2013年12月28日土曜日

Season's Greetings and Happy New Year

この十数年,年賀状にはその年の干支にちなんだ植物を Antique Print のコレクションから選んでスキャナーで読み込み,その画像をテーマとしている.
関連する名称は和名・漢名・英名・ラテン名などから探しだすが,なかなか難しい.

今年は午年なので,賀状にはスギナの類(学名,英名が馬の尾にちなむ)をプリントしたが,コレクションには外に以下の二つがあったので,画像を掲げ新年のご挨拶とする.


左:1869,Aristolochia Cymbifera Mart et Zuec.(ウマノスズクサの類)白 Morren "LA BELGIQUE HORTICOLE" 多色石版
右:1917,Aesculus turbinata(HORSE CHESTNUT, JAPAN,トチノキ)英 "Curtis's Botanical Magazine" 石版手彩色

2013年12月14日土曜日

ナンバンギセル(4/4) 地方名,「おもいぐさ」(千葉・柏),「かっこ-へのこ」(岩手),方言,中国名,薬効,源氏伝説

Aeginetia indica
2001年6月 茨城県南部
花壇地錦抄前集
1. 草花として鑑賞するのは日本だけ
ナンバンギセルはインドから東アジアに広く分布するが,盆栽など植栽して鑑賞して楽しむのは日本だけらしい.江戸時代の伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には「草花秋之部 竹馬草(ちくばさう)初中, 花形童幼のりてあそふたけ馬(むま)のごとく成 小草にして色むらさき 野ニ有」「草木植作様之巻 ●ちやうせんあさがほ ●ちくば草, 右ハ二月中ニ種をまく 合肥を用て植ル ちくば草ハたね取にくき物なり」とあり,庭で栽培していたことが分かる.(左図:花壇地錦抄前集,花壇地錦抄の偽書)

明治の園芸家・作家の前田曙山(1872 – 1941)著『曙山園芸』(1911)に
「其処で僕等は常に其種子を取つて,前記の秋草の盆栽*中に在る糸芒の根へ蒔く,其時期は五月の中旬以後で,種子が灰の如くに細かいから注意せぬと風に散らされる,さればと言つて余り深いと,腐敗して了ふ,要は毛の如き芒の鬚根に接触するやうでさえあれば宜しい.
斯して其種子は芒の根元で発育して,追々寄主の根に食ひ入り,芒の上前を跳ねて成長するので,全く芒のためには獅子身中の虫の感がするであらう.若し此寄生植物が打勝ば芒は枯死の運命に逢着せねばならぬのである.
此草が盆栽中に在って花を開くのは,九月下旬から十月であるから,ちょうど秋草の盛の間,併せて此畸形にして風流な花を眺める事ができる.」(*敗醤-オミナエシ,瞿麦,萩,藤袴,糸芒などの寄せ植え)の文がある.
現在でもヤクシマススキやヒメススキなど小型のススキに寄生させた鉢植えが通販されている.

2. 色々面白い地方名
この植物の地方名は青森から奄美大島まで広く分布しており,注目すべきは千葉県・柏では「おもいぐさ」と呼ばれていることであろう.北から見ていくと,ペんきくさ [青森], せんきぐさ [青森 青森(弘前市)], はぎ [青森(八戸)], かっこ-いのこ [岩手], かっこ-へのこ [岩手(九戸)], かっこ-ぺのご [岩手(九戸)], かっごのへのご [岩手(九戸)], かっこべ [岩手(九戸)], べこのきんたま [岩手(九戸)], あずきくさ [岩手(二戸)], かやくさ [山形(鶴岡市)], まめっぱ [群馬(山田)], あっくり [千葉(千葉)], おもいぐさ [千葉(柏)], きせるそう [千葉(山武)], ゆうれいそう [千葉(長生)], みてぐら [東京(三宅島)], あずきな [長野], おらんだぎせる [近江坂田], はえとりぐさ [島根(美濃)], よだれくい [鹿児島(鹿児島・阿久根・薩摩)], よだれくいくさ [鹿児島(揖宿)], よだれくいぼな [鹿児島(揖宿)], きしりばな [鹿児島(奄美大島)], だばっきり [鹿児島(奄美大島)]などなど.(『日本植物方言集成』八坂書房篇刊(2001))

