2023年3月26日日曜日

ガーンジー・リリー-12 ケンペル E. Kaempfer,『廻国奇観』”Amœnitates Exoticæ” -1. ヒガンバナをガーンジー・リリーと考定

Nerine sarniensis


 出島の三学者の一人で,最も早く来日したドイツ人博物学者,エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer, 1651 - 1716)は,ヒガンバナ(石蒜)をガーンジー・リリーと考定して,その著書『廻国奇観 ”Amœnitates Exoticæ” ( 1712) に記述した.この誤考定は J. Douglas 著のガーンジー・リリーのモノグラフ “Lilium sarniense or, a description of the Guernsay-lilly” (1725) に記載され,,リンネも,滞日中のシーボルトも踏襲した(後述).

廻国奇観』の第五部 AMŒNITAUM EXOTICARUM / FASCICULUS V, / Continens
PLANTARUM JAPONICARUM, / quas Regnum peragranti solum natale conispieiendas / objecit,
NOMINA & CHARACTERES SINICOS; / intermixtis, pro specimine, / quarundam plenis descriptionibus, / unà cum Iconibus.
の,“Catalogus Plantarum / FASCICULI V. / in quinque Classes distribute, / quarum exhibit” “CLASSIS IV. / Plantae specioso flore conspieuæ.” (第四類 観賞用花卉)の章に

  [石蒜] Seki san, vulgo Sibito banna, aliis Doku Symira, id est venenosa Symira ob bulbum venenosum dictus: Narcissus Japonicus flore rutilo Cornuti.

とあり,次に
Kui Symira, id est, Symira edulis. Asphodelus, caule pedali striato, floribus hexapetalis purpurascentibus densissime spicato.

とある.

ツルボ Barnardia japonica (Thunb.) Schult. et Schult.f. 茨城県南部 11, Asphodelus albus Miller, Passe, C. van de, Hortus floridus (coloured plates), t. 36 (1614), Asphodelus ramosus L., Redoute P. J., Liliac. vol. 6, t. 314 (1805)

石蒜:セキサン:俗名シビトバナ,別名ドクシミラ.つまり有毒なシミラ.鱗茎が有毒なのでこう呼ばれる.コルーヌのいう赤花日本水仙
クイシミラ:つまり食用シミラ.ツルボランの類(Asphodelus),溝のある花莖に紫色の六瓣の花を密集してつける.

とあり,食用ともされるツルボ(シミラ)に対比され,ヒガンバナ(ドクシミラ)は,鱗茎が有毒で食用に不適なシミラと呼ばれ,漢名「石蒜(セキサン)」,俗名で「シビトバナ」とも呼ばれる.と日本での状況を述べ,これはコルーヌ(ジャック=フィリップ・コルニュ,Jacques-Philippe Cornut)が,1635 に著した “Canadensium plantarum” に記した(日本からガーンジー島に渡来したとされる)Narcissus Japonicus flore rutilo である.とした.

さて,ケンペルの言う,ヒガンバナとツルボの和名だが,八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001)は,ヒガンバナの地方名として,しにとばな 滋賀(湖西).しびっとばな 和歌山(那賀・日高・海草).しびとぐさ 福島(相馬).しびとっぱな 埼玉(入間).しびとはな 武蔵 中国.しびとばな 仙台,尾張,京都,丹波,長州,周防,土佐,宮城(仙台市),山形(庄内),福島(相馬),埼玉(秩父・入間),新潟 三重(北牟婁),滋賀 京都(何鹿),兵庫(赤穂・淡路島),和歌山(和歌山・海南・海草・那賀・日高),広島(豊田),山口(浮島・吉敷・大津),徳島,大分(東国東・北海部)が収載している.
 また,ケンペルの言う「ドクシミラ」との関連性が想像できる すびら 大分(大分・大野).すびらのはな 大分(大分・大野).どくずみた 唐津.とくすみら 肥前.どくすみら 肥前.どくずみら 宮崎(日向市)の地方名も載せている.また,ネットサイトの「ヒガンバナの別名(方言)」(http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/sizen/higan_name.html)には総数1023 の方言が記載されているが,その中にはドクシミラ,ドクシュバナ,ドクシヨウバナ,ドクジラメ,ドクスミタ,ドクズミタ,トクスミラ,ドクスミラ,ドクズミラ,ドクズミレがある.

