2025年11月5日水曜日

ヤマグルマ-2 .藤子(加藤元貞)『南紀採藥紀行』,水谷豊文『物品識名拾遺』,飯沼慾斎『草木図説』,畔田伴存『熊野物産初志』『古名録』,小野蘭山『本草綱目啓蒙』

Trochodendron aralioides

2024年4月筑波実験植物園

ヤマグルマ(山車)
は、ヤマグルマ科ヤマグルマ属の11種の植物であり、トリモチが取れる事,及び広葉樹なのに,仮道管で水を輸送する事で知られている.
 東アジア特産(日本では,本州(山形県以南),四国,九州,琉球,伊豆諸島に,東アジアでは,台湾(「崑蘭樹」),朝鮮南部に分布する)の被子植物の常緑広葉樹である.ヤマグルマ科には,他にTetracentron スイセンジュ屬があり,ネパール・中国・ミャンマー北部に生育する T. sinensis スイセンジュが属している.

名前は枝先に着く葉が,短い間隔で四方八方に丸くつくので,車輪の様に見えるからと言われ,シーボルトのつけた屬名(Trochodendron, trocho = wheel, dendron = wood)もこの日本名に由来する.

また良い鳥もち(黐)が製造できるから「トリモチノ」の別名もある.黐は日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」,ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」と呼ばれる.鹿児島県(太白岩黐),和歌山県(本岩黐),八丈島などで生産されていた.4 - 6月頃に皮を剥ぎ,半年ほど水に浸けカスを洗って,水に不溶性の粘着質物質をとりだすことで得られる.ハエ取りにも利用された.ヤマグルマから得られる「アカモチ」の主成分のワックスエステルは,脂肪酸としてはパルミチン酸,セロチン酸,オレイン酸,トコロ酸を,アルコールとしては樹脂アルコールなどを含む.また,ベチュリン,α-アミリン,β-アミリン,ルペオールといったテルペノイドも含有する.かつては鹿児島県が日本一の産地であった.
 かつては鳥獣保護法において法定猟具にとりもちが含まれており,これを利用した黐縄(もちなわ.鳥黐を塗った縄を湖面に張り巡らせることで水鳥を捕獲する)や,はご(木の枝や竹串に鳥黐を塗布して鳥を捕獲する.おとりの鳥を入れた鳥篭を高所に配置して,近づいてきた鳥を捕獲する猟法は高はご,多数のはごを配置するものは千本はごと呼ばれた)などの猟具が存在した.また,琵琶湖のカモをとるのに,アオツズラフジのつるに,ヤマグルマのトリモチをつけて,湖面に流した.現在ではかすみ網やとらばさみ,あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されており,鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから,鳥黐を使用して鳥類を捕獲する行為は,「禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の捕獲」に該当し,鳥獣保護法違反で検挙対象となる.

故磯野直秀慶大教授は「ヤマグルマ」の初見は,小野蘭山(1729 - 1810)『紀州採薬記』(1802)としたが,別名「大黐樹」が★嵯峨天皇『新修鷹經』(818)に現れ,この樹木はヤマグルマであるとする説もある(前記事).『紀州採薬記』(1802)は閲覧できなかったが,蘭山の紀州採薬の旅に同行した藤子(加藤元貞)の南紀採藥紀行』の筆写本は NDL のサイトで閲覧できた.この書には紀州那智山で「山ノ車」を見たとあり,これはヤマグルマと思われる.


  蘭山は老齢になっても多くの採藥の旅を敢行したが,
74歳の享和2年(1802222日から529日にかけて紀伊・木曽を旅した.
 

その際同行した弟子の藤某が書いたとされる★藤子南紀採藥紀行』には,「文化元年(
1804)四月七日」に那智山で「山ノ車」を観察したとあるが,これがヤマグルマと思われる.
「文化元年
   小野蘭山先生伊勢紀伊採藥記
   藤子南紀採藥紀行
 小野蘭山先生伊勢紀伊採藥記
 藤子紀南採藥志稿   合本壹冊
    伊藤篤太郎出品
  藤子南紀採藥記   蘭山門人
小野蘭山先生  伊勢紀州採藥記   内田春水寫之

