2016年3月3日木曜日

サクラソウ (22) 小桜源氏,江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻 『宴遊日記』

Primula sieboldie cv. “Kozakura-genji”
2016年3月3日 小桜源氏
昨年夏に,地上部の枯れた鉢植えを,近くのホーム・センターで安価にて購入.芽が出ているのを確認して,窓辺で育成.

品種名:小桜源氏,認定番号:75,品種名仮名:こざくらげんじ,表の花色:桃色地紅斑入り,裏の花色:桃色地紅斑入り,花弁の形:記載なし,花弁先端の形:梅,花容:受け咲き,花柱形:短柱花,花の大きさ:小,作出時期:江戸中期,類似品種:なし,その他:性質強い (埼玉県花と緑の振興センター サクラソウ保存品種一覧 より)

江戸中期のサクラソウ文献.六義園々主 柳沢信鴻宴遊日記』(1773-1785

2008年11月 六義園 藤代峠より園内
柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき,1724 - 1792)は,江戸時代中期の大名.大和国郡山藩第二代藩主.1724年(享保9年),初代藩主柳沢吉里の次男として生まれる.1745年(延享2年)吉里死去に伴い,柳沢家を相続し,幕府の要職を歴任.1773年(安永2年)50歳で隠居後に,祖父の吉保が築いた江戸六義園に居住し,亡くなる間際まで『宴遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残した.
彼は園芸と演芸を好み,歌舞伎の演目の記録は詳細を極め,その歴史資料としての価値は高い.一方,六義園では多くの観賞用植物を育て,また,ツクシ,ノビル,ヨメナ,ノカンゾウ,タンポポ,ワラビ,ゼンマイなどの山菜を側室のお隆さんと庭で摘み草しては,俳句や短歌に添えて,友人に与えている.

『宴遊日記』には,いくつかのサクラソウの記事もあり,大名の好事家の間では,江戸でも観賞に値する花であると認識されていたことが伺える.特に安永十年(1781)の春には,家中で尾久に桜草狩りに出かけた.桜草の名所としてこの地を多くの行楽客が訪れていた事がわかる.(日本庶民文化史料集成第十三巻芸能記録(二)「宴遊日記」芸能史研究会編 三一書房(1977)

□引退した安永二年(1773)の春には早くも家中の木俣氏よりサクラソウを貰ったと記録している.
「三月二十七日 快晴大暖気初て服ひとつ
木俣に櫻草貰ふ.」
□その六年後の安永八年(1779)の春四月には,
「六日 快晴昼西に浮雲爽風無程散涼夜更糠雨
お玉か池通り、油島にて桜棘・鉄仙花求め、いせやに休み、みうき団子を求め,土物たなより挑燈つけ暮過帰る」
とあり,「桜棘」が「桜艸」の書き間違い,書き起こし間違い,誤植ならば,桜草が市中で売られていた事となる.

□二年後の安永十年(1781)の春には,家中で尾久に桜草狩りに出かけた様子が,次のように記されている.(適宜,注と段落を挿入)
ノウルシ 茨城県南部
「三月十七日 花陰大雲出没日折々出七比村雨 八過より南風爽々夜四比より雨粛々
九少前よりお隆同道珠明院*善光寺如来開帳参詣、供穴沢・鞍岡・高田・木俣・相原・長尾・々沢・谷・袖岡・八代・ほの・万吉・清寿・元・何佐・富貴・りを・伊藤・木村、大雲満天南風にて出没(服一ツ單羽織)先へ出待合せ笠志前へかゝる、**に旅客駕より下り休居たり、笠志鄽外へ出交語,平塚八幡観世音拝す、利島尾久の舟甚込合ふ由ゆへ,今朝吟八方へ舟貸度由申遣ハし、又爰より尾沢を案内に遣ハす、平塚坂を下り梶原、堀内村前へ尾沢、吟八家来引連来、梶原村へ入川端薪屋次郎兵衛門へ入、八重桜数株満開、つはき色々咲乱たり、坐敷に女客・武士なと見ゆ、供部やに下部数人見ゆ、梶原淵崖上より歩みを渡し舟に乗る、歩み険にて危し、舟狭き故二度に渡る、此舟にはお隆・谷・袖岡・八代・ほの・万吉・もと・穴沢・鞍岡・相原・伊藤はかり乗る、筋違にわたす、
*現足立区小台にある,金龍山珠明院か?
**鄽:てん,みせ

1854, Lemaire, Journal Special des Serres et des Jardins,
Belgium, REINECKEA JAPAN, キチジョウソウ
尾久のわたし三町はかり先に見ゆ、向の岸は土堤にて坂険阻也、土堤の下ハ野新田に続きたる曠野、櫻草所々に開き、あちさいに似て黄なる花の草*解夏草**一面、三町はかりにて畑の間へ入、三逵の径に帋に枝折つけたれハ左折直行、程なく沼田村珠明院也、高札たてみせ物鬼娘看板有、参詣多からす、内陣にて拝す、旧年拝せし尊像とハ殊なり、初穂万金奉り迹より来る者に内陳拝の事を頼み、富貴を残し涅槃像拝す、旧年より甚小し、
*あちさいに似て黄なる花の草:ノウルシと思われる(右上)
**解夏草:キチジョウソウ(吉祥草)の別名(左圖)

