2020年1月30日木曜日

レンゲツツジ(1)特徴,名の由来,毒性,地方名

Rhododendron molle subsp. japonicum
2002年6月 那須
 日本原産のツツジ属としては,大型の花を着け,黄色みを帯びた花色と,五本の雄蕊,先の丸い葉で他のツツジ属の種とは区別できる.高原や明るい山麓に多いが,全体が有毒のため,放棄された放牧地などで群生し,観光地ともなっている.花の色は一定でなく,黄色のものをキレンゲツツジ,帯紅黄色のものをカバレンゲ,濃朱紅色のものをコウレンゲとして区別するが本質的な差はない.群馬県の県花.

レンゲツツジの名称は,花茎の先端に散状に着く開花前の上を向いた花の蕾の形が,ハスの花・仏像の蓮華座・レンゲソウ(ゲンゲ)に似ているからと思われ,また周防地方の方言「やつがしら」も,この蕾の形状に由来すると思われる.

江戸時代まで,この植物は,日本の本草では中国原産の羊躑躅(シナレンゲツツジ,R. molle)と同一とみなされていたが,現在はその亜種とするのが一般的.従って厳密にいえばレンゲツツジの漢名を羊躑躅とするのは誤りだが,その毒性や薬効には共通点が多い.従って古くからレンゲツツジは,中国本草書にある羊躑躅として扱われたが,実際に日本で漢方薬として使われたかは不明.

葉にはアンドロメドトキシン(andromedotoxin),花にはロドジャポニン(rhodjaponine),根皮にはスパラゾール(sparazol),有毒ジテルペンのrhodjaponine I-VIIを含む.アンドロメドトキシンはロードトキシンとも呼ばれ有毒ジテルペンの grayanotoxin-I と同一物質である。
                                  
Grayanotoxin I   R1=OH         R2=CH3       R3=CH3CO

花からは, rhodjaponine IIIIIIが検出されていて,レンゲツツジの花からハチが集めた蜜を摂食すると中毒になることがある.
これらの有毒物質は痙攣毒であり,基本種のシナレンゲツツジの漢名「羊躑躅」の名は,ヒツジ(羊)がこの植物を食するとふらふらとし,歩けなくなること(躑躅,てきちょく)に由来するという.中国でこの Rhododbendron moll G. DON(中)羊躑躅 の花の花序全体を鬧羊花(どうようか)と呼んで,鎮痛,鎮痙薬としてリウマチや神経痛,あるいは手術時の麻酔補助に用いている.また,根を羊躑躅根(ようていしょくこん),果実を六軸子(ろくじくし)といっていずれも花と同様に鎮風鎮痙,消炎薬とし,粉末にして内服(1日:0.30.5g),あるいは酒に浸け,あるいは粉末にして患部にはりつけて応用し,リウマチ,神経痛,できものなどに用いる.
毒性は少量時,心臓のはく動が遅くなり,血管拡張して血圧が降下する.中毒症状は悪心・唾液の分泌があり,手足がしびれ,歩行困難となり,呼吸困難,不整脈を経て死に至る.レンゲツツジの漠名を羊躑躅とするのは誤っているが,植物体,薬効とも類似しており,中国の使い方をならったものといえるかもしれない.
日本の民間薬として,この花または根を酒に浸して飲用し,痛風やリウマチによる疼痛に対する鎮痛薬として用いられることがある.毒性が強いので,家庭での利用には厳重な注意が必要である.
(出典:医薬品情報21調査者:古泉秀夫,分類:63.099.RHO,記入日:2007.4.6.,木村康一,木村孟淳『原色日本薬用植物図鑑』保育社 (1981)

レンゲツツジの地方名としては,毒性に由来すると思われる「あたまいた- 広島(比婆)/じごくつつじ 栃木(日光)/どくつつじ 青森 秋田(鹿角)/やくびょ-ばな 長野(下水内)」.特異な色に由来すると思われる「きしゃくなげ 摂州」.毛皮の色に由来すると思われる「いぬつつぎ 山形/いぬつつじ 山形/きつねつつじ 紀州 長野(上伊那・下伊那)/きつねばな 京都(竹野)」.また動物に対する毒性に関連すると思われる「ねずつつじ 香川(香川)/うまつつし 秋田/うまつつじ 伊州 埼玉(秩父)/べこつつじ 秋田(仙北)」.花が通常のヤマツツジより大きいことに由来すると思われる「おにつつじ 神奈川(津久井)長野/せ-よ-つつじ 青森(津軽)」.花や葉,芽や蕾の性状・形状に由来すると思われる「つりがねつつじ 熊本(八代)/ねばつつじ 和歌山 香川(大川・木田)高知(安芸)/ねばねばつつじ 高知(安芸)/ねぼりつつじ 和歌山(東牟婁)/やつがしら 周防」等があり,更にやや遅い花期に由来すると思われる「かっぼ-ばな 広島(比婆)/そ-とめしば 広島(比婆)」が記録されている.(八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001

