2014年1月14日火曜日

カニクサ(1/3) 日本で最大の葉 胞子は海金沙 本草綱目,大和本草,和漢三才図会,広益地錦抄,用薬須知,物類称呼,本草図譜,本草綱目啓蒙,物品識名,薬品手引草

Lygodium japonicum
2014年12月 左:栄養葉, 右:胞子葉
シダ類では珍しく,他物に絡まるつる性で,長さ3メートル近く伸びるこの蔓が一枚の葉である.したがって日本では主軸方向の長さで最大の葉を持つ植物といえよう.茎は地下にあり横に這いその先端の地上部から葉(蔓)を伸ばし,左または右に巻く.すなわち一株で左右の巻き方が混在する.この葉の主軸(蔓)から,複数の小葉からなる羽片が左右に出る.

小葉には胞子のつくもの(胞子葉-上図右)とつかないもの(栄養葉-上図左)の分化が見られ,形状がことなり,栄養葉のほうが鑑賞的価値が高い.秋が深まると,胞子葉は縮れてまるまり,多くの褐色の胞子嚢がついて,胞子を放出する.

この黄色~赤褐色の胞子(左図)を集め乾かしたものを,漢方では「海金沙」と呼び,内服或いは煎じた液を飲むと「清利湿热,通淋止痛。用于热淋,砂淋,石淋,血淋,膏淋,尿道涩痛」と淋病や利尿に効があるとし,カニクサ自身も「海金沙」と呼ぶ.

「海金沙」は中国の古い本草書『神農本草経』,『新修本草』には見られず,掌禹錫『嘉祐本草』(1059成書) に初めて記載されたようである.
日本の本草学に大きな影響を与えた,明の李時珍『本草綱目』(1596) 草之五,隰草類下 には
「海金沙 (宋《嘉 》)
【釋名】竹園荽。
時珍曰︰其色黃如細沙也。謂之海者,神異之也。俗名竹園荽,象葉形也。
【集解】禹錫曰︰出黔中郡,湖南亦有。生作小株,高一、二尺。七月收其全科,於日中暴之,小乾,以紙襯承,以杖擊之,有細沙落紙上,且暴且擊,以盡為度。
時珍曰︰江浙、湖湘、川陝皆有之,生山林下。莖細如線,引於竹木上,高尺許。其葉細如園荽葉而甚薄,背面皆青,上多皺紋。皺處有沙子,狀如蒲黃粉,黃赤色。不開花,細根堅強。其沙及草皆可入藥。方士采其草取汁,煮砂、縮賀。
【氣味】甘,寒,無毒。
【主治】通利小腸。得梔子、馬牙硝、蓬沙,療傷寒熱狂。或丸或散(《嘉 》)。治濕熱腫滿,小便熱淋、膏淋、血淋、石淋莖痛,解熱毒瓦斯
【發明】時珍曰︰海金沙,小腸、膀胱血分藥也。熱在二經血分者宜之。」とある.

日本においては,『本草綱目』の最初の和刻本である寛永14年 (1637) 版では「海金沙」の和名をスナクサとしている.

磯野によれば「海金沙」を「カニクサ」と比定した文献の初出は★貝原益軒著『本草綱目品目』(右図中央,1680年頃?)で,「海金沙 イトカツラ タタキクサ カナヅル カニクサ」と記している(右図中央 NDL).
これは寛文12年(1762)初刊『校正本草綱目』和刻本の附録である.しかしこの版の『本草綱目』本文では,「海金沙」の和名は「スナクサ」とされている(右図右端 NDL).
この版は,本文も貝原益軒が訓点を付したとされるが,このように,同一漢名に対する和名が本文と附録で異なる場合も多く,また本文と附録の枠の大きさが違うので,本文の校訂に貝原益軒は関与していないようである.

一方,本草家の稲生若水が校正し,和刻本のなかで一番優れているといわれている「新校正本」,正徳4(1714)版では,本文中の「海金沙」の和名は「カニクサ」とされ,貝原益軒の比定が取り入れられている(右図左端 NDL).

これ以降は,「海金沙」=「カニクサ」が一般的に認められたようである.

★貝原益軒『大和本草』 (1709) 巻之八 草之四 には「海金沙 カニクサ 七月二日ニ乾シタヽクニ金砂アリ 唐ヨリ来ルニ性ヲトラス 京都近辺ニテカニグサ又カンツルト称ス 江州ニテタヽキ草ト云又イトカヅラト云 西国ニテハナカヅラト云 ツルアリ ヨウノ内岸ノ側ニ多シ」とある(左図左端 NDL).カニクサから秋に収穫された胞子の,海金沙としての薬効は「唐ヨリ来ルニ性ヲトラス」としている.さらに,いくつもの地方名を記されているところを見ると,広く民間に親しまれていたと思われるが,それは薬用としてではなく,その特異な形状やつるの用途に由来すると考えられる.

また同書の 巻之九  草之五には「カニトリ草 細草也蔓草ノ如シ 其葉両々相対セス 和礼ニ祝儀ニ用ユ シノフヲ用ルハアヤマリナリ 紋ニモ付ル」とあり,また「和礼ニ祝儀ニ用ユ」とあり,儀礼用或いは神事に用いたことが分かり興味深い(左図右端 NDL).

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃) では,カニクサと海金沙とは別項を立てている.
巻第九十四の末 には
「海金沙(かいきんしゃ) 竹園荽
〔俗に須奈久佐(すなくさ)。また多多岐久佐(たたきぐさ)ともいう〕
『本草綱目』に次のようにいう。
海金沙は山林の下に生える。茎は線のように細く、竹木の上に引き張る。高さは一尺ばかり。葉は細くて園荽の葉のようで大へん薄い。表面も裏面も青く、上に皺文が多い。皺の処に細沙があり、子の状は蒲黄粉(ガマの花粉)のようで黄赤色である。花は開かず、細根は堅強である。沙も草もみな薬に入れる。七月にその全科(菜も根もすべて)を収め取り、日中に曝し、少し乾くと紙を下に敷いておいて、杖で撃くと、細抄が紙の上に落ちる。また曝し、また撃くという動作を細抄のなくなるまで続ける。
気味〔甘、寒〕  小腸・膀胱の血分の薬である〔熱がこの二経の血分にある場合はこれがよい〕。熱淋急病の場合には、粉末にし、生甘草粉に煎じて二銭を調えて服用する〔あるいは滑石(雑石類)を加える〕。妙験がある。
△思うに、海金紗は和漢ともに用いる。江州から出るものが良い。また江浦草(つくも)の子を海金抄と偽るものもある。そのようなときは撚ってみて粘らないものが本物、土を撚るようで粘るものは偽である。」とある(右図右端・現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫).

一方,巻第九十八 には「蟹草 俗称 △思うに、蟹草は山谷の石の割れ目に生えている。人家の手水鉢の際に栽える。高さー尺ぐらい。茎は細く硬く、葉は細長く扁(ひらた)くて、韮の葉の様に似ている。叉がある。葉は表裏とも蒼く、四時(いちねんじゅう)凋まない。花・実はない。」(上図左端・現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫) とあり,人家で鑑賞用として植えられていた事が分かるが,それほどの暖地ではないのに,常緑性とも言っているのが不審である.

★伊藤伊兵衛『広益地錦抄』(1719) 巻之七 薬草四十五種 には,垣根にからませた図と共に,「海金沙(かいきんしゃ)葉形しのぶににたり 細長に切込あり 蔓ほそく竹木にからみ付テしげる 花はなし 葉をながめとせる 俗につるしのぶともかんつる共いふ」とあり,観葉植物として庭植えしていたことが分かる(左図,NDL).

