2016年7月26日火曜日

マツバボタン-1 追補-3 山本榕室『花旗卉木名目』,『花旗国種子名録」,飯沼慾斎,伊藤圭介『植物図説雑纂』

Portulaca grandiflora
2016年7月 P. grandiflora cv. "Solar kids"
前に述べたように,マツバボタンの種子は,万延元年の遣米使節,文久二年の遣欧使節がそれぞれ米国・フランスより齎し,(http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2016/06/1-2japan-day-by-day-vol-1.html)本草家や花戸を通して広がった.

遠藤正治氏の『慾斎研究会だより』No.91(2000年11月1日号)の「慾斎が山本榕室*に贈った遣米使節齎来の植物」に,岩瀬文庫蔵書,山本読書室本の山本榕室筆『花旗**卉木名目』によれば、飯沼慾斎が遣米使節の帰国の5カ月後の文久元年二月を皮切りに以後,四・五・六月と4回に分けて実数約130余品の米国で使節が購入した種子を山本榕室に贈っている(「**花旗」國とは亜米利加國の別名)とある.使節の帰国後からの期間が短い事からすると,これらの種子は慾斎が繁殖して得たものではなく,使節が購入した物を分けて頒布したと考えられる.

そのリストが,遠藤氏の論文にあるが,マツバボタンの種子の榕室への分与に関して
 表-1,文久元年二月慾斎贈品 山本榕室編『花旗卉木名目』(西尾市岩瀬文庫所蔵)所載
番号
 『花旗卉木名目』の植物名
推定和名・英名・学名
16
ポルトユラカ スプレンデンス
ポルチュラカ Portulacca* splendens, Portulaca grandiflora
27
ポルチエラカ スプレンス
前出(16)
54
ポルチエラツカ スプレンデンス
前出(16, 27)
 (*ママ)
とある.つまり,文久元年二月に三個の袋で,別々にマツバボタンの種が分与されと読め,従って遣米使節は滞米中に少なくとも三袋のマツバボタンの種を購入したと思われる.

Bot. Reg. 29: t. 34. (1843)
なお,「ポルチュラカ スプレンデンス Portulaca splendens」は『植物図説雑纂』に(最下図,NDL)も記載された,当時のマツバボタンの羅名の一つで,著名な英国の植物学者・園芸家のリンドレイ(Lindley, John (1799-1865))が,うす赤く大きな花をつけるマツバボタンを Edwards's Bot. Reg. 29: t. 34. (1843) に新種として発表した時の学名ではある(右図,MoBot/BHL)が,現在では P. grandiflora の品種名或はSynonymとされている.

*山本榕室(1809 - 1864)は江戸時代後期の医者,本草学者.山本亡羊***の次男.本草学に通じ,安政6年(1859年)父亡羊が死去すると,2年間物産会を引き継いだ.
***山本亡羊(1778 - 1859)は江戸時代後期の医者,儒学者,本草学者.高槻藩臨時御用医.父山本封山に経学,医術,小野蘭山に本草学を学んだ.医業のかたわら儒学,本草学を講義し,家塾を読書室と称して毎年のように読書室物産会を開催.この物産会は亡羊没後は子の榕室,弦堂に継がれ,文化5年(1808)から文久3年 (1863) にかけて計48回開かれた.西国各地から多くの弟子を迎え,講義,採薬,物産会を行い,多くの著作を残した.深い学識と篤実な人柄で門人は千数百人を数え,蘭山なきあとの京都本草学派の主導者となり,文政9(1826)年には江戸参府途次のシーボルトとも京都で会見している.

一方,榕室の『花旗国種子目録』の「花旗国種子名録」(冒頭に「文久二年五ヶ国使者ノ従者道民於仏蘭西把理斯所得種子 美濃大垣飯沼慾斎所蔵」)には,医師として遣欧使節に同道した川崎道民****がフランスのパリにて購入した種子を慾斎が榕室に分与した種子 63 品のリストが掲載されているが,マツバボタンの種子は記載されていない.(遠藤正治『慾斎研究会だより』No.93(2001年5月1日号)の「慾斎が山本榕室*に贈った遣欧使節齎来の植物」)
一方,圭介の『植物図説雑纂』には,遣欧使節もマツバボタンの種子を齎来したとあるが,道民が購入しなかったのか,重複したので慾斎が榕室に贈与しなかったのであろう.