レンゲツツジが有毒の花をつける事は,以下の時代小説に取り上げられているが,一方,大野芳 (1941) の随筆には実際にこの花を食したともあり,あまり強力な毒性はなく、少量の摂取では死亡することはないと思われるが,2015年にはこの花による中毒事故も新潟県で発生している.
★坂岡真『照れ降れ長屋風聞帳 あやめ河岸』(2006) 双葉文庫.
事件現場に置かれていた盆栽の価値を尋ねるため,主人公の小太刀の達人三左右衛門は流行りの鉢物に詳しい隠居八尾半兵衛を訪ねた.
「縁側には酒肴が用意され、平皿には独活と躑躅の花弁が盛ってある。躑躅の赤に独活の白、鮮やかな色彩が目を楽しませてくれた。躑躅には「食い花」の異名がある。
赤い花弁を食うおつやの仕草が、妙に艶めいてみえた。三左右衛門は盆栽を抱えたまま、庭の端に突ったっていた。
………………半兵衛は皺首(しわくび)をねじり、にっと入れ歯を剥いた。
無造作に躑躅の花を手折り、こちらへ差し出す。
 「食うか」
 「はあ」
 「ふっ、やめておけ」
 「誘っておいてそれはないでしょう」
 「これは蓮華躑躅じゃ、食えば脳味噌が痺れ、足はふらつく。莫迦な山羊(やぎ)なぞがよく引っかかるのよ、くくく」
 「わたしは山羊ですか」
 「山羊のほうがましじゃろうな。ふっ、ちょっと見はおなじに見える可憐な花でも、毒をふくんでおることがままある。おなごもいっしょじゃ、不器用なおぬしに教訓を垂れてやったまでよ」
 「余計なお世話ですな」」
とある.
★大野芳『草軽鉄道便()レンゲツツジ--牛も食わない毒花をタマコトシにして食へてしまった僕』潮 No. 413 (1993)
「レンゲツツジの花弁は、ワカメのように肉薄だが、舌ざわりがよさそう。それに、結婚式のときに桜茶という塩づけにした桜の花びらをいただくように、レンゲツツジを「おひたし」にしたら、味はともかくとして花びらの色がでて美しい。」とある.
にいがた食の安全インフォメーション「毒草による食中毒」によれば,2015年5月10日に,新潟県南魚沼市で,家庭で調理したレンゲツツジを食した一人が死亡に至らない中毒事故を起こしたとの事だが,調理法・摂取量・病状などは不明(http://www.fureaikan.net/syokuinfo/01consumer/con02/con02_03/con02_03_02.html).

2020年1月9日木曜日

イチハツ (23/23) 西欧文献-6-仮,英国ロマン派詩人シェリー,“MARENGHI” イタリアの屋根の上にアイリス.リチャード・リンチ,“The Book of the Iris” 屋根の上に栽培の日本の伝説

Iris tectorum
草ぶき屋根の上にアイリスを植える習慣は,日本のみならず,フランスのブルターニュ地方でも見られる.日本ではイチハツが一般的であるが,フランスではジャーマン・アイリスである事は前の記事に述べた.イタリアでもそのような習慣がある事が,英国ロマン派詩人のシェリーが,滞伊中 1818 年の詩 MARENGHIに詠っている.
英国のアイリス協会の設立者の一人,リチャード・リンチの書いた,アイリス属のモノグラフ The Book of the Iris” (1904) には,イチハツは日本で屋根の上に栽培される歴史についての奇妙な伝説が記載されている.

パーシー・ビッシュ・シェリーShelley, Percy Bysshe. 1792 - 1822)は,イングランドのロマン派詩人.1818年,シェリーは後妻メアリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley, 1797 - 1851)を連れてイタリアに赴き,フィレンツェ,ピサ,ナポリ,ローマなど各地を転々としながらプラトンの『饗宴』を翻訳したり,大作『縛を解かれたプロメテウス』(Prometheus Unbound)を書き進めたりした.
182278日,ジェノヴァの造船業者に特注で建造させた帆船エアリアル(Ariel)に乗り,フィレンツェ近くの港町リヴォルノ(Livorno)からレーリチ (Lerici) への帰途についた数時間後,ヴィアレッジョ (Viareggio) 沖で突然の暴風雨に襲われ,船が沈没し,死亡した.

彼がイタリア滞在中に作った詩は,後の1905年に出版されたが,「シェリーとのイタリア (With Shelley in Italy : being a selection of the poems and letters of Percy Bysshe Shelley which have to do with his life in Italy from 1818 to 1822) MARENGHIには,アイリス (Broad flag) が生えた蘆葺の屋根の家が詠われている.

With Shelley in Italy : being a selection of the poems and letters of Percy Bysshe Shelley which have to do with his life in Italy from 1818 to 1822” by Shelley, Percy Bysshe, (1792-1822)

Publication date 1905
THE YEAR 1818
MARENGHI
I
LET those who pine in pride or in revenge,
Or think that ill for ill should be repaid.
Or barter wrong for wrong, until the exchange
Ruins the merchants of such thriftless trade.
Visit the tower of Vado, and unlearn
Such bitter faith beside Marenghi’s urn.
(中略)
XVII
And at the utmost point . . . stood there
The relics of a reed-inwoven cot,
Thatched with broad flags. An outlawed murderer
Had lived seven days there: the pursuit was hot
When he was cold. The birds that were his grave
Fell dead after their feast in Vado's wave.
(後略)

1 This fragment refers to an event told in Sismondi's Histoire des Republiques Italiennes, which. occurred during the war when Florence finally subdued Pisa, and reduced it to a province. — Mrs. Shelley.

