかにしきりたる箱を多く重て内外とも黒く漆をぬり其内にかんてんをときて流し入たる格子の間ごとに櫻草の花一ツヽかんてんにさし各名を書たる札あり是を見物に行ものもありつてを其は箱をかりて見るものありもしがさまで行はれずこは享和のころなり」
とあり,大番興力 谷七左衛門の老母が種々の変種を育て,小さく区切った箱に寒天を溶かし込んでかため,そこにサクラソウの花を挿して鑑賞に供したとある.
注:安永七年(1778年),寛政13年/享和元年(1801- 享和4年/文化元年(1804),(日本随筆大成編集編,成光館書店 (1932)NDL)

サクラソウ (20) 白鷹,真如の月,笑布袋,浮間白

サクラソウ (22) 小桜源氏,江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』

サクラソウ栽培の歴史は以前のブログにも記した.
サクラソウ(9) 駒止 江戸近辺 荒川流域での桜草群落の出現,桜草作伝法
サクラソウ (11)人丸 喜遊笑覧,サクラサウ 押花集
サクラソウ  (12) 絞龍田 宴遊日記,江戸名所圖會,白魚と桜草で,紅白の土産
サクラソウ  (13) 喰裂紙,「さくらそう作伝法」,「江都近郊名勝一覧」,「東京名所三十六花撰」

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