2025年8月5日火曜日

オオツルボ(4)ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redouté),『ユリ科植物図譜』 ”Les Liliacées”

Scilla peruviana 


  ボタニカル・アートの全歴史においてもっとも人気のある画家,「花のラファエロ」として名高いピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redouté, 1759 - 1840『ユリ科植物図譜』”Les Liliacées” (1802 - 1816) にはユリ科植物だけではなく,多くの観賞価値の高い単子葉植物の図が収載されている.この叢書は有名な『バラ図譜』”Les Roses” (1817 – 1724) ほど知られていないが,これに劣らず見事な図譜を多数収めている.
 この叢書の第三巻第28分冊(18075月刊行)167圖に,彼の図版の特徴である多色点刻彫版(ステップル・エングレーヴィング)によってオオツルボが描かれている(冒頭図).オーギュスタン・ピラミュス・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle, 1778 - 1841)が書いた記述文では,「古くは新世界より渡来したと考えられているが,現在ではバルバリー(Barbarie)の原野,ポルトガルの海岸に自生している.この美しいユリは植物園で広く育てられ,アマチュアの庭園でも観賞用の花として栽培されている.原産地(Barbarie)では冬に花が咲くが,当地の気候では,春の半ばに花が咲き,長く咲き続ける.」とある.

ベルギーのディナン(Dinant)出身で,父・シャルル=ジョゼフ・ルドゥーテ(Charles-Joseph Redouté, 1715-1776)は,パリのアカデミー・ド・サン・リュック(L'Académie de Saint-Luc)で絵を学んでいたところ,1743年にサン=テュベール (Saint-Hubert) の大修道院から修道院や教会の装飾を依頼され,サン=テュベールへと移住した.シャルル=ジョゼフはサン=テュベールの質素な庭付きの一軒家で妻(Marguerite- Josephe Châlon, 1712 - ?)と暮らし,6人の子供をもうけた.
 
それら6人のうちのピエール=ジョゼフを含む3人の息子たち(長兄:アントワーヌ=フェルディナンド(Antoine-Ferdinand Redouté, 1756 - 1809),末弟:アンリ=ジョゼフ(Henri-Joseph Redouté, 1766 1852)は父親と同様,絵の道に進み,サン=テュベールの修道院の装飾を手伝いながら絵の修業をしていた.当時修道院で庭園の手入れを行っていた医師兼薬剤師の修道士,イックマン(Hickmann)が若き日のピエール=ジョゼフ・ルドゥーテに植物の世界との出会いをもたらしたといわれている.(前記事参照)
 パリに移り住んだ長兄,アントワーヌ=フェルディナンドは舞台装飾のほか,フランスの現エリゼ宮やコンピエーニュ城などの内装を手掛ける装飾画家として,実績を残した.1782年,ピエール=ジョゼフは二十三歳とき,パリへ移住し,アントワーヌ・フェルディナンに協力することになった.二人は新しく完成したルーヴォア通りのイタリア座で一緒に働いたが,ピエール=ジョゼフは暇があると花を描いてばかりいた.その習作数点をド・マルトーが彫版したが,またこの人から多色印刷について教えを受けた.
 ピエール・ジョゼフは余暇にめずらしい花を求めて王室植物園(Jardin du Roi)へ行くようになったが,ここでまもなく裕福な植物学者シャルル・ルイ・レリチエ・ド・ブリュテル(Charles Louis L’Héritier de Brutelle, 1746 - 1800) の目にとまり,この頑固なリンネ式分類法信奉者は,ピエール・ジョゼフを自分の館へ招いて立派な蔵書を自由に使わせ,植物学者が要求する植物画のさまざまな特徴を教授した.



 この幸運な出会いによってピエール・ジョゼフの前途は開けていった.レリチエの『新植物』(”Stripes Novae”, 1784 - 1785, 6巻,134図)の中の五十枚以上の図版はルドゥーテの原画をもとに彫版されている(上,左2図). さらに,レリチエが 1786 年にロンドンを訪問した時,この画家も同行して,足掛け2年,キュー植物園で育っているめずらしい植物を研究した著作『イギリス稀少栽培植物誌』(”Sertum Anglicum”, 1788)の挿図制作に協力した.(上,左2図.なお,原画を描いたのは,Jac. Sowerby. P. J. Redouté. J.G. Bruguíere. 彫版したのは Fr. Hubert. Maleuvre. Juillet. J. B. Guyard. Steph. Voysard. Juillet. Milsanとされている.
  
