2025年11月11日火曜日

ヤマグルマ-3,伊藤圭介『日本産物志前編』,白井光太郎『樹木和名考』,白沢保美『日本森林樹木図譜』

Trochodendron aralioides


★伊藤圭介『日本産物志前編 美濃部 中』文部省(1876)には,図や地方名と共にトリモチの製造法が詳しく載っている.また山地の人々にとって,重要な木として,濫りに伐採する事はタブーとされていた事も興味深い.

  (圖)ヤマクルマ
             
モチノキ
      TROCHODENDRON ARALIOIDE, SIEB ET ZUCC
  「ヤマグルマ
             
モチノキ                 トリモチノキ
             
オホモチノキ               オホム子モチ
             
オホトリモチノキ  ビランジユ  
             
イハグルマ
   「トロ?ヨデンドロン  アラリヨイデス」羅(林氏)第廿二綱第第十一目(自然科目)五味子科
濃 小川等、 信 藪原王瀧、勢 菰野、 三、紀等諸州山中多クハ巖石ノ際ニ
生ス、常緑品ナリ、樹髙サ二三丈、葉互生シ、形橢圓濶大且
光滑ニシテ、細鋸齒アリ、又細長葉ノ者アリ、此葉梢頭ニ
多ク攅簇シ、頗車輪様ヲナス、故ニ「ヤマグルマ」ノ名アリ
ト云、夏月梢上ニ小白花ヲ着ク、雄本雌本アリ、其花無辨
ニシテ雄蕊三十條許アリ、雌花ハ五雌蕊トス、實ヲ結フ
コト豆ノ大サ許ナリ、山民此樹ヲ以テ黐膠ヲ製ス、故ニ漫
ニ之ヲ伐ルヲ禁スト云、其法五六月此枝ノ表皮ヲ削リ
去リ、清水ニ浸スコト三十日許、朽腐セシメ、後臼ニ入レ、餈(モチ)
ヲ搗クカ如クニシ、或ハ復水中ニテ屢引キテ、盡ク皮屑
ヲ去リ、純粹ノ品トナス、又紀ノ熊野山家ノ製法モ、亦粗
相同シ、其法梅雨ノ頃ヨリ土用マテ皮ヲ剥ク、梅雨中ニ
剥ケハ、黐ヲ得ルコト愈多ケレトモ、土用ニ至ラザレバ、腐敗
シ難シ、地ヲ掘リテ田ノ如クシ水ヲ引キ、其中ニ浸シ置
キ、或ハ田ノ泥中ニ埋メ置キ土用ニ至リテ、ソノ初入レ
シ者ヲ、逐次ニ取出シテ、臼ニテ搗キ、水中ニ揉ミ流セバ、
皮ノ滓ハ、分離シ流レ去ル、此黐ヲ浴桶ノ湯中ニ投ジ、振
蕩スレバ、黐ハ水面シ浮散ス、之ヲ取リ出シ、冷定スレバ、
ソノ黐卽凝固ス、但湯ノ熱度烈シキニ過グレバ、融化シ
テ其宜ニ適セズ、雌本ハ實ヲ結ヘトモ、黐ハ得難シト云、或
ハ此樹皮ニ白絲アリ、是眞ノ社仲ナリト、又「シーボルト」
日本本草ニ、此樹ノ雌雄花ノ圖頗詳ナリ」
 とあり,シーボルトの『日本植物誌
Flora Japonica』にヤマクルマの記述があり,精密な図が掲載されている事を紹介している.
 また,同人著『日本産物志 前編 信濃部 上』には,
「ヤマグルマ

   モチノキ
黐膠(トリモチ)ヲ製ス詳ニ美濃ノ部ニ注ス」とあり,日本各地でヤマグルマから黐が製されていたことが分かる.

★高島得三,田中壌『木蘇樹木略誌』(1880序)は.内務省地理局山林課(のち農商務省山林局)の事業として木曽地方の山林調査を行った報告書であるが,表の形で
「濶葉 喬木 常緑 木蘭科 ヤマクルマ 〔方言〕モチノキ 〔漢名〕(空白) 〔俗用〕(空白) 〔洋名〕 Trochodendron Aralioides, S. et Z.

