英国の草葺屋根の家々 1978年 ケンブリッジ近郊 |
明治になると多くの西欧人が,政府から招聘され,或は個人的な興味から日本を訪れ,江戸時代には禁止されていた地方を旅行した.彼等は各地で見聞した風俗を新鮮な目で記録したが,中には,草ぶき屋根の棟を彩っていたイチハツを記述した記録を残した人々もいた.
西欧人女性として初めて単独で日本各地を訪れ,女性としての細やかで温かい目で日本の風景・風俗・人々とのかかわりを記したシドモアも,横浜近郊で見た屋根の上のイチハツを,“Jinrikisha days in Japan” に奇妙な言い伝えと共に記録している.
日本に帰化し,多くの日本紹介の書を刊行し,特に『怪談』で有名な小泉八雲の“Glimpses
of Unfamiliar Japan『日本瞥見記』”にも,鎌倉の寺院や神社探訪の途上に見かけた農家の茅葺屋根の棟に咲く華麗な紫色の「yaneshobu:ヤネショウブ*」が記されている.
エリザ・ルアマー・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore,1856 - 1928)は,アメリカの著作家・写真家・地理学者.ナショナル・ジオグラフィック協会初の女性理事となった.1884年頃,在横浜米国総領事館員の兄,ジョージ(George Hawthorne
Scidmore, 1844-1922. 後に横浜総領事に昇格)を訪ねてきたのが初来日という.それ以降,1928年にかけてしばしば来日,滞在し,日本各地を主に人力車を用いて訪問した.91年にそれまでの体験を旅行記 “Jinrikisha days in Japan” にまとめ,ニューヨークで出版した.日本に関する写真入りの記事や著作も残している.
親日家であり,ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜並木を作ることを提案した人物である.(詳しくは,石田三男『明治の群像・断片〔その7〕
異色の駐米総領事
水野幸吉』近創史 No. 12, p16 (2011) 参照).
その“Jinrikisha days in
Japan” の “Yokohama” 及び “The Environs of Yokohama” の章に,横浜市内の風景の記述や,現在の横浜市磯子区の杉田にある,妙法寺近くの梅や桜の花を愛でる日本人家族の野遊びを記した文に,棟に百合の花壇を頂いた草ぶき屋根で葺かれた農家が記録されている.勿論この百合
“lilies” はイチハツで,屋根の上で育てる理由の奇妙な言い伝えも記されている.
★Eliza Ruhamah Scidmore “JINRIKISHA DAYS IN JAPAN”
(1891) Harper & Brothers.
p.12 YOKOHAMA
cannot believe them to have a utilitarian
purpose. They
seem more like stage pictures about to be
rolled away
than like actual dwellings. The new
thatches are brightly
yellow, and the old
thatches are toned and mellowed,
set with weeds, and dotted with little gray-green bunches
of " hen and chickens,*" while along the ridge-poles is a
bed of growing lilies. There is an old wife's tale to the
effect that the women's face-powder was
formerly made
of lily-root, and that a ruler who wished
to stamp out
such vanities, decreed that the plant
should not be grown
on the face of the earth, whereupon the
people promptly
dug it up from their gardens and planted it
in boxes on
the roof.
*ツメレンゲ(爪蓮華、学名: Orostachys japonica)の類と思われる.
p
34-35 THE ENVIRONS OF YOKOHAMA
shrines, and picturesque villages, with a
net-work of narrow
roads and shady by-paths leading through
perpetual
Jinrikisha Days in Japan
scenes of sylvan beauty. Thatched roofs, whose ridge
poles are beds of lilies, shaded by glorified green plumes
of bamboo-trees, tall, red-barked
cryptomerias, crooked
pines, and gnarled camphor-trees,
everywhere charm the
eye. Little red temples, approached through
a line of
picturesque torii—that skeleton gate-way
that makes a
part of every Japanese view or picture—red
shrines no
larger than marten boxes ; stone Buddhas,
sitting crosslegged,
chipped, broken-nosed, headless, and
moss-grown ;
odd stone tablets and lanterns crowd the
hedges and
banks of the road-side, snuggle at the
edges of groves,
or stand in the corners of rice fields.”