★松岡恕庵(1668-1746) 『用薬須知後編』(恕庵の没後遺稿を整理編集して1759年に刊行) 後編巻之一 には「和用ユヘシ 和俗スナクサ カニクサ サミセンクサ リンキヤウクサト云フ 江戸種樹家(ハナヤ)ニテハツルシノブト云 葉ノ背ニ黄点アリ 即チ花也 葉ヲ陰干シテ紙上ニ撃(タタ)ケハ黄点落ツ 是ヲ用ユ 庸医誤リテ海底ノ沙ヲ用ユ 笑フヘシ 補骨脂ヲ誤リテ紙ト謂ヘルカコトシ」と和品で十分薬効を期待できること,また,名前につられて海底の砂を用いる医師がいることを笑い話として記している.

江戸時代の文物の方言資料として名高い,★越谷吾山 編輯『物類称呼』 (1775)  巻之三 には,「海金沙 うにくさ○京にて○かにくさ又かんつると云 近江及美濃或ハ上野にて○たたきぐさ又いとかづらと云 西国にて○はなかづら又さみせんかづらといふ」とある(下図左端). 

いずれも NDL
★小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) 巻之十二 草之五 湿草類下 には,「海金沙 スナグサ カニグサ(大和本草ニ京師ノ名トス 然レドモ今ハコノ名呼ズ) カンヅル(同上) カニヅル カナヅル イトカヅラ(江州) タヽキグサ(同上) ハナカヅラ(西国) サミセンカヅラ(同上) ツルシノブ(江戸) サミセンヅル(和州) リンキヤウグサ(用薬須知後篇) カニコグサ(勢州)」と多くの地方名とともに,「原野ニ極テ多シ。蔓草ナリ。三月宿根ヨリ苗ヲ生ズ。一二尺マデハ直立シテ草本(クサダチ)ノゴトシ。
故ニ禹錫ノ説ニ、初生作小株高一二尺ト云。今ノ本ニ初ノ字ヲ脱ス。宜ク補べシ。苗長ジテ藤蔓細ク堅シ。長ク草木上ニ纏フ。其蔓ヲ採、外皮ヲ到リ去バ、中ニ堅キ心アリ。黄色ニシテ光アリ。三弦ノ線ノ如シ。小児戯ニ両端ヲ引テ弾ズレバ声アリ。故ニ、サミセンヅル云。葉ハ井口辺草(トリノアシクサ)ノ葉ニ似テ、深緑色。夏己後蔓ノ末ニ生ズル葉ハ、甚細ニシテ海州骨砕補葉(シノブ)ニ似テ、脚葉ノ形卜異ナリ。秋ニ至テ葉背ゴトニ皆辺ニソヒテ高ク皺ミ、巻カへツタル状ノゴトク見、其中ニ金砂ヲ含ム。脚葉ニハ沙ナシ。其梢葉ヲ採、紙ヲ襯(ハダ)キ、日乾スレバ細沙自ラ落テ紙上ニアリ。収貯ヘ、薬用ニ入。本経逢原ニ、市舗毎以秒土知入、須淘浄取浮者曝乾、撚之不粘指者ト云。」と生育地・形状,さらには栄養葉・胞子葉の細かい形状の違い,「金砂」の収穫法,市販品中の真の「金砂」の見分け方が記されている.

★岡林清達・水谷豊文『物品識名』(1809 跋)  乾五十 には「カニグサ ツルシノブ江戸 海金沙」とある(上図中央).

★岩崎灌園『本草図譜』(1828-1844)巻之二十 には「海金沙(かいきんしゃ)かにくさ 山中の樹下に生□春月宿根より生え蔓草なり 茎細くして黄絲如くして硬く竹木を絡ふ 葉ハ仙人掌草□に似て花叉多く互生し蔓長さ二三尺 梢葉ハ小雉尾草(がん志のぶ)に似て葉の背に黄色の細点阿り 是実□乾して振い落こと砂のごとし」とある.(左図,□は判読不能文字)

★加地井高茂 [編]『薬品手引草』(1843)上 には「海金沙(カイキンシャ)竹園荽(チクヱンスイ)すなくさ かにくさ つるしのぶ 和」とある(上図右端).

カニクサ(2/3)ツンベルク,英国では観賞用,米国では世界最長の葉に成長,野生化して厄介者に

2014年1月11日土曜日

アルメリア(1/1) ディオスコリデス,プリニウス,ドドエンス,ノット花壇,ジェラード,パーキンソン, 3ペンス硬貨

Armeria martima
1978年5月 スコットランド 中央部海岸
欧州北部の海岸近くに分布する多年生常緑草本で,塩分・乾燥に耐えるためか,細い葉がびっしりと茂り,クッション状となる.英名はThrift,株の形状からLadie’s Cushion,また生育地,根生葉の形状と花から Sea-Pink 海のセキチクという英名も持つ.
学名をつけたのは,ドイツの植物学者 Willdenow, Carl Ludwig (1765-1812) で,属名のアルメルアはケルト語の「海に近い」という意味で生育地に由来する.

地中海沿岸にはよく似たやや大型の植物があり,これについては,ペダニウス・ディオスコリデス(Dioscorides Pedanius , 40年頃-90年) が『薬物誌 De Materia Medica』に “Leimonion” と言う名で,この植物は10あるいはそれ以上の beet に似た葉をもっているが,その葉はbeetよりは薄くて小さい.ユリに似た,細い直立した茎をもち,それは赤い種がたくさんつき,その味は酸っぱい.この種子を細かく砕いて,ブドウ酒とともに1 acetabulum〔約66mg〕ぐらいの量を服用すると,血性下痢や痛痛に卓効があり,婦人の赤帯下を止める.この植物は野原〔湿原〕に生えていて,neuroides, potamogeton, lonchitis また raproniumなど多くの名で呼ばれている.と記録している.

1978年5月 スコットランド ベン・ネビス山
一方プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 22 / 23 – 79)は ”Naturalis historia 『博物誌』” (77 A. D.) に “Startice” と言う名前で,”Achillea too checks looseness of the bowels. Statice also has the same properties, a plant that bears seven heads, like the heads of a rose, upon seven stems. (アキレア(アキレオス)も下痢を抑える.スタティケも同様な効果を示す.これは,七本の茎でバラのような花を支えている.) と記している(プリニウス博物誌, BOOK XXVI).

この “Startice” の名は後に別の植物 -スターチス(リモニア)- に転用された. Staticeの語源はギリシャ語で「静止の」を意味するΣτατικός(ラテン文字転写:statikos)であり,海岸の砂の移動を抑えるから,あるいは下痢や月経の血を止めるからとも考えられる.

欧州北部には,この“Leimonion” “Startice” は自生していないので,中世の本草書では,生育地や形状の類似性から,アメリアがこれに比定されたと考えられる.

レムベルト・ドドエンス(1517-1585)の”Crŭÿde boeck『本草書』”(1563)には,大小二種のアルメリアが “Gramen polyanthemum maius” (1616版), “Van Grass met veele bloemen” (1644版) の項に収載されている.1644年版には図が添えられており,小さいほうが,Ameria martima と分かる(右図).
またヘンリ・ライトの英訳本では,古代ギリシャの伝説の薬草 Moly (モリュー)のもどき (Moly bastard, Pseudomoly) と考えての薬効が記載されていると思われたが,解読できなかった.