一方,ツルボの地方名としては,『日本植物方言集成』中には,ずいべら 筑紫.すがな 和歌山(新宮).すっな 鹿児島(加世田市).すなか 和歌山(東牟婁).すびら 長崎(壱岐島),すみな 鹿児島(長島・鹿屋・出水),すみら 熊本(玉名),宮崎(児湯),鹿児島(国分・出水・姶良・薩摩).すんな 鹿児島(川辺・姶良)とあり,ケンペルの言う「シミラ」との関連性が想像できる.
 さらに,貝原益軒『大和本草』(
1709)巻之九 草之五 雑草類「綿棗児(ツルボ)」に,「是をすみれと云は誤れり」とあるのは,ツルボがスミレと呼ばれていたことの証拠となろう.
 柿原申人『草木スケッチ帳Ⅲ』東方出版(2002)の,ツルボの項には「一六〇三年年に(ポルトガル宣教師によって)長崎で編まれた『日葡辞書』のスミレの項には、次の二つの訳が載っている。一つは「ある花の名」、二つ目は「この名で呼ばれるある草、その根はニンニクに似ていて食用にされる」。これも岩波版は両方とも今のスミレに当てている。だけど後者の「根はニンニクに似て」は、今のスミレであるはずがない。しかしこの後者のスミレもツルポと考えれば、球根である点と食用になる点でどんぴしゃりである。」とあり,ツルボが「スミレ」或はそれに類した呼ばれ方をしていたと考えられる.
 また,栗田子郎「ヒガンバナの民俗・文化誌」(Ⅴ)~ヒガンバナ渡来説再考:その3~,<里呼び名が示唆すること>で,ヒガンバナの方言に近畿地方以西に広くスミラ系統の名があることから,スミレ=ツルボ説を導き出している.

ツルボが食用になるとは言っても,相当の前処理が必要で,斎藤たま『暮らしのなかの植物』論創社(2013)には,(斎藤氏は)「この根の芋を、私は一度試食に及んだことがある。(中略)ちょうど春先で、葉が一〇センチぐらいになっているのを掘った。根の玉は中指の頭ていど、大きなラッキョウというところである。薄茶色の皮をかぶっている。煮るほどのこともないから、いろりの火のめぐりに埋けて焼いてみた。しばらくして出したら、中指が小指ほどに小さくなっていて、百合根やニンニクが餅のような白きになるに対して、これは全体透る、白菜の茎のごとき色合いである。幾分ねっとりはしているものの、歯ざわりにはやはり白菜の茎に似たようなシャリッとしたところがある。一口、二口かじってみて、割合いけると思った。あくの強さはまるでなくて、それどころか百合根に似た甘い香りさえあった。しかし、飲みこんだ次の二、三秒後に台所にすっ飛んで行ったのは、猛烈ないがらっぽさに襲われたからである。口中はそれほどでもないのに、喉がことに激しく感じるらしく、何度もうがいを繰返し、歯も磨き、甘い物ででもまぎらわそうと、次々いろんな物を食べても、喉のいらいらはしばらくの間おさまらなかった。」とあり,生食出来ない事を記した.

既に当ブログ,「ツルボ」(1に述べたように,『大和本草』中に「根味甘ク 根オ採取シ水ヲ添ヘ久シク煮テ 極テ熟シ之ヲ食フ 水ヲ換ヘズシテ煮テ食ヘハ 後腹中鳴テ下氣有リ (中略)性冷滑にして瀉下す 飢人食へは瀉下しやすく 身はるゝと云 故に凶年にも多く食はす 水をかへて久しく煮れは害無シ 村民之ヲ知ラズ 是をすみれと云は誤れり 水をかへて久く煮る事を貧民に教フ可シ」とある.また橘南谿(1754 - 1806)の『西遊記』(1795)巻之六にも,「飢饉 近年打続き五穀凶作なりし上、天明二年(注 1782年)寅の秋は、九州飢饉して人民の難渋いふばかりなし。