岩手の地方名の「かっこ-へのこ」などの「へのご,へのこ」は男性性器の方言で,「郭公鳥のペニス」の意味と思われるが,由来は良く分からない.まだ開かない花と花茎が小さなペニスに似ているからであろうか.他にも「べこのきんたま」という不思議な名もある.昔,南部鉄道の五戸(ごのへ)駅の仮名の駅名標識は縦書きだけで横書きは無いと聞いた.地方伝説かもしれないが,横書きだとお年寄りが右から読んで「ヘノゴ」になるからと言うのが,その理由とか.

3. 中国名,薬効
中国では一般的には「野菰」(菰とはキノコの意味)と呼ばれるが,蔗寄生、大芸、金鎖匙、茶匙黃、土地公拐、芋草菰、番仔煙斗、灌草菰、鐵雨傘,官真癀、土地公拐、番仔煙斗、茶匙黃など,形状や生態,作物被害に関わると思われる別名もある.
「本草綱目」には収載されていないが,WEBによると根と花に藥用があり,その効用は「有清熱、利水、解毒之功效。」「強壯、強精藥,有解熱、消炎、祛傷、解鬱、祛傷、散風、治吐血、腸炎、肝病、身經衰落、風濕。治療扁桃腺發炎、 尿道感染、骨髓炎,治毒蛇咬傷.」と幅広い.
日本でも,煎液や薬用酒が尿路感染症,強壮作用,喉の腫れ・痛みに効くとされている.

浮世絵 左: 義経(勧進帳),右:頼朝(曽我兄弟の仇討ち)
4. 源氏の笹龍膽紋とおもいぐさ伝説
前に記したように,「思草」=リンドウ説は今でも支持者が少なくない.万葉歌から派生した歌と思われるものが『古今和歌集』をはじめ多くの勅撰集に見られるが,本歌と異なり,詠人が「尾花の下の思草」を見ているとは思えないので,時代や詠人によって本歌からかけ離れたそれぞれの「思草」があったと考えられる.

その最たる例が源氏の「笹竜胆紋」にまつわる伝説であろう.伊豆に流された源頼朝(1147 – 1199)が狩りをしているとき,花をもっている一人の少女に出会い,花の名を尋ねると,『古今和歌集』に載っている「秋の野の尾花にまじり咲く花の色にや恋ひむ逢ふよしをなみ」を詠んで,「思草」と答えたという.この少女が後に頼朝の妻となった北条政子(1157 – 1225)であり,これがもととなって源氏はリンドウを家紋にしたといわれた.このために,笹龍膽紋は『勧進帳』や『曽我の仇討』などの歌舞伎でも,源氏を表す紋所として衣装などの文様として用いられている.
これにちなんで,源頼朝が幕府を開いた地,鎌倉市は,1952年に市章に「ササリンドウ」を制定した.
また,高木彬光 『成吉思汗の秘密』(1958)においても,樺太の石碑や,シベリアで発掘されたと思われる日本式甲冑,タタール人の民俗芸能の衣装に,笹龍膽の文様があることから,源義経が大陸に渡ってジンギスカンになった事の傍証としている.さらに,江戸時代の源氏の紋として笹龍膽は数少ないとの指摘に,義経は頼朝への反感から京都の源氏系の公卿に使われていた笹龍膽を使ったのであろうと神津恭介は強引に付会している.

しかし,頼朝と政子の故事は,あたかも歴史的事実であるかのようになっているが,まったくの創作話であり,また,源氏の頭領の指物は白旗のみであり,「笹龍膽紋」を用いたという信頼できる証拠はない.思草をリンドウとする説はこの故事の影響を受けているので,当然,その論拠もあやしくなる.