〔地位〕 三千尺以上五千五百尺以下ノ地ニ在リ
〔土質〕 古期石層及ヒ花崗岩ノ地ニ適ス好テ嵓石上ニ生ス火山土ニ適セズ且ツ性陰濕ノ地ヲ好ム
〔位置〕 此樹本郡ノ西南部ニ多クシテ東北部ニ甚ダ希ナリ且ツ林ヲ成スノ多キヲミス
〔効用〕 多クハ木皮ヲ剥ギテ黐ヲ作ル材ハ盆椀ヲ鏃作スベシ
〔雑記〕 大約尺圍ノ材十五本ヲ以テ一樽ノ黐ヲ得ベシ一樽ハ六貫目トス」
とあり,黐を採るほか,盆や椀を作る材として用いられていたとある.ヤマグルマは木目が美しく出るため,木工製品特に旋盤加工品として有用であった.
 田中壌(1858 ‐1903)は,但馬国(現在の兵庫県出石(いずし)町)に生まれる.1879年から85年まで,内務省地理局山林課(のち農商務省山林局)の事業として高島得三(北海)(1850‐1931)とともに日本各地の森林植物帯調査を行い,85年に《大日本(本州・四国・九州)植物帯調査報告》をまとめた.当時の日本には林学の体系的な学術書がなく,学名を確かめることさえ困難な時期に行われた山林調査であった.調査全域の各植物帯を検討し,榕樹(ようじゆ)帯,黒松帯および間帯,山毛欅(ぶな)帯,白檜(しらべ)帯,偃松(はいまつ)帯(または極帯)の5帯の区分を行い,気温,雨量,潮流,定風,高度などとの関係を調べた.86年には,ドイツの森林植物学者でのち東京農林学校教授(1881-91)を務めたマイヤー Heinrich von Mayr(1854 - 1911)を案内して伊豆,九州,中国,近畿,信濃,北海道などを巡回し,彼の教示を得て1887年に《校正大日本植物帯調査報告》を完成した.
 高島得三(北海)(1850 ‐1931)は,長門国萩(萩市)に,萩藩医の子として生まれる.明治5年(1872),工部省に勤め,生野銀山に赴任,フランス人技師コワニェから地質学とフランス語を学ぶ.明治7年(1974),日本初の地質図となる「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著す.明治17年(1984),万国森林博覧会参加要員として渡英,その後,ナンシー森林高等学校に留学し,植物学を学ぶ傍ら,植物への造詣の深さを生かした多くの日本画を制作する.エミール・ガレらナンシーの美術家たちと交流し,彼等の作品に大きな影響を与えた.明治21年(1888),帰国後,農商務省技師を務めたが,明治30年(1897)公職を辞し,本格的に画業に邁進する.明治39年(1906),第40回日本美術協会展で『秋澗暁霽』が二等賞銀杯受賞.翌40年,東京勧業博覧会で『水墨山水』が一等賞牌受賞.明治41年(1908),第2回文展から大正6年(1917)まで文展審査員を務めた.


★白沢保美『日本森林樹木図譜 上編』成美堂書店(1911)は,1900年に刊行された『日本森林樹木図譜. 第一帙』の増補改訂版であり,より内容が充実している.この書ではヤマグルマはフサザクラ,カツラと共に「雲葉科」に属すとされ,性状や生育地,利用法が記載され,「導管ヲ缺キ却テ「とらへいでん」ヲ有」し,材が美しく挽物に適しているとしている.広葉樹には珍しく「導管ヲ缺キ」との知見を記述した.「とらへいでん」は何かは分からなかったが,語感からするとドイツ語のように思われる.「雲葉科」とは中国語でのヤマグルマ科のこと.現在は,フサザクラ,カツラともに独立したそれぞれの科に属する.
★白沢保美『日本森林樹木図譜
上編』成美堂書店(1911)