 村々在々は、かず根といひて、葛の根を山に入て掘来り食せしが、是も暫の間に皆掘つくし、かなづち(注 イケマの根か,ガガイモの根か)といふものを掘て食せり。是もすくなく成ぬれば、すみらといふものを掘りで其根を食せり。 (中略) すみらといふものは水仙に似たる草なり。其根を多く取あつめ、鍋に入れ、三日三夜ほど水をかへ、煮て食す。久敷(ひさしく)煮ざれば、ゑぐみ有て食しがたし。三日程煮れば至極やはらかになり、少し甘み有やうなれど、其中に猶ゑぐみ残れり。予も食しみるに、初め一ツはよし、二ツめには口中一ばいに成て咽に下りがたし。あわれなる事筆の書つくすべきにあらず。予一日行キつかれて、中にも大(おおき)にしてきれいなる百性の家に入て、しばらく休息せしに、年老たる婆(ばば)壱人也。「いかゞして人のすくなきや」と問へば、「父、子、嫁、娘、皆今朝七ツ時よりすみら堀に参れり」といふ。「それは早き行やうなり」といへば、「此所より八里山奥に入ざればすみらなし。浅き山は既に皆ほりつくして食すべき草は壱本も候はず。八里余、極難所の山をわけ入、すみらを掘て此所へ帰れば、都合十六里の山道なり。帰りも夜の四ツならでは帰りつかず。朝七ツも猶おそし。其上近き頃は皆々空腹がちなれば、力もなくて道もあゆみ得ず」といふ。「其すみらいか程か掘り来る」といへば、「家内二日の食にはたらず」といふ。扨も朝の夜より其の夜まで十六里の難所を通ひ、三日三夜煮て、やうやうに咽に下りかぬるものをほり来りて露の命をつなぐ事、あわれといふもさらなり。中にも大なる家だにかくのごとし。まして貧民の、しかも老人、小児、又は、後家、やもめなどは、いかゞして命をつなぐ事やらん、とおもひやれば胸ふさがる。」(板坂耀子,宗政五十緒 校注,新日本古典文学大系98,岩波書店) 

2023年3月24日金曜日

ガーンジー・リリー (11) -假 ヘルマン・ブールハーフェ,リチャード・ブラッドリー

Nerine sarniensis

フランスの植物学者 JP・ド・トゥルヌフォールは,リンネに先駆けて花の形を基準にした植物分類法を考案し,彼の主著『基礎植物学』には,“Lilionarcissus というグループが作られた(前記事).

オランダのヒポクラテス("Dutch Hippocrates")とも呼ばれた著名な臨床医ヘルマン・ブールハーフェHerman Boerhaave, 1668 - 1738)は,ライデン大学の医学と植物学の教授に任じられ,ライデンの植物園の改善と拡大を行い,多くの新種植物に関する論文を出版した.彼の著作の一つ,”Index alter plantarum quae in Horto Academico Lugduno-Batavo aluntur”(ライデン大学植物園に栽培されている植物目録)(1710)  には,トゥルヌフォールのたてた “Lilionarissus” が,”Plantae, Flore Liliaceo “ の一グループとして記載され,その中にガーンジー・リリーが “Lilionarcissus Japonicus” の名で Robert Morison Jacques Philippe Cornut の著作を参照して記載されている.

英国ケンブリッジ大学の初代植物学教授となったリチャード・ブラッドリー (Richard Bradley, 1688 1732) は,大學からの薄給を補うため多くの著作に力を注いだ.アマチュア園芸家への手引書ともいうべき “New Improvements of Planting and Gardening, Both Philosophical and Practical: Explaining the Motion of the Sapp and Generation of Plants” (1725) を出版した.そこでは一項目として,”Guernsey Lily” を取り上げ,「花卉の中で類を見ない美しい花をつける.バラ色の花弁の上に金の砂を蒔いたようだ.」と絶賛し,フェアーチャイルド家で成功している栽培方法(培地や越冬法)を述べている. 

ヘルマン・ブールハーフェHerman Boerhaave, 1668 - 1738)は,18世紀前半に活躍したオランダの医者,植物学者.科学者として独創的な業績を残す事はなかったが,すぐれた臨床教育を行った最初の人物とされており,現代の臨床教育システムと臨床病理カンファレンス (CPC) の基礎を確立し,当時「西洋の医師の半数を指導した」と言われた.