英国ではチューダー朝時代(1485年 - 1603年)に流行したノット花壇の縁取りのために,英国自生の植物として庭に導入された最初の植物とされている.

ジョン・ジェラード(John Gerard aka John Gerarde, 1545 – 1611 or 1612)の “The herbal, or, General Historie of plantes 『本草あるいは一般の植物誌』” (1597) に,「Thrift(スリフト)はドドエンスが草(Grass)として分類したセキチク(Gillofloure*)の一種で,草(Grass)よりも小さく細く短い葉を厚く密生する.その葉の間から小さくしなやかで,葉をつけない裸の9インチほどの茎を伸ばす.その頂に,紫がかった白い小さい花を放射状の穂につける.根は長い.見られる場所は英国の塩分の多い沼地と,花壇やbanke の境界に適しているとして使われている庭である.ラテン語では多くの花が咲くことから,” Gramen Polyanthemum”,或いは ” Gramen marinum”, “Caryophyllus* Marinus” と呼ばれ,英語では ” Thrift” ,“ Sea-grasse, また,”our Ladies Cushion” の名がある.薬効はまだ知られていない.観賞用としてしか用途は無いと思われる.」(*= Carnation) と,古い本草書に記されている薬効はないことを認識している.(左上図)

ジョン・パーキンソン(John Parkinson, 1567-1650) の “Paradisi in Sole Paradisus Terrestris (Park-in-Sun's) 『日当たりの良い楽園・地上の楽園』” (1629) には,「この多年生の常緑草本は,花壇の縁取りに使われ,ノット(整形花壇の)と tryales (道の縁取り)に輝きを与えた.
なぜなら,はさみで上手に適切な時期に剪定されるなら,隙間無く茂って生育し,その上夏の終わりには,可愛い花をつける数多くの短い茎を抽し,他の草花の間に抜きん出る.
しかし不都合もあって,成長がよすぎるために繁茂して形がくずれる.また,冬季の霜や雪,あるいは夏の水不足で枯れるので,空所ができてしまうので,せっかくの形がくずれてしまう.そこで,年毎に新たに植えなおす必要がある.更にあまりに密生して繁るためにカタツムリや他の害虫の住処となるので,花壇の中に植えてあるカーネーションや他の美しい草花を害さないために,これらを駆除する日ごろの注意と対処が必要となる.」(右図)と細かい栽培法の注意をしているが,それだけ,この植物が当時の英国の庭園ポピュラーであったことを覗わせる.

これらの欠点があるにせよ,アルメリアは縁取用あるいはロックガーデン用草花として,特にドイツや英国でいまだに人気を博している.

英国で発行されていた3ペンスの硬貨(threepenny bit)のうち,1943年から1952年に鋳造された12角形のものには,三本の花茎のアルメリアが印されていたが,なぜこの花が選ばれたかはよく分からないとの事(左図,1942鋳造).
ノット花壇 ザルツブルグ 市庁舎 1979年7月
当時の英国通貨は12進法であったので,3ペンスは1シリングの1/4として便利だった.

日本でもハマカンザシの名で,花壇に植えられるが,夏の暑さと湿度のためか,あまりポピュラーではない.
また,中国名は英俗名の Sea-pink をそのまま訳したのか,「海石竹」である.

ノット花壇は西洋式庭園の様式の一つではあるが,現在英国ではあまり見られず,自然を模倣したイングリッシュ・ガーデンやコッテージ・ガーデンが主である.

フランスやオーストリアでは多く見られる.その場合の縁取りはツゲやベゴニアが採用されている.

2013年12月28日土曜日

Season's Greetings and Happy New Year

この十数年,年賀状にはその年の干支にちなんだ植物を Antique Print のコレクションから選んでスキャナーで読み込み,その画像をテーマとしている.
関連する名称は和名・漢名・英名・ラテン名などから探しだすが,なかなか難しい.

今年は午年なので,賀状にはスギナの類(学名,英名が馬の尾にちなむ)をプリントしたが,コレクションには外に以下の二つがあったので,画像を掲げ新年のご挨拶とする.


左:1869,Aristolochia Cymbifera Mart et Zuec.(ウマノスズクサの類)白 Morren "LA BELGIQUE HORTICOLE" 多色石版
右:1917,Aesculus turbinata(HORSE CHESTNUT, JAPAN,トチノキ)英 "Curtis's Botanical Magazine" 石版手彩色

2013年12月14日土曜日

ナンバンギセル(4/4) 地方名,「おもいぐさ」(千葉・柏),「かっこ-へのこ」(岩手),方言,中国名,薬効,源氏伝説

Aeginetia indica
2001年6月 茨城県南部
花壇地錦抄前集
1. 草花として鑑賞するのは日本だけ
ナンバンギセルはインドから東アジアに広く分布するが,盆栽など植栽して鑑賞して楽しむのは日本だけらしい.江戸時代の伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には「草花秋之部 竹馬草(ちくばさう)初中, 花形童幼のりてあそふたけ馬(むま)のごとく成 小草にして色むらさき 野ニ有」「草木植作様之巻 ●ちやうせんあさがほ ●ちくば草, 右ハ二月中ニ種をまく 合肥を用て植ル ちくば草ハたね取にくき物なり」とあり,庭で栽培していたことが分かる.(左図:花壇地錦抄前集,花壇地錦抄の偽書)

明治の園芸家・作家の前田曙山(1872 – 1941)著『曙山園芸』(1911)に
「其処で僕等は常に其種子を取つて,前記の秋草の盆栽*中に在る糸芒の根へ蒔く,其時期は五月の中旬以後で,種子が灰の如くに細かいから注意せぬと風に散らされる,さればと言つて余り深いと,腐敗して了ふ,要は毛の如き芒の鬚根に接触するやうでさえあれば宜しい.
斯して其種子は芒の根元で発育して,追々寄主の根に食ひ入り,芒の上前を跳ねて成長するので,全く芒のためには獅子身中の虫の感がするであらう.若し此寄生植物が打勝ば芒は枯死の運命に逢着せねばならぬのである.
此草が盆栽中に在って花を開くのは,九月下旬から十月であるから,ちょうど秋草の盛の間,併せて此畸形にして風流な花を眺める事ができる.」(*敗醤-オミナエシ,瞿麦,萩,藤袴,糸芒などの寄せ植え)の文がある.
現在でもヤクシマススキやヒメススキなど小型のススキに寄生させた鉢植えが通販されている.

2. 色々面白い地方名
この植物の地方名は青森から奄美大島まで広く分布しており,注目すべきは千葉県・柏では「おもいぐさ」と呼ばれていることであろう.北から見ていくと,ペんきくさ [青森], せんきぐさ [青森 青森(弘前市)], はぎ [青森(八戸)], かっこ-いのこ [岩手], かっこ-へのこ [岩手(九戸)], かっこ-ぺのご [岩手(九戸)], かっごのへのご [岩手(九戸)], かっこべ [岩手(九戸)], べこのきんたま [岩手(九戸)], あずきくさ [岩手(二戸)], かやくさ [山形(鶴岡市)], まめっぱ [群馬(山田)], あっくり [千葉(千葉)], おもいぐさ [千葉(柏)], きせるそう [千葉(山武)], ゆうれいそう [千葉(長生)], みてぐら [東京(三宅島)], あずきな [長野], おらんだぎせる [近江坂田], はえとりぐさ [島根(美濃)], よだれくい [鹿児島(鹿児島・阿久根・薩摩)], よだれくいくさ [鹿児島(揖宿)], よだれくいぼな [鹿児島(揖宿)], きしりばな [鹿児島(奄美大島)], だばっきり [鹿児島(奄美大島)]などなど.(『日本植物方言集成』八坂書房篇刊(2001))

岩手の地方名の「かっこ-へのこ」などの「へのご,へのこ」は男性性器の方言で,「郭公鳥のペニス」の意味と思われるが,由来は良く分からない.まだ開かない花と花茎が小さなペニスに似ているからであろうか.他にも「べこのきんたま」という不思議な名もある.昔,南部鉄道の五戸(ごのへ)駅の仮名の駅名標識は縦書きだけで横書きは無いと聞いた.地方伝説かもしれないが,横書きだとお年寄りが右から読んで「ヘノゴ」になるからと言うのが,その理由とか.

