2017年4月28日金曜日

アマナ-(1) 学名 シーボルト,ミクェル,本田正次

Amana edulis
2010年4月 茨城県南部
日本では古くから鱗茎が食用・藥用として利用されていた.
この植物に最初に学名をつけたのはシーボルトで,出島に滞在中の 1827 年にバタビアの学術誌に送った手紙の中に,Ornithogalum edule Siebold と記し,1830 年には,『バタビア芸術科学紀要』に日本名 Amana と共に,種小名通り食用であることを発表した.
シーボルトらの残した日本植物の腊葉などの資料整理したミクェルは,シーボルトが正式に判別文や記載文を残していなかったアマナを詳細に研究し,1867 年に属を変更して Orithyia edulis Miq. として『ライデン王立植物標本館紀要』に発表した.
その後,1935年に本田正次博士が,アマナ属をたて,学名を Amana edulis (Miq.) Honda として『日本生物地理学会会報』に発表,これが現在の accepted name となっている.

鎖国の江戸時代末期,出島のオランダ商館の医師として 1823 – 1829 年滞日して,多くの西欧の科学・医学の技術知識を日本に伝えたシーボルトPhilipp Franz von Siebold, 1796 - 1866)は,日本の有用植物に大きな関心を持ち,茶の種をバタビアに生きたまま送る事に成功したことでも知られる.この有用植物の調査は,当時あまり利益の上がっていなかった日蘭貿易の新しい商品開発の意味もあった.
彼は 1827 11 月の日付 "Dabam in Insula Dezima mensi Novembris 1827, Dr. von Siebold." の「有用植物概要表 ”TABULA SYNOPTICA USUS PLANTARUM (Synoptic Table of Plant Uses)」二枚を出島からバタビアに送った.この幅 75 cm,高さ 46 cm の大型の表には計 447 の植物が使用目的及び部位ごとに分類され収載されている.表は 6行各2段に区切られ,上段にシーボルトが同定或は命名した学名,下段にカタカナの日本名と漢名が記されている(左図).
この表を附録とした論文『全日本帝国有用植物概要“Synopsis plantarum oeconomicarum universi regni Japonici”』は 「バタビア芸術科学紀要 Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap van Kunsten en Wetenschapen. Batavia (Verh. Batav. Genootsch. Kunsten)12: 1 – 74 (1830) に発表された.この論文の本文中で,シーボルトはアマナについて,
” XLIV. ORNITHOGALUM , Linn.
86. O. edule, Sieb. Amana, Japon. (v. v. h. b.)*
Bulbi mucilaginosi eduntur.” と記して,アマナをユリ科オオアマナ屬に帰属させ,「食用になる」という意味の “edule” を種小名とし,「日本名は,アマナ.実際に生体及び腊葉標本を観察した.自生及び庭園でも栽培され,球根は澱粉質で食べられる」と記した(右図). *(v. v. h. b.): Quas ipse vidi vivas siccatasve, signis : (v. v.) (v. s.), quasque in horto botanico colui, signo: (h. b.).
一方,付表では,第一表の “ I. ALIMENTA SIMPLICIA(食用)の部の “E. Radices sobolesve. (根菜)a. Cruda, cocia , siccata, salsave.(生・調理・乾燥・?で可食)のカテゴリーに,上段には,“19. Ornithogalum edule, Sieb.”,下段には「アマナ 山慈姑」と記されている(左上図).
しかし,シーボルトのアマナの記述はあまりに簡便すぎ,同定には情報が不足であり,また属が誤りであったため,この学名は現在,「nom. nud. 裸名」とされている.

