Accipiter gularis
中央アジア地域で発生した,飼いならした猛禽類を用いて鳥類・獣類を捉える「鷹狩」の技法が,中国・朝鮮半島経由で日本に伝わったのは,古墳時代以前と考えられていて,鷹匠を模った埴輪が古墳の副葬品として発見されている.「鷹狩」は天皇・皇族・豪族の間で広まり,仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録が『日本書紀』に載っている.奈良時代の『万葉集』(785年以前)にも鷹や鷹狩を詠った歌がいくつか収められている.特に平安時代の嵯峨天皇は鷹狩を愛し,『新修鷹經』を勅撰させるほどであった.
武家が勢力を増すに従い,鷹狩は中央・地方の武士の間にも広がり,戦国大名にも愛好者は多く.信長・秀吉・家康も鷹狩を頻繁に催し,また優秀な鷹を求め,或は贈答品として用いた.多く用いられていた鷹はオオタカ(蒼鷹),ハイタカ(鷂),クマタカ(角鷹、鵰),ハヤブサ(隼)であったが,室町中期に著された『尺素往来』には,ツミ(雀鷂)も鷹狩に用いられていたことがに記されている.
家康は鷹好き・鷹狩通であった.鷹狩は将軍の野外活動の第一とし,合戦の模擬として代々の将軍に受け継がれた.そのため,各地の大名から若い鷹が幕府に獻上され,江戸の「御鷹屋敷」で訓練を受け,関東各地の「御鷹場」での鷹狩に使われ,獲物は大名や家臣にも下賜された.
五代将軍綱吉は生類憐みの観点から鷹狩を中止し,「鷹頭」など関連していた役人たちも配置転換したが,大名たちには中止までは求めなかった.家康治世への回帰を目指した八代将軍吉宗は,就任後すぐに「御鷹狩」の復興を目指して手を打ち,津軽藩などに鷹の獻上を依頼し,以後幕末まで複数の藩からの鷹の獻上が慣例となった.
献上された鷹は「巣鷹」「黄鷹」と呼ばれるオオタカ(蒼鷹)の幼いあるいは若い個体が主であったが,少数ながらツミも献上された.将軍の鷹狩においては鶴・白鳥・雁・鴨が獲物としては上位で,これを捕獲できるオオタカやハイタカ,クマタカが主役であったが,雲雀などの小鳥も捉えられた.オオタカともハイタカとも性質がかなり違って大変気が強いツミは,大型の鳥の捕獲はできなかったものの,鷹匠たちには興味を持って扱われ,小禽類の捕獲に用いられたようだ.
当時の鷹献上大名には、松前藩松前家を筆頭に、陸奥の弘前藩津軽家・盛岡藩南部家・仙台藩伊達家、出羽の秋田藩佐竹家・新庄藩戸沢家・米沢藩上杉家、信濃の松本藩松平家・高島藩諏訪家がいた。これらの大名の武鑑には献上品としては「鷹」としか書かれていないが,讃岐松山藩の松平家が毎年十月ごろに「時献上」として「此山雀鷂(このやまつみ)」を将軍に献上するのが常であった.
古墳時代の「鷹匠の埴輪」では,群馬県オクマン山古墳出土の品が有名で,鍔の付いた立派な帽子に,上げ美豆良(みずら)を結い、鷹匠が腕に着けた韝(タカタヌキ)に,尾に鈴が付いた鷹を据えている. 現在でも使われている鈴は,鷹がフィールド飛んでいる位置を知るためにも,また藪の中で姿が見えなくなった際に居場所を知らせてくれる大切な道具で,奈良県から出土している鷹匠の埴輪が腕に据えている鷹にも鈴が付けられている.
『万葉集』にもいくつかの鷹狩の歌が収められているが,
◇第14巻 3438番歌,作者不詳,雜歌,には鷹狩の際の鈴の音を詠った歌がある.