藤子紀南採藥志稿
  此書ハ蘭山先生台名ヲ蒙テ採藥ノ時
  門人藤某從遊シテ所記也
 二月二十二日發江戸抵金川駅
  (中略) 
 四月朔日發江住抵大島
  (中略)
 六日發太地至那智山
  (中略)
   ヲガ玉の木 那智
 七日
  (中略)
   山ノ車
  (中略)
 八日上妙法山
  (以下略)
 文政六年未六月吉日寫之内山春水」とある.
 この書は文政六年(1823)に内山春水が筆写したものを伊藤圭介が入手し,後に孫の伊藤篤太郎が薬品会などの展示会に出品した書と思われる.
 なお,★平野満『小野蘭山「採薬記」の成立と転写系統の検討―『常野採薬記』『甲駿豆相採藥記』―』駿台史学 124号(2005)によれば,この筆写藤子とは,紀州採薬に同行した蘭山の門人で,日光(常野)採薬(180347-518日)にも参加した加藤元貞である事は確実だという.
 この論文の註に「加藤元貞は蘭山の紀州採薬にも同行した。紀州採薬では蘭山門人の水野皓山が伏見で合流し比叡山採薬に従った。このときの事を『野氏物産小録』(岩瀬[26-109])の第二冊に書き留めた。そこに「先生陪従門人 江戸本江(ママ)金助町/加藤元亨(ママ),「享和二戌年伏見旅舎ニテ蘭夫子面アタリキク処也/先生門人 江戸本江 金助町/加藤玄亭(ママ)」とある。紀州採薬では同行の門人藤某が記録した『藤子南紀採薬志稿』が知られるが,著者の実名は不明だった。この記事によって「藤子」は加藤元貞としてよさそうである。」とある.

水谷豊文物品識名拾遺
. 乾,坤』(1825)の坤巻の「也」部に「木  ヤマグルマ モチノキ」とある.これが閲覧した限りにおいては,「ヤマグルマ」の名が記された最初の文献だった(上図,左部).

飯沼慾斎1782-1865)『草木図説』(成稿 1852年ごろ)は草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部20巻,木部10巻.草部は1856年から62年にかけて出版されたが,木部は写本が残るのみ.この書に図と共に
   
ヤマグルマ
  
葉楕円本狭ク末豊ニシテ尖リテ鋸歯アリ、質厚クシテ
光沢アリ、柄尤長ク、十数葉一処ニ近ク聚リツキテ層ヲ
ナス、故ニヤマグルマノ名アリ、春三月枝頭ニ長梗花ヲ
以テ穂状ヲナス、蒂ニシテ萼ナク弁ナク、麦粒状ノ実礎
八箇併次シ、各頸延テ柱ヲナシ、狀ヨリ多ノ雄蕋ヲ出シ
テ下ニ重ル、惣テ淡黄緑色ニシテ葯淡黄粉ヲ吐ク、此樹
往々山中ニ生シ、山人以テ粘黐ヲ製スルニ専ラ此樹ヲ用
ユ、故ニ単ニモチノキト称ス、葉ニ大小二種アリ

附全花郭大図
   所属未詳」と名の由来「柄尤長ク、十数葉一処ニ近ク聚リツキテ層ヲナス、故ニヤマグルマノ名アリ」と,とりもち「粘黐」が採れるとある(上図,右部).


畔田伴存熊野物産初志 二 木類』(1857)山本錫夫写 には雄木・雌木と稱する二種の木の画と共に

大モチノ木  樹二三丈皮灰褐色剥テ黐ヲ製ス水田ノ泥中ニ埋ミ置

搗テ皮ヲ去黐トス葉冬青ニ似テ大ニシテ濶ク緑色光澤アリ鋸歯アリ
 枝梢ニ聚リ互
 生ス夏葉ノ本ニ
 穂ヲナシ五瓣白
 花ヲ開後實ヲ
 結テ緑色若楝
 子ニ似テ小也雄
 木ハ不結實黐
 ヲ取ニ雄木皮ヲ
 用新修鷹經
 
 大黐樹(オホトリモチノキ)ト云者此也
 農桑輯要曰凡木皆
 有雌雄而雄者多不結實
 
 大モチノ木 雌木
 大モチノ木 雄木

 一種イヌモチアリ大モチニ似テ葉薄ク鋸歯深シ葉ノ莖赤色也」
と,トリモチの製造法と雌雄異株とある.しかし★白井光太郎『樹木和名考』(次記事)によれば,雄木の圖はヤマグルマであるが,雌木と稱するものの圖はコバンモチで,黐が採れないのは当然であるという.なお,ヤマグルマは雌雄同株で雌雄同花.ただし,雄蕊が先に成熟する木と,雌蕊が先に成熟する木とがあり,この事が雌雄異株との誤解を生んだのであろう.
 


