Ilex
latifolia
2006年5月 塩竃神社 |
葉面に尖った先で字を書けば,そこが黒く変わり字が浮きだす.この性質を,紙のない古い時代,インドや東南アジアで仏典を写した椰子の葉-貝多羅(ばいたら)-と同一視し,或はこれになぞらえてこの木を多羅葉(たらよう)と呼んだ.
また,葉を火であぶるとその面のみならず,その裏の面にも丸い文様が現れる.この文様のためか,江戸時代「いのちさだめ」と恐れられた「麻疹-はしか」除けの呪物としても用いられた.(文献の図はNDLの公開デジタル資料より部分引用)
木村陽二郎監修『図説草木名彙辞典』柏書房 (1991) には,出典として『延喜式』(927編纂開始,967に施行)が記載されているが,調べた限りでは,「卷第十三 中宮職,大舍人寮,圖書寮」の「御灌佛裝束」に「金銅多羅一口,【受水料】」とあるのが,見出されたのみであった.この「多羅」は,「鉢多羅-はったら」の事で,僧侶の持つべき必要最小限の持ち物の一つ,主に食器として用いた鉢及びそれを模した容器であり,多羅葉とは関係がない.
室町時代に成立した日本の古辞書の一つ,★東麓破衲編『下学集』(1444)の第三巻には,「多羅樹 タラジュ」とあるが,これがタラヨウの事であるか否かは定かではない.
染井で代々植木屋を開き,江戸一番と言われた★伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)の「地錦抄 三」には「○冬木
たらよう 葉ゆずりはの様にて各別あつし。」
「地錦抄 六 草木植作様(そうもくうへつくりやう)之巻」
「草木植作様伊呂波分
㋟
多羅葉樹(たらやうじゅ) 植替三四月」
とあり,江戸中期には,タラヨウが葉の美しさが賞されて庭木として用いられていたことが分かる.
貝原益軒★『大和本草 巻之十一 園樹」』(1709)
には,
「多羅葉(タラヨフ) 葉大ニ長クシテアツシ 實ハ赤クシテ多ク 所ニアツマレリ 叉雄木アリ 無實四時葉アリ 天竺ノ貝多羅葉ニ佛經ヲカク由西域ノ書ニ見エタリ
此葉ナルヘシ
昔或古寺ノ重物ニ貝多羅ハナリトテ在シヲ見タリシカ
此葉ノ形ニシテ猶大ナル物ナリキ
西域記ニ貝(ハイ)多羅樹果熟シテ即赤シ
如二大石榴人一ノ多レ食之トイヘリ
然レハ此地ニアルト不レ同
此木ノ葉ノウラニ竹木ノ刺(ハリ)ヲ以文字ヲカクニ
其アト黒クシテ恰墨ニテ書クカ如シ
然レハ又此木眞ニ多羅樹ナルヘシ○此木ノ皮ヲハキテ
トリモチニスル
十大功勞*ニ同シ 此木古来吾邦ニアリシニヤ處々山林ニアリ 多羅ノ木ト云モノハ別ナリ 又一種西土ニテ大モチノ木ト云モノタラ葉ニ似タリ
是タラ葉ノ別種也
冬モ葉レ不脱チ」とある.
*十大功勞:ヒイラギナンテン
また『大和本草巻之二十 諸品図中』には,
[多羅葉] 火ニテアブレバ如レク此 ウラ表ニ文生シテ其色黒シ ウラヨリアブレバ表ニモトホル 表ヨリアブレバ裏ニモトホル 奇異ナリ 他木葉 檍(アオキ)ノ葉 木犀ナトアブレバ不レキ如レ此ノシ 又モクコクノ木ノ葉ヲアブレバウラニ紋イヅ 三葉*皆多羅葉ナリ ヤキテ文生ス」(*三葉:アオキ,モクセイ,モッコクの三種の葉か.)
とあり,雌雄異株の常緑樹であり,多くの赤い実がまとまって付くこと.葉の裏に尖ったもので字を書くと,その痕が黒くなることから,真の多羅樹であろうといっている.しかし以前に見たお寺に収められていた「貝多羅」の形はこの樹の葉と同じだが,ずっと大きかったとし,生育地の違いであろうかと言った.
また,樹皮からトリモチが取れることを記していて,「諸品図」には,火であぶった時の文様の出方を図示している.
寺島良安『和漢三才図会 巻第八十三 喬木類』(1713頃) には
「梖多羅(ばいたら) 梖多(ばいた)
字彙云.梖多ハ出二交址(カウチ)及西域一ヨリ.葉ニ可書(モノカク)也.
翻訳名義集ニ云多羅ハ,舊(モト)名二ク貝多一ト.此(ココニハ)翻スレ岸ト.形如二ク此方ノ椶櫚一ノ直ニ
而且ツ高シ極高サハ長ク八九十尺華ハ如レ黄木子或云高サ七-仞[七尺曰レ仞]
是則樹高四十九尺
西域記ニ云南印度ノ建部補羅国ノ北ニ不レ遠カラ有二多羅樹林ノ三十
餘里一其葉長ク廣其色光潤諸国書寫ニ莫レシ不二ト云フ采リ用一」
梖多羅(ばいたら) 梖多(ばいた)
『字彙(じい)』に云ふ,梖多は交址(コーチ)及び西域に産する.葉にものをかくことができる」とある.