シーボルトの死後,彼の残した日本植物の腊葉などの資料整理し『日本植物誌(Flora Japonica)』の第二巻を,1870年に監修・出版したフリードリッヒ・アントン・ヴィルヘルム・ミクェルFriedrich Anton Wilhelm Miquel1811 - 1871)は,1862年にライデンの館長に迎えられると,ほとんど手づかずの状態にあったシーボルトと彼の後継者たちの日本植物のコレクションの研究を集中的に進めた.シーボルトが詳細な情報を残していなかった「アマナ」についても研究を進め,1867 年に,属を当時チューリップ等が属していた Orithyia 属に変更して「ライデン王立植物標本館紀要 Annales Musei Botanici Lugduno-Batavi-B. 3: 158 (1867) に Orithyia edulis Miq. として発表した(左下図).彼は,この紀要に連載した日本植物(一部南アジアの植物を含む)の研究論文を「日本植物誌試論 (Prolusio florae japonicae)」(18651867)という,フォリオ版で392ページの大冊に纏めて再録したが,その 322 ページに,「紀要」と全く同文のアマナの記述がある.
ORITHYIA DON.
1. ORITHYIA EDULIS MIQ. Caulis tenuis vulgo 2 foliis longe linearibus versus apicem latioribus
acutis eum saepe alte superantibus instructus, pedunculos 2 - 1 superne bracteis 2 oppositis
usque ad florem pertingentibus instructos vel inferiorem nudum uniflorum exserens; petala lanceolata
subaequilonga acuta purpureo-nervulosa, interiorum paullo latiorum venis lateralibus pinnatopatulis;
genitalia inclusa; antherae brevi-oblongae utrinque obtusae; ovarium brevissime stipitatum;
stylus crassiusculus stigmate subsimplici capitellato terminatus. Ornithogalum edule SIEB. herb.
Folia passim pede longiora mox 4 poll, longa flaccida; bracteae 1 1/2 - 1 poll, longae, vulgo 2, passim 3, raro una
quae tunc latior. Flores pollicares vel breviores probabiliter lutei, purpureo-venosi. Stylus ovario subaequilongus.
Antherae in icone purpurellae inaequilongae. - An huc O. oxypetala (ENDL.) A. GRAY in peer. Exp.
quam non vidi? — In agris ins. Nippon frequens, ubi ad amylum extrahendum bulbi colliguntur: SIEBOLD; prope
Nangasaki OLDHAM n. 545 (“ oxypetalae affinis"). FL Martio. — Cum O. oxypetalae sp. authentico ultro
comparetur.
この記事のなかで,「日本ではしばしばこの球根からデンプンを得ている.シーボルトは長崎近辺で観察(私訳)」とある.

その後,多くの学名が発表された*が,本田正次博士(1887 - 1984)が,「日本生物地理学会会報Bull. Biogeogr. Soc. Jap. 6: 20 (1935) “Amana, a new genus of Liliaceae” の論文でアマナ (Amana) 属をたて,学名を Amana edulis (Miq.) Honda として発表,これが現在の「accepted name. 受け入れられた学名.通用学名」となっていて,Orithyia edulis Miq. synonym.異名」とされている(YList, Kew).

*  Kew “Catalogue of Life
Synonyms:
Ornithogalum edule Siebold, nom. nud. (synonym)
1830
Orithyia oxypetala A.Gray, nom. illeg. (synonym)
1857
Orithyia edulis Miq. (synonym)
1867
Tulipa edulis (Miq.) Baker (synonym)
1874
Tulipa graminifolia Baker (synonym)
1875
Gagea argyi H.Lév. (synonym)
1906
Gagea hypoxioides H.Lév. (synonym)
1906
Gagea coreana H.Lév. (synonym)
1910
Amana graminifolia (Baker) A.D.Hall (synonym)
1940

2017年4月25日火曜日

サクラソウ (23)  濡れつばめ 草木弄葩抄・画本野山草・武江産物志・艮斎文略・植物一家言

Primula sieboldie cv. “Nure-tsubame”
品種名:濡れつばめ,認定番号:140,品種名仮名:ぬれつばめ,表の花色:桃色ぼかし,裏の花色:桃,花弁の形:桜弁,花容:平受け咲き,花柱形:僅長柱花,花の大きさ:中,作出時期:江戸末期,その他:表の花色に濃淡がある.
一昨年の夏に近くのホーム・センターで花後 100 円で購入.良く増えて,地植えにした株も含めてよく咲いている.花の形は整ったいかにもサクラ.一茎につく花の数も多く見事.