3. 中国名,薬効
中国では一般的には「野菰」(菰とはキノコの意味)と呼ばれるが,蔗寄生、大芸、金鎖匙、茶匙黃、土地公拐、芋草菰、番仔煙斗、灌草菰、鐵雨傘,官真癀、土地公拐、番仔煙斗、茶匙黃など,形状や生態,作物被害に関わると思われる別名もある.
「本草綱目」には収載されていないが,WEBによると根と花に藥用があり,その効用は「有清熱、利水、解毒之功效。」「強壯、強精藥,有解熱、消炎、祛傷、解鬱、祛傷、散風、治吐血、腸炎、肝病、身經衰落、風濕。治療扁桃腺發炎、 尿道感染、骨髓炎,治毒蛇咬傷.」と幅広い.
日本でも,煎液や薬用酒が尿路感染症,強壮作用,喉の腫れ・痛みに効くとされている.

浮世絵 左: 義経(勧進帳),右:頼朝(曽我兄弟の仇討ち)
4. 源氏の笹龍膽紋とおもいぐさ伝説
前に記したように,「思草」=リンドウ説は今でも支持者が少なくない.万葉歌から派生した歌と思われるものが『古今和歌集』をはじめ多くの勅撰集に見られるが,本歌と異なり,詠人が「尾花の下の思草」を見ているとは思えないので,時代や詠人によって本歌からかけ離れたそれぞれの「思草」があったと考えられる.

その最たる例が源氏の「笹竜胆紋」にまつわる伝説であろう.伊豆に流された源頼朝(1147 – 1199)が狩りをしているとき,花をもっている一人の少女に出会い,花の名を尋ねると,『古今和歌集』に載っている「秋の野の尾花にまじり咲く花の色にや恋ひむ逢ふよしをなみ」を詠んで,「思草」と答えたという.この少女が後に頼朝の妻となった北条政子(1157 – 1225)であり,これがもととなって源氏はリンドウを家紋にしたといわれた.このために,笹龍膽紋は『勧進帳』や『曽我の仇討』などの歌舞伎でも,源氏を表す紋所として衣装などの文様として用いられている.
これにちなんで,源頼朝が幕府を開いた地,鎌倉市は,1952年に市章に「ササリンドウ」を制定した.
また,高木彬光 『成吉思汗の秘密』(1958)においても,樺太の石碑や,シベリアで発掘されたと思われる日本式甲冑,タタール人の民俗芸能の衣装に,笹龍膽の文様があることから,源義経が大陸に渡ってジンギスカンになった事の傍証としている.さらに,江戸時代の源氏の紋として笹龍膽は数少ないとの指摘に,義経は頼朝への反感から京都の源氏系の公卿に使われていた笹龍膽を使ったのであろうと神津恭介は強引に付会している.

しかし,頼朝と政子の故事は,あたかも歴史的事実であるかのようになっているが,まったくの創作話であり,また,源氏の頭領の指物は白旗のみであり,「笹龍膽紋」を用いたという信頼できる証拠はない.思草をリンドウとする説はこの故事の影響を受けているので,当然,その論拠もあやしくなる.

ナンバンギセル (3/4) 万葉集「思ひ草」本居宣長『玉勝閒』,『物品識名』,『和訓栞』,前田曙山『曙山園芸』,久保田淳

ナンバンギセル (2/4) 万葉集「おもひくさ」,和泉式部,源通具,順徳天皇,藤原定家,仙覺,由阿,北村季吟,契沖,荷田春満,貝原益軒,小野蘭山

ナンバンギセル(1/4) リンネ,怡顔斎菌品,花壇地錦抄,花彙,物品識名,梅園画譜,竹馬草・春駒草の由来

2013年12月9日月曜日

ナンバンギセル (3/4) 万葉集「思ひ草」,本居宣長『玉勝閒』,『物品識名』,『和訓栞』,前田曙山『曙山園芸』,久保田淳

Aeginetia indica
2001年6月 茨城県南部
万葉集(785年以前)の巻十,秋 相聞の項に「寄草」の題で,作者不詳「道邊之 乎花我下之 思草 今更爾何 物可将念 “みちのへの をはなかしたの おもひくさ いまさらになど ものかおもはむ” 」という歌がある.
この「思ひ草」はその後多くの歌に詠われたが,本体については,ツユクサ,リンドウ,シオン,オミナエシ,チガヤなど多くの説が立てられた.

現在,定説となっているナンバンギセルは,最初に本居宣長が「玉勝間」でとりあげている.
これには「尾張の田中道麻呂が,「思い草といって,すすきの中に生える草丈三〜四寸あるいは五〜六寸の小さな草がある,これは秋に黒紫の菫に似た花をつけ,匂いはなく,花の時期には葉がない.そしてこの草は薄の中以外には生えない.黒大豆のような実を薄の下にまくとよく生える.」と図つけた手紙をくれた.これが万葉集の思い草であろう」と記されている.この記述から考えると,この菫に似た花をつける草というのはナンバンギセルそのものである.

本居宣長『玉勝閒(間)』(1793起筆。1795‐1812刊)
玉勝閒(間)十三の卷
   お も ひ 草 十三
   末ひろくしげりけるかな思ひ草 を花が本は一もとにして
かくよめるこゝろは、戀の歌につねに、尾花がもとの思ひ草とよむなるは、そのはじめを尋ぬれば、萬葉集の十の卷に、「道のべのをばなが本の思草、今さらに何物か思はむ、といへる歌たゞ一(ツ)あるのみにて、これをおきては見えぬ事なるを、此一本によりてなむ、後にはひろくよむことゝなれるよしをよめるにぞ有ける、そも/\此思ひ草といふ草は、いかなる草にか、さだかならぬを、一とせ尾張の名兒屋の、田中(ノ)道麻呂が許より、文のたよりに、今の世にも、思ひ草といひて、すゝきの中に生る、小き草なむあるを、高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花さくを、其色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫《スミレ》の花に似て、すみれのごと、色のにほひはなし、花さくころは、葉はなし、此草薄《スヽキ》の中ならでは、ほかには生ず、花のはしつかたなる所の中に、黒大豆ばかりの大(キ)さなる實のあるを、とりてまけば、よく生る也、されどそれも、薄の下ならでは、まけども植れども、生ることなし、古(ヘ)の思ひ草も、これにやあらむ、されどすゝきの中にのみ生るから、近き世に事好むものゝ、おしてそれと名づけたるにもあらむかといひて、其草の圖《カタ》をも書て、見せにおこせたる、そのかたは、かくぞ有ける、其後に又あるとき、花の咲たるころ、一もとほりて、薄のきりくひとめに、竹の筒の中にうつしうゑて、たゞに其草をも、見せにおこせたるを、うつしうゑて見けるに、しばしは生《オヒ》つきたるさまにて有しを、ほどなく冬枯にける、又のとしの春、もえや出ると、まちけるに、つひにかれて、薄ながらに芽《メ》も出ずなりにきかし、さるは後にたづね見れば、此わたりの野山なる、すゝきの中にも、ある草にぞ有ける、これ古(ヘ)の思草ならむことはしも、げにいとおほつかなくなむ、」

岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾』(1809 跋)「ヲモヒクサ キセルサウ ナンバンギセル 列當一種」とあり,これが思い草=ナンバンギセルとした最も古い文献ではないかと思われる(右図 NDL).

