★伊藤圭介(1803-1901)編著『植物図説雑纂』第153冊 (NDL, pid/2571102) の「マツバボタン」の項には,特徴を捉えた美しい数枚の絵と共に,「江戸 イハボタン,京都 ハナマツナ」と呼ばれるとある.また,「成瀬氏*が舶米の時に購入した,アメリカの種屋の書」からのマツバボタンの性状の和訳が引用され,さらに,「米種世ニ播殖シ,又文久二戌冬佛種ヨリモ〇ヘ植ユ」とある.また「米リケン万延 佛文久 ヨリ種○来リ多ク繁殖ス」とあり,万延元年の遣米使節と文久二年の遣欧使節によってもたらされたとある.
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『植物図説雑纂』 第153冊 NDL |
なお,この成瀬氏*とは,遣米使節の一六人の正使の一人,外国奉行支配組頭 成瀬正典 (善四郎,1822-?) であると思われる.(左図 from
Johnston, James D. “China and Japan: Being a Narrative of the
Cruise of the U.S. Steam Frigate Powhatan” (1860) Desilver.)
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玉虫茂誼著 航米日錄 第七巻 仙台叢書(NDL) |
万延元年遣米使節は,江戸幕府がペリーとの間に結んだ,日米修好通商条約の批准書交換のために 1860 年に派遣した使節団であり,1854年の開国後,最初の公式訪問団であった.正使は新見正興,副使の村垣範正,目付小栗忠順の二人を加えた三人が首脳を務め,加えて外国奉行支配組頭 成瀬正典,勘定組頭 森田岡太郎をはじめとする十六人の正使からなり,これに正使の従者や召使,医師等を加えた総勢七十七名の大使節団であった.万延元年(1860)1月18日に品川を出港,ハワイ経由で太平洋を横断してアメリカに渡り,ボストンやワシントンを訪問.大西洋,喜望峰を経て 9月28日に帰国し,多くの新しい知識・文物をもたらした.
この成瀬善四郎は渡米時の記録を残していないようで,植物種子をどこで購入したのかは分からない.彼については,帰路,味噌や醤油が不足したのは,出発前にストックが多すぎるとして搭載量の半分を江戸湾に捨てさせたからだと,乗員からは評判が悪かったとの事である.
伊藤圭介は水谷豊文に本草を学び,豊文を中心とする尾張本草家・博物家の会として著名な「嘗百社」では,豊文門下の大河内存真(圭介の実兄)・大窪昌章(二代目薜茘菴)・吉田平九郎(雀巢庵)などともに有力メンバーの一人であった.
一方,蘭学は藤林普山・吉雄常三に教えを受け,文政10年(1827)にはシーボルトに師事,シーボルトの良き協力者ともなった.
文久1年-3年(1861-63)には幕府の蕃書調所(洋書調所)物産方に出仕し,その後名古屋に戻っていたが,明治3年(1870)に政府から「大学」出仕を命じられて東京に転居する.翌4年から7年までは文部省に勤務し,8年からは小石川植物園(幕府の小石川薬園の後身)に移った.10年には東京大学員外教授となって引き続き小石川植物園を担当し,21年には日本最初の理学博士号を授与された.
没したのは明治34年(1901)1月20日,99歳の長寿であった.出版された著作は多いが,ツンベルクの “Flora
Japonica” に収載された植物の日本名を,シーボルトの指導を受けて考定・同定した『泰西本草名疏』が著名である.
『植物図説雑纂』は,本邦産の植物および渡来植物について,古来の和漢文献や写生図・印葉図・一枚刷・小冊子などをできるかぎり収集しようとした資料集であり,出版を意図していたが,果たせなかった.草部と木部から構成する構想だったらしいが,草部が『植物図説雑纂』の名のままだったのに対して,木部の方は圭介自身が『錦窠植物図説』の書名に改めた.ともに未定稿であるが,圭介逝去の時点で前者は計130冊,後者は164冊という大部の著作になっていた.(但し,NDL, デジタルコレクション『植物図説雑纂』の最終冊は第 254 冊.)
Blog-1 に引用した,帝国大学の初代動物学教授モース(Morse,
Edward Sylvester, 1838-1925)の★“Japan Day By Day. Vol. 1“, Boston,
Houghton (1917) には,1877年の東京における記事として,“FIRE-FIGHTING (p.135)
The other afternoon a distinguished old
Japanese by the name of Ito* called
on Dr. Murray, and I had the honor of being presented to him. He is an eminent
botanist and was president of a Japanese Botanical Society in 1824. He had come
to bring to Mrs. Murray the first lotus in bloom. He was in full Japanese
dress, though he had abandoned the queue (fig. 114). I regarded him with the
greatest interest, and thought how Dr.
Gray* and Dr. Goodale** would
have enjoyed meeting this mild and gentle old man who knew all about the plants
of his country. Through an interpreter I had a very slow but pleasant
conversation with him. On his departure I gave him copies of some of my
memoirs, of which he could understand only the drawings, and a few days after
he sent me his work on the flora of Japan in three volumes.
「(私訳)先日の午後,伊藤氏*という非凡な老日本人が,ドクター・マレーを訪問し,私も紹介される栄誉に浴した.彼は優秀な植物学者で,1824 年には日本のある植物学会の会長であった.伊藤氏はマレー夫人に,この年最初に咲いた蓮の花を持って来たのである.彼は丁髷は棄てたが,純日本風の服装をしていた(図114).私は最大の興味を以て彼を眺めた.そしてドクター・グレーやドクター・グッドエールが,日本の植物のすべてを知っている,この柔和で物静かな老人と会うことをどれ程よろこぶことだろうと考えた.通訳を通じて私は彼と,非常にゆっくりした,然し喜ばしい会話をした.彼が退出する時,私は私の備忘録の一部分の写しを贈皇したが,彼が理解したのは絵だけであった.数日後,彼から三巻の日本の植生に関する著書を贈られた.」と,モースと伊藤圭介の遭遇の様子が記録されている.
*伊藤圭介博士(1803-1901)当時75歳
** Asa
Gray (1810 –1888) is considered the most important American botanist of the
19th century. ペリー提督が来日の際に収集した日本の植物標本の同定を行い,いくつもの新種を発見.東アジアと米国との「植物の隔離分布」を見出した.
*** George Lincoln Goodale (1839 –1923) was
an American botanist and the first director of Harvard’s Botanical Museum (now
part of the Harvard Museum of Natural History).