霞網によるツグミの大量捕獲には,渡りの経路に張った霞網に大群をおびき寄せる囮の鳴き声が不可欠であった.
加賀藩の武士の鍛錬法として始まった網獵は,この囮を使う事によって,生計を立てる獵として成立し,やがて北陸・中部に拡がった.
時ならぬ時期に鳴かねばならぬ囮の育成法は,古くは秘伝とされた.
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これらの猟法はツグミの習性をうまく利用した残酷な猟法で,ツグミが狩獵鳥からはずされ,また現在霞網猟が禁止されていて本当に良かった.
「古から通じてゐる渡り鳥の徑路 -鶫の霞網獵から-
一期の捕獲數
昭和十三年の農林省山林局の狩獵統計を見ると,同年度のツグミ捕獲數は二百三十六萬千三百二羽となつてゐる.これは勿論銃獵,網獵,釣獵凡ゆる獵法に因つて捕獲した數量であるが,その大部分を占めるものは何と云つても霞網獵である.
これをまた縣別に見ると,岐阜縣の三十四萬三千八百七羽を筆頭に,愛知縣の二十五萬八千三百七十五羽,長野縣の二十二萬二千八百十五羽,福井縣の二十萬五十七羽,石川縣の十九萬七千四百九十二羽,富山縣の十三万五千六十七羽,山口縣の十一萬三千五百六十羽,栃木縣の十万七千八百七十五羽といふ數字になる.この數字は,シベリアで蕃殖して日本海を一氣に横斷し,北陸海岸に上陸したツグミが,國内に分散するその經路を或る程度示すものとして甚だ興味深いものがある.つまり,石川,富山両縣を起點として,その一隊は岐阜,愛知,長野に向ひ,これが更に分散して栃木,千葉の諸縣下へ渡り,他の一隊は福井縣から山口縣へ向つてゐることが略々推定出來る.尤もこれは割合に大きな群れの經路であつて,小群のものがこの經路以外に經路を持つてゐるであらうことも當然考慮されなければならない.
分散の經路
ツグミたちの取るこの經路は,抑々何を物語つてゐるかと云へば,渡鳥には,その移動するに當つて,これを通過しなければならぬ一つの道の出來てゐることが何より先に判る.そしてまた大群には大群のための經路があり,小群には小群のための經路のあることも窺へる.何故にかう云ふ經路が必要なのであらう.
(中略)
即ちそこへ確然としたコースが開かれてゐうと見るべきであらう.霞網獵はかういふやうに決まつてゐる經路の要衝を扼して設けられた一種の捕鳥法で,この歴史がまた相當に古い.
渡りの時期
これでツグミのやうな渡鳥達には,古くから一定した渡りのコースのあることが判つたが,それではその渡來の時期はいつ頃かといへば,その年々によつて多少の變化はあつても,大體において十月下旬から始つて十二月中旬で終つてゐる.それの最も明瞭になるのは,霞網獵が十二月中旬と云へば,全く終息するのでも知られる.然しこの期間と雖も,その中には本盛りなどと云ふやうに,渡の最盛期がある.その最盛期はツグミにあつては,十一月投下前後で,その前にあつても,その後にあつても,到底本盛りのやうな多數のツグミは見られない.
(中略)
今富山縣中新川郡白萩村*西種にある㹦谷鳥舎に於てその最盛期の状況を見るに,恐らく何十万と云ふ數のツグミが何と云ふ谷を埋め盡し,轟々たる羽音を立て,地を壓してくると云ふ.その壮観は實に見物であると云はれてゐる.この㹦谷の鳥舎の西方はすぐに日本海で,東方には立山が望まれる地形にあることから推して,或は此所に現はれる大群の鳥は,その群團をもつて日本海を横斷したもので,これがこの㹦谷を鳥屋を通過して,立山方面乃至は岐阜方面へ向ふものと思われる.然しこれが眞相は北陸海岸において,親しくその渡りの状況を檢討した上でないと,判つきりした事は勿論云へないと思ふ.