原文 都武賀野尓 須受我於等伎許由 可牟思太能 等能乃奈可知師 登我里須良思母
訓読 都武賀野に鈴が音聞こゆ可牟思太の殿のなかちし鳥猟すらしも
かな つむがのに すずがおときこゆ かむしだの とののなかちし とがりすらしも
都武賀野(つむがの)に(鷹の)鈴の音が聞こえる。可牟思太(かむしだ)の殿の中の若様が鷹狩りをなさっているらしい。
また,万葉集の編纂者,大伴家持は鷹狩が趣味であったようで,
◇第17巻 4011番歌,思放逸鷹夢見感悦作歌一首思放逸鷹夢見、感悦作謌一首并短謌
標訓 放逸(ほういつ)せる鷹を思(しの)ひて夢に見、感悦(よろこ)びて作れる謌一首并せて短謌
の中には,
原文 大王乃 等保能美可度曽 美雪落 越登名尓於敝流 安麻射可流 比奈尓之安礼婆 山高美 河登保之呂思 野乎比呂美 久佐許曽之既吉 安由波之流 奈都能左<加>利等 之麻都等里 鵜養我登母波 由久加波乃 伎欲吉瀬其<等>尓 可賀里左之 奈豆左比能保流 露霜乃 安伎尓伊多礼<婆> 野毛佐波尓 等里須太家里等 麻須良乎能 登母伊射奈比弖 多加波之母 安麻多安礼等母 矢形尾乃 安我大黒尓 [大黒者蒼鷹之名也] 之良奴里<能> 鈴登里都氣弖朝猟尓 伊保都登里多氐 暮猟尓 知登理布美多氐 於敷其等邇 由流須許等奈久 手放毛 乎知母可夜須伎(以下略)
訓読 大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に追へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥すだけりと 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に [大黒者蒼鷹之名也] 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも をちもかやすき(以下略)
と,国司として赴任した越の国で,鷹狩を楽しんで,お気に入りの「大黒」と名づけた鷹には銀色の鈴を付けていた.とある.
◇第17巻 4012番歌,(思放逸鷹夢見感悦作歌一首[并短歌])
原文 矢形尾能 多加乎手尓須恵 美之麻野尓 可良奴日麻祢久 都奇曽倍尓家流
訓読 矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける
◇第17巻4013番歌,(思放逸鷹夢見感悦作歌一首[并短歌])
原文 二上能 乎弖母許能母尓 安美佐之弖 安我麻都多可乎 伊米尓都氣追母
訓読 二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも
◇第19巻4155番歌,(八日詠白<大>鷹歌一首[并短歌])
原文 矢形尾乃 麻之路能鷹乎 屋戸尓須恵 可伎奈泥見都追 飼久之余志毛
訓読 矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも
◇第19巻4249番歌
原文 伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹猟太尓 不為哉将別
訓読 石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて初鷹猟だにせずや別れむ
とある.
平安時代の嵯峨天皇が編集させた『新修鷹經 中』の「調養」の章には「著レ鈴繋ク法」の項目があり,
「凡著レ鈴繋者捉テレ鷹ヲ令レ俯擬スル二著繋一人左手執レ尾右手ニ把
レ錐披-拂二尾魁一著二水ヲ於毳(ニコケ)ニ修-撫一之若修-撫不レ伏則刈-去二
之一挟〓於ス著鈴(スヽツケノ)尾下一 著鈴(スヽツケノ)尾謂二尾中央二箇一也
(以下略)」(群書類従. 第439-440)
と,鷹に鈴を付ける手順などを細かく記している.
主にそれまでの鷹狩には,蒼鷹(オオタカ)が用いられていたと思われるが,★一条兼良『尺素往来』には,放鷹の鷹の中に「𪀚(ツミ)・兄𪀚(エツサイ)」が挙がり,室町時代にはツミの雄・雌ともに鷹狩に使われていたと考えられる.
『尺素往来』は室町中期に成立した往来物の一つ.作者は一条兼良(かねよし)と推定される.素眼の「新札往来」をうけ,これを増補した.上下2巻からなり,全編1通の消息で構成される.尺素とは手紙のことで,書状の形式をとって,社会生活に必要な多彩な知識・教養を広範囲に提供しているが,公家(くげ)の生活に限定せずに武家社会の生活にも触れているので,室町期の社会相を知る材料となる.本書前段には小朝拝(こぢょうはい),三節会(せちえ),御所的(ごしょまと),聖廟法楽(せいびょうほうらく)などの年中行事とそれに関する各種事物,馬,弓,甲冑(かっちゅう),鍛冶(かじ)などの武家の職能にかかわる事物が収められている.また後段には神訴(しんそ),薬種(やくしゅ),地震,祈祷(きとう),本領事,相論,半済(はんぜい)事,難渋対捍(なんじゅうたいかん)之土民百姓,成敗,武官,僧官,二十二社,四箇大寺(よんかたいじ),八宗(はっしゅう),仏説法次第,三国五山などから,名筆掛絵,書院置物,屏風(びょうぶ)障子,絵具,粥(かゆ),点心(てんじん),諸食物,茶,菓子,布施物,さらに荼毘(だび),忌日などまでを載せている.中世の公家や武家の文化を知るうえで屈指の資料.
