2018年5月27日日曜日

ツグミ(11) 霞網猟-2  昭和初期 囮育成及び利用法 『鳥獣の習性 : 狩猟家の見たる』

Turdus eunomus

霞網によるツグミの大量捕獲には,渡りの経路に張った霞網に大群をおびき寄せる囮の鳴き声が不可欠であった.
加賀藩の武士の鍛錬法として始まった網獵は,この囮を使う事によって,生計を立てる獵として成立し,やがて北陸・中部に拡がった.
時ならぬ時期に鳴かねばならぬ囮の育成法は,古くは秘伝とされた.

リンク先は NDL の当該書籍のデジタル公開書籍
堀内讃位『鳥獣の習性 : 狩猟家の見たる』昭森社  (1942) には,囮の育成法が,詳細に書かれている.またこの書には鹿島地方で行われた鉤釣猟の方法も記されている.(左図,リンク先は NDL の当該書籍のデジタル公開書籍)

これらの猟法はツグミの習性をうまく利用した残酷な猟法で,ツグミが狩獵鳥からはずされ,また現在霞網猟が禁止されていて本当に良かった.

古から通じてゐる渡り鳥の徑路 -鶫の霞網獵から-

一期の捕獲數
昭和十三年の農林省山林局の狩獵統計を見ると,同年度のツグミ捕獲數は二百三十六萬千三百二羽となつてゐる.これは勿論銃獵,網獵,釣獵凡ゆる獵法に因つて捕獲した數量であるが,その大部分を占めるものは何と云つても霞網獵である.
 これをまた縣別に見ると,岐阜縣の三十四萬三千八百七羽を筆頭に,愛知縣の二十五萬八千三百七十五羽,長野縣の二十二萬二千八百十五羽,福井縣の二十萬五十七羽,石川縣の十九萬七千四百九十二羽,富山縣の十三万五千六十七羽,山口縣の十一萬三千五百六十羽,栃木縣の十万七千八百七十五羽といふ數字になる.この數字は,シベリアで蕃殖して日本海を一氣に横斷し,北陸海岸に上陸したツグミが,國内に分散するその經路を或る程度示すものとして甚だ興味深いものがある.つまり,石川,富山両縣を起點として,その一隊は岐阜,愛知,長野に向ひ,これが更に分散して栃木,千葉の諸縣下へ渡り,他の一隊は福井縣から山口縣へ向つてゐることが略々推定出來る.尤もこれは割合に大きな群れの經路であつて,小群のものがこの經路以外に經路を持つてゐるであらうことも當然考慮されなければならない.

分散の經路
 ツグミたちの取るこの經路は,抑々何を物語つてゐるかと云へば,渡鳥には,その移動するに當つて,これを通過しなければならぬ一つの道の出來てゐることが何より先に判る.そしてまた大群には大群のための經路があり,小群には小群のための經路のあることも窺へる.何故にかう云ふ經路が必要なのであらう.
(中略)
即ちそこへ確然としたコースが開かれてゐうと見るべきであらう.霞網獵はかういふやうに決まつてゐる經路の要衝を扼して設けられた一種の捕鳥法で,この歴史がまた相當に古い.

渡りの時期
 これでツグミのやうな渡鳥達には,古くから一定した渡りのコースのあることが判つたが,それではその渡來の時期はいつ頃かといへば,その年々によつて多少の變化はあつても,大體において十月下旬から始つて十二月中旬で終つてゐる.それの最も明瞭になるのは,霞網獵が十二月中旬と云へば,全く終息するのでも知られる.然しこの期間と雖も,その中には本盛りなどと云ふやうに,渡の最盛期がある.その最盛期はツグミにあつては,十一月投下前後で,その前にあつても,その後にあつても,到底本盛りのやうな多數のツグミは見られない.
(中略)
 今富山縣中新川郡白萩村*西種にある谷鳥舎に於てその最盛期の状況を見るに,恐らく何十万と云ふ數のツグミが何と云ふ谷を埋め盡し,轟々たる羽音を立て,地を壓してくると云ふ.その壮観は實に見物であると云はれてゐる.この谷の鳥舎の西方はすぐに日本海で,東方には立山が望まれる地形にあることから推して,或は此所に現はれる大群の鳥は,その群團をもつて日本海を横斷したもので,これがこの谷を鳥屋を通過して,立山方面乃至は岐阜方面へ向ふものと思われる.然しこれが眞相は北陸海岸において,親しくその渡りの状況を檢討した上でないと,判つきりした事は勿論云へないと思ふ.