彼に植物画で大きな影響を及ぼしたのは,オランダ人の大画家へラルト・ファン・スパンドンク(Gerard van Spaendonck, 1746 - 1822)であった.スパンドンクは 1774 年にパリの自然史博物館の花の絵画教授になった程で,画家としても教師としてもパリで相当の名声を独力でかち得ていた.植物画におけるルドゥーテの才能に感銘をうけたスパンドンクは,ルドゥーテと,動物画家としてやはり植物園で働いていた弟アンリ・ジョゼフ(Henri-Joseph Redouté, 1766 1852)を,あらゆる面で支援した.1793 年にこの二人の兄弟は自然史博物館の館員に任命された.アンリがナポレオンのエジプト遠征に随行した科学者,画家,文学者たちの一団に配属されたのは,おそらくファン・スパンドンクの推薦によるものであった.(前記事参照)
 ルドゥテの絵画技法は,師のファン・スパンドンクによって 1783 年頃に開発されたものを摸したものである.透明の水彩絵の具を使って,非常に微妙なタッチで階調をつけていき,ときどき不透明絵の具を用いて光沢を表現する,というのがルドゥーテの多用した手法であった.
 こうしたこのうえなく繊細な筆使いのゆえに,彼の作品には女性的な雰囲気が漂っている.非常に繊細で,美しい植物の画を描いたが,もしその作品がベラムに描かれたものだけに限定されていたならば,ルドゥーテは今にいたるまでも,やはり豊かな才能に恵まれた同時代のファン・スパンドンクやテュルパン(Pierre Jean François Turpin, 1775 - 1840)のように無名のままであったことだろう.忘れさられることなく,その名が人口に膾炙したのは,勤勉さもさることながら好運のおかげであった.
 多色点刻彫版の応用と,それによる豪華で繊細な花の図譜は,王族の後援,強靭なエネルギー,および点刻彫版師と印刷師のみごとなチームワークのおかげであり,ルドゥーテはボタニカル・アート史上かってないほどの図譜を作ることができた.
 点刻彫版(スティプル・エングレービング,stipple engraving)はフランスで十八世紀に発達し,イギリスでバルトロッツィ(フランチェスコ・バルトロッツィ,Francesco Bartolozzi RA1727 – 1815, イタリア出身 )とライランド(ウィリアム・ウィン・ライランド,William Wynne Ryland, 1732 or 1738 - 1783,英王室御用達の版画家,後の英国東インド会社債権を偽造したために処刑された)が改良し,肖像画・歴史画などの分野で大成功を収めたが,英国では花の図譜に応用されることはなかった.


  ①William Wynne Ryland ”Duchess of Richmond” (1775)
 Francesco Bartolozzi “Queen Charlotte” as painted by William Beechey, (1799).
 Francesco Bartolozzi ”Cupid and Psyche” (1789)
 ④左図 部分 拡大

ルドゥテはレリチエに同行したイギリスでその版画技法の可能性を知ったのであろう.当時フランスの代表的な彫版工であったPierre Gabriel Langlois1754 - c.1810)を筆頭とするラングロワ(Langlois)一族と共同で,独自の改良を行って,見事な多色刷り作品を生み出していった.

その工程は簡単で,線によるよりはむしろ点によるエッチングといったもので,版は針かルーレットで彫られることもある.微妙なぼかしやそれゆえの立体表現にはまことにふさわしい方法であった.多色印刷はふつう一枚の版でなされ,さまざまな色のインクがプーぺ(タンポ)などで版面につけられ,一回印刷するごとに版面に再びインクが盛られるのであった.イギリス人はまったく奇妙なことに実際には花の絵を彫版するときに点刻を使用しなかった.しかしフランスでは,多色印刷の新しい方法が完成したのであった.
 ルドゥーテは,自分は独特を多色印刷術の発明者であると主張したが,他人の発明を盗用したのだと告発された.そこでルドゥーテは法廷で自己を弁護し,勝利した.「多色印刷をするためにわれわれが一七九六年に発明した工程は,独自のやり方で一枚の版に必要な色のインクを盛り分けることからなる.それによってわれわれは,『多肉植物図譜』,『ユリ科植物図譜』その他の作品に見られるように,水彩絵の具のもつあらゆる柔らかさと華やかさを印刷物に与えることに成功したのである.」ルドゥーテの発明の価値は認められ,ルイ十八世手ずからメダルが授与された.
 
この手法を用いた美しい図譜を多く刊行したことによって,ルドゥーテは世界最高の花の画家としての名声を得られたといっても過言ではない.

 その図譜の一つ『百合図譜』(Les Liliacees”, 1802 - 1815)は全八巻,80部,486図からなる大冊で,1 - 3 巻はオーギュスタン・ピラミュス・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle, 1778 - 1841)が,5 – 7 巻はフランセイズ・ドゥ・ドゥラロシュ(François de Laroche, 1781 - 1813)が,8巻は アリレ・ラフノー・ドゥリール(Alire Raffeneau-Delile, 1778 - 1850)がと,当時一流の分類学者が解説を担当した.
 解説のスタイルはほぼ一貫していて,種の学名,アントワーヌ・ロラン・ドゥ・ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu, 1748 - 1836)による科名,リンネ分類大系による名称,先行文献と異名,フランス名,記述,来歴,観察記録,図版説明の順に続く.(参考資料:Grace Costantino "The Botanical Art of Redouté" BHL Blog, https://blog.biodiversitylibrary.org/category/blog-reel,ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』森村健一訳,八坂書房 (1986),大場秀章『植物学と植物画』八坂書房 (2003)
  
この叢書の第三巻(1805 - 1807)には60種の植物が(#121 - #180)収載されているが,原図はすべてルドゥーテが描いており(P. J. Redouté pinx.),彫版(Sculp.)担当はde Gouy  22 図,Langlois 21 図,Chapuy 8図,Chapuis 図,Allais 図,Gabrielle 図,H. Feuchot 図,Marie 図となっている.
  
