2019年10月26日土曜日

イチハツ-14 洋-3-仮 屋根の上のイチハツ(4) E. R. シドモア『明治の人力車ツアー』, L. ハーン 『日本瞥見記』

Iris tectorum
英国の草葺屋根の家々 1978年 ケンブリッジ近郊
明治になると多くの西欧人が,政府から招聘され,或は個人的な興味から日本を訪れ,江戸時代には禁止されていた地方を旅行した.彼等は各地で見聞した風俗を新鮮な目で記録したが,中には,草ぶき屋根の棟を彩っていたイチハツを記述した記録を残した人々もいた.
西欧人女性として初めて単独で日本各地を訪れ,女性としての細やかで温かい目で日本の風景・風俗・人々とのかかわりを記したシドモアも,横浜近郊で見た屋根の上のイチハツを,“Jinrikisha days in Japan” に奇妙な言い伝えと共に記録している.
日本に帰化し,多くの日本紹介の書を刊行し,特に『怪談』で有名な小泉八雲の“Glimpses of Unfamiliar Japan『日本瞥見記』”にも,鎌倉の寺院や神社探訪の途上に見かけた農家の茅葺屋根の棟に咲く華麗な紫色の「yaneshobu:ヤネショウブ*」が記されている.

エリザ・ルアマー・シドモアEliza Ruhamah Scidmore1856 - 1928)は,アメリカの著作家・写真家・地理学者.ナショナル・ジオグラフィック協会初の女性理事となった.1884年頃,在横浜米国総領事館員の兄,ジョージ(George Hawthorne Scidmore, 1844-1922. 後に横浜総領事に昇格)を訪ねてきたのが初来日という.それ以降,1928年にかけてしばしば来日,滞在し,日本各地を主に人力車を用いて訪問した.91年にそれまでの体験を旅行記 Jinrikisha days in Japanにまとめ,ニューヨークで出版した.日本に関する写真入りの記事や著作も残している.

親日家であり,ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した人物である.(詳しくは,石田三男『明治の群像・断片〔その7〕 異色の駐米総領事 水野幸吉』近創史 No. 12, p16 (2011) 参照).

その“Jinrikisha days in Japan” “Yokohama” 及び “The Environs of Yokohama” の章に,横浜市内の風景の記述や,現在の横浜市磯子区の杉田にある,妙法寺近くの梅や桜の花を愛でる日本人家族の野遊びを記した文に,棟に百合の花壇を頂いた草ぶき屋根で葺かれた農家が記録されている.勿論この百合 “lilies” イチハツで,屋根の上で育てる理由の奇妙な言い伝えも記されている.

Eliza Ruhamah ScidmoreJINRIKISHA DAYS IN JAPAN” (1891) Harper & Brothers.

p.12 YOKOHAMA
“The farm-houses it passes are so picturesque that one
cannot believe them to have a utilitarian purpose. They
seem more like stage pictures about to be rolled away
than like actual dwellings. The new thatches are brightly
yellow, and the old thatches are toned and mellowed,
set with weeds, and dotted with little gray-green bunches
of " hen and chickens,*" while along the ridge-poles is a
bed of growing lilies. There is an old wife's tale to the
effect that the women's face-powder was formerly made
of lily-root, and that a ruler who wished to stamp out
such vanities, decreed that the plant should not be grown
on the face of the earth, whereupon the people promptly
dug it up from their gardens and planted it in boxes on
the roof.

*ツメレンゲ(爪蓮華、学名: Orostachys japonica)の類と思われる.

p 34-35  THE ENVIRONS OF YOKOHAMA

All this part of Japan is old, and rich in temples,
shrines, and picturesque villages, with a net-work of narrow
roads and shady by-paths leading through perpetual
Jinrikisha Days in Japan
scenes of sylvan beauty. Thatched roofs, whose ridge
poles are beds of lilies, shaded by glorified green plumes
of bamboo-trees, tall, red-barked cryptomerias, crooked
pines, and gnarled camphor-trees, everywhere charm the
eye. Little red temples, approached through a line of
picturesque torii—that skeleton gate-way that makes a
part of every Japanese view or picture—red shrines no
larger than marten boxes ; stone Buddhas, sitting crosslegged,
chipped, broken-nosed, headless, and moss-grown ;
odd stone tablets and lanterns crowd the hedges and
banks of the road-side, snuggle at the edges of groves,
or stand in the corners of rice fields.”

