英国の大文豪,W. シェイクスピア(W. Shakespeare, 1564 - 1616)の三大悲劇の一つ.古代ブリテン王国を舞台にした『リア王』で,王位を娘たちの甘言に乗って失い,狂気の内に彷徨う王は失った冠の代りとして小麦畑に生育する雑草を頭にかぶっている.この雑草の王冠を構成する草のひとつが,Fumiter である.
”The
Tragedy of King Lear”
Act IV Scene IV
CORDELIA Alack, 'tis he: why, he
was met even now
As mad as the vex'd sea; singing
aloud;
Crown'd with rank fumiter and furrow-weeds,
With hardocks, hemlock, nettles,
cuckoo-flowers,
Darnel, and all the idle weeds that
grow
In our sustaining corn. A century send
forth;
この
Fumiter が,和名カラクサケマン
Fumaria officinalis L.(英俗名 Fumitory等, 希臘語名 Capno, καπνός 等,羅甸名 Fumus terraæ 等)で,欧州ではギリシャ・ローマ時代には既に薬草として知られ,15世紀の揺籃期本草書にも収載されている.16世紀には欧州での本草学の隆盛と共に,ドイツ・オランダを中心とした刊行された多くの絵入り本草書にも収載されていた.これらの本草書の挿絵は,揺籃期本草書の形式的で画一的なそれとは異なり,実物を写生した繪を,印刷術の発達に伴い,より正確・精密に印刷するようになってきた.しかし薬効等の記述はまだディオスコリデスやプリニウスに典拠していた.
しかし,ルネッサンス発祥の地,イタリアの文芸復興の潮流は,芸術だけではなく,学術の世界にも新風を吹き込んだ.写実の重要性の認知とともに重要であったことは多くのギリシャ・イタリアの手稿本が印刷されたこと,ならびにギリシャ語文献のラテン語訳がイタリアでつくられたことである.ディオスコリデスの『薬物誌』のピエトロ・ダバノ (Pietro d'Abano) による初のラテン語訳が1478年,テオフラストスの著作のテオドル・ガザ (Teodor Gaza,1398-1478) によるラテン語訳が1450・1451年に刊行されている.
イタリアの医師で,後年皇帝マクシミリアン2世(Emperor Maximilian II)の侍医も努めた,ピエトロ・マッティオリ(Pietro Mattioli, 1501~1577)は,植物学の分野での先駆者であった.地中海気候のイタリアは,ギリシャと同じ植生圏にあり,ディオスコリデスの記述した薬用生物(植物・動物)が生育していて,北ヨーロッパのようにディオスコリデスの記述から似ている薬物を探し出して当てはめる苦労は少なかった.
マッティオリのもっとも有名な著書は,『ディオスコリデス注釈』(Commentarii in sex libros Pedacii Dioscoridis Anazarbei De medica materia)で,1544年ヴェネチアで初版が出た①.本書は,名称からは単なる解説書のように思われるが,実際は,薬用性に頓着せず多数の植物を記載図解することで,本草学を植物学へと転換させた重要性をもつ.とくに注目されるのは『薬物誌』にはない新植物や,チロルやトルコの植物の記述であった.薬用性を超えての植物研究は,まさに植物学の確立といってもよい.
このイタリア語版の十年後にラテン語版②が出たが,そこには同じ大きさの 562 の小さな木版の挿図があり,そのうち 500 以上が植物図であった.植物を観察する技術の向上に加え,全体を描くことに執着せず,その植物の特徴をよく示す部分のみを描く試みの意義は大きい.枝ぶりの不自然さもだいぶ消えている上手とはいえないが,細い平行線を用いて陰影をつける試みも見逃せない斬新な手法である点で,フックスやブルンフェルスの本草書の木版画とは非常に異なった特徴をもっている.マッティオリの木版画は全体としていくらか平凡であるといえる.だが早期の諸版が三万部以上も売られたといわれていることから,思い切った企画で大成功したと判断してよかろう.全部で四十刷以上も版を重ねたのである.
のちの四つの版-チェック,ドイツ,イタリア③,ラテン④の各語でプラハ(1562年)とヴェネチア(1565年,1585年)で出版されたもの-には,かなり興味深い大きなサイズの図が入っている.その序文に記されているように,この図版はイタリア北東部のヤーディネのジォルジオ・リペラーレ(Gorgio Liberale, 1527-1579)と,ウォルフガンク・マイアーペック(Wolfgang Meyerpeck, 1505 - 1578)というドイツ人との共同作品である.これらの木版画はそれ以前に刷られたものに似てはいるが,はるかに完成度が高く印象的である.描影法が広範囲に用いられ,細部は優れた技法で処理されている.
この植物図の大きな特徴の一つは,多くの図が腊葉標本から描かれた事である.マッティオリの最大の支援者は腊葉標本の創始者といわれるルカ・ギーニ(M. Luca Ghini da Imola, Lucam Ghinum Forocomelienfem, 1490-1556)である.ボローニャとパドヴァの両大学で教えていた彼は,300 ほどの腊葉標本をマッティオリの研究に提供したという.ギーニは冬季など花がない季節にも学生に薬草の形態を教えるために腊葉標本を考案したとされている.当時は,標本を本のように綴じてめくって閲覧していたが.これは "Hortus Siccus(乾いた庭園)","Hortus Hiemalis(冬の庭園)" と呼ばれていた.現存する最古の標本は,彼の弟子が作製した1530年代初めのもので,490年以上の歴史がある.生きた植物はもちろんだが,標本を利用することで離れた地域の植物を季節に関係なく比較することができるようになり,形態観察の精度が一段と高まった.
この書の植物図の多くは乾燥標本を温水に浸して戻したのを描いており,そうしたがための影響が図に残っている.マッティオリがある手紙の中で書いていることだが,雇われた画工の中には与えられた標本をなくしてしまい,処罰を恐れて記憶に頼って描いたものもいるという.おそらくその種の出来事がまだほかにも起こったことだろうが,発覚せずにすんだ.とにかく,不正確な図が大判と縮小判のどちらの版種にも描かれており,マッティオリがそれを見逃していたことはありうることである.マッティオリは絵が正確かどうかを調べるために標本を保存していなかったのである.
『ディオスコリデス注釈』の①1544年ヴェネチア初版イタリア語,②1554年ラテン語版,③1562年イタリア語版,④1562年ラテン語版のカラクサケマンの記述の冒頭及び図部分(①1544年ヴェネチア初版に図は無い)を示す.図は,②から③④へと大きな個体を精緻に描くようになってきているが,冒頭の記述文はディオスコリデスの性状や薬効の記述を受け継ぎ,1544年ヴェネチア初版から変化していないように思われる.二段目以降のイタリック体で記された注釈が,マッティオリの独自の記述と思われ,プリニウスやガレンの名が読み取れるが,読み切る事は出来なかった.
参考文献
Arber, A., “Herbals: their origin and
evolution”, Cambridge University Press (1938)
ウィルフリッド・ブラント著森村謙一訳『植物図譜の歴史-芸術と科学の出会い』八坂書房(1986)
大場秀章『おし葉標本と新聞紙』(2004 The University
Museum, The University of Tokyo)
大場秀章『描かれた植物学史― ボタニカル・アートから探る植物学史』
国立科学博物館『ハーバリウムと植物標本』(利用案内・情報≫ホットニュース≫2024-03-14)