Gomphrena globosa
4 Rheede
tot Drakestein, H.A. van, Hortus Indicus Malabaricus, vol. 10 t. 37 (1690) “WADAPU”(左図)
リード・トット・ドランケンスタイン(Rheede tot Drakenstein, Hendrik Adriaan van, 1636–1691)はオランダ東インド会社の植民地の執政官であり,また博物学者.1670年から40 年近く,西インドのマラバルやコーチン(現在のインド西部,ケララ州近辺)の総督を勤めた.その間, 25人の画家や博物学者,原住民の民俗医を雇って,現地の 740 種もの植物を収載した ”Hortus
Malabaricus” (1678-1703, 全 12 巻)をラテン語・サンスクリット語・アラビア語・ケララ州の一般言語,マラヤーラム語の四言語で刊行した.この著作は 1674年に開始され,1675年には,第一巻の原稿が完成した.1660年ころから会社は自然科学の出版を後押ししたが,リードの有用植物に関する著作は特に風土病対策に有用と考えたからであろう.
オランダの植物学者,次項に述べるヤン・コメリン(Jan Commelin, 1629-1692)は1678年から没するまで,この "Hortus
Indicus Malabaricus" の編集を行った。
リンネは『植物の属,Genera
Plantarum』(1737) に多くのリードの記述を引用し,その「序,Ratio Operis」には, “Hortus Elthamensis” のDillen,“Hortus Malabaricus” の Rheede そして,アメリカの植物に関する
Charles Plumier,この人たち以外の著述家にはあまり信を置かない.この三人のなかでも,Rheede の記述が最も正確である.と記している(右図).
5 Commelin,
J., Horti medici Amstelodamensis rariorum tam Orientalis, vol. 1 t. 45 (1697)
Horti medici Amstelodamensis rariorum tam
Orientalis, vol. 1: t. 45 (1697)
(85)C A P . XLV
AMARANTHO AFFINIS INDICAE ORIENTALIS ,
FLORIBUS GLOMERATIS, OCYMOIDIS
FOLIO. Breyn;Cent. 1., WADAPU Hort. Mal.
“GAùdet háec planta radice fibrosa, catìlem
promens bipedálem , ramosum , teretem, pilis breviffimis obsitum, geniculis
purpuréis ex intervallis longioribus, ìnterceptum.”
ツユクサ属にその名を残すヤン・コメリン (Commelin, Jan, 1629-1692) は,オランダのアムステルダムで薬種業を営み,その後市議会議員も勤めた有力な市民で,東インドの有用植物を収集・栽培するアムステルダム薬草園(Hortus Botanicus Amsterdam)を設立した.ここに栽培された植物を記した "Catalogus plantorum horti medici Amstelodamensis rariorum” では,リンネより,より現在の分類法に近い英国の植物学者ジョン・レイの分類法に従った.ヤンの死後,この植物園の園長を勤めた甥のカスパル・コメリン(Commelin, Casper, 1667?-1731) が完成させ,最終巻は 1701年に刊行された.これには223のモニンクス父娘(Johan と Maria Moninckx)による図版が添えられた(前記事参照,左図).
6 Hermann,
P,. Paradisus batavus, LAM5 (1698)
ドイツ生まれの医師,植物学者のパウル・ヘルマン(Paul Hermann, 1646-1695)は,15年間ライデン植物園(Hortus
Botanicus Leiden)の園長を務めた.パドゥアの医学校を卒業した後,オランダ東インド会社に雇われ,セイロンに派遣され,1672年から1677年まで東インド会社所属の船医を務めた.その間セイロンの植物を精力的に集めた.その後1679年にライデン大学の植物学の教授となり,ライデン大学に当時,ヨーロッパで最良の植物園を設立した.
著書にライデン大学植物園の植物について記述した "Paradisus batavus" があり,それはヘルマンの死後にウィリアム・シェラード (William Sherard, 1659-1728) によって編集され出版された.シェラードはさらにヘルマンのセイロンの植物に関する原稿をあつめ
"Musaeum Zeylanicum" として1717年に出版した.
ヘルマンのセイロンの植物の標本は,リンネが "Flora Zeylanica" (1747) と
"Species plantarum" (1753) を著す時に参考にされ,リンネの著書では "Hermann herb." と表記され,リンネはへルマンの植物画家としての技術を高く評価した.ヘルマンの標本はその後,多くの人々の所有を経て,後にジョセフ・バンクスが購入し,現在はロンドン自然史博物館で保存されている.
7 Weinmann,
J. W., Phytanthoza Iconographia, vol. 1 t 97 (1737)
ドイツ(神聖ローマ帝国)の薬剤師・植物学者のヨハン・ヴィルヘルム・ヴァインマン(Johann Wilhelm Weinmann,日本ではワインマン,ウエインマンとも表記される,1683-1741)は,1737 年から 1745 年の約 8 年をかけて出版した大著『薬用植物図譜』(Phytanthoza
iconographia)8巻』で知られる.この書はメゾチント印刷に手彩色された植物図版で,数千の植物が記載され,1000 以上の図版が収録された.
江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に伝わり,そのいくつかは,岩崎灌園が模写し『本草図譜』に加えられた.
江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に伝わり,そのいくつかは,岩崎灌園が模写し『本草図譜』に加えられた.
最初の25 (75?) 図の植物学的記述は Johann Georg Nicolaus Dieterichs
(1681–1737) が書き,その後は彼の息子の Ludwig
Michael Dieterichs (1716–1747) が引き継いだ.ヴァインマンの死後,Ambrosius Karl Bieler (1693–1747) がこの大著を完成させた.
この書はそれ以前の本草書に比べると,彩色された図譜を伴う植物誌として画像の正確性が高く評価されている.
半数ほどの図を描いたのは,その後リンネのために『クリフォード庭園植物誌』の図を描き,大きな名声を得る事になるゲオルク・ディオニソス・エイレット(Ehre t. Georg Dionys, 1706-70)で,この書のために,飢えんばかりの薄給で雇われて図を描いた.ヴァィンマンの待遇は非常に悪かったようで,エイレットが五百点もの図を仕上げて最初の給料を要求したとき,その倍の千点は仕上がっていなければならぬと言われ,わずかな契約金の半分ももらえずにくびになった.
このセンニチコウの図は初期に刊行された図譜なので,エイレットの作によると考えられる.
センニチコウ-4, 欧州の植物図譜 (1). ブレイニ,モニンクス,ルンフィウス
このセンニチコウの図は初期に刊行された図譜なので,エイレットの作によると考えられる.
センニチコウ-4, 欧州の植物図譜 (1). ブレイニ,モニンクス,ルンフィウス
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