2011年6月21日火曜日

ジャガイモ(1/6) de Quesada, Clusius, Sir Walter Raleigh, Gerard

Solanum tuberosum南アメリカ原産のナス科ナス属の植物で,もともとはペルーやボリビアの冷涼な高原に自生していた数種の野生種の交配から生まれたものと推定されている.アンデス山脈では標高 3000 メートルまではトウモロコシが栽培できるが,それ以上高くなると栽培できない.一方ジャガイモは,標高 4000 メートル付近まで栽培されている.現在でも 7000 近い品種があり,現地では大きさ・色・形が様々な品種を混ぜたまま栽培するのは,高山地帯の不安定な天候に際しての安全策とのこと.コロンブスの新大陸発見当時、ジャガイモはすでにメキシコからチリ南部まで広く栽培されていた.しかし,北米までこの有用な作物が伝播しなかったことに関しては,J ダイアモンドの「文明の崩壊」に興味深い考察がある.

欧州人がジャガイモの価値に気づいたのは,1537年に Gonzalo Jimenez de Quesada の率いるスペイン兵がアンデス山中の土民の貯蔵庫で発見したのが最初.この植物は当時のスペイン人が EI Dorado から略奪したすべての金銀にもはるかに勝る大獲物で,現在世界の年間生産量はこれら金銀の価値をはるかに超える.1540 年代にはメキシコ東岸のベラクルスとスペインの港との間を定期船が往復していたので,これに載せられて欧州に運ばれたと考えられ,スペインのセヴィリア市にあった病院の 1573 年の会計簿には,患者のためにジャガイモを買い入れたことが記録されている.

これがスペインからイタリアへ移入されたのは1580年代のことで,次いで教皇の遣外使節がベルギーの Mons へ伝えた.1598 年には Mons から,チューリップを欧州に導入したことで有名なヴィエナの植物学者 Carolus Clusius へ送られ,たちまちドイツ中に広まった.

イギリスへ伝わったのは 1586 年(一説に 1584 年)のことで,著名な Sir Walter Raleigh が派遣した北米移民がヴァージニアから持ち帰った.Raleigh は1586年にアイルランド Cork 近くの Youghall の領地で,このジャガイモを栽培したというから,英国での最初の栽培者は Raleigh といってよい(ただし,ジャガイモの苗はスペインとの貿易でもたらされたという説の方が遥かに有力である)が,彼はこの植物についてはまったく無知で,食べようとした実が有毒だと知って庭師に引き抜かせた.庭師は,それを引き抜いて初めてそのイモの真価を知ったという.

イギリスで初めて potato に言及した文献は Gerard の The Herball (1597)で,Sweet potato と区別して‘potato of Virginia’ の名で解説・紹介し,同書の巻頭には,彼が花と実のついたジャガイモの茎を手にしている口絵が載っている(左図).
しかし英国での食糧生産作物としての普及は進まず,その理由は 2 つあった.当時の清教徒は,potato が聖書に見えていないというだけの理由でその栽培に反対したし,また,根も葉もない迷信がジャガイモに対する正当な評価を妨げてもいた.Gerard は次のように述べている.「ボーアンによれば,バーガンディではジャガイモの使用が禁じられていた.これは,このイモを食べすぎればらい病にかかるとされていたからである.“Baubine sayth, That he heard that the use of these roots was forbidden in Bourgondy (where they call them Indian Artichokes) from that they persuaded the too frequent use of them caused the leprosie.”」.無論 Gerard 自身は,このような迷信を信じていたわけではない.

主食として,料理に欠かせない素材としてジャガイモが西欧に普及する契機は,飢餓や戦争にあった.(続く

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