****川崎道民 (1831 – 1881) 幕末の佐賀藩医,長崎海軍伝習所に参加し,1860年の万延元年遣米使節,1862年の文久遣欧使節に御雇医師として随行し,報道・新聞・写真等の技術を学んだ.帰国後,藩主鍋島直大を撮影.合わせて新聞の必要性を知り佐賀県初の新聞「佐賀県新聞」を明治五年に発刊するも不遇に終わるが地域での啓蒙活動に尽力した.「写真技術の元祖」の一人としても知られている.

遠藤正治氏は遣欧使節がフランスから齎来した種子は 185 品であるとして「伊藤圭介の『植物図説雑纂』や蕃書調所・洋書調所編『植物図譜稿』によって、蕃書調所・洋書調所の教授方箕作秋坪らがパリ(おそらくパリー植物園)で入手した「185品」内の種子名ときわめてよく一致している。箕作秋坪らとしばしば行動をともにしていた道民が別に「185品」をセットで入手したのか、あるいは箕作秋坪らから分与されたのかは不明であるが、いずれにせよ「185品」が道民を通じて慾斎の入手するところとなり、これが京都の山本榕室に贈られたという筋書きが浮かんでくる。」としている.

また,アメリカで種子を購入した遣米使節員については,「慾斎はいかなるルートでこれらの植物を入手したのであろうか。まず考えられるのは遣欧使節の場合と同様、川崎道民である。しかし、アメリカ種の遺稿に一度も道民の名が記載されていない点で疑問が残る。次に考えられるのは御医師として随行した幕府医官の宮崎立元と村山伯元である。両名は「採薬之儀に付奉願候書付」を外国奉行組頭成瀬善四郎に提出している。アメリカで採集した草木等を腊葉にして持帰り医学館に納めたいとして、そのための腊葉貯蔵器や果実浸漬用焼酎などの提供を申請したものであるが、願いは却下される。しかし、両名が腊葉を持ち帰ったのは事実のようで、文久二年五月の山本読書室物産会に幕府医久志本左京を通じて「万延元年庚申於花旗国所採腊102品」として出品されている。」(右図,NDL)とあり,米国で種子を購入した人物として,道民,立元と伯元の可能性を指摘している.(遠藤正治『慾斎研究会だより』No.90(2000年8月1日号)の「遣米使節齎来の植物を記載した「草木図説遺稿の発見」)

しかし,伊藤圭介『植物図説雑纂』の「マツバボタン」の項の冒頭(左図)にあるように,アメリカで種子を購入した遣米使節員としては,外国奉行組頭成瀬善四郎の可能性が高い(http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2016/06/1-2japan-day-by-day-vol-1.html)ように思われる.

一方,遠藤氏は「このとき米・欧から齎来した種子を慾斉に仲介した人物として、慾斎の三男宇田川興斎******の存在が無視できない。興斎の(文久元年)六月十三日付の滝田茂吉・武谷椋亭宛書簡に「兼面差上候米国産種子御蒔付ニ相成候」「今便又々三十三袋献上仕候」とあり、興斎がかなり大量の米国産種子を配布する位置にいたことがわかる。さらに興斎は、同年蕃書調所に出役した伊藤圭介にも米国産種子を贈っている。これは父慾斎からの指示によった形跡がある。」と記している(上記論文).
この興斎より贈られた種子を育てて,圭介は『植物図説雑纂』の記事を書いたのであろう.

******宇田川興斎 (1821-1887)幕末-明治時代の洋学者,蘭方医.飯沼慾斎の三男.坪井信道,宇田川榕庵に学ぶ.榕庵の娘と結婚して養子となり,美作津山藩医をつぐ.また幕府の蕃書和解御用手伝となり,箕作阮甫らと共に,ペリー来航時や日露和親条約をむすぶときの文書翻訳に当った.

2016年7月16日土曜日

マツバボタン-4 花の色素 ベタレイン.基本はマゼンタとイエロー.赤色の花は?,色水遊び(M + Y = R)

Portulaca grandiflora 
2016年7月
日差しの強い亜熱帯地方の,水の乏しい軽質砂状土の地方が原産地のマツバボタンは,その環境に適応した生育様式をとっている.水分を貯める多肉質の茎・葉を持ち,主として CAM型光合成を行い,高温の晴天下では,葉が莖にくっつく一種の就眠運動を行う.花も受粉すると間もなく花を閉じるため,開花している時間は個々の花によって異なる.更に,鮮やかな花の色も,アントシアニンより抗酸化性に富むベタレイン (Betalain) 系の色素からなる. 

ベタレインは赤紫色のベタシアニン類 (Betacyanins) と黄色のベタキサンチン類 (Betaxanthins) からなるが,マツバボタンの花には,これ以外の色も多い.その多様な色はこの二つの色の混ざり具合から発色すると考えられる.

