2016年3月7日月曜日

ルーベンス,ヤン・ブリューゲル(父)共作『嗅覚の寓意 The Smell』,咲き乱れる花の同定,スカンクではなくジャコウネコ(Civet)

『嗅覚の寓意 The Smell』
"The Smell" J. Brueghel the elder & Peter Paul Rubens, 1618,  Wikimedia PD
西欧で花を精密かつ正確に絵画に現すことは,ルネッサンスのイタリアで,祈祷書の余白を彩る装飾で始まったと考えられる.私的な祈祷書(時祷書)の挿絵としては,聖書の場面が描かれていたが,特にその婦人用の書では,余白に美しい花の写実的な絵が添えられた.
その植物にはそれぞれ意味があり,例えばムラサキツメクサには葉が三枚あることから「三位一体」を,また,オダマキはその形がハトに似ている事から「聖霊」を象徴した. この花の精密画の伝統はフランスとネーデルラント地方に,そこから来た画家たちによって伝えられ,フランスでは途絶えたが,ネーデルラント地方では,17世紀に花開いた.(P Hulton & L Smith, ”Flowers in Art -From East and West”, British Museum Publications Ltd. (1979), 左図左:Nativity, with borders of floral motifs. By a miniaturist of the Burges-Ghent School,c. 1490. 左図右:Red clover,Trifolium pratense, By a French miniaturist of the School of Jean Bourdichon c. 1510.  

P. F. Cittadini Vanitas-Stillleben (17c), part, from Wikimedia
海運で栄えたネーデルラント地方では,世界各地からの珍しく観賞用の植物が移入され,財力のある市民たちの庭園で育てられた.また,教会や王族の支配がゆるくなったこの地では,画家たちも市民の求める絵画を供給することによって,生活を支えた.その一つの絵画が「花束絵」である.初期の絵は,花瓶に挿された花々の下には頭蓋骨や萎れた花などが描かれた「ヴァニタス(羅: vanitas)(人生の空しさの寓意)」を表す静物画で,観る者に対して虚栄のはかなさを喚起したり,「メメント・モリ(羅: memento mori)(死を記憶せよ)」という,教会の教えを象徴するものであったが,やがて,これらの「教会の教え」を表す物体は貝殻や昆虫のような,より間接的な物体に代わり,いつしか消えて「花束」それ自体が鑑賞の対象になった.

十七世紀初めの何十年かの間にネーデルラントではこれまでにないほど,花が人々の心と日々の生活に重要な役割を果たした.チューリップ熱は最終的には取引所の投機として記憶」されるにすぎないものにまで堕落してしまったが,もとをたどれば,花そのものへの純粋で情熱的な愛好にあった.-この情熱こそ,美術史の上で花の絵画の最大流派を生んだのであった.この流行の影響は非常に大きかった.画家たちは有力市民の庭園に花を写生に出かけ,目的とする作品が完成したあとも,その習作を使いまわして多くの作品を生み出した.

Jan Brueghel the Elder (1603) Wikimedia
「このような花の絵画の巨匠のひとりが,ヤン・ブリューゲル()Jan Brueghel the Elder, 1568 1625)であり,伝説ではめずらしい花は高価だったが,画家への支払いはほどほどであったある時期に,一人の貧乏なオランダ婦人がとても買うことのできない花を描いてもらおうと,彼に頼み込んだ.これがネーデルラントでの油彩による花の絵画のそもそもの起こりなのだという.

ヤン・ブリューゲル () を中心にして花の絵画の初期ネーデルラント派というようなものができた.ブリューゲルたちの制作活動は 1590 年から 1650年ごろまでの一時期で,アントワープとついでユトレヒトが花の絵画発達の主な中心地であった.最初のうち花はどちらかといえば生き生きと描かれることはなく,構成も型通りで,一かたまりに集めて描かれたために,奥行きに欠けていた.すなわち花を生けた壷の遠近感はいいかげんなものであった.しかしながらこれらの画家が描くすべての絵には,人を惹きつける素朴さ,誠実さ,確かな幸福感が存在したのである.彼らが描いたピンクや白のバラはまだ香気をただよわせているし,輝くような縞模様のチューリップ,アイリス,ヨウラクユリ,ヒヤシンス,ラッパズイセン,マルタゴン・リリーはかつての花卉園芸の黄金時代を呼び起こしてくれるすばらしい作品である.

オランダとフランドルの花の画家たちが当時,自然を見て絵を描くということはほとんどなく,植物図や習作をもとに制作したことは疑いない.さまざまに彩色はされるが,まったく同じに描かれた花が同じ画家の異なる諸作品に頻出し,そのうえ花束の絵には,春,夏,さらに秋の花さえもが一緒になって互いに押し合いへし合いしている.」(ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』森村健一訳,八坂書房(1986))

多くの美しい花を描いたので「花のブリューゲル」,筆致から「ビロードのブリューゲル」とも呼ばれたヤン・ブリューゲル () が,ぺ-テル・パウル・ルーベンス (Peter Paul Rubens15771640) と,共同製作した連作が「五感の寓意 The Five Senses」と呼ばれる大作である.これは,当時のスペイン領ネーデルラントの統治者であるアルブレヒト・フォン・エスターライヒ (Albrecht VII. von Österreich, 1559-1621)と妻イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア(Isabel Clara Eugenia de Austria, 1566- 1633)の宮廷のために描かれた.これらの絵画の中でルーベンスは中心となる女性像と従うクピッド或はサティルを,ブリューゲルが背景やそれぞれの感覚を表わす小道具(アトリビュート)を描いたとされる.