★エリザ R.シドモア著.外崎克久訳『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』(2002) 講談社学術文庫 1537 
p.37「  第二章 横 浜
本町通り、弁天通り
通り過ぎ行く農村の風景は、実用的とは思えないほど絵画的で、現実の住居というよりも、絶えず回る舞台背景のようです。新しい藁葺(わらぶ)き屋根は黄に輝き、そして古く熟成した色合いの藁葺き屋根には雑草が生え、灰緑色の〝雌鳥(めんどり)と雛(ひな)〞の巣*のような瘤(こぶ)が点在し、同時に棟木(むなぎ)沿いに百合(ゆり)を育てる花床(はなどこ)もあります。
以前、「女性の白粉(おしろい)は、百合の根で作られる」と老婦人から教えられました**。昔、領主は化粧品を虚栄の代物として禁止し、地面に百合を植えないよう布告したのです。そこで、領民は百合を庭から掘り起こし、巧妙に屋根の箱に植え替えたのです。」
*〝雌鳥(めんどり)と雛(ひな)〞の巣:ツメレンゲ(爪蓮華、学名: Orostachys japonica)の類と思われる.
**老婦人から教えられました.原文:old wife's tale = 馬鹿々々しいたわごと,作り話

p.63  「第四章 横浜の近郊
杉田梅林
日本でもこの辺りは何事も古く、寺院、神社、絵のような村落が豊富にあり、網の目のように狭い道や日陰の脇道が、とぎれなく美しい森を抜けていきます。藁葺(わらぶ)き屋根の棟木には百合の花床があり、これらの屋根は、荘厳な竹林、生命力旺盛な梅、背の高い赤く樹皮の剥けた日本杉、曲がった松、節だらけの楠(くすのき)の陰に隠れていますが、方々でハイカーの目を楽しませてくれます。
 絵のような鳥居(とりい)の列を抜けていくと、朱塗りの神社にたどりつきますが、その祠(ほこら)は貂(てん)の檻**ほどの大きさもありません。鳥居とは、あらゆる日本的風景や絵画の一部として構成される骸骨門(がいこつもん)です。この神社にあるプッグの石像群はあちこち壊され、鼻を欠き頭を失い苔むしたまま鎮座し、さらに石碑や石灯籠(いしどうろう)が生垣や土手に群がったり、森のはずれに寄り添ったり、またあるものは田圃(たんぼ)の角々(かどかど)に立っていました。」とある.
* marten boxes:テン捕獲用の箱型わな.

小泉八雲,パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) (1850 - 1904) は,ギリシャ生まれの英希をルートに持つ文学者,随筆家.1869年アメリカに渡って新聞記者生活をおくり,1890年ハーバー・マガジン社通信員として来日.後離職して,島根県松江中学の英語教師となった.1891年小泉セツと結婚,1896年日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る.
熊本の第五高等学校講師 (91) ,『神戸クロニクル』紙記者 (94) ,東京大学文学部講師 (96 - 1903) ,早稲田大学講師 (04) を歴任した.
日本の各地を歴訪し,『日本瞥見記』 Glimpses of Unfamiliar Japan (1894) ,『心』 Kokoro (96) ,『仏の畑の落穂』 Gleanings in Buddha-Fields (97) などで日本の風土と心を紹介する一方,日本の伝説に取材した『怪談』 Kwaidan (1904) で物語作者としての才能も発揮した.
彼が愛したのは儒教的礼節,神道的祖先崇拝,仏教的宿命観に裏づけられた前近代的な日本人であったが,絶えず認識を改めつつ東西文化の比較のうえで日本人をとらえ西洋に紹介した功績は大きい.1915 - 贈従四位.

★小泉八雲“Glimpses of Unfamiliar Japan『日本瞥見記』”(2 vols. Boston and New York, 1894.)の “Chapter FourA Pilgrimage to Enoshima (第四章 江の島行脚)には,鎌倉の寺院や神社探訪の途上に見かけた農家の茅葺屋根の棟に咲く華麗な紫色の「yaneshobu:ヤネショウブ*」が記されている.
*ヤネショウブ:イチハツの神奈川地方の方言

GLIMPSES OF UNFAMILIAR JAPAN
First Series
by LAFCADIO HEARN

IV
A PILGRIMAGE TO ENOSHIMA
I.