つまり,どちらかの色の遺伝子が発現し,他方が発現しないと「赤紫色 Magenta (M)」か「黄色 Yellow (Y)」になる.二種の遺伝子がどちらも発現しないと「白色」になる.

では,赤色 (Red, R) は,どうして発現するのか.これは,「MY の減法混色」のマゼンタ (M) とイエロー (Y) の混合によって赤 (R) に見えると考えられる.

即ち赤紫色のベタシアニン類 (betacyanins) と黄色のベタキサンチン類 (Betaxanthins) を合成する二種の遺伝子が両方発現すると「赤」の花が得られる.そして,どちらの遺伝子も発現しない「白色」を含めた四種の色の組み合わせで「赤紫」「藤色」「赤」「ピンク」「橙色」「レモン色」「黄色」などの多様な色の花が咲くのであろう.


実際に「黄色」と「赤紫」の花弁のそれぞれをつぶして水で抽出し,得られた「黄色 (Yellow)」と「赤紫色 (Magenta)」の色水を混合すると「赤色」の液 (Magenta + Yellow (1)) が得られる.
また,「黄色」と「赤紫」の花弁を混合して,つぶし,水で抽出すると,やはり「赤色」の液 (Magenta + Yellow (2)) が得られる.(右図)

上述の混色のルールに従って今春,播種し開花した “Solar kids” と,昨年の株を越年させて挿し芽から開花させた “Jewel” の花々を示してみると,以下の図のようになる.12時の白花と9時のマゼンタ花は “Jewel” 種の,そのほかは “Solar kids” 種の花である.
なお,“Jewel” 種は耐寒性が強く,暖地や室内では茎が木質化して,原産地と同様多年草として越年するが,残念ながら花色は白花とマゼンタ花しかない.


2016年7月4日月曜日

マツバボタン-3 英国への渡来. Gillies, Tweedie, Sir William Jackson Hooker "Botanical Magazine" "Botanical Miscellany", タイプ標本

Portulaca grandiflora
2016年7月 P. grandiflora cv. "Solar kids"
マツバボタンの原産地はブラジル・アルゼンチン及びその付近で,歐州に紹介されたのは比較的遅く,1827年に,熱帯アメリカの植物を研究していたスコットランド人の医師 John Gillies によって,当時のブラジル國の軽砂質地で発見され,英国に標本と種が送られた.これを基に,1829年英国の植物学者フッカー(Sir William Jackson Hooker)が, “Curtis's Botanical Magazine” に記載し,現在も有効な学名を発表した.

医学博士のJohn Gillies, M.D. (1792 – 1834)  はスコットランド生まれ.エジンバラ大学で教育を受け,ナポレオン戦争の間は英国海軍の軍医として軍務に服した.肺結核を患い,28歳の時に療養のために英国を離れ,気候のよい南米に移住.八年間を主にアルゼンチンで過ごし,精力的に南米各地を探索した.戦乱や,不安定な生活状況,慢性的な病苦に耐えながら,1828年に帰国するまで,数多くの南米産植物をフッカーに送り続けた.エジンバラにおいて42歳で死亡,遺体はカールトンに埋葬されている.

Curtis’s Botanical Magazine, vol. 56: 2885 (1829)/MoBot-BHL
フッカーは “Curtis’s Botanical Magazine, vol. 56: t. 2885 (1829) “ に "PORTULACA GRANDIFLORA.  LARGE-FLOWERED PURSLANE*.
(中略)
* An ancient Latin word applied to the Purslane, of very doubtful origin. Some say from portula, a little door, because the leaves resemble a little door.
“Purslane” に適用された古代ラテン語の語源ははっきりしない.これは, “portula”(小さなドア)由来で葉がそれに似ているからだという説もある.*

Professor DE CANDOLLE* justly observes, that the Genus PORTULACA is a very heterogeneous one; and its characters are certainly but imperfectly understood. I am happy, therefore, in having the opportunity of giving an analysis of what I cannot but think a new species of the Genus, and one, the beauty of whose flowers must render it a desirable inhabitant of the cool stove or greenhouse.
カンドール教授が,PORTULACA(スベリヒユ) 属は非常に不均一な属で,その特徴は確実だが不十分にしか理解されていないと観察したのは,正しい.それゆえ,ここにこの属とか思えない新しい種を分析する機会を持てることは幸いである.この種は,花が美しいので,cool stoveか温室で栽培したい植物としての資格は十分である.
Augustin Pyramus de Candolle* (オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール,Augustin Pyrame de Candolle,1778 –1841) は,著名なスイスの植物学者.多くの植物の分類に寄与し,学名をつけた.