江戸時代文献

★菊池成胤『草木弄葩抄』上巻(1735 )
さくら草
花のかたち、さくら花のごとく、しの立、まハり咲。花にいろかず
多し。白或ハ雪白、紫、又咲分、うす紫とび入有。咲分
桜草ハいまの、志ほりにあらす。一りんの花びらに、紫と白と
色分る。うす紫ハ、花少し大りん、小まち桜草といふ。飛人
は、志ほり桜草、にしきさくら草、又咲分さくら草といふ。〇志ほり
なる一種を○○花家(うへきや)○○唐花さくら草といふあり
葩あつくこひむらさき○○○○志ほりちいさくはな
○しろく紫羅蘭(あらせいとう)花の花ごとく見るなり」
〇は解読不能文字

★橘保国『画本野山草』(1755
さくらな さくら草 品多し。三月より四月迄、花さく
花の形、桜花のごとく、しのだち、回り咲。花に色数多し.白或は雪白、紫、又咲分、
うす紫飛入有。咲分桜草は今の、しぼりにあらず。一りんの花びらに、紫と白と色分
る。うす紫は、花少し大りん、小町桜草といふ。飛人は、しぼりさくら草、錦桜草、又
咲分さくら草といふ。長六七寸。

櫻菜(さくらな)
芲エンシグ 生エ
ンシノクマ」

★岩崎常正『武江産物志』(1824 序)
江戸とその周辺の動植物誌.野菜并果・蕈(キノコ)・薬草・遊観(花の名所)・名木・虫・海魚・河魚・介・水鳥・山鳥・獣の各類に分け,それぞれの品に漢名を記し,和名を振仮名で付け,多くは主要産地を挙げる.合計で植物約 520品,動物約 230品.『武江略図』は『武江産物志』の付録である.見にくい地図だが,中央が千駄ケ谷・代々木辺で,北は現さいたま市,南は鶴見,東は船橋,西は田無付近までを収める.当時の博物家がしばしば訪れた採集地の大半が,ほとんど挙げられている.

「遊観類
櫻草(さくらさう)紫雲英(れんげさう) 戸田原 野新田
尾久の原 れんげさう すみれあり 染井植木屋 立春より七十五日位」
と自生地だけではなく,花見に行ける染井の植木屋まで紹介している.染井までサクラソウを鑑賞・購買に行く人も多かったのであろう.


「野新田,尾久の原」でのサクラソウ観賞遊覧の様子は,当ブログ,サクラソウ(12)サクラソウ(22)に記載の六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』にも記されている.

★牧野富太郎 『植物一家言』(1954)には,
安積艮斎の櫻草の記事
安積艮斎*の『艮斎文略』を繙いて読んだら、其「東省日記」の中に
浮間白 2016年
「雨始霽、新緑如沐、平原迢曠、草櫻盛開、數里成錦繍界」の語が在る。戸田附近の原野は、此時分は櫻草が多かつたが、漸次人が採集し盡して今は無く成り、唯埼玉県浦和の附近に残つてゐる許で在る、其沢山在つた時代には偶に白花の者を見附けた、前には浮間ノ原のサクラサウは、有名な者で在つた、そして前にはサクラサウの花を束にして弄ぶ程在つた。」

*安積 艮斎(あさか ごんさい):(寛政332日(179144日) - 万延元年1121日(186111日))は,幕末の朱子学者.
江戸で私塾を開き,岩崎弥太郎,小栗忠順,栗本鋤雲,清河八郎らが学んだ他や吉田松陰にも影響を与えたとされる.
『艮斎文略』嘉永6 [1853] 出版,ネット上では,原本閲覧できず.

文献画像はNDLの公開画像より部分引用

サクラソウ (22) 小桜源氏,江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』

2017年4月9日日曜日

オシロイバナ-16(仮) 梅毒 日本での蔓延-5 江戸時代.ツンベルク 昇汞水(スウィーテン水)の来由-1,

ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) はオランダ商館の医師として出島に在任中,長崎の吉雄耕牛ら通辞に,適切な治療薬がなく,全国に蔓延していた梅毒(黴瘡)に,当時欧州で治療実績のあった蒸留水,昇汞,適量の砂糖またはシロップからなる「昇汞水(スウィーテン水)」の調製法と投与法を教えた.この薬の劇的な治療効果により,長崎で多くの患者がその恩恵を受けたとされる.この薬品の處方は吉雄流医術の秘事とされ,弟子たちに受け継がれ,杉田玄白もこの薬品による治療を行った.ツンベルクはこの薬剤を日本に導入したことを,大きな誇りとした.