Google Earth
*白萩村:かつて富山県中新川郡にあった村.現在の富山県上市町
沿革
1889年(明治22年)41 - 町村制施行に伴い上新川郡湯神子村、眼目新村、湯神子野村、堤谷村、須山村、西種村、極楽寺村、東種村、釈泉寺村、稲村、千石村、伊折村、蓬沢村、折戸村、早月中村、早月下田村、湯崎野村が合併し、白萩村が発足。
1896年(明治29年)329 - 上新川郡が分割され中新川郡に所属。
1954年(昭和29年)510 - 中新川郡上市町白萩に編入され消滅。

霞網猟の方法
 ツグミの渡の概念は,これで稍々判つたことと思ふので,次にはこの鳥を霞網を用ひてどうして捕るかを説明し,その中から尚ツグミの持つ習性を拾ひ出して見ることにする.霞網は絹或は木綿絲乃至は麻絲で作り,長さは三間半者とか七間ものとかがある.その幅に應じてれを二棚にしたもの,或は三棚にしたもの,六棚,九棚,十二棚にしたものなど數種ある.この相違は網場の地形によることで岐阜,長野,栃木などの如く林相の深い所ではどうしても棚數の多いものを使用しなければならないが,石川,富山,福島などの林相の浅い所を選んで,鳥舎を作る所にあつては,二棚乃至は三棚のもので十分間に合ふ.霞網とは讀んで字の如く,この網を通して望む時は恰も霞を見る如く,靄々模糊として,あるかなきかが判定し得ない網の意で,古名はヒルテンと偁してゐる.
 
日本海方面からの View by GoogleEarth
霞網猟と囮
 霞網猟といふと,こういふ網を張つておけば鳥の方で勝手に飛んで来てかゝつて呉れでもするやうに解してゐる人が多いが,事實はそんななま易しいものではない.鳥の多い山へ張つておけば全くかゝらない事はあるまいが,そんなものは數が知れてゐる.霞鳥舎と呼ぶ一つの設備を作つてやる場合に,こんな頼りない方法ではどうしやうもない.そこで前にも云ふやうに渡鳥のコースを選擇して,そこを網場とする一方に,囮を馴養しておいて,積極的にそこを通過する鳥に呼びかけ,これを誘つて網にかける仕組みのものである.從つて霞鳥舎は,網場と,網と,囮の三者が揃つて初めてその有機的存在が成り,大量捕獲と云ふ實を上げることが出來るのである.

形式が生んだ流儀
(中略)

囮の養成
 囮の馴養は一口に云へば,春の蕃殖期に囀鳴するのを抑制しておいて,秋になつて囀鳴させる一種の飼鳥技術である.その方法は各人によって多少の相違はあるにしても,その根本理念にあつては何れも共通性をもつてゐる.その共通してゐる理念は何かと云へば,その第一は暗室へ閉ぢ籠めて陽の目を見せないことで,その第二は,餌の質を落とすことである.暗室へ閉ぢ籠めることは,それは鳥類が,春を感じるのは,気溫の上昇ではなうて,日中の延長であるから,暗い所におけば陽氣はいかにポカついても,囮はこれを冬と感じて囀鳴を控へる.それから餌の質を落すのは囮に徒らなる精力をつけないためで,その落す程度は鳥が死なないのをもつて限度としてゐる.要するに獵の出來ない春から夏にかけては生かしておけばそれでよいのである.これは囮に取つては,この上なく迷惑であるが,人間の利害的打算から云へば,これでなくてはならぬのである.この二つを併用することによつてツグミは春を春と感ぜず,また夏をも夏と感じないで,これを只管冬と思ひ込み,春の再來を心から待つてゐる.暗室に込めるのは大體八十八夜頃で,暗室から出すのは二百十日頃である.春から夏にかけた長い冬を,暗黒の中で暮らしたツグミの囮も二百十日が來て初めて一陽來復の喜びに浸る.

 暗室から出された囮は,徐々にまぶしいばかりの秋の陽を楽しむ.陽に接する時間が段々長くなるに從つて餌も上等になり,水浴も十分に行はせられるやうになる.かうして段々肉もつき脂肪が乗ってくるやうになると,ホルモンの分泌も旺盛になつてき,それに従つて體内にはしびれるやうな生殖の衝動が感じられ,雌に呼びかける囀鳴がそろ/\始まつてくる.かうして狩獵解禁の十月十五日の直前になると,短い秋の陽だけでは不足となるので,夜飼が始められる.この夜飼ひと云ふのは,夜間電灯光線を見せて活動を續けさせ,睡眠をさせないためであつて,これは要するに人工による日中の延長である.これで解禁直前になると全く發情して,いい喉を聴かせるやうになる.
かうして養成した囮を持つて特定の網場に至り,獵を行ふのが所謂霞網猟なのである.