It was discovered by Dr. GILLIES, growing in light sandy soil, in various situations between the Rio del Saladillo, or Western boundary of the Pampas, and the foot of the mountains near Mendoza. On the Western side of Rio Desaguardero plants were in great profusion, giving to the ground over which they were spread a rich purple hue, here and there marked with spots of an orange colour, from the orange-coloured variety which grew intermixed with the others.
この植物はジリース博士によって,サラディージョ川,あるいは,パンパの西の境と,メンドーサ近くの山地の間の種々の環境の軽砂質地に生育しているのが発見された.デサグアデロ川の西側では,非常に旺盛に繁茂していて,この植物が拡がっている大地は,紫色に染められるが,他と混じって生育するオレンジ色の花を咲かせる変種があちこちでオレンジ色の斑点で彩る,(現在ではアルゼンチン国内)

Portulaca pilosa(ヒメマツバボタン) 2016年7月茨城県南部
It has some affinity with P. pilosa, (Bot. Reg. t. 792) but differs in the greater length of its leaves and vastly larger size of the flowers. The colour of these flowers we find to vary to that degree, that it must afford a very deceitful character for the grouping of the species of the Genus. P. teretifolia and P. lanuginosa will also rank very near our plant, but the latter is described as having small flowers, and the former, many ovate, acute, diaphanous bracteae at the base of the flowers.
この種は幾分かPortulaca pilosa(ヒメマツバボタン)に似ているが,葉がずっと長い事と目立って大きい花のサイズの点で異なる.ここに観察されたこれら(マツバボタン)の花の色の変化の程度は,この種を一つのグループとする?.P. teretifolia と P. lanuginosa も我々の植物と非常に近いと位置づけられよう.しかし後者は小さな花を,前者は花の付け根に多くの楕円形の先のとがった半透明の苞片を持つと報告されている.

Fig. 1. Orange-flowered state of the plant. 2. Purple-flowered ditto. 3. Extremity of a Flowering Branch, from which the corolla is removed. 4. Portion of the Stamens. 5. Pistil. 6. Section of the Germen. •All but fig-1 and 2 more or less magnified.

John Gillies が 現アルゼンチンのメンドーサ附近で採取したマツバボタンの腊葉標本はエジンバラ大学とロンドンの王立キュウ植物園(Royal Botanic Gardens, Kew)に保存されていて,エジンバラ大学のそれは,基準となるタイプ標本とされていて (Royal Botanic Garden Edinburgh - Herbarium Catalogue, http://data.rbge.org.uk/herb/E00285945, http://data.rbge.org.uk/herb/E00285947).αとβの二種があるとされている.
また,キュー植物園のそれも,Gillies が採取したもので (Royal Botanic Garden, Kew - Herbarium catalogue, http://specimens.kew.org/herbarium/K000424602) ,フッカーが自分の息子をキューガーデンの園長の後継者にする事を条件に寄付した膨大な植物標本コレクション(Herbarium Hookerianum)の一部として保存されている.

ウィリアム・ジャクソン・フッカー(William Jackson Hooker, FRS. 1785 – 1865)は、イギリスの植物学者、植物画家.グラスゴー大学の植物学のレジウス教授職(Regius Professor)を務め,その後,キューガーデンの園長を務めた.ジョセフ・バンクスの友人であり、バンクスの援助で植物採集探検やその整理も行った.カーチスの “Botanical Magazine” に収載された多くの植物の解説を記述した.息子のジョセフ・ダルトン・フッカーもキューガーデンの園長を務めた.

更にフッカーは著書 “Botanical Miscellany: Containing Figures and Descriptions of Such ..., Vol. 3“, Murray, (1833) の “CONTRIBUTIONS TOWARDS A FLORA OF SOUTH AMERICA AND THE ISLANDS OF THE PACIFIC;” において,(右図,上部.下部はPortulaca gilliesii の記述)
” 491. (1.) Portulaca grandiflora, Hook.— α. major; foliisunciam Vel sesquiunciam longis.—Bot. Mag. t. 2885.— β. microphylla, fbliis vix semiunciam longis.—P. Mendocinensis, Gill. mst.— α. and β. Between Rio Saladillo and Mendoza, Dr. Gillies. Near Mendoza, Tweedie.—Although Dr. Gillies distinguished and drew up descriptions of these, from the living plants, as species, yet we cannot in the dry state find any specific difference : indeed a specimen from Tweedie is nearly as robust as in α., while the leaves are larger than in β.”
「αとβの二種を Gillies はサラヂオ川とメンドーサの間で,*Tweedie はメンドーサで採取した.Gillies は生体を見てαとβの二種を判別して,それぞれの種としての特徴をきちんと記述したが,腊葉の状態では,我々はこの二種に特徴的な差は見出せなかった.実際のところ Tweedie の標本の方はαのようにたくましく,一方葉はβより大きかった.」と記述し,αとβの二種はないと考えたようだ.