★エリザ R.シドモア著.外崎克久訳『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』(2002) 講談社学術文庫 1537
p.37「 第二章 横 浜
本町通り、弁天通り
通り過ぎ行く農村の風景は、実用的とは思えないほど絵画的で、現実の住居というよりも、絶えず回る舞台背景のようです。新しい藁葺(わらぶ)き屋根は黄に輝き、そして古く熟成した色合いの藁葺き屋根には雑草が生え、灰緑色の〝雌鳥(めんどり)と雛(ひな)〞の巣*のような瘤(こぶ)が点在し、同時に棟木(むなぎ)沿いに百合(ゆり)を育てる花床(はなどこ)もあります。
以前、「女性の白粉(おしろい)は、百合の根で作られる」と老婦人から教えられました**。昔、領主は化粧品を虚栄の代物として禁止し、地面に百合を植えないよう布告したのです。そこで、領民は百合を庭から掘り起こし、巧妙に屋根の箱に植え替えたのです。」
*〝雌鳥(めんどり)と雛(ひな)〞の巣:ツメレンゲ(爪蓮華、学名: Orostachys japonica)の類と思われる.
**老婦人から教えられました.原文:old
wife's tale = 馬鹿々々しいたわごと,作り話
p.63 「第四章 横浜の近郊
杉田梅林
日本でもこの辺りは何事も古く、寺院、神社、絵のような村落が豊富にあり、網の目のように狭い道や日陰の脇道が、とぎれなく美しい森を抜けていきます。藁葺(わらぶ)き屋根の棟木には百合の花床があり、これらの屋根は、荘厳な竹林、生命力旺盛な梅、背の高い赤く樹皮の剥けた日本杉、曲がった松、節だらけの楠(くすのき)の陰に隠れていますが、方々でハイカーの目を楽しませてくれます。
絵のような鳥居(とりい)の列を抜けていくと、朱塗りの神社にたどりつきますが、その祠(ほこら)は貂(てん)の檻**ほどの大きさもありません。鳥居とは、あらゆる日本的風景や絵画の一部として構成される骸骨門(がいこつもん)です。この神社にあるプッグの石像群はあちこち壊され、鼻を欠き頭を失い苔むしたまま鎮座し、さらに石碑や石灯籠(いしどうろう)が生垣や土手に群がったり、森のはずれに寄り添ったり、またあるものは田圃(たんぼ)の角々(かどかど)に立っていました。」とある.
* marten boxes:テン捕獲用の箱型わな.
小泉八雲,パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn) (1850 - 1904) は,ギリシャ生まれの英希をルートに持つ文学者,随筆家.1869年アメリカに渡って新聞記者生活をおくり,1890年ハーバー・マガジン社通信員として来日.後離職して,島根県松江中学の英語教師となった.1891年小泉セツと結婚,1896年日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る.
熊本の第五高等学校講師 (91) ,『神戸クロニクル』紙記者 (94) ,東京大学文学部講師 (96 - 1903) ,早稲田大学講師 (04) を歴任した.
日本の各地を歴訪し,『日本瞥見記』 Glimpses of Unfamiliar
Japan (1894) ,『心』 Kokoro (96) ,『仏の畑の落穂』 Gleanings in Buddha-Fields (97) などで日本の風土と心を紹介する一方,日本の伝説に取材した『怪談』 Kwaidan (1904) で物語作者としての才能も発揮した.
彼が愛したのは儒教的礼節,神道的祖先崇拝,仏教的宿命観に裏づけられた前近代的な日本人であったが,絶えず認識を改めつつ東西文化の比較のうえで日本人をとらえ西洋に紹介した功績は大きい.1915年 - 贈従四位.