朝構へと夕構へ
 この獵は拂暁と同時に開始せられるが,囮を網場に出すのは,まだ夜のあけないうちで,ほんたうに張り切つた囮になると真暗な網場で盛んに鳴くのがある.かう云ふ囮はもうすつかり發情して昂奮しきつてゐる證據である.然し囮が眞に活躍を始めるのは,夜が明けてかたであつて,夜明けと共に囮はケーケーと鳴き,クス/\と囀つてゐて,ちよつとの間も黙つてはゐない.燃え立つばかりの紅葉の山が,朝風の誘ひに一葉また一葉と紅葉を散らしてゆく感傷の秋の中にあつて,ツグミの囮だけは狂しいばかりに春の狂奏曲を奏でてゐる.心ある人たちが聴けば,これは涙の種であるが,無粋な私達はただ『いい聲で鳴いている』と囮の品定めをするのが關のやまである.

 拂暁と共に跳ね起きた野のツグミ達は,今日の目的地に向かつて行動を起し,鳴き交ひながら此處へ來かかると,この鳴きに應へる同僚の存在に氣がつく.仲間は盛んに,こつちに來いと誘つてゐる.そこは恰度通り道ではありするので,そちらに近寄つていく.近寄つて見ると同僚は氣でも狂つたやうに歌つてゐる.遠いうちはケーケーと鳴いて呼んでゐたが,近づいて見るとクスクスクスクスと説きかける.ちょつと休んでゆけと云ふのである.そこで高度をぐつと低めて,その同僚の鳴いてゐる林の中に飛び込んで行く.一群の鳥の中にはこの時既に,眼に見えない網の中に飛び込むものもゐるが多くの鳥は,無事に同僚の鳴き狂ふ林へ降り立つことが出來る.段々その聲を訪ねて,同僚の近くへ寄つて行つて見ると,あにはからんや同僚は竹籠の中に閉ぢ籠められいゝ氣になつて歌つてゐるではないか.をかしな奴だと思つてゐる時,近くで急にバタン/\と云ふ音が起る.最初は鷹だと思つたが,どうもそれにしては少し間が抜けてゐる.然しこんな所に長居は無用だ.それ逃げろ!と,パーツと一氣に飛び抜けやうとすると眼に見えないものがこれを遮ぎる.これはしまつたと,あわてゝ振り切らんともがくと,却つて身に絲が絡みついて動きがとれない.近くを見るとあつちにもこつちにも同じやうに仲間がぶらんこしてゐる.一杯食ったと齒嚙みをしてゐると,變な男が袋をぶら下げて出て來て,一羽一羽取り外しては袋の中に詰め込む.その苦しい思ひを外に竹籠の中の廻者はまだ陽氣に歌つてゐる.

 囮に誘われて網にゝかつたツグミ達にして見れば,これは泣いても泣き切れない失策だつたに違ひないが,これが人間の廻し者であらうとは到底判らう筈がない.この關所を通過しやうとするツグミ達は,餘程の幸運ものを除いては,皆同じように涙を呑んで敢えない最後を遂げる.これを同じことが過去何十年,何百年も續いて來た.今後何百年何千年私達の豫測し得ないことである.

 前記富山縣の谷のやうに何十萬と云ふ大群が,谷を埋めて渡つてくる鳥舎などはさうあらうとは思はれない.岐阜や長野の有名な鳥舎においても一群は多くて二百羽三百羽,少なくて十羽二十羽を例としてゐる.また鳥舎にして見れば一度に大群の飛來は害のみあつて一利がないから,小群が連續してくる方が實績が上がる.面白いのは谷鳥舎のやうに何萬と云ふ大群が飛來すると,肝心な囮はその威勢に壓せられて縮み上り,鳴き聲一つ出さないと云ふ事で從つてて網にかゝる鳥は一羽もゐない.茲において囮の氣力の強弱が問題となつてくるが,真の名囮は大群に遭つても恐れず,小群を迎へてこれを侮らず,いつも同じ調子で鳴いてゐる,これこそ囮の中の囮と云へる.然し萬を持つて數へる大群に逢つてはいかなる囮も鳴き止んで了ふが,若しこれを平氣で鳴いてゐるような囮では,他の小群が,これを恐れ近寄らないから,結局そんな囮は役にたたない.