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*白萩村:かつて富山県中新川郡にあった村.現在の富山県上市町
沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い上新川郡湯神子村、眼目新村、湯神子野村、堤谷村、須山村、西種村、極楽寺村、東種村、釈泉寺村、稲村、千石村、伊折村、蓬沢村、折戸村、早月中村、早月下田村、湯崎野村が合併し、白萩村が発足。
1896年(明治29年)3月29日 - 上新川郡が分割され中新川郡に所属。
1954年(昭和29年)5月10日 - 中新川郡上市町白萩に編入され消滅。
霞網猟の方法
ツグミの渡の概念は,これで稍々判つたことと思ふので,次にはこの鳥を霞網を用ひてどうして捕るかを説明し,その中から尚ツグミの持つ習性を拾ひ出して見ることにする.霞網は絹或は木綿絲乃至は麻絲で作り,長さは三間半者とか七間ものとかがある.その幅に應じてれを二棚にしたもの,或は三棚にしたもの,六棚,九棚,十二棚にしたものなど數種ある.この相違は網場の地形によることで岐阜,長野,栃木などの如く林相の深い所ではどうしても棚數の多いものを使用しなければならないが,石川,富山,福島などの林相の浅い所を選んで,鳥舎を作る所にあつては,二棚乃至は三棚のもので十分間に合ふ.霞網とは讀んで字の如く,この網を通して望む時は恰も霞を見る如く,靄々模糊として,あるかなきかが判定し得ない網の意で,古名はヒルテンと偁してゐる.
霞網猟と囮
霞網猟といふと,こういふ網を張つておけば鳥の方で勝手に飛んで来てかゝつて呉れでもするやうに解してゐる人が多いが,事實はそんななま易しいものではない.鳥の多い山へ張つておけば全くかゝらない事はあるまいが,そんなものは數が知れてゐる.霞鳥舎と呼ぶ一つの設備を作つてやる場合に,こんな頼りない方法ではどうしやうもない.そこで前にも云ふやうに渡鳥のコースを選擇して,そこを網場とする一方に,囮を馴養しておいて,積極的にそこを通過する鳥に呼びかけ,これを誘つて網にかける仕組みのものである.從つて霞鳥舎は,網場と,網と,囮の三者が揃つて初めてその有機的存在が成り,大量捕獲と云ふ實を上げることが出來るのである.
形式が生んだ流儀
(中略)
囮の養成
囮の馴養は一口に云へば,春の蕃殖期に囀鳴するのを抑制しておいて,秋になつて囀鳴させる一種の飼鳥技術である.その方法は各人によって多少の相違はあるにしても,その根本理念にあつては何れも共通性をもつてゐる.その共通してゐる理念は何かと云へば,その第一は暗室へ閉ぢ籠めて陽の目を見せないことで,その第二は,餌の質を落とすことである.暗室へ閉ぢ籠めることは,それは鳥類が,春を感じるのは,気溫の上昇ではなうて,日中の延長であるから,暗い所におけば陽氣はいかにポカついても,囮はこれを冬と感じて囀鳴を控へる.それから餌の質を落すのは囮に徒らなる精力をつけないためで,その落す程度は鳥が死なないのをもつて限度としてゐる.要するに獵の出來ない春から夏にかけては生かしておけばそれでよいのである.これは囮に取つては,この上なく迷惑であるが,人間の利害的打算から云へば,これでなくてはならぬのである.この二つを併用することによつてツグミは春を春と感ぜず,また夏をも夏と感じないで,これを只管冬と思ひ込み,春の再來を心から待つてゐる.暗室に込めるのは大體八十八夜頃で,暗室から出すのは二百十日頃である.春から夏にかけた長い冬を,暗黒の中で暮らしたツグミの囮も二百十日が來て初めて一陽來復の喜びに浸る.
暗室から出された囮は,徐々にまぶしいばかりの秋の陽を楽しむ.陽に接する時間が段々長くなるに從つて餌も上等になり,水浴も十分に行はせられるやうになる.かうして段々肉もつき脂肪が乗ってくるやうになると,ホルモンの分泌も旺盛になつてき,それに従つて體内にはしびれるやうな生殖の衝動が感じられ,雌に呼びかける囀鳴がそろ/\始まつてくる.かうして狩獵解禁の十月十五日の直前になると,短い秋の陽だけでは不足となるので,夜飼が始められる.この夜飼ひと云ふのは,夜間電灯光線を見せて活動を續けさせ,睡眠をさせないためであつて,これは要するに人工による日中の延長である.これで解禁直前になると全く發情して,いい喉を聴かせるやうになる.
かうして養成した囮を持つて特定の網場に至り,獵を行ふのが所謂霞網猟なのである.