また,中嶋信太郎随筆集『無用の用』文芸社(2002) には,「谷川士清*の『和訓栞』**には,「きせる草または南蛮きせるともいふ」とある.」とあるが,オンラインで読める『和訓栞』には,そのような記述は見つけ出せなかった.
関連ありそうなのは『和訓栞 後編畿の部』成美堂(1887)に
「△きせる (中略)おらんだぎせるは全体すやきのもの也今菌の類に名づく土-歯といへり又草蓯蓉なりといふ南蛮きせるともいふ」という記述があった.
また,谷川士清 著,伴信友 加筆,井上頼圀, 小杉榲邨 増補『倭訓栞 : 増補語林』皇典講究所(1898)に「おもひぐさ 歌林良材にハ一草に限らざるよし也唯愛する草をいへり能因は櫻をも思草とよめり齋院前栽草盡にハ女郎花とせり通具の説に龍膽又露草といへるハ万葉集に尾花が本のおもひ草といふによれりそれより尾花が本のくさとのみもよめる也」とあり,ここには,思い草=ナンバンギセルとはなっていない.
* たにかわことすが(1709-1776),** 刊行 1777-1887

一方,山田卓三,中嶋信太郎『万葉植物事典「万葉植物を読む」』北隆館(1995) の,「思ひ草」の項には,
「ナンバンギセルという名称をはっきりと記している書物は前田曙山の『園芸文庫』(巻三・明治三十六年 1903刊)である。これには、〝尾花が下のとあるのは、単なる尾花の下に生えているといった形容の意だけではない、もっと深い意味をもっている。龍胆(リンドウ)が思い草なら尾花が下と特定しなくてもよい、龍胆は尾花の下だけでなく女郎花やふじばかまの下にも生えている。これを庭に植えてみたところ、よくつき繁殖した。したがって龍胆は尾花が下に限ることはない。これに対してナンバンギセル(オランダキセル)は尾花の下でなければ決して生えてこない。薄類ならよく発生するがカルカヤなどの下に蒔いてもだめである。思い草は薄がなければ自活できないことを知れば、尾花の下の思い草はナンバンギセルであり、龍胆ではない。歌の大家である定家が龍胆説をとっているが*、定家は歌聖ではあるが植物の知識には乏しい。したがって大家の説だといってこれを信ずることは愚なことである″という意味のことが記されている。」とある.

残念ながら『園芸文庫 巻三』(1903)は見ることが出来なかったが,前田曙山『曙山園芸』聚精堂(1911)の「秋の園芸」の項に
 「「思ひ草とは何」
歌に思ひ草と云ふのが有る.
道の邊の 尾花が下の 思ひ草 今更になぞ物を思はん
と通具卿に詠ぜられて,非常に有名になったが,而し歌学者の多くは,今日と謂も,実際其實物を知るまい.従って蘭草(ふぢばかま)といひ,紫苑といひ,龍膽といふ説が有る.そして大体において龍膽の異名という事に帰着したらしいので有るが,實は思ひ草なる植物は外に歴然として存じて居るので有る.
詞林採集**に『家には龍膽を思ひ草と被仰(あふせら)るゝの上は可信用之(これをしんようすべし)云々』と,無理強いに龍膽にして了(しま)つたやうで有るが夫は甚だ酷で有る.
通具卿の思ひ草の歌に『道の邊の 尾花が下の』と,場所を特定して有るのは或ひは詞華の形容かと思へるけれど,叉虚心にして考へると殊更に特定したといふには,何か特定すべき理由が無くばならぬ.思ひ草にして龍膽なれば,尾花の下に限らず,撫子,蘭草の間からでも生へる特に尾花の芒とは限らぬので有る.然るに真實の思ひ草なる物は,芒の根元でなくては成長せぬ.何故かといふと,夫は芒の寄生植物で,芒の根から栄養分を吸収して成長する南蛮烟管といふもので,芒のみには非ず.此植物の寄主として知られているのは,甘蔗,陸稲,茗荷等十三種有るが,芒に寄生するのが古くから知られて居たし,極めて詩的でも有る.
此植物の形はといふと,普通に葉と見える葉もなく,恰も土筆のやうにニヨキ/\と芒の根方から地を抽くので,其梢が烟管の火皿のやうに,著るしく一方に曲がっている,そして其曲つた所が花で有る.(後略)」とあることを見出した(上図 NDL).

さらに,前田曙山『四季の園芸 : 趣味と栽培』誠文堂書店(1916)「秋の園生」にも全く同じ文が載っていることを確認した.

曙山は園芸文庫では,「藤原定家が龍胆説をとっている」としているが,定家が直接に思ひ草を龍胆としたとする文献は見当たらないし,由阿の『詞林采葉抄』でも,説の一つとして述べているように思われる.
また,「道の邊の 尾花が下の 思ひ草 今更になぞ物を思はん を源通具を詠った」としているが,この歌は万葉集収載の詠み人知らずの作者である.
このような思い違いは見られるものの,この曙山の説には説得力があり,これ以降「思い草=ナンバンギセル」が一般的になり,多くの万葉学者・植物文化史学者から支持されるようになった.
*由阿(1291-1379?)『詞林采葉抄』(1366 献上)

久保田淳『花のもの言う-四季のうた』岩波書店(2012)には,「三章 秋くれば常盤の山の」の章,「思い草」の項で 万葉集の歌 「道邊之 乎花我下之 思草 今更爾何 物可将念」の「思い草」について
「平安末から中世の歌人にとっては、「思ひ草」はさまざまに考えられていた。たとえば、リンドウ、ツエクサ、アサジ***などなどである。それぞれ勝手に「思ひ草」のイメージを思い描ききながら」詠んでいたのだろうが,「万葉歌、和泉式部や仲実****の作などについて考えると、「思ひ草」は、
一、冬枯れの野辺の、尾花(ススキ)や萱(カヤ)の根元に咲く、かなり目につく花である。*****
一、花は一本の花梗に一つだけ咲く。
ということが知られ、中世の作例中、隆信の歌を考慮すると、葉がなく、花だけであるらしいということも想像される。このような条件に適合する植物は、ナンバンギセルを措いて、他にはない。」とある.
*** 浅茅 - まばらに生えた、または丈の低いチガヤ
**** 『堀河院御時百首和歌(堀河百首1106年(長治3年)3月11日奏覧)(1105年6月頃-1106年4月頃)』に,「恋 思」の題で藤原仲実(ふじわらのなかざね (1057-1118))が,「ひくまのの萱がしたなる思ひ草またふたごころなしとしらずや」と詠う.