 かうして夜明けと共に開始せられた霞網獵も十時十一時になると,否でも應でも中止となる.これはツグミの渡りが一時絶えるためである.これでも判るやうにツグミの渡りは早朝盛に行はれ,日中は中絶し,所によつては夕方渡りをみるところもあるが,かう云ふ所では夕構へと稱して,夕方獵をすることもあるが,囮が過度に疲勞するので餘り連續しては行はれない.

渡りは越冬が目的
(後略)」

2018年5月20日日曜日

ツグミ(10) 霞網獵 -(1) 江戸-明治 ツグミたちの荒野,狩猟図説,鳥獣狩猟法

Turdus eunomus
ツグミの肉は古くから味が良く,滋養に富むとして高く評価され,大きさはムクドリくらいで、肉量もまずまずだったので,猟の対象とされていた.

江戸初期までは弓矢による射撃*や,螻蛄を餌にするトリモチや罠,茨城の鹿島地方での蚯蚓を餌にした鉤釣を使った捕獲が主であったが,やがて,加賀藩から始まった「霞網」を用いた猟法により大量捕獲されるようになった.この,「霞網猟」は,戦後禁止されるまで,ツグミ捕獲の主流となった.
*室町時代には,武士のたしなみとして,射芸において鳥獣を射る際の身拵えが常に問題にされた.小笠原流京都家系の武家故実を述べた『家中竹馬記』に,馬上の礼法をかずかず挙げる中に,「一 馬上にて小鳥を射るには,鶉・雲雀・つぐみほどらひ乃物までは,はだぬがで,矢頭四目木鋒などにて可射.おん鳥めん烏以上をば雁侯にて射る也.此時は紐をおさめ,はだ脱ぎて射べし」(右図,NDL)とある.

ツグミは,十月ごろ,シベリア東南部,ウスリー,カムチャッカ,樺太などから,海を渡って,大群を作って日本へやって来る.
その渡りのコースは二つあって,シベリアから日本海を横断して能登半島付近に上陸するのが一つ,同じくシベリアから樺太,北海道,青森というふうに南下して来るのが一つである.主流は日本海横断コースの方で,もっとも渡来数が多い.夜のうちにシベリアをたって,日本海に出るのだが,毎時四十キロくらいの速さで飛び,六百四十キロの海上を,十六時間で横断するという.石川県には秋になると多くのツグミがやってきて,或は群れのままに更に京都府,岐阜県,長野県へと移動する.山林でしばらく群れで行動をしたのち、徐々に散らばり、それぞれ平地の里山や農耕地・草原・都市部などに移動し、冬を越す.

★遠藤公男さんの名著『ツグミたちの荒野』講談社 (1983) によると,石川県の愛鳥家の話として,
「江戸時代に、加賀藩の武士は、ツグミを一網打尽にすることを考えました。細い絹糸を使って、天網というものを編んだのです。それがかすみ網の原形です。」
幕府から、加賀藩は外様大名としてうとまれていた。藩主の前田侯は、いらぬ疑いをうけないよぅに、自分も遊芸に身をやつしたがかすみ網猟は、こうした中で発達したのだという。
「加賀では、かすみ網のことを『烏構え』といっています。武士だけに許された、鍛練をかねた猟だったわけです。」
表向きは遊びであったが、じつは、ひそかに足腰をきたえさせようとしたのである。と,この猟法が武士の鍛錬から始まったとしている.
「ですから、武士が鳥構えのために山林の拝領を願い出ると、加賀・能登・越中の三国ならば、どこでも、八丁四方(約八百メートル四方)をあたえられました。しかし、万一のときはすぐにかけつけられるよう、けっして山に泊まってはいけないとのおきてもあったといいます。
太平の世の中だったんですね、鳥構えは物見遊山になっていったんです。加賀の人々は食べ物にもこるのですね。マツタケにツグミ、それに特産のすだれふを入れたじぶ煮は、加賀料理の逸品といわれるようになります。串にさして焼いたツグミも季節の味覚です。あれを食べないと、秋の気分が出ないというんですよ」とある.

初期には猟をする日や,売ってはいけない等の制限があったらしいが,やがてこの猟法は段々と洗練され,江戸末期には「おとり」を使って,ツグミの群れを霞網へと誘導し,手間を掛けずに多数のツグミを捕獲した.
この猟法は石川から富山へ。岐阜へ入ったものは愛知、長野、福井へと,中部六県のツグミの渡ってくる地方へと広がった.
特に廃藩置県後,禄を失った侍やその使用人たちは,この猟法で得られたツグミを売ることで生計を立て,一人で数千羽ものツグミを捕獲し,料理屋に供給したという.

明治時代の「鳥獣狩猟法」の書籍では,ツグミの猟法としては,霞網猟が主たる捕獲法として記載されている.