ナンバンギセル (3/4) 万葉集「思ひ草」本居宣長『玉勝閒』,『物品識名』,『和訓栞』,前田曙山『曙山園芸』,久保田淳

ナンバンギセル (2/4) 万葉集「おもひくさ」,和泉式部,源通具,順徳天皇,藤原定家,仙覺,由阿,北村季吟,契沖,荷田春満,貝原益軒,小野蘭山

ナンバンギセル(1/4) リンネ,怡顔斎菌品,花壇地錦抄,花彙,物品識名,梅園画譜,竹馬草・春駒草の由来

2013年12月9日月曜日

ナンバンギセル (3/4) 万葉集「思ひ草」,本居宣長『玉勝閒』,『物品識名』,『和訓栞』,前田曙山『曙山園芸』,久保田淳

Aeginetia indica
2001年6月 茨城県南部
万葉集(785年以前)の巻十,秋 相聞の項に「寄草」の題で,作者不詳「道邊之 乎花我下之 思草 今更爾何 物可将念 “みちのへの をはなかしたの おもひくさ いまさらになど ものかおもはむ” 」という歌がある.
この「思ひ草」はその後多くの歌に詠われたが,本体については,ツユクサ,リンドウ,シオン,オミナエシ,チガヤなど多くの説が立てられた.

現在,定説となっているナンバンギセルは,最初に本居宣長が「玉勝間」でとりあげている.
これには「尾張の田中道麻呂が,「思い草といって,すすきの中に生える草丈三〜四寸あるいは五〜六寸の小さな草がある,これは秋に黒紫の菫に似た花をつけ,匂いはなく,花の時期には葉がない.そしてこの草は薄の中以外には生えない.黒大豆のような実を薄の下にまくとよく生える.」と図つけた手紙をくれた.これが万葉集の思い草であろう」と記されている.この記述から考えると,この菫に似た花をつける草というのはナンバンギセルそのものである.

本居宣長『玉勝閒(間)』(1793起筆。1795‐1812刊)
玉勝閒(間)十三の卷
   お も ひ 草 十三
   末ひろくしげりけるかな思ひ草 を花が本は一もとにして
かくよめるこゝろは、戀の歌につねに、尾花がもとの思ひ草とよむなるは、そのはじめを尋ぬれば、萬葉集の十の卷に、「道のべのをばなが本の思草、今さらに何物か思はむ、といへる歌たゞ一(ツ)あるのみにて、これをおきては見えぬ事なるを、此一本によりてなむ、後にはひろくよむことゝなれるよしをよめるにぞ有ける、そも/\此思ひ草といふ草は、いかなる草にか、さだかならぬを、一とせ尾張の名兒屋の、田中(ノ)道麻呂が許より、文のたよりに、今の世にも、思ひ草といひて、すゝきの中に生る、小き草なむあるを、高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花さくを、其色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫《スミレ》の花に似て、すみれのごと、色のにほひはなし、花さくころは、葉はなし、此草薄《スヽキ》の中ならでは、ほかには生ず、花のはしつかたなる所の中に、黒大豆ばかりの大(キ)さなる實のあるを、とりてまけば、よく生る也、されどそれも、薄の下ならでは、まけども植れども、生ることなし、古(ヘ)の思ひ草も、これにやあらむ、されどすゝきの中にのみ生るから、近き世に事好むものゝ、おしてそれと名づけたるにもあらむかといひて、其草の圖《カタ》をも書て、見せにおこせたる、そのかたは、かくぞ有ける、其後に又あるとき、花の咲たるころ、一もとほりて、薄のきりくひとめに、竹の筒の中にうつしうゑて、たゞに其草をも、見せにおこせたるを、うつしうゑて見けるに、しばしは生《オヒ》つきたるさまにて有しを、ほどなく冬枯にける、又のとしの春、もえや出ると、まちけるに、つひにかれて、薄ながらに芽《メ》も出ずなりにきかし、さるは後にたづね見れば、此わたりの野山なる、すゝきの中にも、ある草にぞ有ける、これ古(ヘ)の思草ならむことはしも、げにいとおほつかなくなむ、」

岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾』(1809 跋)「ヲモヒクサ キセルサウ ナンバンギセル 列當一種」とあり,これが思い草=ナンバンギセルとした最も古い文献ではないかと思われる(右図 NDL).