ライデン近郊のフォールハウト(現在のオランダ・南ホラント州)において牧師の息子として生まれ,ライデン大学では哲学と神学を専攻したが,同時に医学,植物学,物理学,科学,数学等の講義も聴講し,いわばあらゆる分野の学問を修めた.22歳の時に,哲学博士の学位を取得.1693年には Harderwijk 大学で医学博士号を取得したが,植物学と化学の研究も続けていた.35歳の時にライデン大学の解剖学と化学の講師となり,41歳で医学と植物学の教授に任じられ,ライデンの植物園に改善と拡大を行い,多くの新種植物に関する論文を出版した.1714年にはライデン大学学長となった.

医学部の教授に任命される以前からすでに多くの学生がよそからライデンにやってきて,彼の講義を聴くようになっていた.彼が臨床講義を始めると学生数は一層増え,亡くなる前年には97名の者が受講していたが,うちオランダ人学生は37名にすぎず,60名はヨーロッパ各地の出身者という有様だった.彼は体温を測定する事を患者受け入れの最初の検査とした臨床医の先駆けであり,オランダのヒポクラテス("Dutch Hippocrates")とも呼ばれた.1716には,ロシアのピョートル大帝(Peter the Great)はオランダを訪れた際に彼の講義を受けた.カール・フォン・リンネら,優秀な学者との交流もあった.


彼の著作 “Index alter plantarum quae in Horto Academico Lugduno-Batavo aluntur” (1710) には,” LILIO-NARCISSUS” の特徴を記して,その後にこのグループに属する種が記載されている.基本的にはトゥルヌフォールと同一の種が含まれ,ガーンジー・リリーが Lilionarcissus Japonicus として記載されている. 

LILIO-NARCISSUS. T. 385. 207.

Radix bulbosa, tunicata.
Flos Liliaceus, hexapetalus, Lilio-Asphodeli æmulus, ex
    thecâ emergens membranaceâ, ut in Narcisso.
Fructus subnascitur flori formâ Narcissi, oblongus, vel
    subrotundus, trigonus, trifariam, dehiscens, foeat us semi-
    nibus subrotundis.

LILIONARCISSUS.  T. 385.

1 LILIONARCISSUS Indicus, saturato colore pur-

 purascens. M. H. 2. 366. Lilium Africanu;
 Narcissinis foliis, polyanthos, saturato colore pur-
 purascens. H. L. Narcissus Indicus, Liliaceus, fa-
 turato colore purpurascens. Ferr. Flor. 119.
2 Narcissus Indicus liliaceus ; diluto colore purpu-
 rascens. Ferr. Flor. Cult. 121. 1c.
3 Lilium Indicum ; Narcissinis foliis monanthemos,
 ex albo rubrum. H. L. Narciflus â D. Gareto ;
 flore albo, exteriori parte rubicundus. Swert. 28.
4 Lilium Americanum ; puniceo flore ; Bella dona
 dictum Par. Bat. 194.
5 Lilionarcissus Africanus ; platicaulis, humilis ; flo-
 re purpurascente odorato. H. A. 1. Cap. 36.
6 Lilionarcissus Japonicus ; rutilo flore M. H. 2. 367.
 Narcissus Japonicus rutilo flore. Corn. 158
.
7 Lilium Americanum ; flore puniceo ; Bella dona
 dictum. Par. Bat. Ic. 194.
8 Colchico Narcissus autumnalis ; luteus, major.
 M. H. 2. 342. Colchicum luteum majus. C. B. P.
 69. Colchicum ; flore luteo Quorundam. I. B. 1.
 661. Narcisso Colchicum ; vulg
ô.
9 Lilium Javanicum habitum. an Lilio Asphodelus,
 Comm. Rar. 14?

 ケンブリッジ大学の初代植物学教授となったリチャード・ブラッドリー (Richard Bradley, 1688 1732) の子供時代については,幼い頃からガーデニングに興味を持っていたことと,当時アマチュアの博物学者が多く住んでいたロンドン近郊に住んでいたという事実を除けば,ほとんど知られていない. ブラッドリーは大学教育を受けていなかったが,彼の最初の出版物である多肉植物についての著作 The History of succulent plants” (1739) は,ジェームズ・ペティバー(James Pettiver, 1665年頃 1718)や,後にはハンス・スローン卿(Sir Hans Sloane)のような影響力のある後援者の注目を集めた. 彼らの支援により,彼は 1712 年に 24 歳で王立協会のフェロー(Fellow of the Royal Society)に推薦され,選出された.