この書この書の上巻の春の行事の記述の中に天皇たちが桜狩りの時に,一条兼良が飼育している鷹たちをご覧になる光景が記述されていて,その鷹の中に「𪀚(ツミ)・兄𪀚(エツサイ)」がある.
国文学研究資料館 新日本古典籍総合データベース
「去頃兩
御所爲ニ二櫻狩リノ一御二出于金野(キンヤ)
片野(カタノ)邉ニ一候.當道*1相傳練(レン)
習(シウノ)家々.園(ソノノ)中将,坊門ノ少将
楊梅ノ侍從*2以下之若殿上人.並ニ
御随身(イシン)秦(ハタノ)下毛野(シモツケ)等*2之鷹
匠(ジヤウ)不一論二貴賤蘇芳(スハウノ)衫(サン)錦ノ
帽子(バウシ)付二テ餌(ゴ)袋ヲ一居(スエテ)鷹ヲ而騎リ
レ馬ニ犬飼(カヒ)者ハ御中間共ニ不レ因老
少ニ一縹(ハナタ)色ノ衫緋(アケノ)帽子杖(ツイテ)二狩杖ヲ一
索キ犬ヲ歩行(ホカウ)ス其外御供人々
装束被レ模(モセ)二野行幸之儀ヲ一
愚翁レ雖ヘドモ非スト二家業ニ一數奇(スキ)之
虚名(キヨメイ)若入二御耳ニ一候歟忝モ蒙二
上意ヲ一之間不レ顧後代ノ嘲弄(テウロウ)ヲ
先應ノ二當座ノ催促ニ日来
繋(ツナキ)置ク所ノ鷹・兄鷹(セウ)・鷂(ハイタカ)・兄(コ)
鷂(ノリ)・𪀚(ツミ)・兄𪀚(エツサイ)・隼(ハヤブサ),大小雀鸇(サシバ)
等.巣子下(スコホレ),鳥屋(トヤ)出,野曝(ノサレ)山
回(カヘリ)倶(トモニ)解(トキ)二條(ヲホヲ)於架(ホコノ)上ニ一同収テ二旋(モトヲシ)
於韝(タカタスキ)頭一,一族十餘騎.各着シ二
狩装束ヲ一.御供仕候吃.就レ中
件ノ狩場(バ)者代々ノ聖主(セイシュ)臨(リン)
幸(カウノ)之舊跡.名譽(ヨ)ノ鳥立(トダチ)也
究竟ノ逸物共或颺二木(アカリ)二木居(コ井)ニ一
或ハ落二草取一.鳥飛,鳥回,種々ノ振
舞,催スレ感之最中,春風緩(ユルク)
吹テ,花雪頻(シキリニ)散ス.身寄ノ翎(ツハサ)徒(タダ)
前ノ羽,皆成リ二白妙ニ一候.希代ノ
見物,何事カ如レ之哉.
*1:當道:自分の歩み学ぶ道。
*2:園家・坊門家・楊梅家・秦家・下毛野家:何れも鷹狩を受け継ぐ家
「仁徳天皇の御代に於ける酒君の鷹術はいかなるものねりけむ明かならず.その後も百済より敦賀叉は博多を經由して良匠來朝せるが如し.(中略)
佛法の隆盛となるにつれ,殺生を禁じ或はその應報の怖しきを説くよりこれを廢したるものも生じたれど,朝廷の供御及信州諏訪を初め大社に於る贄の爲にこの術を學ぶもの絶ゆることなく,朝家には持明院家あり,尋いで西園寺家あり,持明院家より分れたる園家あり,足利氏執政の頃には坊門家楊梅家もこの技を修めたること蒙求臂鷹往来に御所の鷹の家に關し「園家・坊門家・楊梅家至干今爲二箕裘業一」といへるが如し.御随身秦 下毛野兩家は御厨子所の鷹飼にしてその藝は百済の酒君より傳へたりと尺素往来には見ゆれども,朝家の鷹術はこれと齋頼の傳とを合一せるものなりしならむ.」とある.
また,「茲に園中将とあるは基有卿,坊門少将は伊氏,楊梅侍従は定行ならむといへり.」とある.