「雲葉科 三種
  かつら
  ふさゞくら
  やまぐるま」

「やまぐるま(Yamaguruma)  イハモチ オホトリモチノキ モチノキ トリモチノキ 大黐樹
    Trochodendrno aralioides. S. et .Z.
暖溫雨帶ヲ通シテ各地ニ產ス本州中央山脈ニ在テハ二千尺以上五千尺ノ間ニ生シ「もみ」「つが」「そ
 ろ」「そよご」等ノ樹種ト混生ス信濃、遠江地方ニ多ク此他四國、九州、臺灣ノ同帶ニモ生セリ直徑二
 尺高五十尺ニ達ス多クハ山腹ノ地ニ生シ岩石ノ露出セル處ト雖モ能ク生育セリ叉人家ノ周
 圍庭園等ニ栽植セラル伊豆七島及屋久島ニモ亦大樹アリ
葉ハ互生ナルモ節間短縮シテ殆ント年軸頂ニ輪生スルカ如キ觀アリ故ニ「やまぐるま」ノ名アリ
 倒卵狀菱形ニシテ長二寸乃至四寸幅一寸乃至二寸前方廣クシテ長ク尖リ脚ニ向ツテ狹搾シ
 上半ニハ鈍鋸齒ヲ有ス表面深綠色滑澤アリ裏面淡綠色ナリ葉脈ハ主脈ノミ著明ニシテ側脈
 ハ葉肉內ニ隱レテ表面ニ凹沒ス葉柄二三寸平滑ニシテ葉痕半圓形ヲナセリ
花ハ六月下旬新枝頭ニ開ク花序總狀ニシテ一花ハ球狀ヲナシ細長ナル花梗ヲ有ス花蓋ヲ缺キ
 多雄蘂子房ノ周圍ニ並列ス花絲長ク葯ハ楕圓形、鈍頭、黄色ニシテ脚生ス雌蘂ハ五乃至八個環
 狀ニ並ヒ無柄ニシテ基部合著セリ柱頭ハ外反シテ顎狀ヲナス子房一室多數ノ胚珠倒生セリ
 種子十月熟ス果實ハ蓇葖樣ニシテ内縫線ニテ裂開ス種子ハ小形ニシテ多數アリ長一分幅一
 
厘ニ過キス光澤アル桃紅色ヲナセリ
材質稍堅硬緻密ニシテ心材邊材ノ別ナク帶黃白色ヲ呈シ春秋兩材ノ別明ニ髓線モ亦太シ導管
 ヲ缺キ却テ「とらへいでん」ヲ有ス本邦產濶葉樹中他ニ比類ナシ樹皮ハ黃褐色.黑味ヲ帶ヒ且白
 斑ヲ生セリ淺ク狹ク縱裂ス剝キテ鳥黐ヲ製ス材ハ鏇作*用トナル
  第四十二版 圖解
  1 花ヲ著生ノ枝                  2 雄蘂                  3 雄蘂ヲ去リテ雌蘂ヲ示ス
  4 成熟セル果實著生ノ枝          5 果實ノ變斷面    6 種子
  7 一年生枝
下欄ニハ材ノ板目柾目橫斷面樹皮(三十年生)及葉ノ仝形ヲ示ス」とある.1900年版に比べると記述は大幅に増補され,NDLでのデジタル化の精度(グレースケール)も上がっているので,圖解も美しい.

  ○カツラ(Cercidiphyllum japonicum):カツラ科,カツラ属1属からなる.カツラとヒロハカツラの2種のみからなる.
  ○フサヾクラ(Euptelea polyandra):フサザクラ科,フサザクラ属1属からなる.日本の本州(主に秋田,宮城県以南)から九州に自生するフサザクラ(Euptelea polyandra)と,中国南部からアッサムに自生するEuptelea pleiosperma の2種(および両者の人工的雑種)からなる.
  *「鏇作」は「旋削(せんさく)」のことであり,原材を回転させ,そこに刃物を当てて削る切削加工の一種であり,ろくろや「旋盤」を用いて,円筒状の部材を製作する際に使われる.
 白沢保美(1868 - 1947)は,日本の樹木学者.東京市の初期,都市緑化事業の指導にあたる.1868年に,信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師の家に生まれ,1894年帝国大学農科大学林学科を卒業.大学院で研究のかたわら,農商務省山林局に勤務.1900年より欧州に2年間留学.1903年林学博士.1908年山林局林業試験場長に就任.1932年に退職するまで,20数年の長期にわたってその職についた.
 都市緑化について強い関心を持ち,1904年に優秀樹木としてプラタナスやユリノキの種子を大量に公園樹木として供給した.また1907年,東京市の委嘱により福羽逸人と協力し,街路樹は種苗より整然と育成すべきことを説いた東京市行道樹改良案を提出,東京の街路樹事業の大綱が樹立させた.東京市はこれによりプラタナスやイチョウ等の栽培を始めたほか,1910年から新規格による街路樹の植栽に着手し,以来年々これが育成に努力した結果戦前に10万余本の街路樹の整備を見た.白沢はドイツ留学の帰りにインドからヒマラヤスギを,アメリカからユリノキをそれぞれ持ち帰った.なお,白沢が持ち帰ったユリノキは5本あったといふが,うち1本が1909年に南安曇郡三郷村旧温明小学校の創立を記念して,校門脇に植えられ,移植されているが現在でも大きく育っている.他には,東京国立博物館(東京都台東区上野公園)に1本を残すのみで,残りは戦争や天災で失われてしまったという.