オオツルボがこの巻に掲載されているが,原図は勿論ルドゥーテであり,彫版はde Gouy が担当している(下図,右端).

ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph RedoutéLes Liliacées”第三巻第28分冊 #167

SCILLA PERUVIANA.
FAM. des ASPHODÈLES. JUSS. — HEXANDRIE MONOGYNIE. LIN.
(中略)

DESCRIPTION.

Une grosse bulbe ovoïde, solide, couverte de plusieurs tuniques blanchâtres,
donne naissance à des feuilles étalées en large rosette sur la terre, linéaires ,
légèrement ondulées , un peu ciliées sur los bords, courbées en canal vers
leur base, longues de 1 à 3 décimètres sur 10 à 15 millimètres de largeur.
  La hampe est cjlindrique, droite, plus courte que les feuilles, terminée par
une grappe conique, serrée, composée d'un grand nombre de fleurs: celles-ci
sont ordinairement dun bleu violet, quelquefois bleuâtres ou blanches. Leurs
pédicelles sont cjlindriques, beaucoup plus longs dans le bas que dans le haut
de la grappe, accompagnés de bractées membraneuses, longues , pointues,
lancéolées, quelquefois changées en de véritables feuilles alongées et pendantes.
  Les six lobes du périgone sont étalés, elliptiques, un peu pointus, persis-
tants. Les sixétamines sont de la même couleur que le périgone, un peu plus
courtes que lui, composées de filaments en forme d alêne, élargis à leur base, et
d'anthères d'un bleu violet, à deux loges pleines d'un pollen jaune. L'ovaire est
arrondi, blanchâtre, surmonté d'un style court, filiforme, droit, terminé par
un stigmate simple. Le fruit est, comme dans toutes les Scilles, une capsule à
trois angles, à trois loges, à trois valves munies d'une cloison sur leur face
interne, à plusieurs graines dans chaque loge.

 

HISTOIRE.

Quoique la plante dont nous donnons ici la description porte depuis long-
Temps le nom de Scille du Pérou, il n'est rien moins que sûr qu'elle soit indigène
du Nouveau-Monde : ce qui est certain, c'est qu'elle est maintenant sauvage
en Barbarie, dans les champs et sur les côtes du Portugal. Une ancienne tr-
adition atteste qu'elle est autrefois venue de l'Amérique méridionale.
♃*.
. Cette belle Liliacée estasses répandue dans les jardins de botanique, et se
cultive même comme fleur d'ornement dans les jardins des amateurs. En
Barbarie, elle fleurit en hiver; dans notre climat elle fleurit au milieu du prin-
temps. Sa grappe reste longtemps en fleur.

EXPLICATION DE LA PLANCHE.

1. Etamine.
2. Le pistil.

*:リンネよるシンボル.Jupiter perennial(多年生草本)の意

Grace Costantino “The Botanical Art of Redouté” (https://blog.biodiversitylibrary.org/2017/06/the-botanical-art-of-redoute.html) ではルドゥーテの生涯・作品が概観出来て,作品には BHL の収められている図譜がリンクされている.ルドゥーテに関心ある人は訪れて頂きたい.

2025年8月3日日曜日

オオツルボ(3)William Curtis『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine)

Scilla peruviana


スペインなどの原産のオオツルボは,そのエキゾティックな花と育てやすさとが高く評価されて,欧州各地の庭園で育てられた.

現在でも出版が継続されている『カーチスの植物雑誌(Curtis’s Botanical Magazine, 1787 – x)』の第二十巻(1804)に, SCILLA PERUVIANA. CORYMBOSE SQUIL” の名称でオオツルボが収載されている.その記述には,「ポルトガル原産でルネ・デフォンテーヌによってアルジェリアとチュニジアの野原でも発見されている.極めて耐寒性があり、子株で自由に繁殖し,以前は今より多くの庭園で栽培されていた.」と記されている.種小名の perviana については,クルシウスがペルー産と誤って記したため,リンネの誤解につながったとしている(冒頭図).
 『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine 1787 年にウィリアム・カーチスによって創刊されたが,ほとんど中断することなく今日までずっと発行され続けている.こうして今やこの雑誌はイギリスの名物的存在となり,イギリス人が誇ってよいものであろう.