また,中嶋信太郎随筆集『無用の用』文芸社(2002) には,「谷川士清*の『和訓栞』**には,「きせる草または南蛮きせるともいふ」とある.」とあるが,オンラインで読める『和訓栞』には,そのような記述は見つけ出せなかった.
関連ありそうなのは『和訓栞 後編畿の部』成美堂(1887)に
「△きせる (中略)おらんだぎせるは全体すやきのもの也今菌の類に名づく土-歯といへり又草蓯蓉なりといふ南蛮きせるともいふ」という記述があった.
また,谷川士清 著,伴信友 加筆,井上頼圀, 小杉榲邨 増補『倭訓栞 : 増補語林』皇典講究所(1898)に「おもひぐさ 歌林良材にハ一草に限らざるよし也唯愛する草をいへり能因は櫻をも思草とよめり齋院前栽草盡にハ女郎花とせり通具の説に龍膽又露草といへるハ万葉集に尾花が本のおもひ草といふによれりそれより尾花が本のくさとのみもよめる也」とあり,ここには,思い草=ナンバンギセルとはなっていない.
* たにかわことすが(1709-1776),** 刊行 1777-1887

一方,山田卓三,中嶋信太郎『万葉植物事典「万葉植物を読む」』北隆館(1995) の,「思ひ草」の項には,
「ナンバンギセルという名称をはっきりと記している書物は前田曙山の『園芸文庫』(巻三・明治三十六年 1903刊)である。これには、〝尾花が下のとあるのは、単なる尾花の下に生えているといった形容の意だけではない、もっと深い意味をもっている。龍胆(リンドウ)が思い草なら尾花が下と特定しなくてもよい、龍胆は尾花の下だけでなく女郎花やふじばかまの下にも生えている。これを庭に植えてみたところ、よくつき繁殖した。したがって龍胆は尾花が下に限ることはない。これに対してナンバンギセル(オランダキセル)は尾花の下でなければ決して生えてこない。薄類ならよく発生するがカルカヤなどの下に蒔いてもだめである。思い草は薄がなければ自活できないことを知れば、尾花の下の思い草はナンバンギセルであり、龍胆ではない。歌の大家である定家が龍胆説をとっているが*、定家は歌聖ではあるが植物の知識には乏しい。したがって大家の説だといってこれを信ずることは愚なことである″という意味のことが記されている。」とある.

残念ながら『園芸文庫 巻三』(1903)は見ることが出来なかったが,前田曙山『曙山園芸』聚精堂(1911)の「秋の園芸」の項に
 「「思ひ草とは何」
歌に思ひ草と云ふのが有る.
道の邊の 尾花が下の 思ひ草 今更になぞ物を思はん
と通具卿に詠ぜられて,非常に有名になったが,而し歌学者の多くは,今日と謂も,実際其實物を知るまい.従って蘭草(ふぢばかま)といひ,紫苑といひ,龍膽といふ説が有る.そして大体において龍膽の異名という事に帰着したらしいので有るが,實は思ひ草なる植物は外に歴然として存じて居るので有る.
詞林採集**に『家には龍膽を思ひ草と被仰(あふせら)るゝの上は可信用之(これをしんようすべし)云々』と,無理強いに龍膽にして了(しま)つたやうで有るが夫は甚だ酷で有る.
通具卿の思ひ草の歌に『道の邊の 尾花が下の』と,場所を特定して有るのは或ひは詞華の形容かと思へるけれど,叉虚心にして考へると殊更に特定したといふには,何か特定すべき理由が無くばならぬ.思ひ草にして龍膽なれば,尾花の下に限らず,撫子,蘭草の間からでも生へる特に尾花の芒とは限らぬので有る.然るに真實の思ひ草なる物は,芒の根元でなくては成長せぬ.何故かといふと,夫は芒の寄生植物で,芒の根から栄養分を吸収して成長する南蛮烟管といふもので,芒のみには非ず.此植物の寄主として知られているのは,甘蔗,陸稲,茗荷等十三種有るが,芒に寄生するのが古くから知られて居たし,極めて詩的でも有る.
此植物の形はといふと,普通に葉と見える葉もなく,恰も土筆のやうにニヨキ/\と芒の根方から地を抽くので,其梢が烟管の火皿のやうに,著るしく一方に曲がっている,そして其曲つた所が花で有る.(後略)」とあることを見出した(上図 NDL).