★農商務省編『狩猟図説(1892) (左図,NDL)の「(ツグミ)ノ羅獵(アミレウ)」には
「鶇羅ハ駿遠地方ニ於イテ行ウ法ナリ羅(カスミアミ)數張ヲ擔ギ未明ニ山腹ニ至リ竹ヲ建テ羅ヲ張リ鶇ノ來ルヲ待ツコト數分時間鶇ハ黎明(ウスグラキ)ノ頃群ヲ爲シテ山巓ヨリ山ニ沿フテ降リ來ル悉ク羅ニ〓(カヽ)ルヲ捕獲ス之ヲ以テ生計ヲ営ムモノ尠カラズ
捕獲ノ數多キ時ハ擔ヒ歸ルニ手餘ルホドナリト云フ
又美濃ニテ鶇ヲ捕アル一法アリ毎歳十月中旬以後山上ニ藁叉ハ萱ヲ以テ高四五尺,方八九尺ノ小屋ヲ造リ屋上ハ松柏ノ緑葉ヲ以テ覆ヒ獵夫此ノ中ニ居テ數羽ノ(オトリ)ヲ使用シテ鶇ヲ捕獲スルナリ
其ノ法鳥ノ鼻孔(ハナノアナ)ニ絲ヲ貫キ屋外ニ放チ屋内ニ於テ時々絲ヲ索ケバハ地上ヲ飛行シテ遊戯ノ狀ヲ爲ス之ヲ索鳥(ヒキトリ)ト稱シ,二三羽ヲ要ス,叉別ニヲ籠(カゴ)ニ入レ樹間ニ懸ク是亦三四羽ヲ要ス鶇ノ群飛シテ山上ヲ啼キ過グルトキ其ノ聲ニ應シテ之ヲ呼バシム
方言之ヲ遠鳴鳥(トテナキトリ)ト偁ス小屋ノ週邉ニハ竹ヲ植テ横幅六七間,縦八尺ニシテ一寸目ニ結(スキ)タル羅ノ棚絲(タナイト)四五條(スジ)アルモノヲ,二張叉ハ三張ヲ設ケ鶇ノ山上ヲ群飛スル時鶇ハ之ヲ呼ビ,叉地上ニ遊戯スルヲ見テ,鶇ノ一群悉ク降リ來ルエ,羅ニ覊(カヽ)ルモノヲ捕獲スルナリ
鶇ノ一群ハ多キ時ハ百羽,少ナキモ三四十羽ニ上ラズ此ノ鶇ヲ麹漬ト爲シテ販賣スルモノ美濃三河ノ山中ニ多シ味ヒ極メテ美ナリ(段落,下線は適宜挿入した)
❶=罜の土を示に,「❶羅」=カスミアミ,❷=某+鳥,オトリ
と,霞網獵で囮の使い方や,それを使うと大量のツグミが捕獲出来て,これによって生計がたてられるほどである事.保存食として粕漬があり極めて美味であることが記されている.

★志岐守二『内外遊戯全書 鳥獣狩猟法(1900)(右図,NDL)の「羅獵(あみれう)」の第十二章には,
第十二章 
(イ)鶇の素性及び獵法(れうはふ)
鶫は其躰軀(たいく)鵯に似て十月頃より翌年三四月頃迄多し彼れば初め渡來(わたりきた)るや群棲して深山に在る其食餌の盡(つ)くるに從て村落に來る而(しか)して彼の食となすものは果實即ち楠實及薔薇の實等を好む若し彼れが好むべき果實多き場所を知らば群り來りて飽くを知らざるが如し其銃獵法は前記の鵯獵と大同なれは茲に畧す然し此鳥は其群をなす性に依て網獵法の便あり次に之を説明せん
其之れに用ふべき網は前に鴨に用ゐし物と畧ぼ仝じけれとも唯其異なる三四の點は前者は麻糸にて製せしに之れは絹糸にて作ること及び其長さの五六間ありて巾の三尺位あることなり今之れを張るには先づ彼の集まりたる山林を一直線に巾三尺位にて開通せる所なるべし即ち其網を張るべき所は悉皆樹木を切り拂ひ網を張るに妨害なからしむ而して其高さは大抵木の梢より二尺位下位にはり其長さは長き程可なり而して其網は兼て柿澁或は藍色に染めるを可とす今張り方は鴨網と同じければ茲に畧す
先づ其装置終われは静かにして彼の來るを待つべし若し二三羽宛(づヽ)群集して來りて随分多數となるときは両方より静かに逐(お)ひて彼をして自然に網の在る方に轉せしむ然るときは其網の張りたる所を知らず一方より一方に移らんとして其網に掛る而して該網は絹糸にて製せしものなれば一度彼の掛るや容易に去る能はず故に十分彼の掛るを待て徐ろに之れを解き獲(う)べし
此法に依る時は日に数千を獲る難(かた)からず然して該法は山城丹波の山間に流行せり」
と詳細に捕獲法を述べ,この猟法により一日数千のツグミが捕らえられので,京都府では広く用いられていると記されている.(段落,下線は適宜挿入した)

ツグミの群れを霞網を張った猟場へ誘い込むために用いる囮のツグミは,特別に飼育された個体で,高価で取引された.