KAMAKURA.
A long, straggling country village, between low
wooded hills, with a canal passing through it. Old
Japanese cottages, dingy, neutral-tinted, with roofs
of thatch, very steeply sloping, above their wooden
walls and paper shoji. Green patches on all the
roof-slopes, some sort of grass; and on the very
summits, on the ridges, luxurious growths of yane-
shobu1, the roof-plant, bearing pretty purple flowers.
In the lukewarm air a mingling of Japanese odours,
smells of sake, smells of seaweed soup, smells of
daikon, the strong native radish; and dominating
all, a sweet, thick, heavy scent of incense,—incense
from the shrines of gods.
Akira has hired two jinricksha for our pilgrimage;
a speckless azure sky arches the world; and the land
lies glorified in a joy of sunshine. And yet a sense
of melancholy, of desolation unspeakable, weighs upon
me as we roll along the bank of the tiny stream,
between the mouldering lines of wretched little homes
with grass growing on their roofs. For this moul-
dering hamlet represents all that remains of the
million-peopled streets of Yoritomo's capital, the
mighty city of the Shogunate, the ancient seat of
feudal power, whither came the envoys of Kublai
Khan demanding tribute, to lose their heads for their
temerity. And only some of the unnumbered tem-
ples of the once magnificent city now remain, saved
from the conflagrations of the fifteenth and sixteenth
centuries, doubtless because built in high places, or
because isolated from the maze of burning streets by
vast courts and groves. Here still dwell the ancient
gods in the great silence of their decaying temples,
without worshippers, without revenues, surrounded by
desolations of rice-fields, where the chanting of frogs
replaces the sea-like murmur of the city that was and
is not.”

1 Yane, 'roof'; shobu, 'sweet-flag' (Acorus calamus*).
*Acorus calamus:サトイモ科のショウブの学名

小泉八雲著,平井呈一訳『日本瞥見記(上)』(1975,恒文社)                                                 
「 第四章 江の島行脚
        一
 鎌倉。
木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。
 アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら(ママ)、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。」

2019年10月23日水曜日

イチハツ-13 洋-2-仮 屋根の上のイチハツ(3) E. S. モース 『日本人の住まい』,『日本その日その日』

Iris tectorum
英国ケンブリッジ近郊の草葺屋根の家 1978年
明治になると多くの西欧人が,政府から招聘され,或は個人的な興味から日本を訪れ,江戸時代には禁止されていた地方を旅した.彼等は各地で見聞した自然や風俗を新鮮な目で記録したが,中に,草ぶき屋根の棟を彩っていたイチハツを記述を残した人々もいた.

大森貝塚を発見したことで知られるモースは,建築にも興味を持っていて,有名な “JAPAN DAY BY DAY” 30年前に出版した Japanese Homes and their Surroundingsでは,日本の家屋の外観・構造・建築法・間取りのみならず,室内装飾や暮らし方まで,日本の風土や歴史に則って記した.この書は当時の欧米で高い評価を得ていた.
この書や JAPAN DAY BY DAYには,横浜や江戸近郊や,植物学者矢田部良吉と共に旅した東北・北海道で見た家屋の草葺屋根の上に植えられているイチハツやオニユリを驚きの目で記録している.米国の草屋根には,植物を積極的に棟に植える事は無かったのであろう.

帝国大学の初代動物学教授モース(エドワード・シルヴェスター,Morse, Edward Sylvester, 1838 - 1925)は,ハーバード大学のルイ・アガシー教授の元で貝類の研究をしていたが,進化論の観点から腕足動物を研究対象に選び,1877年,腕足動物の種類が多く生息する日本に来た.文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から,貝塚を発見.これが,後に彼によって日本初の発掘調査が行なわれる大森貝塚である.訪れた文部省では,東京大学の動物学・生理学教授への就任を請われ,お雇い教授を2年務め,大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した.また,江ノ島の漁師小屋を『臨海実験所』に改造し,海産生物の収集を行った.日本の古美術品,特に陶器に興味を持ち,度々来日し収集,そのコレクションはボストン美術館へ譲渡され,また民具のコレクションは現在のピーボディー博物館の基礎となった.
日本に初めて,ダーウィンの進化論を体系的に紹介し,大衆の教化のための公開講演を度々開いたことでも知られる.
彼の日本について書いた最初の書籍で,西欧の民俗学者たちに高く評価された,“Japanese Homes and their Surroundings” (1889) には,彼が1878 年 月に東大植物学科初代教授の矢田部良吉 (1851 - 1899) と共に旅した北海道(Yezo)の,室蘭近くで見た草ぶき屋根の棟(草棟)に咲くユリ(オニユリ)の記述と共に,東京付近では,青と白の花の咲くイチハツ(原文:iris)が草棟に見られると記した.