1714 年には,ブラッドリーはジェームズ・ペティバーからの紹介状を持ってオランダを訪れ,園芸に興味を持ち,研究を行った. 彼は次の 10 年間をイギリスに戻り,天候,肥料,生産性,植物の交配などに関連するトピックに関する論文を書いた. この間,シャンドスの初代公爵であるジェームズ・ブリッジス(James Brydges, first duke of Chandos, 1674 1744)は,植栽の助言を求めてブラッドリーを雇い,またアン女王(Queen Anne, Anne Stuart, 1665 - 1714)は彼を支援した.

ケンブリッジ大学は,この分野での彼の功績を認め,植物園を開設し資金を提供するという(果たされなかった)約束をして,1724 年にブラッドリーを植物学の最初の教授に任命し,彼は死ぬまでこの地位に留まった. ブラッドリーは無給の地位だったので,晩年は裕福ではなく,出版を通じて生計を立てることに彼の努力のほとんどを集中させ続けた. 彼のライバルであり,ブラッドリーの死後に欽定教授職(Regius Professor of Botany)を継いだジョン・マーティン(John Martyn, 1699 – 1768, 在職 1727 - 1762)と,彼の後継者である息子のトーマス・マーティン(Thomas Martyn, 1735 – 1825, 在職 1762 - 1825)は,ブラッドリーは生徒たちを犠牲にしてこれを行い,生徒たちに講義することさえ怠ったと伝えている(出典不明).

ブラッドリーの ”Ten practical discourses concerning earth and water, fire and air, as they relate to the growth of plants. With a collection of new discoveries for the improvement of land, either in the farm or garden”(1727)は,庭園と農地から最善の作物を得るための土壌改良・排水・温度管理等の環境整備に関する当時の最新情報を纏めた書である.

 1725年に出版したアマチュア園芸家への手引書ともいうべき New Improvements of Planting and Gardening, Both Philosophical and Practical: Explaining the Motion of the Sapp and Generation of Plants”では一項目として,”Guernsey Lily を取り上げ,「花卉の中で類を見ない美しい花をつける.バラ色の花弁の上に金の砂を蒔いたようだ.」と絶賛し,フェアーチャイルド家で成功している栽培方法(培地や越冬法)を述べている.

BRADLEY “New Improvements of Planting and Gardening” (1718)


CHAP VII
Of Bulbous or Onion-rooted Plants

SECT. VII.

Of the GUERNSEY- LILLY.

THE Guernsey- Lilly has hardly its equal
for Beauty among the Flowering
Race ; and yet it is rarely found in our
Gardens , which may be perhaps for want
of a right knowledge of its Culture. Mr.
Fairchild of Hoxton has this Plant Flow-
ering with him every Autumn, even from
Off-sets taken from the great Roots: The
Blossoms are large, and not unlike those
of the Lilly in their Make; seemingly
powder'd with Gold Dust upon their Rose-
colour'd Petals. The most proper Soil
for this Plant is two third parts of Sea
Sand to one of Natural Soil, or a light Sandy
Earth mix'd with an equal Quantity of
Rubbish. It will bear the Hardships of
our Winters, if it be planted in either of
the foregoing Soils under a warm Wall ;
but chiefly, if it be kept dry. The Flow-
er-stems
of this Plant are commonly about
a Foot high.


 なお,ケンブリッジ大学の植物園は,
1763年市の中心部に小規模な薬草園としてトリニティ・カレジの副学長 Dr. Richard Walker (1679 – 1764) によって設立されたが,やがて衰退してしまった.チャールズ・ダーウィンのメンターとして知られる植物学教授ジョン・スティーブンス・ヘンスロー(John Stevens Henslow, 1796 – 1861,在職1825 – 1861)がケンブリッジの中心部から離れた,より広い敷地が植物園に適していることに気付き, 1831 年,大学はトランピントン・ロード沿いの町の南にある約 40 エーカーの現在の場所を購入し,1846 年に最初の木が植えられた.現在では8,000 を超える植物種が栽培・育生されている.ちなみに,家族でケンブリッジに住んでいた時は,借家が近くの Glisson Road にあったので,毎週のように訪れて季節の移ろいを味わった.