*****ナンバンギセルの花期は「冬枯れ」の時期よりずっと早い6-8月であるので,この根拠は合致しないと思うが,少なくとも万葉集に詠われた「思ひ草」はナンバンギセルと考えて何の矛盾も無い.

ナンバンギセル(4/4) 地方名,「おもいぐさ」(千葉・柏),「かっこ-へのこ」(岩手),方言,中国名,薬効,源氏伝説
ナンバンギセル (2/4) 万葉集「おもひくさ」,和泉式部,源通具,順徳天皇,藤原定家,仙覺,由阿,北村季吟,契沖,荷田春満,貝原益軒,小野蘭山
ナンバンギセル(1/4) リンネ,怡顔斎菌品,花壇地錦抄,花彙,物品識名,梅園画譜,竹馬草・春駒草の由来

2013年11月28日木曜日

ナンバンギセル (2/4) 万葉集「おもひくさ」,和泉式部,源通具,順徳天皇,藤原定家,仙覺,由阿,一条兼良,北村季吟,契沖,荷田春満,貝原益軒,小野蘭山

Aeginetia indica
2001年6月 茨城県南部
『万葉集』(785年以前)の巻十に「秋相聞」には「寄草-草に寄す」の題で,作者不詳の「道邊之 乎花我下之 思草 今更爾何 物可将念 “みちのへの をはなかしたの おもひくさ いまさらになど ものかおもはむ” 」という歌がある(この四,五句の訓については多くの説がある*1).

「おもひくさ」を詠った歌は数多く,日文研の和歌データベース(http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/menu.html)によれば,奈良時代から室町時代までの歌集には,六十首ほどのおもひくさを歌った異なった歌が収載されている事が確認されている.時代的な内訳は,奈良時代に万葉集の一首,平安時代には四首,鎌倉時代には三十四首,南北朝時代に六首,室町時代に十七首,時代不明が二首となっている.

昔から,この「おもひくさ」が何を指すのか,リンドウ,ツユクサ,オミナエシ,シオン,ナンバンギセルなど多くの説があるし,また,時代時代で歌人がイメージした植物は異なっていて不思議はない.しかし大本の万葉集の「おもひくさ」は現在ではナンバンギセルが最もそれらしいとされている.

万葉集の一首以外によく知られているのが,和泉式部(978頃-1025以降)の『新古今和歌集 六 冬』(1204年に選定)にある「題知らず 野べ見れば尾花が本の思ひ草 かれゆく冬になりぞしにける」である.
この歌は,『和泉式部集 第二』(1205年以後の近い時期)にあり,『和漢朗詠集』(1018年頃成立)の「無常」の詩句「観身岸額離根草 論命江頭不繋船 [身ヲ観ズレバ岸ノ額(ひたひ)ニ根ヲ離レクル草。命ヲ論ズレバ江(え)ノ頭(ほとり)ニ繋ガザル舟](羅維(らい)正しくは厳維(げんい)の「み・を・くわん・ず・れ・ば…」の四十三音を頭に置いた四十三首中、「岸ノ」の「ノ」の作であり,家集では「野邊みればを花がもとの思ひ草 かれゆく程になりぞしにける」となっている.
従って,和泉式部は冬の情景を詠んだ訳ではなく,万葉集の本歌から,人の世や恋の「無常」を感じて作ったのであろう.

鎌倉時代の建仁元(1201)年、後鳥羽上皇の仰せによって、史上最大の歌合である千五百番歌合が行われた。その中に源通具(みなもとのみちとも,1171-1227)の「問へかしな尾花がもとの思草 しほるる野への露はいかにと」の歌がある.

2010年05月 茨城県南部
順徳天皇の歌論書『八雲御抄』の中に,『新古今集』撰者の一人である源通具の説として,思い草は露草であると記されているので,この「思い草」は露草であるとされている.

そのためか,この時代の「おもひくさ」の歌の多くには「つゆ」がともに歌われている.
その一つ『続後拾遺集 巻五:秋下』建保四年百首の歌奉りける時 後久我太政大臣 「秋風に枯れ行く虫の思ひぐさいかなる露の結び置くらむ」 どちらも「はかなさ」を詠嘆する道具立てとなっているのであろう.

「思草」を詠った歌は多く,藤原定家も「霜むすぶ尾花がもとの思ひ草きえなむのちや色にいづべき」(『拾遺愚草 巻上 十題百首』,1216)と詠い,またその歌論『近代秀歌』(1209)と『詠歌大概』(1221)に,また,『八代集秀逸』(1234)に源俊頼の「思ひ草葉末(はずえ)に結ぶ白露のたまたまきては手にもたまらず」(金葉集 巻七)の歌を載せ,「これは面白く見所あり,上手の仕事とみゆ.」とほめて秀歌例に挙げている(『近代秀歌』原形本).

「思い草」はどのような草なのか.

順徳天皇の歌論書『八雲御抄』には,源通具は思い草は露草としたとある.
仙覺は万葉集の「思い草」は,ナデシコとの説もあるが,仏教的な観点からチガヤであるとした.
仙覺の後継者を自称していた由阿は,二条良基に献上した『詞林采葉抄』のなかで,ナデシコ,チガヤ,リンドウ(藤原定家説),シオン(九条兼実説)の説があるとした.
一条兼良は思草は特定の草の名ではなく,たゞ草をいうとした.
一方,北村季吟は藤原定家の歌『拾遺愚草 巻上 十題百首』の「霜結ぶ尾花がもとの思草きえなむ後や色に出づべき」は,読み人知らずの歌『古今集 巻十一』の「秋の野の尾花にまじり咲く花の色にや恋ひむ逢ふよしをなみ」に心を寄せ,霜のおりるようになった晩秋に,尾花の中にはなやかな紫色のりうたん(リンドウ)の花が咲いている様子が,「思い草」によく合うとし,万葉集の「思い草」もリンドウと考えた.
契沖は初めはリンドウとしたが,後には特定の草ではなく,物かげに生ずる草-陰草であろうとしている.
荷田春満は尾花を雄の花と解釈し,それと交わる「思草」としては女郎花(オミナエシ)がふさわしいとしている.橘千蔭は未詳としている.
また,本草学者 貝原益軒はリンドウ,小野蘭山はリンドウ及びツユクサとしている.

2011年05月 茨城県南部 瞿麦
しかし,現在ではこれらの説は好まれず,「おもひくさ」=ナンバンギセルと考えられている.これについては,ナンバンギセル(3/3)に記す.

順徳天皇(1197‐1242)『八雲御抄 巻第三 枝葉部 草部』(承久の乱(1221)ころ原形成立)
「露草 鴨頭(ツキクサ)。つきくさ。うつろふ物に云り。おもひ草と云は、露草也と道具卿説也。」

仙覺(1203 – 1272以降)『万葉集注釈 第六巻』 (1269)
「道邊之 乎花我下之 思草 今更尓何 物可将念 (ミチノヘノ ヲハナカモトノ オモヒクサ イマサラニナヲ モノカオモハム)
オモヒクサトハ瞿麦ヲイフト云説アリ又茅ヲイフトモイヘリ茅ノ葉ハエタナトモナクテタヽヒトスチノオヒタルナリナニコトモ物ヲマコトシク思フニハタヽヒトコトニノミ心ヲカケテ余念ナキタメシナリサレハ聖世尊利益衆生ノタメニハ相作仏ヲシメシタマヒテ同居ノ成道ヲトナヘタマフトキニハ吉祥草ヲ座トシテ成正覚タマフ吉祥草トイフハ茅草也 」

由阿(1291-1379?)『詞林采葉抄』(1366二条良基に献上)
「第九 思草
当集代十巻歌云
道乃への尾花がもとの思草いままたに何の物か思ん
同巻云
秋つけはみくさのはなのあへぬかに思へとしらぬただにあわはされは*