Morse “Japanese Homes and their Surroundings” (1889) Harper & Brothers
CHAPTER II.
TYPES OF HOUSES. 
THATCHED ROOFS

“Another house, shown in fig. 41, was seen on the road to
Mororan, in Yezo. Here the smoke-outlet was in the form of
a low supplementary structure on the ridge. The ridge itself
was flat, and upon it grew a luxuriant mass of lilies. This roof
was unusually large and capacious.
Fig. 41.—House Near Mororan, Yezo.
In that portion of Japan lying north of Tokio the ridge is
much more simple in its construction than are those found in
the southern part of the Empire. The roofs are larger, but their
ridges, with some exceptions, do not show the artistic features,
or that variety in form and appearance, that one sees in the
ridges of the southern thatched roof. In many cases the ridge
is flat, and this area is made to support a luxuriant growth
of iris, or the red lily (fig. 41). A most striking feature is
often seen in the appearance of a brown sombre-colored village,
wherein all the ridges are aflame with the bright-red blossoms
of the lily; or farther south, near Tokio, where the purer
colors of the blue and white iris form floral crests of exceeding
beauty.”

和訳は E.S.モース著,斎藤正二・藤本周一訳『日本人の住まい (2000) 八坂書房 より引用

「第二章 家屋の形態
都市および田舎の家屋
草葺屋根
四一図に示したいま一つの家は、蝦夷の室蘭Mororan(ママ)に通じる道路沿いにあったものである。この場合、煙ぬきは、棟の中央部に小さな棟を補助的に重ねたかたちになっている。棟自体は平らになっていて、そこにかなりの数の百合が生えている。この屋根は、大きくて広々とした点では稀に見るものであった。

東京の北部で見られる棟の造りは、日本でも南の地域におけるものに比べてはるかに簡単である。屋根自体は大型であるが、若干の例外を除けば、南日本の草葺屋根の棟に見られるような凝った造りや形態の変化は、その棟に見られない。多くの場合、棟は平らで、この部分は、「菖蒲(しょうぶ)」の類などを植えたりする。四一図では百合が植えられている。褐色のくすんだ色調の村のたたずまいのなかで、家家の棟に、菖蒲の類が鮮やかに咲き乱れた様子はほんとうに印象的である。また、東京近郊でも、ずっと南へ行くと、一段と鮮やかな青色や白色の菖蒲が植えられていて花による棟飾りの美しさはまさに格別である。」とある.

また,モースの日本滞在記とも言うべき JAPAN DAY BY DAY正式名称 “Japan day by day, 1877, 1878-79, 1882-83; with illustrations from sketches in the author's Journal” (1917) にも,草棟に植えられたイチハツやオニユリの記述が残るが,上陸した横浜から東京への初めての旅で,早くも多くの草葺屋根の棟にイチハツの葉(原文:leaves like the iris)が見られることに注目していた.
また,日光の訪問の人力車旅行の途上では,空色の花を着けるイチハツ(原文:blue iris)が草棟に王冠の輝きを与えると記し,また,彼が開設した江の島実験場から横浜駅に向かう農村や,矢田部教授と旅した北海道・東北地方においても,草ぶき屋根の棟に咲くオニユリや鳶尾を観察した.