 ウィリアム・カーチス(William Curtis, 17461799)は,ハンプシャー州のアルトン(Alton, Hampshire)で生まれた.彼の家族はクエーカー教徒であった.カーチスの父ジョンは皮なめし業(tanner)を営み,裕福な家であった.書籍,鞄,小物,馬具など日常に使う様々なものに利用されていた皮革は,非常に重要な材料,素材であったといえる.カーチスの家系には,薬剤師になったものもあり,時代が下ると医者や博物学者などもいた.クウェーカー教徒としてのネットワークを生かし,カーチスの家族や縁者の多くは,何らかの教育を受けて専門的な技能を生かした職業に就いていた.アルトンには現在,カーチスが設立に尽力した小さな博物館(The Curtis Museum)があり,郷土博物館として特に自然科学や考古学の分野の収蔵に力を入れている(右図).
 カーチスはエッガー・グラマー・スクール Eggar’s Grammar School に通い,14歳になると祖父のジョン・カーチスの元に薬剤師の見習いに入った.しかし故郷の町では,彼が興味を持っていたそれ以上植物学を学ぶ機会はなかったようである.1766年,二十歳のとき,ロンドンに出た.最初,外科医であるジョージ・ヴォー(George Vaux)の見習いとなり,そのあとクウェーカーでシティの薬剤師であり薬局を営むトマス・タルウィン(Thomas Talwin の見習いとなった.やがてカーチスはこの薬局を継いだが,シティの薬剤師の仕事は良く儲かるものであったにも関わらず,短期間で店を売り払ってしまった.自分が本当にしたい仕事-植物の研究を続けるのに必要な時間を得るためであった.
 クウェーカー教徒たちは刑罰法 (いわゆるpenal law によって,公職や聖職に就くことができなかった.カーチスの家族に見られるように,彼らの多くは技能を伴う専門職となり,薬剤師や博物学者も多かった.クウェーカーの間では,植物学は特に推奨されたということであるが,それは自然の事物―鉱物から植物,動物まで―を研究することが信仰に叶うものと考えられていたからであった.自然を前にして虚心に観察するとき,人間は「内なる光」(inner light)に導かれて啓示を得るのであり,このような姿勢で自然の探究をすることは彼らの道徳に沿ったものと考えられたからである.カーチスは今や読書,採集,バーモンジーでの庭作り,同好の士との意見交換などに明け暮れするようになった.


 彼は薬剤師としてシティで働くことをやめ,育種や薬草学を学ぶ菜園を経営することを考え,1770年代の初め,テムズ川南岸のグランデ通り(Grande Road)に小さな薬草園を開いた.この時期,カーチスは聖トマス病院 St. Thomas Hospital)の薬草学の講師や,1772 年には二十六歳の若さでチェルシーの薬種協会(Worshipful Society of Apothecaries)の園芸教授と実地指導教授に任命された.この協会のチェルシー薬草園(Chelsea Physic Garden,左図,”The Physic Garden, Chelsea; a plan view.” Engraving by John Wellcome (1751))には,かつて『園芸事典』(Gardener’s Dictionary, 1731)の著者であるフィリップ・ミラー(Philip Miller, 1691 - 1771)が 1722 年から 50年間も Chief gardener として君臨していた.


カーチスは自分の知識を教授することに熱心であった.たとえば立案してもチェルシーでの講義がままならぬときには,自分が新しく開いた庭園で植物学や園芸学について私設講座を開いた.その庭園はロンドンのサウスバンクスにある「ランベス湿地(Lambeth-Marsh)」(上図)と呼ばれているところに独力で造ったものであった.ここでは6,000種ほどの植物も栽培した.
 

 しかしカーチスが一番興味をひかれたのはイギリスの植物相,ことにロンドンの近郊に育つような花々であった.ビュート侯(
John Stuart, Earl of Bute, 1713 - 1792)の支援で最初の意欲的な企画『ロンドン植物誌』(Flora Londinensis)の編纂にのりだした.これは首都から半径十マイル以内に育っている植物の図と解説からなるシリーズであった.(上図)
 『ロンドン植物誌』の最初の部は 1777 年に出されたが,その年カーチスは過労のためチェルシーでの職を辞した.そして十年間,自らの性分には合うが無報酬のこの仕事を根気よく続けた.1787 年までに,カーチスの労苦はみごとをフォリオ判二巻本となって結実したが,同時に大変な赤字を抱え込み,この冒険的事業を続けられなくなった.だが,なぜ赤字になるのかを考えたすえに,その解決策を見出した.つまり,道端に生えているつつましやかな植物の画集が売れないのなら,庭園に咲き誇る華やかな異国植物のエングレーヴィング画を作れば購読者たちの引き立てにあずかれるだろう,ということだった.
 こうして,1787 年に 『ボタニカル・マガジン』が誕生した.カーチス自身が言っているように,『ロンドン植物誌』は評価されただけに終わったが,『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine)は「実質利益」をもたらしたのであった.