Curtis’s Botanical Magazine
 vol. 58: 3064 (1831)
/MoBot-BHL
*Tweedie, John (James) (1775-1862)
スコットランド人,エジンバラ植物園で庭師の修行をして,50歳を過ぎてから,アルゼンチンを中心に南米の植物を採集,多くの資料をフッカーに送った.ルリトウワタが属する Asclepiadaceae Tweedia Hook. & Arn. 属に献名されている.

フッカーはGillies が南米で採取し種を送ったスベリヒユ属の新種の植物を,彼に献名して Portulaca gilliesii と名づけた  (Curtis’s Botanical Magazine, vol. 58, t. 3064 (1831) 左図,"Botanical Miscellany",492, 右上図下部).
赤紫色の一重の五辧花は径 3㌢ 程とマツバボタンよりも小さいが,濃色の葉は米粒のようで多肉植物の雰囲気が強く,中国で「流星馬齒莧、紫米飯,小松葉牡丹、流星馬齒莧、紫米飯、紫糯米」と呼ばれ,特に鉢植えとして好まれている.

2016年6月27日月曜日

マツバボタン-2 追補 柏木吉三郎 『亜墨利加草類図』 松葉牡丹と命名

Portulaca grandiflora

平野 恵『十九世紀日本の園芸文化一江戸と東京、植木屋の周辺』思文閣出版 (2006) には,柏木吉三郎*の稿本『亜墨利加草類図』(文政10/4(1827)・元治元(1864))の二十四丁表の図が掲げられていて,それにはマツバボタンの図と共に,
「ポルチエラツカスプレンデンス
黄花ヲ ウヱルロウテンス
松葉牡丹ト吉三郎*名附
又長太郎**岩牡丹ト名附
文久元酉年初テ亜墨利加ヨリ来る珍草なり」とあり,以下判読不明だが,「紅色・白色・黄色などの種々の花があり,実を蒔けば繁殖する.莖の高さは7-8寸で,また(茎を)挿せば根付く」と書いてあるようだ.

この資料によれば「松葉牡丹」の名は柏木吉三郎が名付けたことになる.

『倭種洋名鑑』より,風せんカヅラ
(東博上記公開画像より部分引用)
*柏木吉三郎(1799~1883(明治16)以降?) 幕末から明治に活躍した巣鴨の植木屋.花戸(かこ)業の傍ら,本草学者の小野蘭山の孫である職孝(もとたか)の弟子となり,本草を修め,本草家や花卉愛好家と交流する.積極的に海外から渡来の植物を栽培し,伊藤圭介に「粗図ナレドモ之ヲ自写シ楽ミトナシ居リタル老翁(確認中)」と評された植物画を多く残す.三色すみれ ハクチョウソウなど,渡来植物の和名はこの人がつけたという.著作『倭種洋名鑑』は東京国立博物館のHPで見ることができる(webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0035325).
柏木吉三郎については,上記の平野恵の著書の「第二部 園芸と本草学,第二章 植木屋柏木吉三郎の本草学における業績」に詳しい. 


**内山長太郎(1804-1883)は,花戸の太閤とも呼ばれた,江戸後期―明治時代の名植木職人.巣鴨の竹笊作りの倅として生まれ,15歳で賞翫用の唐辛子の苗の振り売りから始め,社寺縁日に店を出し,そこで富山藩主・前田利保と出会い贔屓にされた.菊づくりの名人で,巣鴨に「栽花園」をひらき,菊人形展にたびたび出品.文政12年には水野忠暁の「草木錦葉集」を出版した.チョウタロウユリは彼の名に由来する.

2016年6月23日木曜日

マルバアサガオ-7 条斑点絞咲き,トランスポゾン,曜斑点咲き(ミルキー・ウェイ),花色の変化.