★小泉八雲“Glimpses of Unfamiliar Japan『日本瞥見記』”(2 vols. Boston and New York, 1894.)の “Chapter Four.A Pilgrimage to
Enoshima (第四章 江の島行脚)” には,鎌倉の寺院や神社探訪の途上に見かけた農家の茅葺屋根の棟に咲く華麗な紫色の「yaneshobu:ヤネショウブ*」が記されている.
*ヤネショウブ:イチハツの神奈川地方の方言
“GLIMPSES
OF UNFAMILIAR JAPAN
First
Series
by
LAFCADIO HEARN
IV
A
PILGRIMAGE TO ENOSHIMA
I.
wooded hills, with a canal passing through
it. Old
Japanese cottages, dingy, neutral-tinted,
with roofs
of thatch, very steeply sloping, above
their wooden
walls and paper shoji. Green patches on all
the
roof-slopes, some sort of grass; and on the very
summits, on the ridges,
luxurious growths of yane-
shobu1, the
roof-plant, bearing pretty purple flowers.
In the lukewarm air a mingling of Japanese
odours,
smells of sake, smells of seaweed soup,
smells of
daikon, the strong native radish; and
dominating
all, a sweet, thick, heavy scent of
incense,—incense
from the shrines of gods.
Akira has hired
two jinricksha for our pilgrimage;
a speckless azure sky arches the world; and
the land
lies glorified in a joy of sunshine. And
yet a sense
of melancholy, of desolation unspeakable,
weighs upon
me as we roll along the bank of the tiny
stream,
between the mouldering lines of wretched
little homes
with grass growing on their roofs. For this
moul-
dering hamlet represents all that remains
of the
million-peopled streets of Yoritomo's
capital, the
mighty city of the Shogunate, the ancient
seat of
feudal power, whither came the envoys of
Kublai
Khan demanding tribute, to lose their heads
for their
temerity. And only some of the unnumbered
tem-
ples of the once magnificent city now
remain, saved
from the conflagrations of the fifteenth
and sixteenth
centuries, doubtless because built in high
places, or
because isolated from the maze of burning
streets by
vast courts and groves. Here still dwell
the ancient
gods in the great silence of their decaying
temples,
without worshippers, without revenues,
surrounded by
desolations of rice-fields, where the
chanting of frogs
replaces the sea-like murmur of the city
that was and
is not.”
1 Yane, 'roof'; shobu, 'sweet-flag' (Acorus calamus*).
*Acorus calamus:サトイモ科のショウブの学名
小泉八雲著,平井呈一訳『日本瞥見記(上)』(1975,恒文社)
「 第四章 江の島行脚
一
鎌倉。
木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの斑(ふ)がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお汁(つけ)のにおい、お国自慢の太いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。
アキラは、きょうの行脚のために、人力車を二台やとってきた。一点の雲もない青空が、大きな弧を描いて下界をかぎっており、大地は、さんさんたる楽しい日の光りに照らされている。それでいながら、われわれが、屋根草のはえた貧しい農家のあいだを流れている小川の土手にそうて、俥を走らせて行く道々、何とも名状しがたい荒涼とした悲愁の思いが、胸に重くのしかかってくるのは、この荒れはてた村落が、かつては将軍頼朝の大きな都どころ――貢物(みつぎもの)を強要にきた忽必烈(クビライ)の使者が、無礼をかどに斬首された、あの封建勢力の覇府の名ごりをとどめいるところだからである。今ではわずかに、当時の都にあまたあった寺院のうち、おそらくは高い場所にあったためか、あるいは境内が広く、深く木立でもあって、炎上する街衢(がいく)から離ていたためかで、十五、六世紀の兵燹(へいせん)を免れて現存しているものが、ほんのいくらかあるに過ぎないというありさまである。荒れほうだいに荒れはて、参詣者もなければ、収入とてもないこの土地の、そうした寺院の深い静寂のなかに、そのかみの都の潮騒(しおさい)のごとき騒音とは似てもつかぬ、いたずらに寂しい蛙の声のみかまびすしい田圃にかこまれがら(ママ)、古い仏たちが、今もなお依然として住んでいるのである。」