2015年04月 |
「薇」は中国においては古くから山菜として知られていた.中国最古の詩集『詩経』には,三つの歌に「薇」が詠われている.また,諺の「周粟を食らわず」の元となった伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の逸話では,山中に隠遁した二人の食した山菜はこれだという説もある.
詩経-山崎闇齋點 明和刊 NDL |
五経の一つで,孔子以来,儒家の経典とされた中国最古の詩集『詩経』は,周王朝の初期から東遷後百数十年に及ぶ(前10―前6世紀),朝廷の祭祀・饗宴の楽歌,各地方の民間歌謡など計305編を集録している.「国風」・「小雅」・「大雅」・「頌」の4部からなり,「薇」が詠われているのは,諸国の民謡を集めた「国風」の〈召南〉に一編,宮廷で用いられた楽とされる「小雅」の〈鹿鳴之什〉と〈谷風之什〉に各一編が収録されている.
「国風」〈召南〉「喓喓草虫」は,立命館大名誉教授
白川静博士(1910 - 2006)によると「草摘みの歌」の一種で,兵士として徴用された夫の健勝を,新しい生命力をみなぎらせた野草の芽を摘むことによって祈る意味がある「恋愛詩」と考えられている.
白川博士はまた,「薇」を一般的に言われている「ゼンマイ」ではなく「わらび」と訳しているが,既に述べたように,現在では「薇」はワラビでもゼンマイでもなく,カラスノエンドウに該当すると考えられている.茨城大学の加納喜光氏は「日本では薇をゼンマイと訓じる。しかしこれは誤りで、薇はスズメノエンドウ(小巣菜Vicia hirsuta)などのソラマメ属の植物を指す。」と指摘している(「埤雅の研究・其八 釈草篇(4)」茨城大学人文学部紀要『人文学科論集』44号29-44頁、2005年9月).前記事参照.
しかし,和訳のリズムからすると「わらび」の方が口ずさみ易く,食用の野草として親しみがあってイメージが湧くので,こちらが採用されたであろうか.
作品名
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草虫
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収載書名
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『詩経』「国風・召南」
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訳者名
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白川静
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訳書名
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『詩経国風』(『東洋文庫』518)
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喓喓草虫
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喓喓(えうえう)たる草虫
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ようよう いなご
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趯趯阜螽
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趯趯(てきてき)たる阜螽(ふしゆう)
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ばたばた はたおり
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未見君子
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未だ君子を見ざれば
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あいみぬうちは
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憂心忡忡
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憂心 忡忡(ちゆうちゆう)たり
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こころなやまし
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亦既見止
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亦既に見
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やつと会えて
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亦既覯止
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亦既に覯(あ)ひ
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やつと相見て
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我心則降
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我が心 則ち降る
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心がいえた
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陟彼南山
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彼の南山に陟(のぼ)り
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南山に陟つて
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言采其蕨
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言(ここ)に其の蕨(わらび)を采(と)る
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そのわらびをとる
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未見君子
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未だ君子を見ざれば
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あいみぬうちは
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憂心惙惙
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憂心 惙惙(てつてつ)たり
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こころなやまし
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亦既見止
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亦既に見
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やつと会えて
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亦既覯止
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亦既に覯ひ
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やつと相見て
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我心則説
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我が心 則ち説(よろこ)ぶ
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心がとけた
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陟彼南山
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彼の南山に陟り
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南山に陟つて
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言采其薇
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言に其の薇(わらび)を采る
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そのわらびをとる
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未見君子
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未だ君子を見ざれば
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あいみぬうちは
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我心傷悲
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我が心 傷悲す
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こころなやまし
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亦既見止
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亦既に見
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やつと会えて
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亦既覯止
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亦既に覯ひ
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やつと相見て
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我心則夷
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我が心 則ち夷(たひら)ぐ
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心なごんだ
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WUL |
中国宋代の儒学者,朱子(1130 - 1200)は,詩經の解釈考証の書として最も重きを置かれた『詩經集傳(南宋)』のなかで,この詩の「薇」の項の注釈として「賦也。薇、似蕨而差大。有芒而味苦。山閒人食之。謂之迷蕨。胡氏曰、疑卽莊子所謂、迷陽者。夷、平也。」と記し,「薇」は「蕨」と似ているが,それより大きく,芒があって,味が苦いとしている(右図 松永昌易(1619-1680)評註『詩経集註・朱熹集伝』(寛文4年刊の再刻) WUL).この「芒」がいわゆる「のぎ,禾」なのか,他の付属体なのかは調査中.
さらに,この詩のように,中国の古い文献では,しばしば「蕨」と「薇」が相対するように用いられていることから,日本ではこの二つの植物を「わらび」と「ぜんまい」と校定し,「薇」をゼンマイと読むようになったと考えられる.
『詩經』中の他の二つの詩,「采薇采薇」及び「四月維夏」については次の記事に記す.
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