ツンベルクが通辞達に教えた昇汞を処方した駆梅薬とは,吉雄耕牛の『紅毛秘事記』に「夫メルクリユスワートル*ノ來由来ヲ原スルニカツテ紅毛國ニシンゲリス**ト云人ガ夢裏ニ所得藥方ナリ其后ホルラントテ(ラの誤りか)イデント云?ノ下ツクトラル?ヲツブルキ人バロンハンスーイテン***ト云人アリ…… 今カレルヒイトインベルゲ****ト云、本草ニ精キドックトール医師長崎ヘ来リ此方ノ効アル事ヲ伝フナリ……其レヨリ日本ニ伝アリ訳士吉雄幸作永章吉雄作次郎永純茂吉節右衛門吉勝ノホカノ人々ニ伝アリ.…… 」とあり、ウィーンの医師ファン・スウイーテンが,1754年に公表した 0.104% 昇汞液であることが確認される.
メルクリユスワートル:水銀水
シンゲリス:不明,ロシア宮廷の侍医サンチェ(António Nunes Ribeiro Sanches, 1699 - 1783)か?
バロン・ハン・スーイテント:ゲラルド・ファン・スウィーテン(Gerard van Swieten1700 - 1772),オーストリア宮廷より男爵位(バロン)を与えられた.
カレル・ヒイ・トインベルゲ:ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828)

この駆梅薬の名称は,ゲラルド・ファン・スウィーテンGerard van Swieten1700 - 1772)に由来する.彼は、オランダに生まれ,ライデン大学で,「西洋の医師の半数を指導した」と言われるほど多くの優秀な医師を育てたヘルマン・ブールハーフェHerman Boerhaave, 1668 - 1738)の薫陶を受けた.後に臨床医学の大家としてオーストリアにマリア・テレジアの侍医に招かれ,オーストリアの病院や医学教育の改革を行い,「旧ウィーン学派」と呼ばれる学派をつくった.


彼は1742 年ブールハーフェの弟子であり,ロシア宮廷の侍医サンチェAntónio Nunes Ribeiro Sanches, 1699 - 1783)から,昇汞を主成分とする性病治療の内用水薬処方を入手した.これはサンチェが,ロシア人医師にシベリアの梅毒患者の治療に用いていた處方を教えて貰った處方であった.
スウィーテンは当時ウィーンでの梅毒治療の拠点であった聖マルコ病院(Spital zu St Marx)の医師ロッハーMaximilian Locher)に命じて,無差別の半年ごとの流涎療法に代えて,毎日四分の一から二分の一グレインの昇汞をブランデーに溶解した液を与えさせ,1754 から1762年に渡って4,880 人の患者での治験で,この處方の有効性を確認している.(参考文献 1.- 4.

スウィーテンは,後に Swieten’s liquor として知られるこの處方を,Kurze Beschreibung und Heilungsart der Krankheiten in dem Feldlager 軍営地に良く見られる病気の ” (1758) で公表し,この處方は,比較的安全かつ有効な薬物として英國、仏國、オーストリア、スウェーデンの各国の医療機関によって認められ,歐州中に拡がり,ツンベルクが日本に紹介したのであった.
1757 年に英国にこの療法を導入したのは,スウィーテンとライデン大学で共に学んだジョン・プリングル卿Sir John Pringle, 1st Baronet, 1707 - 82)であり,英国内の駐屯地の兵士の治療に絶大な効果があったと報告されている(Abraham Gordon ”Medical Observations and Inquiries”. vol. 1, 365-387 (1763)

スウィーテンは,”Kurze Beschreibung - - “ Von der Venusſeuche(梅毒について)” (p 156 – 166) の項の p 160 に,
“Der Patient muß frühe und Abends, einen Löffel voll von N. 66. einnehmen, und allezeit ein Pfund gekochtes Gerſten Waſſer, wozu der dritte Theil ſüße Milch vermiſchet worden, darauf trinken: das gekochte Gerſtenwaſſer mit Milch kann auch der Patient unter Tags an ſtatt des allge meinen Getranks trinken. Sollte aber die Milch hart zu bekommen ſeyn, kann man das Getrank N. 67. gebrauchen.” とある.
私訳「患者は早朝と夕方に,匙一杯の處方 66 の藥を服用し,(その後)常に一ポンドの gekochtes Gerſten Waſſer(挽き割り燕麦の粥)に三分の一量の新鮮な牛乳を加えたものを飲むべきである.この牛乳入りの粥を一般的な日常の飲み物の代りに飲んでよい.牛乳の入手が難しい場合には,處方 67 を使ってもよい.」と,記している.