Ipomoea purpurea
2016年6月21日 同じ株から異なった模様の花が咲く
昨年の秋に,茨城県南部の廃屋と,千葉県のフラワー・パークの垣根から採取した種から成育した,マルバアサガオが咲きだした.前者は紺の条斑点絞咲き,後者はミルキー・ウェイという栽培種と思われる(下図,下側).成長速度は速く,草丈は2メートル以上になり,脇芽も多くでてよく茂る.グリーンカーテンとしてはよいが,葉の大きさの割には花が小さい.一つ一つの花は個性的で,特に曜斑点のあるミルキー・ウェイの花は可憐なので,もっと花が大きければと残念である.(葉:最長径 20 cm,花:径 6 cm 程度)

条斑点絞咲きの花の模様は,別株では勿論,同じ株の中でも,一つ一つ模様が異なる(上図).これは,トランスポゾン(動くDNA(あるいは動く遺伝子)と呼ばれる)の作用の結果であるとされている.即ち,花弁を発色させるアントシアンを合成する過程の一つの遺伝子にトランスポゾンが入っていると,発色に必要な酵素が生合成できず,花弁は白い地色になってしまう.そのトランスポゾンが飛び出す(脱離)と遺伝子は正常に戻り,酵素が合成され,色のついた細胞ができる.トランスポゾンが飛び出す時期により,色つき細胞の数が変わり,条斑模様の形や大きさが決まってくる.このような仕組みで,マルバアサガオに多様な条斑点絞模様が発現する.小さな条や斑点が鮮明に出るところが,マルバアサガオの条斑点絞り(flaked)の園芸価値が高い点だそうだ.

経時的花色の変化    上:紺の条斑点絞咲き, 下:ミルキー・ウェイ
マルバアサガオの花弁の青紫色は,経時的に赤紫色に変化する.これは紺の条斑点絞部分,ミルキー・ウェイの曜斑点でも同様である.前者でも,耀の部分から変色が始まる.アサガオの花色の「青→赤」の経時変化は,時間と共に色素を含む細胞の pH が酸性側に傾くためと説明されているが,代謝物の蓄積によるのか,空気中の炭酸ガスの作用なのかは,検索では確認できなかった.

吉田久美(椙山女学園大学生活科学部助手)さんの「アサガオの花はなぜ青くなるのか?」季刊誌「生命誌」通巻16号 には,
「ソライロアサガオ(Ipomoea tricolor )の一品種のヘブンリーブルー(cv.Heavenly blue)は,つぼみの時は赤紫色で開くと青色に変わり,数時間後にしぼむとまた赤紫色になる。そこで,細胞に直接刺し込んで測定する微小pH電極を用いて,1個の液胞のpHを測定したところ,空色の花びらの液胞pHは約7.7と異常に高く,赤紫色のつぼみの花びらのpHは6.6とそれより低い.これにより,アサガオの花色は液胞pHの変化により移り変わることが実証できた。花びらが青色になるには,pHの変化以外にも重要なことがある アサガオの液胞pHの変化は,液胞膜を介した水素イオンやカリウムイオンなどさまざまなイオンの輸送により調節されているものと考えられる。」とある.(https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/016/ex_2.html)

また久富恵世さん(総合研究大学院大学)の博士論文には,『絞り花を咲かせるアサガオとマルバアサガオの色素生合成系遺伝子と可動遺伝因子』 1997,(info:ndljp/pid/3142635)がある.

マルバアサガオ-6 蔓の巻き方.太陽の運行方向,グッドイヤー,パーキンソン,トーマス・ジョンソン,ダーウィン,方以智「蔓艸皆左旋」,貝原益軒「蔓草ハ皆左旋ス」 

2016年6月20日月曜日

マツバボタン-1 追補-2 伊藤圭介『植物図説雑纂』,万延元年遣米使節 成瀬正典が導入か,モース “Japan Day By Day. Vol. 1“


★伊藤圭介(1803-1901)編著『植物図説雑纂』第153冊 (NDL, pid/2571102) の「マツバボタン」の項には,特徴を捉えた美しい数枚の絵と共に,「江戸 イハボタン,京都 ハナマツナ」と呼ばれるとある.また,「成瀬氏*が舶米の時に購入した,アメリカの種屋の書」からのマツバボタンの性状の和訳が引用され,さらに,「米種世ニ播殖シ,又文久二戌冬佛種ヨリモ〇ヘ植ユ」とある.また「米リケン万延 佛文久 ヨリ種○来リ多ク繁殖ス」とあり,万延元年の遣米使節と文久二年の遣欧使節によってもたらされたとある.

『植物図説雑纂』 第153冊 NDL

なお,この成瀬氏*とは,遣米使節の一六人の正使の一人,外国奉行支配組頭 成瀬正典 (善四郎,1822-?) であると思われる.(左図 from Johnston, James D. “China and Japan: Being a Narrative of the Cruise of the U.S. Steam Frigate Powhatan” (1860) Desilver.)