JAPAN DAY BY DAY
VOLUME I
A RAILROAD JOURNEY p11
(中略)
We rode across Yokohama in the fascinating jinrikishas
on our first visit to Tokyo, the name meaning "Eastern Capi-
tal." It is a city of nearly a million inhabitants. Its old name
was Yedo, and the older foreign residents still call it Yedo.
The train bearing us to Tokyo was made up of first, second,
and third class cars; we found the second class cars clean and
comfortable. The cars are a triple cross between the Eng-
lish car, the American car, and the American horse-car. The
couplings, truck, and bunter-beam are English, the platforms
and doors in ends of cars are American, and the seats running
lengthwise are like our horse-cars. With what interest we
watched the landscape. The rice-fields, stretching for miles
on each side of the railroad, are now (June) covered with
water, and the people working in them are up to their knees
in mud ; the new rice, of a light-green color, contrasts vividly
with the dark shaded groves. The farmhouses have enor-
mous thatched roofs, on the ridge-poles of which are growing
plants with leaves like the iris. At intervals we passed a
temple of worship, or a shrine, always in some charming, picturesque
place surrounded by trees. The sights were novel and
absorbing and the ride of seventeen miles went like a flash.

以下和訳は「モース著 石川欣一訳『日本その日その日〔全3巻〕』東洋文庫171 (1970)」より引用

p12 「1877年の日本  東京と横浜
(中略)
我々は横浜を、例の魅力に富んだ人力車で横断した。東京は人口百万に近い都会である。古い名前を江戸といったので、以前からそこにいる外国人達はいまだに江戸と呼んでいる。我々を東京へ運んで行った列車は、一等、二等、三等から成り立っていたが、我々は二等が充分清潔で且つ楽であることを発見した。車は英国の車と米国の車と米国の鉄道馬車との三つを一緒にしたものである。連結機と車台と.ハンター・ビームは英国風、車重の両端にある昇降台と扉とは米国風、そして座席が事と直角に着いている所は米国の鉄道馬車みたいなのである。我々は非常な興味を以てあたりの景色を眺めた。鉄路の両側に何マイルも何マイルもひろがる稲の田は、今や(六月)水に被われていて、そこに鋤く人達は膝のあたり迄泥に入っている。淡緑色の新しい稲は、濃い色の木立に生々した対照をなしている。百姓家は恐ろしく大きな草葺きの屋根を持っていて、その脊梁には鷲尾(とんび)に似た葉の植物*が生えている。時時我々はお寺か社を見た。いずれもあたりに木をめぐらした、気特のいい、絵のような場所に建ててある。これ等すべての景色は物珍しく、かつ心を奪うようなので、十七マイルの汽車の旅が、一瞬間に終って了った。
*直訳:アイリスに似た葉の植物」

また日光を訪問の途上でも
THE BOYS' FESTIVAL p.64
We never ceased to admire the ingenious way in which the
thatched roof is treated; so much taste displayed in such a
material. It is said that a good thatched roof will last fifty
years.1 The remarkable feature about the thatched roof in
Japan is the fact that each province will have its own style, so
that one familiar with the various types might land in that
country in a balloon and determine the province he was in
by the appearance of the ridge-pole of the house. Samuel
Colman, the artist, criticized our roofs on account of their
monotonous appearance; a straight ridge instead of some
graceful curve and ornamental ends, and this kind of a roof
from California to Maine. Here the ridges are in many in-
stances elaborate structures. Plants grow from the matted
straw, and on some I have seen a superb crown of blue iris
completely covering the ridge-pole.

日光への旅
(中略)
萱葺屋根の葺きようの巧みさには、いくら感心しても感心しきれなかった。こんな風なことに迄、あく迄よい趣味があらわれているのである。よく葺いた屋根は五十年ももつそうである*
*『日本の家庭』には屋根のことが写生図と共にある程度まで取扱ってある。
日本の萱葺屋根の特異点は、各国がそれぞれ独特の型式を持って相譲らぬことで、これ等各種の型式をよく知っている人ならば、風船で日本に流れついたとしても、家の背梁の外見によって、どの国に自分がいるかがすぐ決定出来る程である。画家サミュエル・コールマンはカリフォルニアからメインに至る迄どの家の屋根も直線の脊梁を持っていて、典雅な曲線とか装飾的な末端とかいうものは薬にしたくも見当らぬといって、我国の屋根の単純な外見を批難した。日本家屋の脊梁は多くの場合に於て、精巧な建造物である。編み合わした藁から植物が生える。時に空色の燕子花(かきつばた)が、見事な王冠をなして、完全に背梁を被っているのを見ることもある。」とある.