2009年10月 花貫渓谷 龍膽
思草之事或云瞿麦を申と子(こ)と云言に付て三草とハ思草と見たり尾花は茅草乃花也と云へるにや尤其拠也但浅茅を申へき也
茅の葉は枝もなくて一すち/\生るハ余念なき事ニよせたるにや就中佛初成道のとき拮茅草を吉祥草と宣玉へり仍を草座と志て菩提樹下ニ志て未来乃衆生を思念し何乃法をかとかんとて於三七日中思惟如是眞と説玉ふ即是也浅茅の花をつ花とも尤尾花とも申上は尾花か下の思草とよめる尤有拠物●然に家**ニハ里んたうを思草と被仰之上者可信用之不可餘義
又九条前関白殿***は紫苑を思草と云也と被仰けると云
思草歌不可勝計****

思草葉すゑにむすふ白露のたま/\きては手にもたまら寸 俊頼
御熊野のかやかしたなる思草 又二心なしと志らすや 仲実
此両首茅をよまれてたるにやと見たり

朝霜乃色にへたつる思草 きえ須ハうとし武蔵野の原 京極黄門*
是は里んたうと覚ゆ紫に咲く花なるか故に又紫苑も紫にさく物なれば府合する物也.

むは玉のねてのゆうへの思草 こよひもむねにもえやあかさん 家隆******」

●は筆者の未解読文字,分かり次第埋めるつもり.
* 秋づけば水草の花のあえぬがに思へど知らじ直に逢はざれば(秋就者 水草花乃 阿要奴蟹 思跡不知 直尓不相在者)
** 「家」とは藤原定家
*** 「京極黄門」とは京極家の中納言のことで定家
**** 「九条前関白殿」は九条兼実と思われる
***** 不可勝(称)計=あげてかぞふべからず,数えつくすことができない
****** 藤原家隆 (1158-1237),出典未詳

一条 兼良(1402 -1481)『歌林良材集』(伝 1429-41)
第五 有(二)由緒(一)歌
四十八 尾花がもとの思草事
(万十)道のへのを花が本のおもひ草いまさらになぞ物は思はむ
右、思草は草の名にはあらず、たゞ草をいふなるべし。
古(十一)秋の野のを花にまじりさく花の色にや戀んあふよしをなみ(読人不知)
右、尾花にまじりてさく花は、定家卿は龍膽の花の霜枯に残れるをいふといへり。
霜結ぶ尾花が本の思ひ草消えなむ後や色に出べき  定家

北村 季吟(1625 -1705)『萬葉拾穂抄第十卷』(1686年成立,90年刊)には,
「寄(レ)草ニ歌一首      作者未(レ)詳
みちのへのおはなかもとのおもひくさいまさらになにのものかおもはん
   道邊之乎花我下之思草今更爾何(イなそ)物可将念
みちのへのおはなか 哥林良材云右思ひ草は思ひの草にはあらす只草を云なるへし古今集十一秋のゝのおはなにましりさく花の――右おはなにましりさく花は定家卿は龍膽《リウタン》の花の霜かれにのこれるを云といへり祇云枯たる比の薄のもとにりんたうの開たるを紫のゆかりなつかしき色を思ひいへる心也といへる定家の儀尤可(レ)為(二)正説(一)此哥の心若道のへの尾花かもとの思ひ草一すちに心をかよはしたる思ひ変する事なし今更に何の物をか思ふへきといふ心にや愚案此哥序うた也もとよりの思ひなる物を今更に何のかはれる物思ひをせんと也思草の事仙覺は撫子或は茅をいふなといへり何も不用定家の御説を用へし」と,定家の説に従いリンドウとしている.

契沖(1640 -1701)は『万葉代匠記 初稿本』(1687年成)では「思草は龍胆の花か」と記したが,後の『精撰本』(1690年成)では「思草の事説々あれど今按尾花がもとに限らず物の陰に生ひ陰草をすべて思草と云爾歟(中略) 尾花の陰に生ひでたる草の如く思ひ痩て、其かひ有て逢みる君なれば今更何をか恩はむとなり。思い草を承て将念と云へり」と説き,物かげに生ずる草であろうと言っている.

荷田春満(かだのあずままろ, 1669 -1736)『万葉童蒙抄』(亨保年間(1716~1735)成)
「道邊之乎花我下之思草今更爾何物可将念
“みちのべの,をばなかもとの,おもひぐさ,いまさらになに,ものかおもはん”
2008年08月 榛名 女郎花
此歌の思ひ草付ては,色々論ある事也.諸抄の説は,古今の歌に付いて,此思草も龍膽の事と釈せり.仙覚は,なでし子共注せり.一決せず.先古今集の戀の部第一に,秋の野の尾花にまじり咲花の色にや戀ひんふよしをなみ,と云歌に付て,まじる草花は龍膽と定家卿も書給へり.それは古今の歌の釈也.其後の人,此歌の思草も龍膽と見る由抄物に記せり.其より処は本院左大臣時平公の歌合の歌に,下草の花を見つれば紫にと詠めり.又源氏夕霧に,かれたる草の下より,龍膽のわれ獨り云々と有.又八雲御抄第三,龍膽物名外不聞.但時平歌合に,下草の花を見つれば紫にと詠めりと有.八雲御抄,思草と云は露草なりと,通具卿の説也と,露草の所に記されたり.是皆此集をふまへて云たる義と見て,定家卿も古今の,尾花にまじり咲花龍膽とは決せられ,其後の人誰かこれを可改考や.それより此思草と見るなるべし.然共時平の歌,源氏物語の詞,決して此歌の思草の事を云たる義共難定.且古今集の尾花にまじり咲花の歌に付ては,数百歳見損じ来れりと見えたり.彼集にて論辧を伝える義なれど序なれば注する也.宗師伝は,古今のを花にまじり咲花とは,女郎花の事と見也.男花にまじるなら,これ女郎花ならでは義叶わず.交じるは交合の意也.其上彼の歌の見様,先達の歴々篇列の例を不辧して,正意に叶わざる説々なり口なし色には得堪へまじと云意を,得見わかぬから色々の説も出来る也.此歌は口なし色に戀ひん也.然るに,諸抄の見様はあふ由のなければ,紫のゆかしき色にや戀ひわばんと見たる説也.大成見様のたがひ有.此は篇列の辧無きから,古来からの見損じ也.この万葉の思草も,尾花がもとのとあれば,尾花が初めより思ひ戀う草なれば,女郎花と見ゆる也.其上兼良公の暁筆記にも,女郎花とある由也.を花は男花也.を花の思草なれば,女郎花と見る義当理なるべし.一義,を花が下のとあれば忍ぶ草にては有まじき歟.思ふと云ふ字は忍ぶと読む.を花の根茎はしのと云なれば,若し忍草にもあらん.龍膽と云義は心得難し.扨此歌の意は,物もひ草と云う名に寄せて,本よりそこをこそ思へ,今更何の外の物を思はんや,只そなたをこそ思へと詠める義也.然ればを花になりて詠める歌也.を花がもとと思い初めしは女郎花にてこそあれ.其れを今更に何の外の心を変じて思はんやと詠めるなり.歌の意は安く聞えたる歌也.思草の本躰論判不決也.宋師伝は如此也.此上証明の後考あらば幸甚なるべし.」

橘千蔭『万葉集略解』寛政12年(1800)成 寛政8年~文化9年(1812)刊
「寄草 道邊之.花我下之.思草.今更爾.何物可将念 みちのべの.をばながもとの.おもひぐさ.いまさらさらに.なにかおもはむ
オモヒ草は,くさぐさ説有れど,定かなる証有る事無し.さる草有るなるべし.メザマシグサ,ニコ草など,今知られ難きを多きなり,(以下略).」