朝構へと夕構へ
この獵は拂暁と同時に開始せられるが,囮を網場に出すのは,まだ夜のあけないうちで,ほんたうに張り切つた囮になると真暗な網場で盛んに鳴くのがある.かう云ふ囮はもうすつかり發情して昂奮しきつてゐる證據である.然し囮が眞に活躍を始めるのは,夜が明けてかたであつて,夜明けと共に囮はケーケーと鳴き,クス/\と囀つてゐて,ちよつとの間も黙つてはゐない.燃え立つばかりの紅葉の山が,朝風の誘ひに一葉また一葉と紅葉を散らしてゆく感傷の秋の中にあつて,ツグミの囮だけは狂しいばかりに春の狂奏曲を奏でてゐる.心ある人たちが聴けば,これは涙の種であるが,無粋な私達はただ『いい聲で鳴いている』と囮の品定めをするのが關のやまである.
拂暁と共に跳ね起きた野のツグミ達は,今日の目的地に向かつて行動を起し,鳴き交ひながら此處へ來かかると,この鳴きに應へる同僚の存在に氣がつく.仲間は盛んに,こつちに來いと誘つてゐる.そこは恰度通り道ではありするので,そちらに近寄つていく.近寄つて見ると同僚は氣でも狂つたやうに歌つてゐる.遠いうちはケーケーと鳴いて呼んでゐたが,近づいて見るとクスクスクスクスと説きかける.ちょつと休んでゆけと云ふのである.そこで高度をぐつと低めて,その同僚の鳴いてゐる林の中に飛び込んで行く.一群の鳥の中にはこの時既に,眼に見えない網の中に飛び込むものもゐるが多くの鳥は,無事に同僚の鳴き狂ふ林へ降り立つことが出來る.段々その聲を訪ねて,同僚の近くへ寄つて行つて見ると,あにはからんや同僚は竹籠の中に閉ぢ籠められいゝ氣になつて歌つてゐるではないか.をかしな奴だと思つてゐる時,近くで急にバタン/\と云ふ音が起る.最初は鷹だと思つたが,どうもそれにしては少し間が抜けてゐる.然しこんな所に長居は無用だ.それ逃げろ!と,パーツと一氣に飛び抜けやうとすると眼に見えないものがこれを遮ぎる.これはしまつたと,あわてゝ振り切らんともがくと,却つて身に絲が絡みついて動きがとれない.近くを見るとあつちにもこつちにも同じやうに仲間がぶらんこしてゐる.一杯食ったと齒嚙みをしてゐると,變な男が袋をぶら下げて出て來て,一羽一羽取り外しては袋の中に詰め込む.その苦しい思ひを外に竹籠の中の廻者はまだ陽氣に歌つてゐる.
囮に誘われて網にゝかつたツグミ達にして見れば,これは泣いても泣き切れない失策だつたに違ひないが,これが人間の廻し者であらうとは到底判らう筈がない.この關所を通過しやうとするツグミ達は,餘程の幸運ものを除いては,皆同じように涙を呑んで敢えない最後を遂げる.これを同じことが過去何十年,何百年も續いて來た.今後何百年何千年私達の豫測し得ないことである.
前記富山縣の㹦谷のやうに何十萬と云ふ大群が,谷を埋めて渡つてくる鳥舎などはさうあらうとは思はれない.岐阜や長野の有名な鳥舎においても一群は多くて二百羽三百羽,少なくて十羽二十羽を例としてゐる.また鳥舎にして見れば一度に大群の飛來は害のみあつて一利がないから,小群が連續してくる方が實績が上がる.面白いのは㹦谷鳥舎のやうに何萬と云ふ大群が飛來すると,肝心な囮はその威勢に壓せられて縮み上り,鳴き聲一つ出さないと云ふ事で從つてて網にかゝる鳥は一羽もゐない.茲において囮の氣力の強弱が問題となつてくるが,真の名囮は大群に遭つても恐れず,小群を迎へてこれを侮らず,いつも同じ調子で鳴いてゐる,これこそ囮の中の囮と云へる.然し萬を持つて數へる大群に逢つてはいかなる囮も鳴き止んで了ふが,若しこれを平氣で鳴いてゐるような囮では,他の小群が,これを恐れ近寄らないから,結局そんな囮は役にたたない.
かうして夜明けと共に開始せられた霞網獵も十時十一時になると,否でも應でも中止となる.これはツグミの渡りが一時絶えるためである.これでも判るやうにツグミの渡りは早朝盛に行はれ,日中は中絶し,所によつては夕方渡りをみるところもあるが,かう云ふ所では夕構へと稱して,夕方獵をすることもあるが,囮が過度に疲勞するので餘り連續しては行はれない.
渡りは越冬が目的
(後略)」