上記の★畔田伴存(翠山,源伴存)『古名録』(1843-天保14年稿)は彼の永年にわたる研究の集大成であり,正宗敦夫 編校訂『古名録』日本古典全集刊行会(1937)として活字本を閲覧できる.この書の「木部巻第三十」には,図と共に
 「大黐樹(オホトリモチノキ) 新修鷹經 按冬靑*ノ一種也 〔今名〕オホトリモチノキ
○文明写本下學集曰、黐(トリモチイ).字典曰、黐。廣韻黐膠,所以黏一レ 〔集註〕新修鷹經日、凡剪葉者方二寸鷂者一寸五分大黐樹葉煮而陰乾 〔形狀〕○大トリモチノ木ハ和
州吉野郡大臺山,玉置山縣迦嶽彌山山上嶽、及北山十津川天川、紀州熊野山中ニ多シ,土人山中ニ入テ皮ヲ
剝テ池澤ニ埋、後搗テ黐ト成、其木高サ二三丈、葉一処ニ叢附、四時不凋。形狀女貞(ヒメツバキ)ノ葉ニ似テ厚ク、末尖リ
莖長ク、銘齒アリ。初夏花ヲ開、實ニ結ブ豆ノ大サノ如
シ、木ニ雌雄アリ、雄木ハ實ヲ不結、黐ヲ製スルニ良也」と,ヤマグルマが記述されている.
*冬青:モチノキ
 畔田伴存(源伴存(みなもと ともあり),1792 - 1859)は,江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者・藩医.『和州吉野郡群山記』『古名録』をはじめとする博物学の著作を遺した.伴存の著作の特徴となるのは,ある地域を限定し,その地域の地誌を明らかにしようとした点にある.

この他,貝原益軒『大和本草』(1709)や,寺島良安『倭漢三才圖會』(1713頃)にも「モチノキ」の項はあり,幾つかとりもち(黐)の取れる木の記述があるが,ヤマグルマが含まれているか否かは確認できなかった.

小野蘭山本草綱目啓蒙』48巻(1803 – 1806)は『本草綱目』に関する蘭山の講義を孫職孝(もとたか)が筆記整理したもの.『本草綱目』収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などが国文で記されている.この書の「巻之三十二 木之三 灌木類」,「冬青 モチノキ」の項に
 「一種トリモチノキハ、クロガネモチノ葉ニ似テ色浅シ。木皮ヲ搗テ、トリモチヲ取。トリモチハ拘骨ノ条ニ粘●(黐のへんを禾)ト云.当ニ粘黐ニ作ルベシ。鴻苞集ニ黐膠ト云.一種オホモチノキアリ。葉大ニシテ大葉楠(ユズリハ)ノ如シ。コノ外ニ黐膠ヲ取木尚多シ。」とある.この「オホモチノキ」がヤマグルマであろうと思われる.

文献画像は NDL のデジタル公開画像からの一部引用

2025年11月2日日曜日

ヤマグルマ-1 .大黐樹 嵯峨天皇『新修鷹經』,持明院基規『鷹經辨疑論』,屋代弘賢『古今要覽稿』

Trochodendron aralioides

2018年5月26日 筑波実験植物園 ヤマグルマの果実

ヤマグルマ(山車) は、ヤマグルマ科ヤマグルマ属の11種の植物であり、良い鳥もち(黐)が製造できるから「トリモチノ」の別名もあり,広葉樹なのに,仮道管で水を輸送する事で知られている.

東アジア特産(日本では,本州(山形県以南),四国,九州,琉球,伊豆諸島に,東アジアでは,台湾(「崑蘭樹」),朝鮮南部に分布する)の被子植物の常緑広葉樹である.ヤマグルマ科には,他にTetracentron スイセンジュ屬があり,ネパール・中国・ミャンマー北部に生育する T. sinensis スイセンジュが属している.

名前は枝先に着く葉が,短い間隔で四方八方に丸くつくので,車輪の様に見えるからと言われ,シーボルトのつけた屬名(Trochodendron, trocho = wheel, dendron = tree)も之に由来する.

 故磯野直秀慶大教授による「ヤマグルマ」の初見は,小野蘭山(1729 - 1810)『紀州採薬記』(1802)だが,別名の「大黐樹(オホトリモチノキ)」が★嵯峨天皇新修鷹經』(818)に現れ,この樹木はヤマグルマであるとする説もある(後記事).但し採ったトリモチを使うわけ訳ではなく,鷹に鈴を着ける際の,鈴板に此樹の葉を用いたようだ(屋代弘賢『古今要覧稿 第三 鷹装束』).鈴板とは,鷹が草むらなどに侵入した時に行方不明にならないよう,鷹の尾にある中央の羽(鈴付け羽)に鼠緒(鈴革)を縫い付け鈴を固定する時に,羽の間に入れて鈴の鳴りを良くし,羽毛を守るための板である.