2025年11月5日水曜日

ヤマグルマ-2 .藤子(加藤元貞)『南紀採藥紀行』,水谷豊文『物品識名拾遺』,飯沼慾斎『草木図説』,畔田伴存『熊野物産初志』『古名録』,小野蘭山『本草綱目啓蒙』

Trochodendron aralioides

2024年4月筑波実験植物園

ヤマグルマ(山車)
は、ヤマグルマ科ヤマグルマ属の1属1種の植物であり、トリモチが取れる事,及び広葉樹なのに,仮道管で水を輸送する事で知られている.
 東アジア特産(日本では,本州(山形県以南),四国,九州,琉球,伊豆諸島に,東アジアでは,台湾(「崑蘭樹」),朝鮮南部に分布する)の被子植物の常緑広葉樹である.ヤマグルマ科には,他にTetracentron スイセンジュ屬があり,ネパール・中国・ミャンマー北部に生育する T. sinensis スイセンジュが属している.

名前は枝先に着く葉が,短い間隔で四方八方に丸くつくので,車輪の様に見えるからと言われ,シーボルトのつけた屬名(Trochodendron, trocho = wheel, dendron = wood)もこの日本名に由来する.

また良い鳥もち(黐)が製造できるから「トリモチノ」の別名もある.黐は日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」,ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」と呼ばれる.鹿児島県(太白岩黐),和歌山県(本岩黐),八丈島などで生産されていた.4 - 6月頃に皮を剥ぎ,半年ほど水に浸けカスを洗って,水に不溶性の粘着質物質をとりだすことで得られる.ハエ取りにも利用された.ヤマグルマから得られる「アカモチ」の主成分のワックスエステルは,脂肪酸としてはパルミチン酸,セロチン酸,オレイン酸,トコロ酸を,アルコールとしては樹脂アルコールなどを含む.また,ベチュリン,α-アミリン,β-アミリン,ルペオールといったテルペノイドも含有する.かつては鹿児島県が日本一の産地であった.
 かつては鳥獣保護法において法定猟具にとりもちが含まれており,これを利用した黐縄(もちなわ.鳥黐を塗った縄を湖面に張り巡らせることで水鳥を捕獲する)や,はご(木の枝や竹串に鳥黐を塗布して鳥を捕獲する.おとりの鳥を入れた鳥篭を高所に配置して,近づいてきた鳥を捕獲する猟法は高はご,多数のはごを配置するものは千本はごと呼ばれた)などの猟具が存在した.また,琵琶湖のカモをとるのに,アオツズラフジのつるに,ヤマグルマのトリモチをつけて,湖面に流した.現在ではかすみ網やとらばさみ,あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されており,鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから,鳥黐を使用して鳥類を捕獲する行為は,「禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の捕獲」に該当し,鳥獣保護法違反で検挙対象となる.

故磯野直秀慶大教授は「ヤマグルマ」の初見は,小野蘭山(1729 - 1810)『紀州採薬記』(1802)としたが,別名「大黐樹」が★嵯峨天皇『新修鷹經』(818)に現れ,この樹木はヤマグルマであるとする説もある(前記事).『紀州採薬記』(1802)は閲覧できなかったが,蘭山の紀州採薬の旅に同行した藤子(加藤元貞)の『南紀採藥紀行』の筆写本は NDL のサイトで閲覧できた.この書には紀州那智山で「山ノ車」を見たとあり,これはヤマグルマと思われる.