『翻訳名義集』に「多羅はもと貝多といった.中国では岸と訳す.形は此方(こちら)(中国)の棕櫚(しゅろ)のようで、其直ぐでかつ高い。最も高いもので長さ八、九十尺。華は黄木(米)子のようである」(巻七林木篇)とある。また同書に、高さ七仞ともいう〔七尺を一仞という〕。これすなわち樹の高さ四十九尺ということである、ともある。
『西域記』(巻第十一)によれば、南印度の(恭)建那補羅(コーンカナプラ)国の北、ほど遠からぬところに、多羅樹の林が三十余里にわたってある。葉は長く広く,色は光潤(つややか)、諸国で書写にこの葉を採って用いないところはない、とある。(現代語訳:島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫(1991))
『同書 巻第八十三 喬木類』には
「多羅葉(たらえふ)
△按多-羅葉ハ木青白色高キ者二三丈,葉似二テ海石榴(ツバキ)一而長ク大
四-五月開二キ小白花一ヲ六月結レフ子ヲ大サ如二ク小豆(アズキ)一ノ而青色,冬熟スレバ則
赤黒色作簇ヲ戯レニ採リ其ノ葉ヲ以ツテ小キ火ヲ燼ヲ暫ラク按二葉上一ニ則其痕(アト)
爲レ環トシ其文倍ス二於火之大サニ一是モ亦タ梖多羅之類カ乎.今多ク
人家ノ庭園ニ栽レフ之ヲ」
多羅葉(たらえふ)
△思うに、多羅葉の木は青白色で、高いもので二、三丈。葉は海石榴(つばき)に似ていて長く大きい。四、五月に小白花を開き、六月に子を結ぶ。大きさは小豆(あずき)ぐらいで青色。冬になって熟すると赤黒色になる。群がり成る。戯れにその葉を採り、小さな火燼(おき)を暫(しばら)く葉の上に置くと、その痕(あと)は環(わ)となり、文(もよう)は火の大きさの倍になる。これもまた梖多羅の煩であろうか。現今では多く人家の庭園に植えている。」(現代語訳:島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫(1991))
とあり,良安は,(西域で葉に経典を書いている)貝多羅(梖多羅)がヤシの仲間と認識し,図も貝多羅(梖多羅)と多羅葉では異なる.また,タラヨウに関してはその樹木としての性状の記載は正確で詳しく,多くの家に庭木として植えられているとある.また,葉に火燼(おき)を載せると輪のような跡が残るので,梖多羅の一種かと推測している.
★小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806)
巻之二十七 果之三 夷果類
「椰子 通名 ヤシホ トウヨシノミ津軽
(中略)
又和名ニ多羅葉ト呼テ寺院ニ栽ル大木アリ.葉ハ桃葉珊瑚葉(アオキ)ノゴトク,鋸歯細クシテ厚ク
カタシ.木刺ヲ以テコノ葉ニ字ヲ書スレバ色黒クナル.マタ火ニテ炒レバ黒斑ヲナス.故
ニ,テンツキノキト云.一名カタツケバ豊州.コレモ唐山ニテ貝多葉トイフコト通雅ニ出.
本名ハ娑羅樹ニシテ,七葉樹ト同名ナリ.(以下略)」と,良安の指摘にも関わらず,「椰子」の項に入れている.
★岡林清達・水谷豊文『1809 物品識名 乾』(1809) には「タラヤウ 婆羅樹 通雅」とある.
★岡林清達・水谷豊文『1809 物品識名 乾』(1809) には「タラヤウ 婆羅樹 通雅」とある.
★毛利梅園(1798 – 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 – 1849)には,「庚寅(文政十三年)四月一日(グレゴリオ暦1830年5月22日)」にタラヨウを「折枝眞図」したとして,美しい花を着けた枝の図と共に,
「大和本草曰
多羅葉(タラヨウ)
〇娑羅葉(サラヨウ)
貝多葉(バイダヨウ)
和漢通稱
西域記ニ曰天竺ニ佛經ヲ
貝(バイ)多羅葉ニ書ヨシ云フ則此者ナラン
乎多羅葉ノ葉裏ニ以二楊枝一ヲ
文字ヲ書其跡墨筆而如
レ書天竺ノ貝多羅同種乎
多羅葉ノ葉火ニアブレハ丸キ形ノ紋
顕ル裏表ニ文生シ其色黒シ裏ヨリ
アブレハ表ニモ通ル表ヨリアブレハ裏ニモ
通ル奇異ナリ他木ノ葉檍(アオキ)木犀
ナトアフレハ只文ナク裏葉紙ヲヘリ如
クニムケル〇モツコクノ葉アフレバ裏ニ
文出ス三葉皆(ミナ)多羅葉ニ類ス」
とある.
江戸時代までには経文を記した「貝多羅葉」が,相当数渡来していたのだが,旧来の文献にとらわれて,「多羅葉」とは別物と言い切れなかった様だ.