鷹狩文化の起源は紀元前 1000 年頃の中央ユーラシアと推測される.『日本書紀』の仁徳天皇紀の記事によると,百済から伝来したと伝えられ,それ以降,日本に定着していったとされる.古墳時代の埴輪には鷹匠らしく腕に鷹を載せた人物像もあるので,それ以前から支配者層の狩猟行事であった可能性もある.
 平安初期には,桓武天皇・嵯峨天皇・光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇らの天皇とその子孫が放鷹(鷹狩)を好み,特に第52代天皇の嵯峨天皇786 – 842,在位:809 - 823)は放鷹の技術書として『新修鷹経』を編纂させるなど,日本における鷹術の伝承・発展に大きな役割を果たした.それまで中国の『鷹経』という鷹術書の経巻が日本にも伝来していたが,実際に鷹の飼養や放鷹が盛んになるうちに,鷹術にも錯誤や混乱が生じたために標準となる鷹書が求められ,嵯峨天皇は『鷹経』の見解の上に,実際に蔵人所や近衛府等で鷹術にあたる鷹飼人たちの体験を集約しながら,鷹の良否・調養・放養等の法を微細に説いた『新修鷹経』という書物を撰した.(溝渕利博『(研究ノート)讃岐の鷹狩文化に関する基礎的研究(上)』高松大学 研究紀要第 83 号)


嵯峨天皇新修鷹經 中,調養.着鈴繋法』(国立公文書館所蔵筆写本)には,
 「   著鈴繫法      
凡著鈴繫者。捉鷹令俯。擬著繫人。左手執尾。
右手把錐。披拂尾魁。著水於(ニコゲ)。修撫之。若修
撫不伏。則刈去之。挾葉於著鈴尾下。著鈴尾謂尾中
央二箇也。乃傅鳥羽根。不至膚二分許而傅之也。即以左手送
挾尾下。以錐穿鳥羽根。離本頭二分處。鷂苞
微平。則緩緩轉抽之。貫針於其孔。牽出尾外
以去針。自著鈴尾外。以錐本釣糸。自葉上出
之。偏結兩縷。逼延之。釣出一縷於尾内。左右
手各振絲。合手緩々牽約。若不会手。索引者。糸斷成害也。
重糺兩縷。結革上孔中間。又一糺約結。更後
偏結乘一許分。截去之。截革者欲一度斷。形
様令圭頭。差殺本頭兩角。長以自著鈴尾本。
至末第二班文末頭爲度。以彩色革柔軟。爲
之預先度長短。截取置之碪上。即以兩釘。釘
革本頭。又以兩釘釘著革末頭於碪外廉。仍
以五寸刀子先。截右革。側刀剪外偏。正刀剪
内偏。截左革。亦准之。即以一縷絲。貫其兩端於釘革
本。而上二分穿孔。鷂者分半。貫針釣係絲於革。總
括之。凡造鳥羽根者。鷹用第一二三羽根。根
長一寸四分。鷂用鴨等第一二三羽。根長一
寸。置中央巳下。削殺中央巳上。縦折内方。凡
剪葉者方二寸。
者一寸五分大黐樹葉。煮而陰乾。」とある.


 『新修鷹經』の筆写本は国立国会図書館(NDL)や早稲田大学図書館(WUL)にも収蔵され,デジタル画像が公開されているが,全て「大黐樹」と書かれている.

 一方,活字版で読みやすい
塙保己一 群書類従 第拾貳輯』経済雑誌社(明治27)「新修鷹經」の該当部には「大黐樹」が黐樹と記されている(左図,左).
 上記のように筆写本では,「
大黐樹」であること(左図,右),及び持明院基規鷹經辨疑論』(NDL所蔵筆写本,及び,塙保己一 編『続群書類従 第19輯ノ中』 蹴鞠部.鷹部.続群書類従完成会(大正14))にも「或問。鈴着ルコトハ如何樣ナルゾヤ」の項に「若不伏トキハ切去テ葉ヲ鈴繫ノ尾ノ上ニ挾ム.葉ト云ハ大黐樹ノ葉ヲ煮テ陰乾ニシテ鈴持ニ作ル。」とある(下記事)事から,塙保己一か,活字に起こした編者がに読み間違えた可能性が高い.