  蘭山は老齢になっても多くの採藥の旅を敢行したが,
74歳の享和2年(1802)2月22日から5月29日にかけて紀伊・木曽を旅した.
 

その際同行した弟子の藤某が書いたとされる★藤子『南紀採藥紀行』には,「文化元年(
1804)四月七日」に那智山で「山ノ車」を観察したとあるが,これがヤマグルマと思われる.
「文化元年
   小野蘭山先生伊勢紀伊採藥記
   藤子南紀採藥紀行
 小野蘭山先生伊勢紀伊採藥記
 藤子紀南採藥志稿   合本壹冊
    伊藤篤太郎出品
  藤子南紀採藥記   蘭山門人
小野蘭山先生  伊勢紀州採藥記   内田春水寫之

藤子紀南採藥志稿
  此書ハ蘭山先生台名ヲ蒙テ採藥ノ時
  門人藤某從遊シテ所記也
 二月二十二日發江戸抵金川駅
  (中略) 
 四月朔日發江住抵大島
  (中略)
 六日發太地至那智山
  (中略)
   ヲガ玉の木 那智
 七日
  (中略)
   山ノ車
  (中略)
 八日上妙法山
  (以下略)
 文政六年未六月吉日寫之内山春水」とある.
 この書は文政六年(1823)に内山春水が筆写したものを伊藤圭介が入手し,後に孫の伊藤篤太郎が薬品会などの展示会に出品した書と思われる.
 なお,★平野満『小野蘭山「採薬記」の成立と転写系統の検討―『常野採薬記』『甲駿豆相採藥記』―』駿台史学 第124号(2005)によれば,この筆写藤子とは,紀州採薬に同行した蘭山の門人で,日光(常野)採薬(1803年4月7日-5月18日)にも参加した加藤元貞である事は確実だという.
 この論文の註に「加藤元貞は蘭山の紀州採薬にも同行した。紀州採薬では蘭山門人の水野皓山が伏見で合流し比叡山採薬に従った。このときの事を『野氏物産小録』(岩瀬[26-109])の第二冊に書き留めた。そこに「先生陪従門人 江戸本江(ママ)金助町/加藤元亨(ママ)」,「享和二戌年伏見旅舎ニテ蘭夫子面アタリキク処也/先生門人 江戸本江 金助町/加藤玄亭(ママ)」とある。紀州採薬では同行の門人藤某が記録した『藤子南紀採薬志稿』が知られるが,著者の実名は不明だった。この記事によって「藤子」は加藤元貞としてよさそうである。」とある.

★水谷豊文『物品識名拾遺
. 乾,坤』(1825)の坤巻の「也」部に「木  ヤマグルマ モチノキ」とある.これが閲覧した限りにおいては,「ヤマグルマ」の名が記された最初の文献だった(上図,左部).

★飯沼慾斎(1782-1865)『草木図説』(成稿 1852年ごろ)は草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部20巻,木部10巻.草部は1856年から62年にかけて出版されたが,木部は写本が残るのみ.この書に図と共に
   
「 ヤマグルマ
  
葉楕円本狭ク末豊ニシテ尖リテ鋸歯アリ、質厚クシテ
光沢アリ、柄尤長ク、十数葉一処ニ近ク聚リツキテ層ヲ
ナス、故ニヤマグルマノ名アリ、春三月枝頭ニ長梗花ヲ
以テ穂状ヲナス、蒂ニシテ萼ナク弁ナク、麦粒状ノ実礎
八箇併次シ、各頸延テ柱ヲナシ、狀ヨリ多ノ雄蕋ヲ出シ
テ下ニ重ル、惣テ淡黄緑色ニシテ葯淡黄粉ヲ吐ク、此樹
往々山中ニ生シ、山人以テ粘黐ヲ製スルニ専ラ此樹ヲ用
ユ、故ニ単ニモチノキト称ス、葉ニ大小二種アリ

附全花郭大図
   所属未詳」と名の由来「柄尤長ク、十数葉一処ニ近ク聚リツキテ層ヲナス、故ニヤマグルマノ名アリ」と,とりもち「粘黐」が採れるとある(上図,右部).