この處方 66 が昇汞の(ウィスキー等の)穀物蒸留酒溶液(スウィーテン薬酒)であり,牛乳入りの粥を食べさせるのは,その食物繊維と蛋白で,昇汞の急激な吸収を抑制させるためと考えられる.處方 67 は,ウスベニアオイとカンゾウの根の煎剤であり,甘味をつけた多糖類のとろみで牛乳と同様な吸収抑制の効果で,急激な血中水銀イオン濃度の上昇抑制を期待したのであろう.

その處方 66 處方 67 は,同書の p 197 – 8 に以下のようにドイツ語とラテン語で記されている.

66
66
66(私訳)
Nimm corroſiviſchen
 Rx. Mercurii ſubli-
処方:昇汞
Sublimat            12. Gran,
mati cörroſivi
12 グレイン
ſtarken Korn-Brandwein
gran. xij.
生(き)の蒸留酒
2. Pfund,
  Spir frumenti ſe-
2 ポンド
miſch, und laß es in ei-
mel rečtificati    lb ij.
両者を清浄なガラス製の器で混合し,昇汞が完全に溶解するまで静置する.
ner reinen und zugemach-
  In Phiala vitrea pu-
ten gläſernen Phiole ſte-
ra clauſa ſerventur ,
hen, bis der corroſiviſche
donec Mercur. ſublim
Sublimat gänzlich aufge-
ſponte ſolvatur.
ſet iſt.




67
67
67(私訳)
Nimm Eibiſch-Wurze
 Rx. Rad. Althaeae
処方:ウスベニアオイの根 
2. Unzen,
Unc. ij.
2オンス
laß in genugſamer Menge
  Bulliant in ſ.q. Aq.
大量の水で一時間加熱煮沸する
Waſſer eine Stunde ſie-
communis per horam,

den, zuletzt gieb darzu
ſub finem addendo
最後に皮をむいた甘草の根
         1オンスを加え
固形物を除き
abgeſchältes Süßholz
  Glycirhiz. raſae .
1. Unzen,
Unc. j.
hernach ſeiche es ab, und
colat. lb. iv. exhibe.
das Ueberbleibſel
ſponte ſolvatur.
4. Pfund,

4 ポンド(に煮詰め)
gieb zum Gebrauch

用いる.

なお,ここで用いられている重量は,いわゆる薬衡(apothecaries' system)の単位で,現在のメートル法とは異なる.
Weight
pound
ounce
dram
scruple
grain
(abbreviation)
()
()
(drachm) (ʒ)
()
(gr)
単位
ポンド
オンス
ドラム
スクループル
グレイン
 
1
12
96 ʒ
288
5,760 gr
 
1
8 ʒ
24
480 gr
 
 
1 ʒ
3
60 gr
 
 
 
1
20 gr
metric equivalent
373 g
31.1 g
3.89 g
1.296 g
64.8 mg


このシステムに従えば,スウィーテンの處方66 では,12グレイン(0.78 g)の昇汞を, 2 ポンド(746  g) の蒸留酒に溶かすので,この薬酒中の昇汞濃度は 0.104 % となる.

この薬酒の處方は,その後,昇汞濃度や投与量・服用時期は同じであるが,水溶液に変えられ,刺激性を和らげるためか,砂糖や蜂蜜が加えられた.
ツンベルクが通辞達に教えた駆梅薬の昇汞水溶液の濃度も,スウィーテン薬酒と同じく 0.104 % であった(参考文献 4).

参考文献
1.    José Luis Doria "Antonio Ribeiro Sanches A Portuguese doctor in 18th century Europe" Antonio Ribeiro Sanches, Vesalius, VII, 1, 27 – 35 (2001)
2.    Michael Waugh "The Viennese contribution to venereology", British Journal of' Venereal Diseases, 53, 247-251 (1977)
3.    Jonathan Pereira (1804 - 1853) “THE ELEMENTS OF MATERIA MEDICA; - - “ (1839)
4.    高橋文『18 世紀西洋の医学・薬学を日本へ導入したツュンベリー』薬史学雑誌 482),99-1072013