 『ボタニカル・マガジン』の扉やまえがき(上図)に示された,この雑誌刊行の目的は,「栽培植物図譜(or Flower-Garden Displayed)」であり,それは「露地,温室,加温温室で栽培されているもっともあでやかな異国の植物(The most Ornamental Foreign Plants, cultivated in the Open Ground, the Green-House, and the Stove)」を図示し,解説を施すことであった.「その栽培に最も有益な情報(TOGETHER WITH THE MOST APPROVED METHODS OF CULTURE.)」も記され,彩色された図は「常に生きた実物をもとに描かれ,彩色は,たとえ完璧ではなくても許されるくらいに自然に近い彩色が(to illustrate each by a set of new figures, drawn always from the living plant, and coloured as near to nature, as the imperfection of colouring will admit.)」なされた.
 さらに「偉大なリンネの分類に従って,一般名,科,属.種,特性を;さらに生育地,花期を記し」(Their Names, Class, Order, Generic and Specific Characters, according to the celebrated Linnæus; their Places of Growth, and Times of Flowering:)」と,植物学(Botany- Linnæus)と園芸(Gardening- Miller)を結びつける役割Botany and Gardeningso far as relates to the culture of ornamental Plantsor the labours of Linnæus and Miller, might happily be combined.)を期待して発行された.最初に刊行された第一部には図版が三点入っていて,1787 21日に刊行され,一部一シリングで三千部が売れた.後続本の価格と挿入される図版数は年によって変動したが,平均図版数は毎年四十五点ほどであった.

 『ボタニカル・マガジン』の図版は,ウィリアム・キルバーン(William Kilburn,1745 - 1818)とジェイムズ・サワビィ(James Sowerby, 1751 - 1822),一年後にシデナム・エドワーズ(Sydenham Teast Edwards, 1769 - 1819)の三人が,最初の二十八年間の全作品のほとんどを担当した - もっともそのうちの大部分はエドワーズがオランダ生まれの彫版師サンスム(Sansom, Fraccis, c.1797-1810)と一緒に制作したのである.1799 年にカーチスが世を去った後は,友人のジョン・シムズ(John Sims, 1749 - 1831)が運営全般と編集業務とを引き継いだ.シムズの編集のもとで多数の南アフリカの植物,ことにアヤメ科植物が図示された.

(参考資料:https://www.quakersintheworld.org/quakers-in-action/254/William-Curtis,石倉和佳『ウィリアム・カーティスの『ロンドンの植物』―自然と分類学のあいだ―』ガーデン研究会ジャーナル120153月,ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』森村健一訳,八坂書房 (1986)


Curtis’s Botanical Magazine
Vol. 19 (1804)

[ 749 ]
SCILLA PERUVIANA. CORYMBOSE SQUIL
Class and Order.
HEXANDRIA MONOGYNIA.
Generic Character. – Vid. Num 746.
Specific Characler and Synonyms.

SCILLA peruviana foliis lato linearibus, scapo longioribus,
       in orbem recumbentibus ; brafteis folitariis pe-
       dicellos fubaequantibus ; floribus numerosissimis
    in corymbum magnum subconicum congestis ;
       corolla stellato-patente, persistente ; filamentis lato-
       subulatis. G.
(中略)
   Bulb large, ovate, tunicate. Leaves many, broad-linear,
longer than the stem, round which they are spread recumbently,
channelled downwards. Scape terminated by a many-flowered
thickset somewhat conic corymb, the peduncles in which are
rather long, and each is supported by a single membranous bracte
of nearly the same length. Corolla persistent ; rotately patent,
with lanceolate, acute segments ; stamens shorter than these,
broad-subulate, of the same colour as the corolla; anthers short,
horizontally incumbent. Flowers in May and June.
  A native of Portugal ; found also in the fields of the Alge-
rine and Tunisian territories by D
ESFONTAINES. LINNÆUS
must have been induced to give the specific title of peruviana,
on the authority of CLUSIUS, who received it with the notice
of its coming from Peru out of the garden of E
VERARD
M
UNICHOVEN, a botanical dilettante of that day, but who
certainly was mistaken in supposing it to have been brought
from the above country, and has led both his friend, and through
him L
INNÆUS, into error.
  It is perfectly hardy, propagates freely by offsets, and was
formerly much more common in our gardens than at present.
We have seen a white variety of it. Our drawing was taken at
the Botanic Garden, Brompton. G.

この解説を書いた “G” とは,John Bellenden Gawler としても知られる英国の植物学者 John Bellenden Ker (1764 - 1842) と思われる.
    シドナム・エドワーズ原図(Syd Edwards del),F.サンスム彫版(F. Sansom sculp)

2025年7月22日火曜日

オオツルボ(1-3)Hort. Rom, Flora Atlantica, Henri-Joseph Redouté, アンリ=ジョゼフ・ルドゥーテ

Scilla peruviana


スペイン・ポルトガル・アルジェリア・チュニジア原産のオオツルボは,そのエキゾティックな花が高く評価されて,欧州各地の庭園で育てられた.
  