帰路娵菜・野韭・忍冬を取々行、曠野少手前にて先剋次兵衛方に有し客、後家主人と見へ少女婢等五六人・武士五六人跟隋*、曠野にて櫻草を堀、向ふより婦四五人来、従者のいへる次兵衛舟崖下に得由伝語、南風颯々、高田等ハ珠明寺門前にて来り、直に如来を拝し追つく、爰より又舟に乗、同船前に同、木俣も乗、伊藤へさきの竿をさす、次兵衛坐敦に休む、庭狭く仮山水在、前剋休し人の狭箱井上家の紋なり、床脇に在、爰より又々摘草、芹もつみ、平塚坂下石橋前植樹屋を貸り奥座敷にて弁当遺ふ、庭一面八汐楓等を植、此家往来の茶屋もする故表腰かけに客在、田楽等を焼する、
*こんずい【跟随】「跟」はかかとの意,人のあとについていくこと.

平塚坂を升る頃より南風村雨降来、傘をさし笠志茶店へ行、此雨にて武士客三人鄽上へ来れハ庭通り住居へ行、雨止み無量寺*前田畝にて摘草、牡丹花や前より畑中を螢沢出、暮前帰** ○下谷より瀬崎狂気の様子にて今日下宿せし由申来る ○米魚菊堂方へ行、夜出る ○今朝鳥宿下」
"JAPAN ITS ARCHITECTURE, ART, AND
ART MANUFACTURES” BY C. Dresser (1882)
*無量寺:現北区西ヶ原 真言宗豊山派
**廬:いおり,家

□同じ月の「廿八日穀雨 雨霏々八過止夜又止
お千枝よりお隆へ文にて式部より菓子折詰貰ふ、一重成慶院へ遣ハす、即答○お隆に蜂屋柿貰ふ○熊に櫻草貰ふ」と,今度は熊(熊谷?)氏よりサクラソウを貰っているが,これは鉢植えだったと見えて,
□次の月,四月には「十日 快晴冷気
四半頃米徳来る、八半前帰る、刀番に園中見する
〇七過よりお隆同道蒲公*を取、庵へ行、黄山蘭を掘、七半過帰る、楡子・海棠を芦辺へ植る、櫻草を花壇へ移す」とこの貰ったサクラソウを地植えにしたと思われる.
*蒲公:ホコウ,タンポポの別称(右図,NDL)

□その後しばらくは桜草の記事は見つけられなかったが,天明二(1782)年の三月には,
「七日 白雲満天隙日漏昼より曇深
松崎に櫻草貰ふ」の記事があり,地植えには失敗してしまったのかとも思われる.

とにかくこの書は大冊で,活字は小さく,到底すべての年の春の部を閲覧し桜草の記事を探すことは出来なかった.


2016310日,上書より見出したサクラソウの記事 追記

巻之八 安永九年 (1780) 三月
十六日 快晴
和泉屋へ行、根岸先へ来り在、離亭にハ侍客二人在,取つき座敷にて弁当、田楽焼する、弘慶子売*来る故呼込薬を買ひお隆に見する 初め上新田にて八の鐘聞ゆ 亭主庭に植し由桜草数株貰ふ

*弘慶子(こうけいし)売,安永(17721781)のころ,朝鮮人の服装をして薬や菓子を売った行商人 左図-NDL,『蜀山人全集』より

「○弘慶子,福輪糖,与寒平膏薬  今年朝鮮の弘慶子といへる薬を売る者あり.其の様すぼき竹の笠を着て壺を二ツ肩にかけ行く.去年より流行すともいふ」(『蜀山人全集』 巻一「半日閑話 巻十三」(安永五年十二月)吉川弘文館,1907-1908)「半日閑話」は、太田南畝(蜀山人)の「街談録」(明和五年 (1768) から文政五年 (1822) まで(南畝が二十歳から七十四歳までにあたる)の五十四年間,巷でおきた雑事の見聞録.全二十二冊)を元とし,南畝の死(文政六年四月)後、編者姓氏未詳が、加筆し、全二十五巻に纏めたもの.

巻之八 安永九年 (1780) 三月
廿七日 春雨蕭々
妙三来る○溝口,野新田へ行し由桜草貰ふ

巻之十 天明二年 (1782) 三月
七日 白雲満雲隙日漏昼より曇深
松崎に桜草貰ふ

巻之十二 天明四年 (1784) 三月
朔日丙辰 一面陰雲深寒折々繊雨至八半より森々通夜沛然
ほのに桜草一所に貰ふ

サクラソウ (21) 異端紅 作出者:伊丹清氏,大乗院寺社雑事記,山科家礼記,宴遊日記,嬉遊笑覧
サクラソウ (23) 錦鶏鳥,江戸後期のサクラソウ文献.儒学者 藤森弘庵『如不及斎文鈔』,青い花,八重の花

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