さらに,前田曙山『四季の園芸 : 趣味と栽培』誠文堂書店(1916)「秋の園生」にも全く同じ文が載っていることを確認した.

曙山は園芸文庫では,「藤原定家が龍胆説をとっている」としているが,定家が直接に思ひ草を龍胆としたとする文献は見当たらないし,由阿の『詞林采葉抄』でも,説の一つとして述べているように思われる.
また,「道の邊の 尾花が下の 思ひ草 今更になぞ物を思はん を源通具を詠った」としているが,この歌は万葉集収載の詠み人知らずの作者である.
このような思い違いは見られるものの,この曙山の説には説得力があり,これ以降「思い草=ナンバンギセル」が一般的になり,多くの万葉学者・植物文化史学者から支持されるようになった.
*由阿(1291-1379?)『詞林采葉抄』(1366 献上)

久保田淳『花のもの言う-四季のうた』岩波書店(2012)には,「三章 秋くれば常盤の山の」の章,「思い草」の項で 万葉集の歌 「道邊之 乎花我下之 思草 今更爾何 物可将念」の「思い草」について
「平安末から中世の歌人にとっては、「思ひ草」はさまざまに考えられていた。たとえば、リンドウ、ツエクサ、アサジ***などなどである。それぞれ勝手に「思ひ草」のイメージを思い描ききながら」詠んでいたのだろうが,「万葉歌、和泉式部や仲実****の作などについて考えると、「思ひ草」は、
一、冬枯れの野辺の、尾花(ススキ)や萱(カヤ)の根元に咲く、かなり目につく花である。*****
一、花は一本の花梗に一つだけ咲く。
ということが知られ、中世の作例中、隆信の歌を考慮すると、葉がなく、花だけであるらしいということも想像される。このような条件に適合する植物は、ナンバンギセルを措いて、他にはない。」とある.
*** 浅茅 - まばらに生えた、または丈の低いチガヤ
**** 『堀河院御時百首和歌(堀河百首1106年(長治3年)3月11日奏覧)(1105年6月頃-1106年4月頃)』に,「恋 思」の題で藤原仲実(ふじわらのなかざね (1057-1118))が,「ひくまのの萱がしたなる思ひ草またふたごころなしとしらずや」と詠う.

*****ナンバンギセルの花期は「冬枯れ」の時期よりずっと早い6-8月であるので,この根拠は合致しないと思うが,少なくとも万葉集に詠われた「思ひ草」はナンバンギセルと考えて何の矛盾も無い.

ナンバンギセル(4/4) 地方名,「おもいぐさ」(千葉・柏),「かっこ-へのこ」(岩手),方言,中国名,薬効,源氏伝説
ナンバンギセル (2/4) 万葉集「おもひくさ」,和泉式部,源通具,順徳天皇,藤原定家,仙覺,由阿,北村季吟,契沖,荷田春満,貝原益軒,小野蘭山
ナンバンギセル(1/4) リンネ,怡顔斎菌品,花壇地錦抄,花彙,物品識名,梅園画譜,竹馬草・春駒草の由来