 玉虫茂誼著 航米日錄 第七巻 仙台叢書(NDL)
万延元年遣米使節は,江戸幕府がペリーとの間に結んだ,日米修好通商条約の批准書交換のために 1860 年に派遣した使節団であり,1854年の開国後,最初の公式訪問団であった.正使は新見正興,副使の村垣範正,目付小栗忠順の二人を加えた三人が首脳を務め,加えて外国奉行支配組頭 成瀬正典,勘定組頭 森田岡太郎をはじめとする十六人の正使からなり,これに正使の従者や召使,医師等を加えた総勢七十七名の大使節団であった.万延元年(1860)1月18日に品川を出港,ハワイ経由で太平洋を横断してアメリカに渡り,ボストンやワシントンを訪問.大西洋,喜望峰を経て 9月28日に帰国し,多くの新しい知識・文物をもたらした.
この成瀬善四郎は渡米時の記録を残していないようで,植物種子をどこで購入したのかは分からない.彼については,帰路,味噌や醤油が不足したのは,出発前にストックが多すぎるとして搭載量の半分を江戸湾に捨てさせたからだと,乗員からは評判が悪かったとの事である.

伊藤圭介は水谷豊文に本草を学び,豊文を中心とする尾張本草家・博物家の会として著名な「嘗百社」では,豊文門下の大河内存真(圭介の実兄)・大窪昌章(二代目薜茘菴)・吉田平九郎(雀巢庵)などともに有力メンバーの一人であった.
一方,蘭学は藤林普山・吉雄常三に教えを受け,文政10年(1827)にはシーボルトに師事,シーボルトの良き協力者ともなった.
文久1年-3年(1861-63)には幕府の蕃書調所(洋書調所)物産方に出仕し,その後名古屋に戻っていたが,明治3年(1870)に政府から「大学」出仕を命じられて東京に転居する.翌4年から7年までは文部省に勤務し,8年からは小石川植物園(幕府の小石川薬園の後身)に移った.10年には東京大学員外教授となって引き続き小石川植物園を担当し,21年には日本最初の理学博士号を授与された.
没したのは明治34年(1901)1月20日,99歳の長寿であった.出版された著作は多いが,ツンベルクの “Flora Japonica” に収載された植物の日本名を,シーボルトの指導を受けて考定・同定した『泰西本草名疏』が著名である.

『植物図説雑纂』は,本邦産の植物および渡来植物について,古来の和漢文献や写生図・印葉図・一枚刷・小冊子などをできるかぎり収集しようとした資料集であり,出版を意図していたが,果たせなかった.草部と木部から構成する構想だったらしいが,草部が『植物図説雑纂』の名のままだったのに対して,木部の方は圭介自身が『錦窠植物図説』の書名に改めた.ともに未定稿であるが,圭介逝去の時点で前者は計130冊,後者は164冊という大部の著作になっていた.(但し,NDL, デジタルコレクション『植物図説雑纂』の最終冊は第 254 冊.)

Blog-1 に引用した,帝国大学の初代動物学教授モース(Morse, Edward Sylvester, 1838-1925)の★“Japan Day By Day. Vol. 1“, Boston, Houghton (1917) には,1877年の東京における記事として,“FIRE-FIGHTING (p.135)

The other afternoon a distinguished old Japanese by the name of Ito* called on Dr. Murray, and I had the honor of being presented to him. He is an eminent botanist and was president of a Japanese Botanical Society in 1824. He had come to bring to Mrs. Murray the first lotus in bloom. He was in full Japanese dress, though he had abandoned the queue (fig. 114). I regarded him with the greatest interest, and thought how Dr. Gray* and Dr. Goodale** would have enjoyed meeting this mild and gentle old man who knew all about the plants of his country. Through an interpreter I had a very slow but pleasant conversation with him. On his departure I gave him copies of some of my memoirs, of which he could understand only the drawings, and a few days after he sent me his work on the flora of Japan in three volumes.
「(私訳)先日の午後,伊藤氏*という非凡な老日本人が,ドクター・マレーを訪問し,私も紹介される栄誉に浴した.彼は優秀な植物学者で,1824 年には日本のある植物学会の会長であった.伊藤氏はマレー夫人に,この年最初に咲いた蓮の花を持って来たのである.彼は丁髷は棄てたが,純日本風の服装をしていた(図114).私は最大の興味を以て彼を眺めた.そしてドクター・グレーやドクター・グッドエールが,日本の植物のすべてを知っている,この柔和で物静かな老人と会うことをどれ程よろこぶことだろうと考えた.通訳を通じて私は彼と,非常にゆっくりした,然し喜ばしい会話をした.彼が退出する時,私は私の備忘録の一部分の写しを贈皇したが,彼が理解したのは絵だけであった.数日後,彼から三巻の日本の植生に関する著書を贈られた.」と,モースと伊藤圭介の遭遇の様子が記録されている.