2018年5月13日日曜日

ツグミ(9) 食物本草・養生哥--2 広益本草大成,巻懐食鏡,食療正要,食品国歌,飲膳摘要,日養食鑑

Turdus eunomus

ツグミは『本草綱目』の「百舌」と考定されていたので,「小兒久シク不ヲ治ス」薬物とされていたが,一方滋養に富む病人の保養食(薬食)としても,高く評価され,江戸時代の多くの食物本草に記載されていた.
画像は『食品国歌』と『飲膳摘要』のそれを除いて,NDLの公開デジタル画像より部分引用.


江戸時代中期の京の医師・本草家として一派をなした★岡本一抱 (1654 – 1716) の『広益本草大成 全二十三巻』(1698) の「第十巻 禽部」には
百舌] 肉治小兒不
樹窟穴中ニ 狀如鴝鵒小身略長.灰黒色
- 食 立春止 夏至ヨリ無聲」とあり,『本草綱目』からの記事が引用されているが,一方
「[鶫鳥(ツグミ)]
甘平〇冝食病者亦食毒」
と,百舌とは別に,ツグミの薬食としての効用が記されている.(左図)

江戸時代中期の後世派を代表する筑前 (福岡県) の医家★香月牛山 (16561740) の『巻懐食鏡(1767) には,
豆久見(ツグミ)
--按順---訓之未-
豆久見(ツグミ)ノ種-類甚-多也有黑豆及見(クロツグミ)磯豆(イソツ)
久見(クミ)志那伊(シナイ)--豆(クワツ)天-宇(テウ)-皆豆久
見之類也味甘炙ンシテ而無毒病人食之無忌」
と,病者に適した食餌との記載がある.(右図)

★松岡玄達(恕庵)(1668 - 1746) 編『食療正要(1770) は,食事療法を説いた書物であるが,その「巻三 禽部」には
紫古密(ツグミ)         達曰又有海紫古密(ウミツグミ)灰 
-色有黄斑点又有黒紫古密(クロツグミ)
[氣味] 甘平無毒         [主治]開久痾」(左図)
とあり,ツグミには何種かあり,久しく患っている人の栄養補給と食欲増進に効果があるとしている.


御醫・法印★大津賀仲安(生没年不詳)の『食品国歌(やまとうた)』(1787)は,食品に関する留意すべき点を五・七・五・七・七の和歌形式,すなわち「国歌(やまとうた)」で憶えやすく説く書である.その巻頭には「水部」(みづのぶ)として

「井泉水はハ新吸なるを用由へし泥土あるは實食ふべからず
白湯こそは百沸たるに能ありて半熟なるは害ぞ有へし
食鹽はよく心腎肌骨養へど消渇の人あしきとぞ知れ」の三首が記され,以下,
「生姜よく風寒をさり痰を治し胃の気をひらき諸毒解す也
胡葱はうち温めて気を下し穀を消じて五臓益あり」
などといった生活の知恵とも言うべき食品の功罪を詠み込んだ和歌が並ぶ.
その「下巻,禽部」には,
紫古密(つくみ)よく食(志よく)を進(すすめ)て胃をひらき久痾(きゅうあ)の人ハ食(くら)ふてとよ記」
と玄達の『食療正要』の内容を,口調よく覚えやすい形式で記した.(右図)
画像は国文学研究資料館の該当ページにリンク

江戸時代最大の本草家★小野蘭山 (1729 - 1810) が審定し,孫の小野職孝 (1774 - 1852) が纂輯した『飲膳摘要(1804) の「津」の「鳥」の節には
ツグミ甘平毒ナシ 胃ヲ開キ食ヲ進ム」とある.
(左図:画像は早稲田大学図書館公開デジタル画像部分,リンク先はその該当ページ

石川元混(為春)『日養食鑑(1820) は,食物がいろは順で記載され,本文も平仮名で書かれている庶民向けの食物本草であるが,その「つ」の章には
つぐみ
甘平.毒(どく)なし胃(い)を開(ひら)き食(しょく)を進(すす)む久病の人に冝
く炙(あぶ)り食すれバ味(あじ)甚(?)美(?)なり
〇黒つくみ           前と同し」と,玄達の『食療正要』と略々同じ記事が載っている.(右図)

このように,味はよく栄養に富み,特に長患いの病人に食欲増進の効用があるとされたツグミは,多数が群れをつくって大陸から渡ってくる習性を利用され,江戸末期には霞網で大量捕獲されるようになった.