イタリアの植物学者 ジョルジョ・ボネッリGiorgio Bonelli1724 - 1803)は,ローマに在った植物園に栽培されていた植物の図録を当時主流のトゥルヌフォール(Tournefort)の分類法に基づいて著わした Hortus Romanus juxta systema Tournefortianum” (Hortus Romanus, 1772 - 1793 ) には,栽培されていたオオツルボの美しい図が収載されている.

  フランスの植物学者であるルネ・デフォンテーヌRené Louiche Desfontaines1750 - 1833)は,パリ植物園の植物学の教授になった後,チュニジアとアルジェリアで2年間の採集旅行に赴き,多くの植物標本を持ち帰った.著書『大西洋の植物』 “Flora atlantica :sive historia plantarum quae in Atlante, agro tunetano et algeriensi crescunt”Flora Atlantica, 17981799, 2 vols)には300種の新種を記載したが,この書にも,図はないもののオオツルボの記述があり,「生育地(Habitant)は(チュニジアとアルジェリアの)“arvis”(原野)」とし,「庭で育てられると,野生種より淡い色もしくは白い花をつける」としている.この書の挿図はルドゥーテ兄弟(Pierre-Joseph Redouté & Henri-Joseph Redouté*)が手掛けている.

 
18
世紀中-末に活躍したイタリアの医師・植物学者 ジョルジョ・ボネッリGiorgio Bonelli1724 - 1803)は,イタリア北西部ピエモンテ州クーネオ県モンドヴィ(Mondovì)近郊のヴィコフォルテ(Vicoforte)で生まれ,そこで最初の学業を終えた後,奨学金を獲得しトリノ県立大学(Collegio delle province di Torino, College of the Provinces of Turin)で医学の学位を取得した.モンドヴィに戻って医師としての活動を始めたが,ボネッリは,職務の遂行に忙しかったにもかかわらず,植物学に対する情熱を捨てることはなく,トリノでの研究期間中に,ジョヴァンニ・バルトロメオ・カッチャ(Giovanni Bartolomeo Caccia, 1695 – 1746,トリノ大学植物園の初代園長)の指導の下で植物学を深く研究し,植物学者のカルロ・アリーニ(Carlo Ludovico Allioni, 1728 - 1804)やジュリオ・ポンテデーラ(Giulio Pontedera, 1688 – 3 September 1757)とは交流を続けていた.
 若くして妻を亡くしたボネッリは,より実りある科学的議論に参加したいという願望に駆られてローマに移ることを決意し,そこで医師としての診療を始めた.彼は,ある高名な人物(身元は不明)を治癒してローマの高貴な貴族や高位聖職者の間で評判を得た.1757年,彼はラ・サピエンツァ大学(Università della Sapienza)の実用医学講師(medicina pratica presso)の地位を勝ち取り,その後は順調に出世し,医師会(Collegio degli archiatri, College of Archiatrists)のメンバーに選出され,教皇の主任医師(protomedico pontificio)を何度も務めた.
 1770年頃,ローマ在住のフランス人書店主兼出版者であるブシャール(Bouchard)とグラヴィエ(Gravier)は,ローマ植物園(Orto botanico di Roma, Botanical Garden of Rome)の植物の系統的かつ図解入りのカタログを印刷する計画を立て,ボネッリにその学術的な指導を依頼した.名誉に感じたボネッリは招請を受け入れ,第一巻では植物学の発展の状態とさまざまな分類システムの関係についての概要を提供することを目的とした内容の濃い序文を執筆した.トゥルヌフォール(Joseph Pitton de Tournefort, 1656 - 1708)の分類法の訓練を受け,熟達していたボネッリは,それが学習に適していると考え,カタログの起草にそれを採用した.図解部分は植物園の管理人であるリベラト・サバティ(Liberato Sabbati, 1714-1778)に,タイポグラフィーは,パウリ・ユンチ(Pauli Junchi, 1772 - 1793)が担当した.
 理由は不明だが,この叢書の方向性は第1巻の直後にボネッリからサピエンツァ大学の植物学教授ニコラ・マルテッリ(Nicolo Martelli, 1735-1829)に委ねられた.マルテッリはこの作品にリンネ的な性格をもたせ,第 2 巻の序文で方向性の変更を正当化した.リベラト・サバティの死後,図は息子のコンスタンチノ(Constantino, fl 18th cent-)が受け継いだ.
 この叢書は全8 巻からなり,最終巻は 1793 年に出版された.

この叢書の第六巻に,Ornithogalum(オオアマナ屬)に属するとして,7  Ornithogalum Eriophorum peruvianum の名で栽培されていたオオツルボの美しい図が収載されている.
  GENUS VII.
       Ornithogalum T. & L.
FLorem habet liliaceum, corolla hexapetala, erecta,
persistenti, supra mediam patenti : Capsulam subro-
tutidam angulatam : Stamina sex alterna basi dilatata:
Stylum unum.
(中略)
7  Ornithogalum Eriophorum peruvianum I. R. H. 381.
 
