Portulaca grandiflora
前に述べたように,マツバボタンの種子は,万延元年の遣米使節,文久二年の遣欧使節がそれぞれ米国・フランスより齎し,(http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2016/06/1-2japan-day-by-day-vol-1.html)本草家や花戸を通して広がった.
2016年7月 P. grandiflora cv. "Solar kids" |
遠藤正治氏の『慾斎研究会だより』No.91(2000年11月1日号)の「慾斎が山本榕室*に贈った遣米使節齎来の植物」に,岩瀬文庫蔵書,山本読書室本の山本榕室筆『花旗**卉木名目』によれば、飯沼慾斎が遣米使節の帰国の5カ月後の文久元年二月を皮切りに以後,四・五・六月と4回に分けて実数約130余品の米国で使節が購入した種子を山本榕室に贈っている(「**花旗」國とは亜米利加國の別名)とある.使節の帰国後からの期間が短い事からすると,これらの種子は慾斎が繁殖して得たものではなく,使節が購入した物を分けて頒布したと考えられる.
そのリストが,遠藤氏の論文にあるが,マツバボタンの種子の榕室への分与に関して
表-1,文久元年二月慾斎贈品 山本榕室編『花旗卉木名目』(西尾市岩瀬文庫所蔵)所載
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番号
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『花旗卉木名目』の植物名
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推定和名・英名・学名
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16
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ポルトユラカ スプレンデンス
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ポルチュラカ Portulacca* splendens, Portulaca grandiflora
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27
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ポルチエラカ スプレンス
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前出(16)
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54
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ポルチエラツカ スプレンデンス
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前出(16, 27)
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(*ママ)
とある.つまり,文久元年二月に三個の袋で,別々にマツバボタンの種が分与されと読め,従って遣米使節は滞米中に少なくとも三袋のマツバボタンの種を購入したと思われる.
Bot. Reg. 29: t. 34. (1843) |
*山本榕室(1809 - 1864)は江戸時代後期の医者,本草学者.山本亡羊***の次男.本草学に通じ,安政6年(1859年)父亡羊が死去すると,2年間物産会を引き継いだ.
***山本亡羊(1778 - 1859)は江戸時代後期の医者,儒学者,本草学者.高槻藩臨時御用医.父山本封山に経学,医術,小野蘭山に本草学を学んだ.医業のかたわら儒学,本草学を講義し,家塾を読書室と称して毎年のように読書室物産会を開催.この物産会は亡羊没後は子の榕室,弦堂に継がれ,文化5年(1808)から文久3年 (1863) にかけて計48回開かれた.西国各地から多くの弟子を迎え,講義,採薬,物産会を行い,多くの著作を残した.深い学識と篤実な人柄で門人は千数百人を数え,蘭山なきあとの京都本草学派の主導者となり,文政9(1826)年には江戸参府途次のシーボルトとも京都で会見している.
一方,榕室の『花旗国種子目録』の「花旗国種子名録」(冒頭に「文久二年五ヶ国使者ノ従者道民於仏蘭西把理斯所得種子 美濃大垣飯沼慾斎所蔵」)には,医師として遣欧使節に同道した川崎道民****がフランスのパリにて購入した種子を慾斎が榕室に分与した種子 63 品のリストが掲載されているが,マツバボタンの種子は記載されていない.(遠藤正治『慾斎研究会だより』No.93(2001年5月1日号)の「慾斎が山本榕室*に贈った遣欧使節齎来の植物」)
一方,圭介の『植物図説雑纂』には,遣欧使節もマツバボタンの種子を齎来したとあるが,道民が購入しなかったのか,重複したので慾斎が榕室に贈与しなかったのであろう.
****川崎道民 (1831 – 1881) 幕末の佐賀藩医,長崎海軍伝習所に参加し,1860年の万延元年遣米使節,1862年の文久遣欧使節に御雇医師として随行し,報道・新聞・写真等の技術を学んだ.帰国後,藩主鍋島直大を撮影.合わせて新聞の必要性を知り佐賀県初の新聞「佐賀県新聞」を明治五年に発刊するも不遇に終わるが地域での啓蒙活動に尽力した.「写真技術の元祖」の一人としても知られている.
遠藤正治氏は遣欧使節がフランスから齎来した種子は 185 品であるとして「伊藤圭介の『植物図説雑纂』や蕃書調所・洋書調所編『植物図譜稿』によって、蕃書調所・洋書調所の教授方箕作秋坪らがパリ(おそらくパリー植物園)で入手した「185品」内の種子名ときわめてよく一致している。箕作秋坪らとしばしば行動をともにしていた道民が別に「185品」をセットで入手したのか、あるいは箕作秋坪らから分与されたのかは不明であるが、いずれにせよ「185品」が道民を通じて慾斎の入手するところとなり、これが京都の山本榕室に贈られたという筋書きが浮かんでくる。」としている.
また,アメリカで種子を購入した遣米使節員については,「慾斎はいかなるルートでこれらの植物を入手したのであろうか。まず考えられるのは遣欧使節の場合と同様、川崎道民である。しかし、アメリカ種の遺稿に一度も道民の名が記載されていない点で疑問が残る。次に考えられるのは御医師として随行した幕府医官の宮崎立元と村山伯元である。両名は「採薬之儀に付奉願候書付」を外国奉行組頭成瀬善四郎に提出している。アメリカで採集した草木等を腊葉にして持帰り医学館に納めたいとして、そのための腊葉貯蔵器や果実浸漬用焼酎などの提供を申請したものであるが、願いは却下される。しかし、両名が腊葉を持ち帰ったのは事実のようで、文久二年五月の山本読書室物産会に幕府医久志本左京を通じて「万延元年庚申於花旗国所採腊102品」として出品されている。」(右図,NDL)とあり,米国で種子を購入した人物として,道民,立元と伯元の可能性を指摘している.(遠藤正治『慾斎研究会だより』No.90(2000年8月1日号)の「遣米使節齎来の植物を記載した「草木図説遺稿の発見」)
しかし,伊藤圭介『植物図説雑纂』の「マツバボタン」の項の冒頭(左図)にあるように,アメリカで種子を購入した遣米使節員としては,外国奉行組頭成瀬善四郎の可能性が高い(http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2016/06/1-2japan-day-by-day-vol-1.html)ように思われる.
一方,遠藤氏は「このとき米・欧から齎来した種子を慾斉に仲介した人物として、慾斎の三男宇田川興斎******の存在が無視できない。興斎の(文久元年)六月十三日付の滝田茂吉・武谷椋亭宛書簡に「兼面差上候米国産種子御蒔付ニ相成候」「今便又々三十三袋献上仕候」とあり、興斎がかなり大量の米国産種子を配布する位置にいたことがわかる。さらに興斎は、同年蕃書調所に出役した伊藤圭介にも米国産種子を贈っている。これは父慾斎からの指示によった形跡がある。」と記している(上記論文).
この興斎より贈られた種子を育てて,圭介は『植物図説雑纂』の記事を書いたのであろう.
この興斎より贈られた種子を育てて,圭介は『植物図説雑纂』の記事を書いたのであろう.