★畔田伴存『熊野物産初志 二 木類』(1857)山本錫夫写 には雄木・雌木と稱する二種の木の画と共に

「大モチノ木  樹二三丈皮灰褐色剥テ黐ヲ製ス水田ノ泥中ニ埋ミ置

搗テ皮ヲ去黐トス葉冬青ニ似テ大ニシテ濶ク緑色光澤アリ鋸歯アリ
 枝梢ニ聚リ互
 生ス夏葉ノ本ニ
 穂ヲナシ五瓣白
 花ヲ開後實ヲ
 結テ緑色若楝
 子ニ似テ小也雄
 木ハ不結實黐
 ヲ取ニ雄木皮ヲ
 用新修鷹經
 
 大黐樹(オホトリモチノキ)ト云者此也
 農桑輯要曰凡木皆
 有雌雄而雄者多不結實
 
 大モチノ木 雌木
 大モチノ木 雄木

 一種イヌモチアリ大モチニ似テ葉薄ク鋸歯深シ葉ノ莖赤色也」
と,トリモチの製造法と雌雄異株とある.しかし★白井光太郎『樹木和名考』(次記事)によれば,雄木の圖はヤマグルマであるが,雌木と稱するものの圖はコバンモチで,黐が採れないのは当然であるという.なお,ヤマグルマは雌雄同株で雌雄同花.ただし,雄蕊が先に成熟する木と,雌蕊が先に成熟する木とがあり,この事が雌雄異株との誤解を生んだのであろう.
 


上記の★畔田伴存(翠山,源伴存)『古名録』(1843年-天保14年稿)は彼の永年にわたる研究の集大成であり,正宗敦夫 編校訂『古名録』日本古典全集刊行会(1937)として活字本を閲覧できる.この書の「木部巻第三十」には,図と共に
 「大黐樹(オホトリモチノキ) 新修鷹經 按冬靑*ノ一種也 〔今名〕オホトリモチノキ
○文明写本下學集曰、黐(トリモチイ).字典曰、黐。廣韻ニ黐膠,所二以黏一レ鳥ヲ 〔集註〕新修鷹經日、凡剪葉者方二寸鷂者一寸五分用二大黐樹葉煮一而陰乾 〔形狀〕○大トリモチノ木ハ和
州吉野郡大臺山,玉置山縣迦嶽彌山山上嶽、及北山十津川天川、紀州熊野山中ニ多シ,土人山中ニ入テ皮ヲ
剝テ池澤ニ埋、後搗テ黐ト成、其木高サ二三丈、葉一処ニ叢附、四時不凋。形狀女貞(ヒメツバキ)ノ葉ニ似テ厚ク、末尖リ
莖長ク、銘齒アリ。初夏花ヲ開、實ニ結ブ豆ノ大サノ如
シ、木ニ雌雄アリ、雄木ハ實ヲ不レ結、黐ヲ製スルニ良也」と,ヤマグルマが記述されている.
*冬青:モチノキ
 畔田伴存(源伴存(みなもと ともあり),1792 - 1859)は,江戸時代後期紀州藩の本草学者・博物学者・藩医.『和州吉野郡群山記』『古名録』をはじめとする博物学の著作を遺した.伴存の著作の特徴となるのは,ある地域を限定し,その地域の地誌を明らかにしようとした点にある.

この他,貝原益軒『大和本草』(1709)や,寺島良安『倭漢三才圖會』(1713頃)にも「モチノキ」の項はあり,幾つかとりもち(黐)の取れる木の記述があるが,ヤマグルマが含まれているか否かは確認できなかった.

★小野蘭山『本草綱目啓蒙』48巻(1803 – 1806)は『本草綱目』に関する蘭山の講義を孫職孝(もとたか)が筆記整理したもの.『本草綱目』収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などが国文で記されている.この書の「巻之三十二 木之三 灌木類」,「冬青 モチノキ」の項に
 「一種トリモチノキハ、クロガネモチノ葉ニ似テ色浅シ。木皮ヲ搗テ、トリモチヲ取。トリモチハ拘骨ノ条ニ粘●(黐のへんを禾)ト云.当ニ粘黐ニ作ルベシ。鴻苞集ニ黐膠ト云.一種オホモチノキアリ。葉大ニシテ大葉楠(ユズリハ)ノ如シ。コノ外ニ黐膠ヲ取木尚多シ。」とある.この「オホモチノキ」がヤマグルマであろうと思われる.

文献画像は NDL のデジタル公開画像からの一部引用