彼が江の島に開設した海洋生物の研究所から,横浜への道筋にある風物を記した文章にも,イチハツを戴く屋根をもつ家々が記されている.
THE PROFESSORSHIP OF ZOOLOGY p140
In going south, even the short distance to Enoshima, a slight
difference is seen in the houses of the villages. In one village
every house had growing from the ridge of the roof a dense
mass of iris. The ride was very picturesque, charming views of
Fuji appearing every now and then. It is certainly a wonder-
ful mountain, standing up so loftily above everything else.
At times we would pass through a ponderous gateway capped
with flowers. The tea-houses, or inns, will often have for a
sign a weather-worn, irregular piece of wood upon which the
name of the place will be painted in characters. The sweet
single pink that we raise in our gardens at home is here seen
growing wild along the road. The highly perfumed lily, Lilium
Japonicum*, is not an uncommon object and the atmosphere is
scented with its sweet, nutmeg odor.

* Lilium Japonicumこの学名 Lilium japonicum はササユリ(左図,左)のそれであるが,横浜附近の平地には自生せず.香りもナツメグとは異なり,強くもない.ヤマユリ Lilium auratum(左図,右)の誤りと思われる.

p124 大学の教授職と江ノ島の実験所

南へ行くに従って、江ノ島まで位の短い内であっても、村々の家屋に相違のあるのか認められる。ある村の家は、一軒残らず屋根に茂った鳶尾(とんび)草*を生やしていた。この人力車の旅は、非常に絵画的であった。富士山の魅力に富んだ景色がしばしば見られた。かくもすべての上にそそり立つ富士は、確かに驚く可き山岳である。時々我々は花を頂いた、巨大な門を通りぬけた。茶屋や旅籠屋には、よく風雨にさらされた、不規則な形をした木片に、その名を漢字で書いたものが看板としてかけてある。我々の庭で栽培する香のいい一重の石竹が,ここでは路傍に野生している。また非常に香の高い百合(Lilium Japonicum)を見ることも稀でなく、その甘ったるい、肉荳蒄(にくずく)に似た香があたりに漂っている。」とある.
*直訳:アイリス

更に,矢田部良吉と共に訪れた北海道(蝦夷)及びその往復の途上の風物を記録した部分にも,屋根の上の植物を記録した.
JAPAN DAY BY DAY
VOLUME I
CHAPTER XII 416
YEZO, THE NORTHERN ISLAND
July 13, 1878. I left Yokohama on the steamer this evening
for Yezo. Our party consisted of Professor Yatabe, botanist,
and his assistant and a servant; my assistant, Mr. Taneda, and
a servant; and Mr. Sasaki.

VOLUME II
CHAPTER XIII 33
THE AINUS
WAYSIDE SHRINES
(中略)
Before reaching Mororan the scenery became delightful.
The low mountains and inlets of the sea and the Bay of
Mororan, with its long, yellow beach, would have made a
fine subject for a picture. Figure 409 gives a rough idea of
the region. Near Mororan was a curiously shaped Japanese
house, the roof unusually high, with the flat ridge covered
with lilies, iris, and other flowers. The roof was thinly
34      JAPAN DAY BY DAY
thatched, and the little shed-like roofs near the eaves were
covered with round stones.*

* See Japanese Homes, fig. 41.

第十二章 北方の島 蝦夷
一八七八年七月十三日
今晩私は、汽船で横浜を立ち、蝦夷へ向った。一行は、植物学者の矢田部教授、彼の助手と下僕、私の助手種田氏と下僕、それから佐々木氏とであった。

室蘭に着く前の景色は実に目をたのしませた。低い山々、海の入江、長い黄色い浜を持つ室蘭湾は、画の主題としては何よりであろう。図409はこの附近の景色を、ざっと画いたものである。室蘭近くに、面白い形の日本家があった。屋根が並外れて高く、その平な家梁(むね)には、一面に百合や、鳶尾(いちはつ)や、その他の花が咲いていた。屋根は薄く葺いてあり、軒に近い小屋がけみたいな小屋根には、丸い石がのせてあった*
* 『日本の家庭』四一図を見よ。」とある.

草ぶき屋根の家は米国にもあるが,日本のそれの巧みさ,地方による構造の差異等に興味を持ったモースは,“Japanese Homes and their Surroundings” に,その葺き方や道具や,各地方の草ぶき屋根の外観等を挿図入りでかなり長く記述している.

草棟に植えられた植物はアメリカにはなかったものと見えて,日本のそれについては多くの記事を残したが,植えられている理由については,何も考察していない.