Bulbus Eriophorus peruvianus C. B. Pin. 47. Erio-
  pherus peruvianus Clus. Hist.173.
(後略)

図には
Ornithogalum umbellatum, majus Sive Hyacinthus Peruvianus
    Ital. Giacinto del Peru,  Gall. La Sqiulle

と,ラテン語名とともに,イタリア語とフランス語の俗名が美しいタイポグラフィーで記されている.(冒頭図)

  フランスの植物学者であるルネ・デフォンテーヌRené Louiche Desfontaines1750 - 1833)は,イル=エ=ヴィレーヌ県のトランブレ (Tremblay) に生まれた。レンヌのコレージュ (Collège de Renne) を出た後、1773年に医学を学ぶためにパリに出た。パリ植物園 (Jardin des Plantes) でルイ・ギョーム・ルモニエ (Louis Guillaume Lemonnier, 1717 1799) の講義を聴いて植物学への興味を抱いた。1783年には Académie des sciences French Academy of Sciences)の会員に選ばれ,また,彼はAcadémie Nationale de Médecine の会員でもあった.
 1783年,彼はチュニジアとアルジェリアへ2年間の採集旅行に赴き,多くの植物標本を持ち帰った.1786年にはルモニエ(在職:1759 - 1786)の後を継いで,パリ植物園の植物学の教授になった.
 フランス革命の荒波も乗り越え,彼は後に国立自然史博物館(Muséum National d'Histoire Naturelle)の館長となり,またフランス学士院(Académie des sciences (Botanique).)の創設者の一人であり,科学アカデミー会長を務め,その功績をたたえられレジオンドヌール勲章を受章した.
 彼はチュニジアとアルジェリアの採集旅行で得られた,多くのタイプ標本を含む 1480 の標本を収蔵する “Flora Atlantica” を設立していたが,死後パリ市に寄贈された.
 アフリカ旅行で得られた知見を著した『大西洋の植物』 “Flora atlantica :sive historia plantarum quae in Atlante, agro tunetano et algeriensi crescunt”Flora Atlantica, 17981799, 全二巻)には300種の新種を記載した.第一巻298ページには Scilla perviana とリンネの命名した学名でオオツルボが,アルジェリア・チュニジアの原野に生育していると記載されている.第一巻には120の,第二巻には 141 の,計261枚もの,P. J. Redouté (1759 - 1840) 及び 弟のH. J. Redouté* (1766 - 1852) の原画によるステイツプル・エングレービング(点刻彫版)のモノクロームの美しい図が収められている.残念ながら,既によく知られている植物ゆえか,オオツルボの絵はない.


SCILLA PERUVIANA.
SCILLA corymbo conferto, conico. Lin. Spec. 442.
Ornithogalum coeruleum lusitanicum latifolium. T. Inst, 381. — Schaw.
   Specim. n. 447.
Hyacinthus indicus bulbosus stellatus. C. B. Pin. 47.
Hyacinthus stellatus peruvianus. Clu. Hist. 173 et 182. Ic.
Hyacinthus stellatus peruvianus multiflorus, flore coeruleo. Moris. s. 4 .
   t.
12. f. 19.
Hyacinthus peruvianus. J. B. Нist. 2. p. 585. Ic — Ger. Hist. 109. Ic.

BULBUS ovatus, magnus, solidus, tunicatus. Folia jacentia aut decum-
bentia, in orbem expansa, margine ciliata, laeviter undulata, 11 — 15
millimetr. lata, 11 — 27. centimetr. longa, basi canaliculata. Scapus foliis
brevior. Flores coerulei aut violacei, numerosissimi, conferti, corym-
bosi; corymbo maximo, convexo. Bracteae membranaceae, longae, lan-
ceolatae, acutae. Corollarum laciniae ellipticae, subacutae, patentes, hori-
zontales. Stamina concolora, corolla breviora. Floret Hyeme. In hortis
flores saepe pallidi aut albi.
        HABITAT in arvis.

* アンリ=ジョゼフ・ルドゥーテH. J. Redouté, 1766 – 1852)は“花のラファエロ”として知られるピエール・ジョセフ・ルドゥーテ(P. J. Redouté, 1759 – 1840)の弟で,博物画家として知られている.