2018年5月9日水曜日

ツグミ(8) 食物本草・養生哥-1 .宜禁本草,日用食性,和歌食物本草,和歌食物本草 増補,(閲甫)食物本草,庖厨備用倭名本草

Turdus eunomus
2018年2月
ツグミは『本草綱目』の百舌との考定から,「小兒久シク不ヲ治ス」薬物とされていたが,一方滋養に富む病人の保養食(薬食)としても,高く評価され,食物本草や養生歌に記載されていた.
文献画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用.

安土桃山から江戸初期の医者で,権力者からも重用された医学中興の祖,★曲直瀬道三(雖知苦齋,1507-1595)は『宜禁本草』(江戸初期)に,五穀,五菜,獣肉,鳥肉等の食物を中心にその効用を示す他,月禁,合食禁等の月別の食品タブーや食べ合わせを記している.その「坤」の巻には,「〇諸禽類」の本文にはないものの,「追加三叚」の「諸鳥ノ類 上中下」には,「中品」として「ツグミ」が記載されている.

道三の甥で,後に二代目道三を名乗った★曲直瀬玄朔(1549-1632)の『日用食性』(1642)も,日常食する食物を上中下品に分け,その性・効用とその物と一緒に食べてはいけない食品を載せている.それには,「百舌 治小児久不語及殺蟲炙食」と本草綱目の百舌の記載に沿った記事があるが,百舌の考定はされていない.

曲直瀬学派は初代の道三のころより,本草や養生を歌にして覚えやすいようにしていたようであるが,曲直瀬玄朔やその弟子が,覚えやすいように和歌を使って門外不出の『庖人集要宣禁本草之歌』(慶長12年,1607年)をまとめ,それを基として『宣禁本草集要歌』(江戸初期,年代不詳)ができた.その後ふたたび『本草綱目』と『庖大柴要宣禁本草之歌』とを見直して『和歌食物本草』ができたようだ.
この書は江戸期を通じて一般にも流布し,小型のものはそでの中に入れておき,ときおり取り出しては参考にし,かつ楽しんだようだ.これらは寛永7年(1630年)から元禄7年(1694年)の間に出版されており,それと平行して増補版も出ている.(畑有紀「和歌形式で記された食物本草書の成立について」言葉と文化 14, 37-56 (2013)

★著者不明『和歌食物本草(1630) の「第二巻 草鳥之部」には
(つぐみ) 鳥之部
平りんびやうによしじんつかれいんなへこしのいたむにそよき
[つぐみ(は)平(である).淋病に良し.腎(が)疲れ、陰(が)萎え(て)腰の痛む(時)にぞ良き〕
つぐみよくきよををぎなひてとくもなししよびように用ひさしてたたらず
[つぐみ(は)よく 虚を補いて,毒もなし.諸病に用い,さして崇らず。〕」
とある.(左図,右)
★山岡元隣『和歌食物本草 増補』全七巻 (1667) の「巻之三 つ 鳥の部」には,
「〇鶇(ツグミ)
平(ヘイ)淋病(リンビヤウ)に吉腎(ジン)つかれ陰(イン)なへ腰(コシ)の痛(イタミ)にそよき
津ぐみよく虚(きよ)を補(をぎなひ)て氣力ます諸病に用ひさして毒なし」(左図,左)
とほゞ同じ内容の歌が納められている.

なお,原典は確認できなかったが,半田喜久美『寛永七年刊 和歌食物本草 現代語訳一江戸時代に学ぶ食養生-』(2004)によれば,先行する『庖人集要宣禁本草之歌』には,
平淋病に吉腎つかれ陰なへ腰の痛にぞよし
〔つぐみ(は)平(である)。淋病に良し。腎(が)疲れ、陰(が)萎え(て)腰の痛む(時)にぞ良し。〕
つぐみよく虚を補ひて気力ます諸病に用ひさして毒なし
〔つぐみ(は)、よく 虚を補いて、気力(を)増す。諸病に用い、さして毒なし。〕」
とあるそうだ.