戦国時代の公卿持明院基規1492 - 1551)『鷹經辨疑論』(NDL所蔵筆写本)には,
或問。鈴着ルコトハ如何樣ナルソヤ。答云。經ニ曰。鷹ヲ捉
俯テ着ント擬スル人。左ノ手ヲ以テ右ノ手ニ錐ヲ持テ
尾魁ヲ救拂テ。水ヲ毳ニ着テ撫デフセヨ。若不伏則
切去テ葉ヲ鈴繫ノ尾ノ上ニ挾ム.葉ト云ハ大黐樹ノ葉ヲ
煮テ陰乾ニシテ鈴持ニ作ル。凡剪葉廣方二寸。鷂ハ
一寸五分。今按ニ。黐樹ノ葉得ガタキニヨリテ吾朝ニ用
ス.漢土ニ是アリ。方二寸ニキルト云ハ大ナリ。鷹ニ似
合テ少ツヽムベシ。

(以下略)」とあり,大黐樹の葉を基準としている.ただし,黐樹の葉は中国にはあるが,日本では手に入らないとある.
 上記文献からでは,古代,鷹狩の鷹に鈴を着ける際に用いた「大黐樹」がヤマグルマか否かは判断しかねる.

文献画像は各所蔵館の公開デジタル画像からの部分引用.また引用文中の句読点は塙保己一 『群書類従』の各部分を参考にした.

  ★屋代弘賢1758 - 1841)『古今要覽稿』(1821 - 42成立)は,560巻.弘賢が1821年(文政4)に幕府の命によって全1000巻の予定で編纂を開始,1842年(天保13)までに560巻を調進したが,弘賢没後は編纂が中絶した.事項は神祇・姓氏・時令・地理など20部門別に意義分類して,その起源や沿革などに関してまず総説を述べ,古文献の記述や本題にちなむ詩歌を引用し,別名などを示す.器材・草木が全体の6割を占める.弘賢の個人事業が1810年(文化7)幕府の事業として認められ,1821年(文政4)から1842年(天保13)まで毎年1-3回上呈されたが,天保12年の著者の死により中断された.献上本は1844年(天保15)の本丸火災で焼失した.1905 - 1907年(明治38 - 40)にかけて稿本が刊行された.引用が豊富でしかも詳しい.日本初の本格的な類書といえよう.
 弘賢は江戸後期の国学者,該博な学識で知られる.江戸・神田明神下の幕臣屋代佳房の子.塙保己一の『群書類従』,柴野栗山の『国鑑』の編集に協力したほか,幕命により『古今要覧稿』を著した他,『寛政重修諸家譜』などの編集にも従事した.ロシアへの幕府の返書を清書するなど,書家としても活躍した.
 この叢書『古今要覧稿 苐三 卷第百八十五 器財部 鷹犬具七』国書刊行会刊行書(1906)には,『新修鷹經』にある「大黐葉(ヤマグルマの葉?)」は,陰干しをして「鈴板」として用いたとある.

「鷹裝束  鈴板 鼠緒

鷹裝束といふはふるくは鈴とほしのみをいへり 鷹經辨疑
さて後には鈴一具の粧ひをすべて裝束と云 武用辨略
修鷹經に鳥の羽を附る樣とあるは其事なるべけれど
正しく鷹裝束といふことはみえず治承の頃よりぞは
じめて其名目はみえける 東鑑 また持明院基春卿鷹書に
鷹裝束のすがたは大國にてかいてんといふ蟲の姿な
りとあるは其義詳ならねども鷹經辨疑論にみえたる
和戒傳裝束などいふことにや猶考べし其鈴一具とい
ふは鈴板鼠をなり鈴板はいにしへ葉とのみいひて
黐葉を陰乾にして用ゆといふ 新修鷹經 または大黐の木の
葉は得得たきにより吾朝には用ひず西土にのみある
よしいへり 鷹經辨疑論 後に鈴つけともいひ 空穂物語鷹口傳書 鈴持と
もいひ
持明院基春卿鷹書 或ひは鈴札鈴敷などもいふ 武用辨略 其質は
鼈甲鮑の売鹿の角熊の骨などを專に用ゆといひ 清來
流鷹言?次第 又角牙魚鱗を以ても作る 曾我流鷹文字 或ひは又鹿角
の滑目にても作る
武用辨略 寸法形狀等家々流々の習あり
て一定ならず鼠緒は鈴板にすゞを繫ぐ緒なりみゝず
革とも
鷹口傳書 あるひは鈴さし鈴とほし虎の緒平先など
もいひまた一
には是をも鈴 といふ 鷹口傳書 すべて此
鈴板鼠緒の類製造色目の差別によつて裝束の名目數
多あり
(以下 『新修鷹經』の引用,略)」