貝原益軒『大和本草 巻之六草之二薬類』(1709) 
「龍膽 倭名リンダウ一名クタニト云叉思草ト云(以下略)」

2006年11月 茨城県南部 尾花
小野蘭山『本草綱目啓蒙 巻之九 草之二 山草類下』(1803-1806)
「龍膽 リンダウ(龍膽ノ音ノ転ナリ) ニガナ(和名鈔) ヱヤミグサ(同上) クダニ(古歌) オモヒ草(同上) アゼ桔梗 オコリオトシ(播州) サヽリンダウ(奥州・勢州)(以下略)」
小野蘭山『同書 巻之十二 草之五 湿草類下』(1803-1806)
「鴨跖草 オモヒグサ(古歌) ツユグサ (以下略)」

他にも,思い草として万葉以来名の挙げられたものとしては,サクラ・シバ・シオンなど非常に多い.しかし,『万葉集』の思い草は別として,平安以降の思い草は万葉集の「思ひ草」という言葉から,その時代の風潮や,歌人個人のイメージに沿ったもので,現実に存在するただ一つの植物に当てはめることは,無理があるように思われる.

『万葉集』のものは実在の植物であったに違いないが,後の世の文献から断定することは不可能である.植物生態学的な知見からは,ススキと共存し,尾花と共に咲くのはナンバンギセル,リンドウ,オミナエシであり,乾いた土地にツユクサは育ちにくい.この様に多くの説が出されたが,現在では,ススキに寄生して花を咲かすナンバンギセル説が一般的である.

*1 四,五句「今更亦何物可将念」の諸本・諸注釈書類の訓
イマサラニナトモノオモフラム(ラムを消し、その右に墨へキとある)
イマサラニナソモノヲモフヘキ
イサヲナニナソモノカオモハム(「将念」の左に「オモフへキ」)
イマサラナニノモノカオモハム
イマサヲニワレナニカオモハム(「尓」は「吾」の誤とする)
イマサラサラニナニカオモハム(「更」の下に「更」の字または「〃」脱とする)
イマサラニカトナニヲオモハム
イマサラニハタナニカオモハム(「亦」の下に「當」の字などを補う)
イマサラニナゾモノカオモハム
イマサラニナドモノカオモハム
イマサラサラニナニヲカオモハム(「更」の下に「〃」を補う)
イマサラサラニナニモノオモハム
(阿蘇瑞枝『万葉集全注 巻第十』(1989) 有斐閣 に拠る)


ナンバンギセル(1/4) リンネ,怡顔斎菌品,花壇地錦抄,花彙,物品識名,梅園画譜,竹馬草・春駒草の由来
ナンバンギセル (3/4) 万葉集「思ひ草」本居宣長『玉勝閒』,『物品識名』,『和訓栞』,前田曙山『曙山園芸』,久保田淳
ナンバンギセル(4/4) 地方名,「おもいぐさ」(千葉・柏),「かっこ-へのこ」(岩手),方言,中国名,薬効,源氏伝説

2013年11月18日月曜日

ナンバンギセル(1/4) リンネ,怡顔斎菌品,花壇地錦抄,花彙,物品識名,梅園画譜,竹馬草・春駒草の由来

Aeginetia indica
2001年6月 茨城県南部
インド亜大陸,アジア南部の熱帯から日本を含むアジア東部温帯にかけて生育する,イネ科の単子葉植物(ススキ,オカボ,サトウキビなど)の根に寄生するハマウツボ科ナンバンギセル属の植物.

Linnaeus "SP2-2", p632 (1753)
現在も有効な学名はリンネがインド南部の Malabaria 地方に生育しているとして,種小名を indica と命名した(左図).属名の “Aeginetia” の由来は調べたが確認できなかった.

故磯野慶大教授の「ナンバンギセル」の初見である,松岡恕庵『怡顔斎菌品 下』(1761) には,
「ツユザヘモン,ナンバンギセル
達*按ルニ梅雨(ツユ)左衛門又幽霊草ト云 芸園家ニ銀竜艸ト呼 色甚白シテ鱗甲アリ 又一種一茎突出スルコト六七寸乃至一尺余  梢ヘニ牽牛(アサゴホノ)花ノ如ク亘(ワタ)リ一寸許ノ花ヲ生ス 俗ニ南蛮ギセルト云 トモニ菌ノ類也」(*松岡恕庵の本名,玄達の略と思われる)とあり(右図,NDL),菌類(キノコの仲間)として,ギンリョウソウ(ツユザエモン)の一種として記載されている.

その後,菌類ではなく,同じハマウツボ科のハマウツボとの類似性が認識されたようで,
小野蘭山『花彙』(1765)には,図と共に「草蓯蓉*(サウジウヤウ) ナンハンギセル
近山処々陰湿ノ地ニアリ三月苗ヲ生ス高サ五七寸茎円ク白シ又淡紅色ノ者又鱗甲(ウロコ)アル者アリ四五月花ヲ開ク一茎一花傾キ開ク其形烔管頭(キセルノカシラ)ノ如シ一種茎頭四花ヲ開クモノアリ」(左図,左端, NDL )とある.

勿論,この名前は西欧(南蛮)人たちが来訪して,そのマドロスパイプが見られて以降の名称で,それ以前は思草(オモイグサ),春駒草(ハルゴマソウ),蠅取草(ハエトリグサ),竹馬草あるいは煙管草(キセルソウ)と呼ばれていたと思われる.

伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には「草花秋之部 竹馬草(ちくばさう)初中, 花形童幼のりてあそふたけ馬(むま)のごとく成 小草にして色むらさき 野ニ有」
同書「草木植作様之巻 ●ちやうせんあさがほ ●ちくば草, 右ハ二月中ニ種をまく 合肥を用て植ル ちくば草ハたね取にくき物なり」と,竹馬草として記載されている.

岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾』(1809 跋)「ヲモヒクサ キセルサウ ナンバンギセル 列當*一種」とある(上図,中央.NDL).

毛利元寿『梅園画譜 夏之部七』(春之部巻一序文 1825)(図 1820 – 1849)
「多識編山草類出 列當* ツチアケビ 草蓯蓉* 花蓯蓉*, 諸書出 竹馬草 ナンバンギセル ハマウツボ 日○(阝+镸)草, 丙午六月廿七日 採巣鴨原 真写」と1840年の旧暦六月に巣鴨の原で採取した個体を実写したと記している(上図,右端,NDL).
(*いずれもハマウツボの漢名)

三重本草「竹馬草」,和漢三才図会「竹馬」,豊国「春駒」
三重県の幕末から明治にかけての本草・博物家の鎌井松石(1812-1890)の『三重本草』の草稿?には,「竹馬草,ナンバンギセル」の美しい絵が残されている(右図左).


薄などの背の高い草の陰で,うつむいて咲く花を「誰かをひっそりと思っている」と見立てたり(おもいぐさ),葉がないほっそりとした茎の上に比較的大きな花が載っている様を,張子の馬の頭を竹の胴につけた玩具「竹馬」や「春駒」に例えた(春駒草,竹馬草)のであろうが,南蛮煙管よりは風情がある.

(右図,中央『和漢三才図会「竹馬」,右,歌川豊国(1769-1825)「けはひ坂の少々 岩井粂三郎」(1820)部分,「春駒」早稲田大学演劇博物館.