この詩は彼がイタリア滞在中に見聞した故事に由来するので,イタリアの田舎家でも草葺屋根にジャーマン・アイリスを生やしていたことが伺える.
この詩の主人公 Pietro Marenghi は,故郷フィレンツェで,死刑を宣告され逃亡していたが,15世紀初頭,フィレンツェ対ピサの都市戦争で,ピサに食料を運ぶガリー船に放火してフィレンツェに勝利をもたらし,1406年には英雄として故郷に錦を飾った.
Mrs. Shelley の註にある Sismondi と彼の著書Histoire des Republiques Italiennes,” については文末に記事.

また,ケンブリッジ大学のボタニカル・ガーデンのキュレーターを1879年から1919年まで務めた リンチ(リチャード・アーウィン.Lynch, Richard Irwin. 1850–1924) The Book of the Iris” Applewood Books (1904, 2008) には,イチハツが日本でなぜ屋根の上に栽培されているかについて,厄災を避けるまじない,草ぶき屋根を強固にする目的の他に,領主が地上では,食用の役に立たないイチハツの栽培を禁止したからという伝説が載せられている.この伝説の原典とされる “book of Japanese Tales”の著者フレイザー夫人(Fraser, Mary Crawford. 1851 – 1922)は,駐日英国外交官夫人で,Palladia (1896), The Looms of Time (1898), The Stolen Emperor (1904) など,多くの日本関連の本を書いているが,この原典は特定できなかった
この伝説はEliza Ruhamah Scidmore JINRIKISHA DAYS IN JAPAN (1891),和訳.外崎克久訳『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』にも記載されていて,訪日外国人の間では知られていたのであろうが,和書では確認できなかった.
The Book of the Irisのイチハツに関しては
“Most Irises love sun, and they love good drainage, so that even on a hill great results may be obtained. It is even possible to say that the absence of soil may conduce to success, for then it is that beds and borders have to be made, and the opportunity is presented for making them of good material, sufficiently deep, and well drained. Some Irises may even be grown on a prepared roof, but the present writer is unable to recommend this or any similar situation, unless the irises are required to serve a special purpose. In China and Japan I. tectorum is cultivated on roofs, by some, it is said to be, for the purpose of warding off pestilence, other say that the object is to strengthen the thatch. Mrs Hugh Fraser, in her book of Japanese Tales, states how Irises in Japan came to be grown on thatched roofs.
 “Once there was a famine in the land and it was forbidden to plant in the ground anything that could not be eaten as food. The frivolous Irises only supply the powder with which the women whiten their faces, but their little ladyships could not be cheated of that, ‘Must we look like frights as well we die of hunger?’ they cried, and so every women set a tiny plantation of Irises on the roof of her house, and there in most country places they are growing still.”
  Some of the Pogoniris group de very well in small depth of soil, and may be used for roof cultivation.” とある.

シスモンディ(ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・,Sismond, Jean-Charles-Léonard Simonde dei, 1773 - 1842)は,フランスの経済学者.フランス最後の古典派経済学者であり,国家による社会改良を求めたことから「経済的ロマン主義の祖」と言われる.
彼の『中世イタリア共和国の歴史Histoire des républiques italiennes du Moyen Âge(16 vols.) (1807–18) は,19世紀のイタリア統一の運動に大きな影響を与えた.

“STORIA DELLE REPUBBLICHE ITALIANE” DEI SECO DI MESSO DI G. C. L. SISMONDOI (1845)
TOMO QUINTO, P 298

I Fiorentini non credevano fosse possibile cosa l'aprire
una breccia nelle mura di Pisa, di modo che deliberarono
di ridurre la città per la fame, e di espugnare intanto ad
uno ad uno i diversi castelli del territorio. I Pisani dal
canto loro faceano di tutto per provvedersi di vittovaglie,
al quale uopo spedirono alcune galere a cercare frumento
in Sicilia. Egli accadde che una di queste galee, assalita
nel suo ritorno dai vascelli che i Fiorentini avevano fatto
armare a Genova, si riparò sotto la torre di Vado. Un Pie
tro Marenghi, fiorentino, profugo della patria perchè v'e
ra stato condannato a morte, colse il buon punto per ri
mettersi in grazia de suoi concittadini con una stupenda
prova. Gittatosi in mare con una fiaccola in mano, ebbe
l'ardire di recarsi a nuoto ad appiccare il fuoco alla galea
pisana. E sebbene ferito per ben tre volte dagli strali che
i nemici scagliavangli contro, pure si tenne colla fiaccola
alto sotto la prora infino a tanto che vide il fuoco appic
cato in modo alla galea nemica da non potersi più spe
gnere. Essa bruciò in faccia alla torre di Vado, intanto
che il Marenghi si riduceva in salvo sul lido. Egli fu perciò
richiamato con onore in patria.