  ベルギーのディナン(Dinant)出身で,父・シャルル=ジョゼフ・ルドゥーテ(Charles-Joseph Redouté, 1715-1776)は,パリのアカデミー・ド・サン・リュック(L'Académie de Saint-Luc)で絵を学んでいたところ,1743年にサン=テュベール (Saint-Hubert) の大修道院から修道院や教会の装飾を依頼され,サン=テュベールへと移住した.シャルル=ジョゼフはサン=テュベールの質素な庭付きの一軒家で妻(Marguerite- Josephe Châlon, 1712 - ?)と暮らし,6人の子供をもうけた.それら6人のうちのピエール=ジョゼフを含む3人の息子たち(長兄:アントワーヌ=フェルディナンド(Antoine-Ferdinand Redouté, 1756-1809),末弟:アンリ=ジョゼフ)は父親と同様,絵の道に進み,サン=テュベールの修道院の装飾を手伝いながら絵の修業をしていた.当時修道院で庭園の手入れを行っていた医師兼薬剤師の修道士,イックマン(Hickmann)が若き日のピエール=ジョゼフ・ルドゥーテに植物の世界との出会いをもたらしたといわれている.
 後に三兄弟はパリで,美術の分野で活躍した.
 長兄のアントワーヌ=フェルディナンドは舞台装飾のほか、フランスの現エリゼ宮やコンピエーニュ城などの内装を手掛ける装飾画家として,実績を残した.
 ピエール=ジョゼフはフランドルやオランダを旅したのち、兄のいるフランスへと渡りマリー=アントワネット(Marie-Antoinette, 1755-1793)やナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)の妻ジョゼフィーヌ(Joséphine de Beauharnais, 1763-1814)のお抱えの植物画家となり,またのちのベルギー王妃である、ルイーズ=マリー・ドルレアン(Louise-Marie d'Orléans/1812-1850)をはじめ、特権階級の子女にデッサンの指導も行っていた。自ら開発したと称する「多色点刻銅版画」を駆使した大判花譜「バラ図譜」「ユリ科図譜」「名花選」を出版した.
 末弟のアンリ=ジョゼフは.1785年にパリで兄弟たちと合流し,自然史のデッサンを学び,その後自然史博物館でネコ科の画家に任命された.1798年,彼はナポレオンの「エジプト遠征軍」随伴する調査隊に招かれ,その才能により科学芸術委員会の委員としての地位を獲得した.したがって,彼はボナパルトのエジプト遠征に同行した167人の科学者,技術者,植物学者,芸術家のうちの1人でした.彼は1798423日にパリを出発し,76日にアレクサンドリアに到着し,8月から9月にかけてデルタ地帯を探検した.博物学者のエティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレール(Étienne Geoffroy Saint-Hilaire, 1772 - 1844)は彼を専属画家に任命し,1798822日,エジプト学院(Institut d'Egypte)芸術部門の会員に任命され,922日にカイロに到着した.

彼がエジプトを去ったのは,メヌー将軍の降伏(180192日)後のことだった. 180218日にパリに戻った彼は,博物館での職に復帰し,『エジプト記述』の寄稿者の一人となったが,彼については今ではほとんど語られていない. 
 委員会がフランスに戻ると,委員たちはエジプトでしばしば極めて困難な状況下で作成された多数の文書(メモ,スケッチ,図面など)を収集し,出版する作業に着手しました.これらの業績は後に1809年から1828年にかけて刊行された『エジプト誌』 Description de l'Egypte にまとめられ,エジプト学の成立に大きく寄与した.本文は「古代遺物」4巻,「現状」3巻,「博物」2巻の計9巻にわかれ,図版は超大型本で「古代遺物」5巻,「現状」2巻,「博物」3巻,「地図」1巻の計11巻よりなっている.アンリ=ジョゼフは,特に博物の図譜に多くの作品を残している.
 アンリ=ジョゼフは兄ピエールと共に,上記『大西洋の植物』”Flora atlantica” の他にMichaux, F. A., “North American sylva” (1817-1819) (N. Amer. Sylv.), にも挿図を担当しているほか,単独で,『エジプト誌』の他にも多くの博物誌の植物画を描いている.


1. “Journal d’histoire naturelle” (Journ. Hist. Nat. Paris), vol. 1 (1792) t. 19
  name cited: Hydrophyllum magellanicum Lam.,
  name recognized: Phacelia secunda J. Gmelin

2. Lamarck, J.B.P.A. de Monet de, Poiret, J.L.M., “Tableau encyclopedique et methodique des trois règnes de la nature, Botanique. Illustration des genres” (1791-1823) (Tabl. Encycl.), vol. 4 (1795), t. 828
  name cited: Dombeya chilensis Lam.
  name recognized: Araucaria araucana (Molina) K. Koch
  name recognized (basionym): Pinus araucana Molina

3. Desfontaines, R.L., Flora Atlantica (1798-1799)(Fl. Atlant.), vol. 2 (1799), t. 239
  name cited: Anthemis punctata Vahl
  name recognized: Anthemis punctata Vahl

4. Raffeneau-Delile, A., “Flore d’Egypte,” Plates [in: Description d’Egypte] (1826) (Descr. Egypte, Hist. Nat.), vol. 3 (1813), [Plates] t. 60 (1813)
  name cited: Nymphaea lotus L.
  name recognized:Nymphaea lotus L.


5. Michaux, F.A., “North American sylva” (1817-1819) (N. Amer. Sylv.), vol. 2 (1819), t. 63
  name cited: Platanus occidentalis L.
  name recognized: Platanus occidentalis L.

6. Thory, C.A., “Prodrome de la monographie du genre Rosier” (1820) (Prodr. Monogr. Rosier) (1820), t. 1, t. 2
  name cited: Rosa spinulifolia Dematra
  name recognized: Rosa pendulina × tomentosa