*伊藤圭介博士(1803-1901)当時75歳
** Asa Gray (1810 –1888) is considered the most important American botanist of the 19th century. ペリー提督が来日の際に収集した日本の植物標本の同定を行い,いくつもの新種を発見.東アジアと米国との「植物の隔離分布」を見出した.
*** George Lincoln Goodale (1839 –1923) was an American botanist and the first director of Harvard’s Botanical Museum (now part of the Harvard Museum of Natural History).

2016年6月18日土曜日

マツバボタン-1 追補-1 前田曙山『園芸文庫』 渡来時期,逸話

前田曙山(1872 – 1941,本名,次郎)『園芸文庫 第弐巻』(1903)(NDL pid/80002) 

八月之部「松葉牡丹
おのみち文学の館
卑俗の花としてたちまち排斥し去られ、僅かに女兒の手遊(おもちゃ)になるに非らざれば、寺院の敷石の邉(ほとり)などに毀(こぼ)れ種によりて咲き出づるを見るのみ、夫(それ)も多くは雑草と共に抜かれ、辛くも残留して花咲く者は、其(その)十が一ニに過ぎず、哀れなる身の上といふべし。されども此花誠に斯く迄も卑(いや)しきか、花の美なるは、萬(よろず)の草の中にて多く其(その)疇(ちう)を見ず、アルメリヤや松葉菊などよりは、遙かに賞すべき價値はあれでも、其餘りに能く繁殖して、殆ど何處(いずく)の隈(くま)にも行き渡らぬ無ければ、世人は終(つい)に馴れて徒に看過するなるべし、不遇なるかな。

園芸文庫 第弐巻
八月之部
(NDL)
蘭國より渡る  此花は元外国の産、傳へいふ寛文年中蘭國より渡りしものとか、當時にありては甚だ尊重せられ、西國の某太守は、此花を愛玩するの餘り、數十鉢を庭前(ていぜん)に並べて、守衛の士を置きたりしに、士偶(たまた)ま座睡(ざすい)して足を失し其一鉢を仆(たう)せしより、既に誅せられんとせしが、近侍の諫むるに因(よ)りて、僅かに事なきを得たりしと、彼(か)の緋目斑魚(ひめだか)を流失して割腹(くわつふく)したりし奇譚と共に愚なる好對といふべし。
花に紅白黄緋或は樺色或は桃色にして紅斑なるもの、白花(はくくわ)にして淡紅の絞を交へたるものなどありて、殆ど名狀すべからず、其重辧(やへ)なるは大にして花富麗、眞に牡丹の名に脊かず。豈軽々しく拆(す)つるの花ならんや。

繁殖の法は實生にあれど、採芽(さしめ)にても活(つ)かずといふ事なし、今日縁日の植木店にて、一鉢に様々の種類を蒐(あつ)め、一銭二銭にて客をよぶものは、大抵採芽に非ざるはなし。土は赤土にても眞土にても可なれど、陰濕に過きざるを以て可なりとす、肥料などは殆ど選ぶ所なし。
              石燬(や)けて松葉牡丹の盛りかな    可盛
とは、其烈日の下に、紅黄緋白の妍を戰(たヽ)かはすを詠じたものなるべく、花は朝(あした)に開きて夕(ゆうべ)に萎む、萎むものは再び開かねども、翌(あす)は叉新花(しんくわ)の咲き出づるを以て、盛り久しくして眺矚(ちやうしょく)に値(あたへ)すべし。只其色の艶に過ぎて、清洒(せいしゃ)の態に乏しければ、目に巒氣(らんき)の磅礴(はうはく)たるを見るに能(あた)はざるを恨みとす。 」

注:原文では漢字にはすべて振り仮名があるが、適宜必要と思われるものだけ、括弧に入れて残した.

*眺矚:遠くをじっとながめる.「矚」は、じっと注目する.
『万葉集 巻十九』の巻頭歌.大伴家持の作.越中秀吟十二首の一首目に、「天平勝宝二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首(天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑の桃李の花を眺矚して作る二首;天平勝宝二年三月一日の夕方に、春の庭園の桃とすももの花を見渡して作った歌二首)」とある.
** 巒気:山中で感じられる特有の冷気
*** 磅礴:旁礴/旁魄:「ぼうはく」とも.1 混じり合って一つになること.2 広がり満ちること.満ちふさがること.