江戸初期から,ツグミの肉は,滋養に富むため,淋病をはじめ,病人の栄養補給源として高く評価されていた.

本邦での最初の本格的な食物本草と言われている★名古屋玄医(閲甫)著, 野村玄敬 校『(閲甫)食物本草(1761) は,漢人と邦人とでは,風俗の異なるように食生活も異なるとし,日常の食品290種を撰び,穀・菜・菌・水草・菓・草・魚・介・禽・獣部にわけ,従来の諸家の説を吟味し撰び,閲甫曰と自説を加えている.
その二巻には「鶇鳥(ツクミ)       -語抄云鶫-豆久見(ツクミ)
-味平無毒不- 閲甫」とあり,
鶫の次の項には「(ヒエトリ) 和-名集曰崔---云鵯 音卑一音-匹 和-名比-衣土-里 貌
烏而色蒼-ナル-也 按スルニ-経諸説者非俗所--衣土-也然假以載性味
-味平無毒次鶇鳥者也味亦劣レリ鶇鳥ヨリ也」
とあり,鶇は鵯よりも味も栄養價も高く病人の食餌によいと評価している.

向井元升 (1609 – 1677) は江戸時代前期の医師,儒学者で,長崎に学び,二十歳のときに開業,後に京都に移り,筑前 (福岡県) の黒田侯,続いて皇族の病気を治療して名声を揚げた.私塾輔仁堂を建て,堂内に孔子の聖廟をつくって,儒学を教えた.門人に貝原益軒がいる.
承応3 (1654) 年,明暦3 (57) 年の2回,幕府の命でオランダ人医師に西洋医術を質問し,『紅毛流外科秘要』 (7) にまとめて提出した.天文学,本草学にも通じ,『乾坤弁説』『庖廚備用倭名本草』 (13) を著わした.後者は江戸時代最初の本草書である.

★向井元升『庖厨備用倭名本草(1683) には,ツグミは確認できなかったが,寺島良安らがツグミと考定した百舌を,ヒヨドリと考定した.
但しヒヨドリはいつも日本にいるので,「秋-冬ハ日-本ニ来リ春-夏ハ漢-地ニ渡リヌルニヤ」という冬に来る渡り鳥「冬鳥」が百舌の可能性があるとも指摘している.

[百舌]倭名鈔ニ鵙ノ條-下ニ載(ノセ)テ和名ヲ異(コト)ニセス多識編ニ
和名ナシ考本草一-名反-舌處-々ニ有之樹-(キノアナ)(コウ)(クツ)-(イハアナ)
中ニヲレリ其ノ-形鴝鵒ニ似テ小ク身略(ホヾ)長ク灰--色ニシテ
少シ斑點アリ喙尖(トガリ)黒シ行トキハ頭ヲ俯(ウツフ)ク好ミテ蚯蚓(キウイン)
ヲ食ス立-春ノ後ハ鳴(ナキ)-(サエツル)(テン)シテヤマズヨク諸鳥ノ声ヲナス夏(ケ)-
(シ)ノ後ハ超エ無十月ノチハ蟄(カクル)(チツ)-(ザウ)ス人コレヲ畜フコトアレハ冬-
月ハ死ス月-令ニ仲-夏反-舌無シト声是也〇元升曰此説ヲ
ミレハ百-舌ハ形色トヨクサエツリテ諸鳥ノ声ヲナスト明ラ
カニヒヨトリニ似タリ然ドモヒヨトリハ四時トモニアリテ秋-
ハ最多ク出ルモノナリ秋-冬ハ日-本ニ来リ春-夏ハ漢-地ニ渡リ
ヌルニヤ或又倭漢風氣ノカハリテ出ルトキ蟄スル時
ノカハリアルニヤ百舌ノ形色鳴キ声明ラカニヒヨドリナルヘシ
唯鴝鵒ト一-類異形ナルニヤ本ハヒトヘトリト云倭
タリ今俗ハヒヨトリト云
百舌肉味甘性平毒ナシ小兒久シク不ヲ治ス」とある.
ここに引用されている『倭名類聚抄』の「巻之二十羽-名第二百三十一」には,
モズ
兼名苑云鵙一名●(米+鳥) 上●(不の下に見)下音煩楊---云伯-毛受一云鵙
伯勞也日--紀私-記ニ云百--鳥」とある.
○『兼名苑』……【中】唐の釋遠年撰とされる字書体の語彙集。亡失して伝わらない。本草和名、和名抄、類聚名義抄に多く引用される。
○《楊氏漢語抄》……8世紀(奈良時代)の成立という字義書,既に亡失し逸文が知られているのみ.

続く