これら五作品の内,「花のブリューゲル」の真骨頂が発揮されたのが,「臭覚の寓意 The Smell(1618年,65×109cm マドリード プラド美術館) であろう.




この絵画では,クピッドの捧げる花(Madonna lily)の香りを嗅ぐ女性を中心に,香りに関連するアトリビュートが囲む.なにより目につくのは花束や花瓶に挿された花は少数で,殆どが地から生えている様子が描かれている事であろう.その生育の状況は的確で,ブリューゲルが実際に生えている所を観察し,スケッチしていた資料から,描いたことが推察される.それぞれの花も精密に描かれ,かなりの物が同定できる.実際には香りが少ない,或は感知できない花も多い.なお,バラやチューリップなど,簡単に比定できる花はリストから外した.リンク先はこのブログ内の記事に限った.

 
Flower name
Latin name
English name
1
Althaea rosea
Hollyhock
2
ヨウラクユリ
Fritillaria imperialis
Crown imperial
3
ヒゲナデシコ
Dianthus barbatus
Sweet william
4
Galanthus nivalis
Snowdrop
5
Galanthus nivalis f. pleniflorus
Double snowdrop
6
ニオイスミレ
Viola odorata
Sweet violet
7
Eranthis hyemalis
Winter aconite
8
 
 
9
Muscari neglectum
Grape hyacinth
10
アツバサクラソウ
Primula auricula
Mountain cowslip
11
 
 
12
 
 
13
スノーフレーク
Leucojum aestivum
Summer snowflake
14
 
 
15
Narcissus triandrus
Angel's tears
16
Fritillaria meleagris
Snake's head
17
ダンドク
Canna indica
Indian shot
18
カーネーション
Dianthus caryophyllus
Carnation
19
ニワシロユリ
Lilium candidum
Madonna lily
20
? =14
 
 
21
Syringa vulgaris
Lilac
22
ニワトコの一種 Elder
 
 
23
イチジク
Ficus carica
Fig tree
24
センジュギク
Tagetes patula
Marigold
25
リリウム・ブルビフェルム(クロケウム)
Lilium bulbiferum
Orange lily
26
Paeonia lactiflora
Chinese peony
27
セイヨウオダマキ
Aquilegia vulgaris
Common columbine
28
クチベニスイセン
Narcissus poeticus
Poet's daffodil,
29
キンポウゲ
Trollinus europacus
Globe flower
30
Endymion non-scriptus
Bluebell
31
Anemone nemorosa
Wood anemone
32
キンポウゲ
Ranunculus ficaria
Lesser calendine
33
Viola ricolor
Heartease
34
スハマソウ
Anemone hepatica
Liverwort

更に,香水製造や香りを楽しむための器具,香水瓶,また,臭覚の鋭い動物としてイヌも描かれている.

注目すべきは,イヌの前に丸くなっている動物で,これは肛門と生殖器の間にある香腺から,香料・補香剤のシベットが採取できるジャコウネコ (Civet) である.その他に鹿や鼠が描かれているが,香りに関連するならジャコウジカとマスクラットを表しているのかもしれない.

 
Animals and Apparatus
Latin name
English name
A
香水蒸留設備
 
Perfume distillery
B
ジャコウネコ
Viverra civetta
Civet
C
ジャコウジカ?
Moschus sp. ?
Musk deer ?
D
マスクラット?
Ondatra zibethicus ?
Muskrat ?
E
蒸散器
 
Perfume evaporator
F
香水瓶等
 
Perfume bottles

この「臭覚の寓意 The Smell」を紹介している和書で,ジャコウネコ (Civet) スカンクと誤同定している書が見受けられる.

小林頼子『花のギャラリー 描かれた花の意味』八坂書房 (2003 改訂版第1) では,「その背後に描かれた犬は、いかにも自然なモティーフであるが、臭覚の伝統的なアトリビュートにほかならない。周囲の香水瓶、スカンク、さらには咲き乱れる花も、すべて嗅覚を暗示している。」とある.

谷川渥『幻想の花園 図説美学特殊講義』東京書籍株式会社 (2015) でも,「そしてウェヌスの背後には犬が、前にはなんとスカンクが描かれている。どんなふうに嗅覚と関係するかはいうまでもない。もちろん、香水瓶も忘れられてはいない。「かおりゆたかな香水は額郁たる薔薇の死骸でつくられる」というわけかもしれない。」とある.


 いくら「臭覚の寓意」であろうとも,悪臭を放つスカンクを描くとは考えにくいし,体表の模様をよく見ると,スカンクは縦じまで,尻尾がふさふさとしているのに対して,シベットは斑点模様で,尾は細長く,この動物がシベットと一目瞭然である.
 なお,谷川先生はこの指摘を受け入れ,改訂版では訂正するとの事であった.

右図左:ジャコウネコ, Zibet (Civet)
右図右:スカンク, Conepate (Skunk)
Buffon "Histoire Naturelle - - " (1785)

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